第一話 会話の始め方
「終わったのか?」
静かな声が、がらんとした社内に響いた。
一つだけ光るモニターの前に座っていたのは、平均的な身長に、どちらかと言えば整った顔立ちの男──宮巳楓生。入社してまだ二年目の新人だ。
今、終電まで残り三十分という時間に俺の仕事は終わった。
二日間、家にも帰らずに戦い続けた仕事が終わった。
デスクの上にある大量に積まれた書類、キーが戻らない電卓と新品の電卓、書き込まれすぎて真っ黒なメモ帳は、もう今は必要ない。
(帰れる)
俺は、カバンを持ち、忘れ物もチェックせずに、会社を飛び出した。
一刻も早く家に帰るため、会社から離れるために、地獄から逃げるために。
大通りに出て、近くを通ったタクシーを両手を振って止めて、乗り込んだ。
「兄ちゃん、どこまで。」
白髪の熟練運転手が聞いてきた。
「御疲礼駅まで。」
「あいよ。」
短い返事のあと、タクシーが発車した。
その振動を感じて気が抜けたのか、頭の中に2日間の記憶が巡りだした。
年末年始でクソ忙しいときに、上司や先輩たちが笑顔で、
「ごめん、これをお願いできる?」
「これもやっといてね。」
と、あまり採用しなかったせいで、めんどくさい雑務を、全部俺に任せてきやがった。
だが、今は怒りも悲しみも不幸だとも感じなかった。
ただただ、疲れていて、すべてを誰かにすべてを任せたかった。
「お兄ちゃん、着いたよ。」
運転手が話しかけてきた。
どうやら、もうついたようだ。
モニターに表示された金額をスマホで支払い、タクシーから外に出る。
無気力に、でも確かな足取りで歩いていると
「頑張りなよ。」
後ろから声が聞こえた。後ろを見るとあのじいちゃんが、窓を開けてこっちを見ていた。
でも、俺は頭を下げるしかできなかった。
お返しに感謝も応援もせず、また前を向き歩いていった。
駅の近くには、まだ多くの人がいた。
確か今日は金曜日で、明日が休みだからだろうか。
周りを見ると、みんな、アルコールの入った体で、楽しく、ふらつきながら歩いている。
俺は、一人素速く駅に逃げ込んだ。
電車があと10分で来るというとき、改札を通ろうとして
ビビィー
止められてしまった。
改札のモニターを見ると、残高が114円だった。
(カードにチャージしなきゃ)
そう思い、自動切符売り場に向かい、カードを置いて財布を探す。
ティッシュ、ハンカチ、ボールペン、スマホ、十五ページしか読んでいない小説、取り扱い注意の資料、その奥に見えたのは、底。
カバンの底だった。
(……帰れないのか。)
だが、悲しくはなかった。
でも、眠たかった、疲れてた、きつかった。
それでも、寝れる場所を探し始めたのは、俺が大人になったからだろう。
ホテルを取るため、駅から出ると、二十四時間営業の消費者金融があった。
6分で審査が完了するという広告を見て、俺は反射のように向かてしまった。
すぐに、審査を開始し、マイナンバーカードを読み込ませ、千円借りた。
収入証明書が必要ないことは、幸運だった。
すぐに、自動切符売り場でチャージし、駅のホームに駆け込んだ。
電車はもうすでに来ていた。
扉に向かって走る、大人になってここまで全力で走るとは思わなかった。
電車に駆け込んだと同時に、車掌の声が聞こえた。
「ドアが〜、閉まります。ご注意〜、ください。」
ホームから一人走るのが見えた。
その人は知らない人だし、汗だくだったが、ドアに咄嗟に手が伸びた。
バタンッ
ドアがしまった。
だが、俺の前の扉だけまだ閉まってなかった。
その人は、俺が開けていた扉に走り込んだ。
バタンッ
その行動は、褒められたものではないし、危険だったが。
俺は、一人、救えたようだ。
安心すると、汗が吹き出してきた。
「ヘヘッ」
全力で運動したあとに吹き出す、この感覚は好きだ。
「ハァ、ハァ、ありがとうございます。」
さっきの男が、お礼を言ってきた。
「いや、いいよ。」
短く返し、空いている席を探しすと、女の人とおじさんの間に1人分のスペースを見つけ座る。
座ると、やはり少し臭うのか、汗のかいている男の隣に座りたくないのか、二人とも少し離れる。
俺は、スマホも本も取り出さず、ただじっと空を見る。
電車の屋根の奥にある、取引先や上司への対応方法を見る。
上司に対して、「わかりました。やります。」と答える俺の姿が見えた。
「ハハッ」
みんな驚いただろう。
何もしていない男が唐突に笑い出したのだ。
(自業自得か...)
そんなものを見続けると、家の最寄り駅、足座駅についた。
電車から出て、改札に向かう。
駅から家まで、ただ歩いていた。
何も考えず、何も浮かばず、ただ歩いていた。
十五分、いやそれ以上かかったかもしれない。
疲れていたから。
家について、ドアを開け、バッグを玄関に置き、寝室に向かう。
スーツも脱がず、ネクタイも外さず、ベッドに横になる。
(明日の俺に任せよう。)
寝返り、仰向けに寝る。
落ちていく、暗い闇に。
ふと、まぶしい光で目を覚ました。
(あれ、電気消し忘れたっけ?)
目を開けると、青い空が見えた。
雲ひとつない、澄み渡る、真っ青な空。
(屋根が吹き飛んだ?)
そんな事考えていたら、
「痛ぁっ!!」
なにかにほっぺを鋏まれた。
体を起こし、そいつを引っ叩くと、地面に落ちた。
そいつ、黒色のカニは落とされて驚いたように、海に帰っていった。
「何だよ、もうぅ」
自分の周りを見ると、前は海、後ろは森、足元は砂浜と、知らない場所だった。
(疲れて幻覚を見ていたのか、俺が夢遊病でここまで来たのか。)
そんな事を考えながら、砂浜を歩き始めた。
森に入るのは、ちょっと怖かった。
(今何時かわかんないな。)
(ご飯はどうしよう。)
(寝ていただけだけど、これって遭難?)
(どこなんだここ?)
(せっかくの土曜日が...)
(海は、きれいだな。)
(肉だ食べたい。)
(さっきのかに、捕まえればよかった)
そんなとりとめないことを考えていると、人がいた。
近づいて見ると、その人は女性で日本人っぽい肌で、髪は黒く簡単にまとめられていて、服は白色でなんかひらひらしているやつを着ていた。
(あの服なんて名前だっけ?)
近づき顔を見ると、まだぐっすり寝ているようだ。
(かわいいな)
そんな事考えながら、横で起きるのを待っていると、その女性は唐突に起き上がった。
そしてこっちを見て、後ろに飛び下がった。
しかし彼女は、逃げずに周りを見渡している。
なぜ外にいるのか困惑しているようだ。
(こういうときどうすればいいんだ?相手に恐れられずに会話を始めるには...)
彼女は、その間に俺を見つめる。
(俺は今まで、どうやって会話を始めていた?女性にどう接っしていた?)
女性は、そしてなにか口を開いて発しようとしたとき。
それより速く俺が、話していた。
「…夏って、寝るとき服着ますか?」
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