第6話 悪役令嬢ツーリ・モーダル
鳥の鳴き声に、葉の擦れる音。
工場の中の淀んだ空気とはかけ離れた、澄んだ空気が三姫の全身を覆った。
まるで海外旅行に来たときのような異国の空気を前に、三姫は静かに深呼吸をする。
「ここが、異世界」
きょろきょろと辺りを見渡す三姫の横では、弥太郎がスマートフォンを取り出し、地図アプリを起動していた。
地巣アプリには、調査部によって作成された、異世界の地図が表示されている。
異世界全体の作成はされていないため、ところどころが真っ黒な表示のままだ。
また、地図アプリの中心には青い円が二つ、点滅している。
「地図まであるんですね」
「ああ。完璧じゃないけどな」
弥太郎の持つスマートフォンを覗き込んだ三姫は、初めて見る異世界の地図に感動する。
地図のほとんどが緑色、つまり森林だ。
森林の外には道が描かれているが、ところどころ途切れていて、整備が行き届いてないことが容易にうかがい知れた。
三姫がまじまじと覗き込む中、弥太郎は地図を拡大したり縮小したりして、自分たちがいる場所の確認をしていた。
異世界転移は、転移するだけでも膨大なエネルギーを必要とする。
現時点では、時間軸こそ数日の誤差に収まっているが、場所軸は不安定であり、大きな誤差が発生する場合もある。
弥太郎も過去に、ターゲットの悪役令嬢が住む国の隣国へ転移したことがある。
故に、位置情報は弥太郎にとっての生命線だ。
「よかった。目的の場所は近いな」
一日あれば辿りつけそうな場所に悪役令嬢の住む屋敷があると分かり、弥太郎はほっと一息をついた。
今後の行動計画を練ろうとスワイプし、地図を動かしていると途中で、地図に映った赤い点を見て指の動きを止めた。
「天馬さん? どうかしました?」
「隠れるぞ」
「え?」
弥太郎は三姫の腕を掴んで、茂みの中へと走り、服が汚れるのも厭わず飛び込んだ。
腕を掴まれた三姫も、されるがままだ。
「いったい何ですか?」
「静かに」
鬼気迫った表情の弥太郎を前に、三姫は口をつぐんだ。
そして、茂みから弥太郎の視線を追った。
茂みの外から馬の歩く足音が聞こえ、乗馬した一人の女性が現れた。
背中には矢籠を背負い、手には弓と手綱が握られている。
鋭い眼光で周囲を見渡し、周囲に獲物がいないと分かれば、茂みを通り過ぎて森林の中へと消えていった。
スマートフォンに映っていた赤い円も、青いから離れていく。
「……行ったか」
弥太郎は茂みから顔を出し、周囲に人影がないことを確認すると、茂みの外へ出た。
「今のって」
同じく茂みから出てきた三姫が弥太郎に問いかける。
三姫は、その顔に見覚えがあった。
「ああ。今回のターゲット。悪役令嬢ツーリ・モーダルだ」
悪役令嬢ツーリ・モーダル。
通称、狩猟姫。
弱いことを何よりも嫌い、自身にも周囲にも、強い肉体を持つことを求める豪傑だ。
ヒロインとも呼ぶべき平民の少女とはすでに接触済みであり、争いを好まず回復魔法という一芸に長けただけの少女を当然のように嫌っていた。
最近は、婚約者である皇太子が徐々に少女へ惹かれているのを感じとっており、ストレス解消のために一人で森へ借りに出るのが日課となっている。
「あんな人と、戦うんですか?」
ツーリの殺気と、悪役令嬢という言葉からは想像もつかない引き締まった筋肉を見た三姫は、自分が戦うところを想像し、何度も弓矢で討たれる妄想で震え上がった。
「ああ。運がいいぞ」
一方の弥太郎は、むしろ勝算が上がったことを喜んだ。
「運がいい、ですか?」
「ああ。悪役令嬢を調達する際に周囲の時間を止めるんだが、止められるのは一定の範囲だけ。護衛がいたら、引き離さねえと手間が増える」
「はあ」
「だから、自宅に引きこもる悪役令嬢だと使用人引きはがすのが手間なんだが、今回の悪役令嬢は単独で森の中に入ってくれるみたいだ。手間が省ける」
「なるほど?」
弥太郎は内ポケットからミニチュアの袋を取り出し、上下に振った。
ミニチュアの袋は元のサイズへと戻り、弥太郎は袋の中からワイヤーロープやスコップを取り出した。
「とはいえ、正々堂々と挑んだら弓矢で蜂の巣だ。罠を仕掛ける」
「え? 周囲の時間を止めるなら、罠って意味ないんじゃないんですか?」
「普通に仕掛けたらな。時間停止の対象外にするためのタグがあるから、それを合わせて付けるんだ」
「へえ。文明の利器って、素晴らしいですね」
「つーわけで、多分今夜は徹夜」
「え!?」
弥太郎は地図アプリに旗マークを立てていき、三姫と情報を共有した。
三姫が自分のスマートフォンで地図アプリを覗き込むと、周辺のいたるところに旗マークが立っており、旗マークをタップすると何をどうやって設置するかの情報が表示された。
「これ、全部ですか?」
「全部」
「多すぎません?」
「念のためだ。少なすぎて、調達に失敗する方が手間だ」
「……はーい」
元の世界と異世界では、時間の進む速度が異なる。
異世界で一晩を過ごしたところで、元の世界に帰還すればせいぜい数時間しか経過していない。
よって、一晩かけて行う仕込みも、弥太郎にとっては定時内に帰ることのできる仕事量でしかない。
暗い顔をする三姫に道具一式を渡し、弥太郎はずんずんと森の中へ進んでいった。
翌日。
ツーリは馬と共に、再び森の中へと訪れた。
あくまでも狩猟は、ストレス解消の一環。
二日連続で訪れたことは、仕事をスムーズに終わらせたい弥太郎にとって行幸であった。
「妙ですわね」
森を進むツーリは、違和感を感じ取っていた。
いつもならば植物と獣の匂いしかしない森の中に、嗅ぎなれない匂いが混じり込んでいたのだ。
匂いの正体が人間であれば、別の貴族が狩猟に勤しんでいたのだろうと納得もできる。
が、匂いの中には弥太郎たちの服と罠――つまりは、ツーリの嗅いだことのない匂いが含まれており、ツーリの警戒心が高まっていく。
「他国の密偵、かしら?」
ツーリはその匂いを、他国の人間と解釈した。
他国であれば、自国にない道具を持っていると言われても頷ける。
特にの密偵ともなれば、その国の人間が知らない武器や道具を使って、裏をかこうとするのは常とう句だ。
ツーリは弓を握る手に力を入れ、すぐにでも矢が放てるように警戒心を高めた。
そして、国の貴族として密偵がいるならば捕らえなければならないとの使命感にかられ、撤退ではなく前進を選んだ。
慎重に、一歩一歩、進んでいく。
森の奥に向かって。
「今だ」
「はい」
ツーリが、時間停止の対象外なる範囲に足を踏み入れた瞬間、三姫は時間停止の機械を起動した。
手のひらサイズのスイッチ一つを押すだけで、世界全体の時間が止まり、辺りが灰色に染まった。
草も木も動きを止め、木々の隙間を駆け抜けていた風の音さえ聞こえない。
「ヒヒイーン!」
ただ、違和感を感じたツーリの馬だけが、大きく雄たけびをあげた。
時間停止された際、特定範囲に含まれた人間と、人間の装備と判断された物だけは、時間停止から免れる。
ツーリの乗っている馬もまた、ツーリの装備品と解釈されていた。
「どうどう。落ち着きなさい」
ツーリは興奮する馬を落ち着かせ、弓を構えたまま、周囲を見渡す。
「何者です? こそこそせずに、出てきなさい」
未だ姿の確認できない相手に叫ぶも、反応はない。
ツーリは弓を構えたまま目を瞑り、自身の耳に神経を集中させる。
時間の止まった世界で、音を出す存在は限られている。
聞こえる音も限られている。
ドクンドクンと音を立てる自身の心音を聞きながら、それ以外の音を探す。
ドクン。
ドクン。
ドクン。
ごくん。
ツーリは無言で向きを変え、弓を引いて矢を射った。
弥太郎と三姫の隠れる茂みに向かって、一直線に。
「うおっ!? あぶねえ!」
弥太郎は咄嗟に、手に持っていたミニチュアの盾を振る。
木の盾はあっという間に元の大きさに戻り、ツーリの射った矢を受け止めた。
木の盾にささった矢を見た後、弥太郎は三姫の方へと振り返る。
「静かにしてって言ったでしょ」
「す、すみません! でもまさか、息を飲んだだけで」
「悪役令嬢ってのは、恐いんだよ」
二人がひそひそ話をしている最中、ツーリは馬を前進させ、弓を構えながら二人に近づいた。
「答えなさい。これは、貴方たちの仕業かしら?」
日光さえ停止した世界で、銀色の矢じりがギラリと輝いた。