第3話 新人
「くああっ」
弥太郎は、布団の中で大欠伸をした。
木造1Kの部屋が、弥太郎のプライベートの全てだ。
最寄り駅を考えれば、家賃は相場の半額という激安設定。
その分、設備はユニットバスにコンロが一口、オートロックなんて当然ついていない。
賃貸として、最低限の体を成しているだけのアパートである。
とはいえ、弥太郎は不便など感じていなかった。
身だしなみは最低限、食事はカップラーメンとコンビニ弁当。
アパートの設備を使っていないため、設備の弱さなの関係なかった。
むしろ、会社が近く通勤時間がかからないという点において、弥太郎にとっては都合がよかった。
しいて不満をあげるならば、コンビニが会社とアパートの間に存在しないことだろうか。
弥太郎は布団の中からスマートフォンに手を伸ばし、目をこすりながら時刻を確認する。
「…………やっべ!?」
時刻は、午後八時十五分。
会社までは徒歩十五分。
弥太郎は焦って跳び起きて、クローゼットの中からシャツとスーツを引っ張り出して、急いで着替える。
パジャマを洗濯籠に入れる余裕はないのでベッドに投げ捨てて、髪についた寝ぐせだけを直し、急いで家を出る。
朝食は、当然抜きである。
「あー、ちくしょお! もう八年目だってのに、何寝坊なんてしてんだよ! よりにもよって、入社式の日に!」
四月一日。
弥太郎の新年度の始まりは、あわただしく始まった。
「おはようございます」
「おはよう。出社ギリギリなんて珍しいね。寝坊でもしたか?」
「まあ、そんな感じです」
課長である直人は、いつもより曲がったネクタイと整髪料の付いていない髪を見て、カラカラと笑った。
弥太郎は、始業時間丁度にタイムカードを切って、そそくさと席に着いた。
パソコンを起動しながら鞄に入った荷物を取り出している弥太郎に、直人は自席から話しかける。
「そうそう。今年の新人の件なんだが」
「はい」
「OJTのトレーナーを、天馬君にお願いしたい」
「はい!?」
直人からの言葉に弥太郎は手を止め、丸くした目で直人を見た。
「いや、無理です」
そして、はっきりと断った。
だが、直人も引く気はないらしく、直人に向かって両手を合わせる。
「頼むよ」
「無理です」
「天馬君ならできると思うんだ」
「無理ですって。だいたい、トレーナーは別の人に決まってたじゃないですか」
「昨日の仕事で、飛んだ」
「あ」
事情を察した弥太郎は、眉間を指でつまみながら、大きな溜息をついた。
トレーナーが飛んだとなれば、誰かがトレーナーを代わらなければらないことは確実。
弥太郎は現在の部署にいる社員の顔を思い出し、もしも自分が直人の立場であれば自分を指名するだろうという合理的な判断を下し、先程よりも深い溜息をついた。
「な、頼む! ちゃんと、成果には反映しとくからさ」
毎日自分の仕事で手一杯な現状に、トレーナーの業務が追加されれば残業は確実。
プライベートな時間が減ってしまうという意味では、弥太郎は当然気乗りしなかった。
だが、弥太郎はしがない会社員。
お願いという業命令が下れば、断るにはそれ相応の合理的な理由が必要だ。
「………………わかりました」
「おお、やってくれるか! 助かるよー」
結局、新人教育を断るための理由など弥太郎には思いつかず、弥太郎は不本意ながらトレーナーの役目を引き受けた。
直人はほっとした表情を浮かべて、椅子の背もたれにもたれかかった。
「それで、その新人はどこにいるんですか?」
弥太郎はじとっとした瞳を直人に向けた。
「新人は今会議室で、人事部から社則の説明を受けているところだ。午前中いっぱいかかると聞いてるから、午後から頼む」
「わかりました」
今日、最低限終えなければいけない仕事については午前中に終わらせなければならないと理解した弥太郎は、パソコンが起動するや否や、キーボードを叩き続けた。
午後から新人のOJTが始まるということは、午後から自分の仕事を新人に渡し、新人に手伝ってもらうという手段もとれる。
しかし、新人の実力が未知数である以上、新人の実力を当てにするのは危険な橋だと考え、弥太郎は一心不乱に仕事に没頭した。
コーヒー休憩も、トイレ休憩も無しだ。
瞬きするのも忘れ、ひたすら指を動かした。
午前十一時五十分。
会社の奥にある会議室の扉が開き、中から人事部の男性と新人の女性が出てきた。
女性は新品のスーツに身を包んでおり、緊張した面持ちでぎこちなく男性の後ろを歩いている。
人事部の男性は直人の席の前に立ち、直人と軽い立ち話をする。
その後、直人は新人の女性を連れて、弥太郎の席へとやって来た。
弥太郎は午前中の最後の作業として、メールの送信ボタンを押した後、疲れ切った表情で椅子を回して直人の方を向いた。
疲労困憊の表情を浮かべる弥太郎を見て、新人の女性はぎょっと驚く。
「彼が、君のOJTのトレーナーだ。さ、自己紹介をしてくれ」
笑顔の直人が弥太郎に話を振ると、弥太郎は立ち上がって、疲れ切った笑顔を作った。
「初めまして。今日から君のトレーナーになる、天馬弥太郎です。よろしく」
「あ! はい! 新人の清水三姫と言います。不束者ですが、どうぞよろしくお願いします!」
「……不束者はおかしくない?」
「あ!? そ、そうですね。失礼しました! 未熟者ですが、よろしくお願いします!」
「未熟者も……ああ、いいや。清水さんね。これからよろしく」
緊張の混じる顔合わせが終わったタイミングで、社内にチャイムが鳴った。
三姫は突然の音に驚いて背中を小さく跳びあがらせたが、他の社員たちにとってはいつもの光景。
社員たちは仕事の手を止め、鞄から弁当箱を取り出したり、会社の外に向かって歩き始める。
「ああ。昼休みだから、皆、飯食いに行ってんだよ」
弥太郎は、事態を飲み込めていない三姫に、社員たちの動きを説明した。。
「あ! そっか。そうですよね」
時刻は正午。
言われてみればその通りだと、三姫は少しだけ照れて頬を掻いた。
「清水さん、飯は? お弁当とか持って来てる?」
「いえ、持って来てません。近くのコンビニで買おうかと」
「この近く、コンビニないよ」
「え!?」
「三年前まではあったんだけど、潰れちまった」
「そうなんですね。どうしよう」
三姫は空腹でお腹を押さえ、ちらちらと窓の外を見る。
コンビニがなければ飲食店に行くのが次の手ではあるが、三姫は会社周辺の土地勘がない。
どこに飲食店があるのか、どこの飲食店が空いているのか、どこの飲食店が美味しいのか、一切の情報がない。
最悪の場合、会社周辺をうろうろするだけで昼休みの時間が終わってしまう可能性もある。
三姫は困った表情でスマートフォンを取り出し、地図アプリを開いた。
そして、飲食店を検索し、絶望の表情を浮かべた。
会社周りにある飲食店は、僅か三店。
それも、お客様のレビューは五つ星中二つ星から三つ星の間の店だらけ。
午前中だけとはいえ、初出勤で疲れた体を癒すには、あまりにも心もとなかった。
困り果てていた三姫に、弥太郎は躊躇いつつも声をかける。
「会社ぶ食堂あるから、そこで食うか?」
「え!? 食堂あるんですか!?」
弥太郎からの提案に、助け船が目の前に現れたかのように、三姫の顔が輝いた。
「お、おう。まあ、所詮社食だから、めちゃくちゃ美味い訳じゃないけど」
「行きます!」
現代は、ハラスメントに厳しい時代。
女性の新入社員を食事に誘うことでセクハラと思われないか、内心で冷や冷やとしていた弥太郎は、一先ず提案が受け入れられたことにほっとした。
そのまま後ろポケットに入れていた長財布を手に持って、会社の出入り口を指差した。
「じゃ、行こうか」
「はい!」
弥太郎は案内するために前を歩き、三姫はその後ろをてこてことついていった。