第二章 望んで、拒んだ出会い。
1
ザワザワと耳障りな笑い声に包まれながら、銀の髪とその体を優しく包み込む白いロングコートを風に靡かせる男――春野は目の前で広がる街並みに、懐かしさを覚えていた。
木造建築の住宅が多いフクーメとは違い、スタンダードはレンガ造りの建物が立ち並んでいる。着こみが多い洋服風の衣装を纏う人々の姿も合わさって、華やかさをこれでもかと味わされる。
フクーメの方では数多く目立っていた亜人の数も、この街では極端に少ない。この国は人間よりも魔法をうまく扱う亜人を妬みと畏怖から迫害する風潮があるという。発展しているが故に、この『世界』に根強く残る亜人に対する差別意識が強いのだろう。
だが、そんな亜人たちもこの街で少数ながら生計を立てている。噂に聞くところによれば、スタンダードの一角に貧民街と称される場所が存在し、元はそこが亜人街と呼ばれていたとか。
初めにこの街に来たときの理由は、ただ《能力》を求めるためだったのでわざわざ出向くということはなかったが。
「……そういや、あいつに市役所がどこにあるのかは聞いてなかったな」
帽子を強風に盗られまいと春野は上から手で帽子を押さえつけながら、その鋭い目で辺りを見回す。
春野の事情をこの街の住民が知るわけがない。街の大通りを歩いていると「誰?あの人‥‥」「変わった姿ね」「どっかの国からでも来たんだろ」といった控えめの声で交わされる会話が春野の耳にかすれて入ってくる。
春野に珍奇な目でしばらく視線を向けた後は元の会話を再開する。それにいちいち、春野が意識を向けることはなかった。
スタンダードに足を踏み入れてからすでに数時間が経ったはずだ。日本の都会のように、街そのものは広々としたくせに道が狭い上に複雑にからみあい、その建物同士の幅は広くなく非常に動きにくく、市役所はまるで見つからない。
春野がこの街、スタンダードに足を踏み入れた理由。――それはこの街で、力を引き出させることを得意としている『友人』がいると、彼女――白蓮から聞かされたからだ。
2
――この『世界』に飛ばされた訳も原因も今は分からない。分からないというよりも、思い出せないといった方が正しいか。ただ、理不尽に召喚先とされたこの『世界』には、春野を召喚したのであろう存在も、行動を共にしてくれる『仲間』とも言える存在も、元いた世界にはいたと思われる仲間の存在も、誰として迎え入れてくれる者はいなかった。
そこからは死にものぐるいでこの『世界』のことを学び、そこでこの『世界』では魔王軍という軍勢がこの国を筆頭として全ての国との全面戦争を繰り広げており、そのための『兵士』――『戦闘職』と呼ばれる人員が不足していることが分かった。
『戦闘職』に就職したいと伝えたときは、どこの出身かも分からない身でも歓迎された。そこでも春野が学ぶことがあった。
『戦闘職』となった者は皆、自分の中に潜む潜在能力を引き出されること。『戦闘職』となった者にはそれぞれ異なる《能力》、《特性》が付与されること。
――そうなのだと教えられた自身の《能力》の全貌を、春野は知らない。
『私では君の《能力》を目覚めさせることは叶わなかったが、より専門的に力の活性化を行わせる友人――ラべスタントならば、必ずできるはずだ。スタンダードという街に向かうといい。そこで、彼女は『戦闘職』をしている』
故に、春野はその友人を求めにこの街――スタンダードに訪れたという訳だ。
だが、予想以上に自分一人での探索は困難を極めた。先、声を掛けてきた業者や乗客から場所を聞くべきだったと後悔する。自分の周りにいる住民に声を掛けてみるが、気味が悪いと言いたげに逃げてしまう――。
「ちょ! そこのあんたどいて――‼」
「ぁ……?」
耳が裂けるような叫びに意識を現実に呼び戻され、春野は空を見上げていた顔を真正面に向ける。目の先、否、あと数歩詰めただけで胸元にぶつかる距離にまで、何かから逃げていると思われる、赤髪のツインテールが特徴的な少女が迫っていたのだ。
「ぬぅぁあ‼」
逃げる理由や、お前が避けろなどと言っている暇はなかった。反射的に歩道を蹴り、宙に舞った春野は大股を開くことで道を開けた。股下を通って、少女が駆け去っていく。
「ごめんねおじさん! それと、みんな! いますぐ逃げて‼」
「……なんだあいつ」
足を歩道につけ、振り向いた先で少女が消えていくのを見て、春野はため息混じりにそう呟いた。周りにいた住民たちも、あの少女が言ったことを呑み込めていないようだった。
そこで、春野は気付く。――少女の右足から鮮血がこぼれており、それが穿たれたようにしてある傷口から流れ出たものであると。
「ば、化け物だぁ――‼」
張り裂けんと言わんばかりの悲鳴を聞き、全員が振り返る。裏路地から飛び出し、千切れにされた右手を垂らしながらも周りの住民に向けて叫びを上げた衛兵の体を、その背後から姿を覗かせた掌――赤黒く錆びついた針で構成された右手が握りつぶした。
肉塊を揉んだ時とは違う、ねちっとした鈍い音が周りにいた街の住民たちに心臓を絞るかのような悪寒を覚えさせる。ただ、まだ彼らは何が起こっているのか理解しきれていない。
――開かれた掌から、原型をなくした男の体が垂れるように落ちたのを見て、一人の女性が悲鳴を上げた。それを引き金に街の住民は我先にと互いを押しつぶしながら大通りを駆けていくが、先に逃げ出した逃げ遅れた問わず、長さが自由自在に変化、構築される指先に何十人かの人々が犠牲になる。体を貫かれた激痛に悶え、絶命したその体を突き刺した指先が、まるで人形遊びをするかのようにもてあそぶ。
その中で最も多く人の命を貫いた人差し指が、身構えた春野の顔面に目掛けて突き放たれた。
「しぃ!」
身を翻したことで直撃を避け、その反動を利用した春野の回し蹴りが針の側面に叩き込まれる。その細さに見合わぬほどの鈍さと重量はありながらも、強引に針を捻じ曲げるように春野は、未だその姿を見せない針の主を裏路地から引っ張り出した。
「――コ、オ」
弾かれた『右手』を地面に叩きつけ、それは強引に体を支える。全身が血まみれになり、体の所々から肉腫を膨らませる青年だったのだ。
体の近くにまで引き戻した掌――右肩に無理矢理繋がれる形で生え伸びた針の右手で、薄ら笑いを浮かべる青年の心情を表現するかのように路上を掻き毟る。鉄板を爪で引き裂くような音が辺りに響くが、対面する春野にはそれを気にしている暇はない。
狂った声調、薄ら笑い、包帯に隠れていない右目のどす黒い瞳――まるで、背負っている笛のようなもの――《陛忌》の一種だと思われるそれが青年の体だけでなく、精神をもむしばんでいるように春野は思えた。
青年が睨みを向けてきて、春野は問い返した。
「別にそいつらが死んでもなにも思わねぇが、俺にそれ向けるなら話は別だ。――何が理由でこんな真似しやがった」
「――サ、コォ、オ‼」
子供が癇癪を起したかのような怒り具合を露わにし、青年が大地を引っ搔いていた『右手』を横薙ぎに払う。針の筵のように形成された二抱えもある右腕は、その重量に見合わぬ豪速で振るわれる。不意打ち的に放たれたその一撃に春野が動かないのを見て、青年はいい気味だと言いたげに口角を上げた。
「話は通じねぇか」
影に体を塗りつぶされる距離にまで迫った『右手』を、春野は力を抜いたように掲げた左手、そこから生み出した円盤――魔力で構成した鎖で繋がれた二つの刃を振り回した一撃で、横薙ぎを弾き返したのだ。
質量がある分、その反動は大きい。青年の体勢が大きく崩れた。背負っている《陛忌》によって浸食されたと思われる、金属板が埋め込まれたその胸元に手の内の刃を叩き込んだ。火花と悲鳴が上がり青年が苦痛に呻く中、春野はその二つの刃をヌンチャクのように持ち、構える。
「――リューゲルさん!」
「あ……?」
不意打ちを食らったかのように春野は面食らった表情を浮かべ、背後から声を掛けてきた人物に顔を向ける。
春野の元に駆けてくるのは、はね毛を覗かせる銀色の髪のショートヘア―が特徴的で、ベーシックカラーで統一された上着と短いスカートが特徴的な女性。その胸元に、この街を象徴するマークのバッチが付けられていることから、この街の役人か。先の名は、あの青年のもので間違いないだろう。信じられないといった様子で青年――リューゲルのことを見つめていた。だが、彼女は横に立つ春野に頭を下げて
「どなたか存じませんが、時間稼ぎありがとうございます」
「……街に『戦闘職』か衛兵ぐらい居んだろ。呼んでこねぇのかよ。もしくは、お前戦えんのか?」
「……その、皆さんはちょうど遠征に出ており、この付近の衛兵は……」
気まずそうに顔を背けたのを見るに、先の少女が事態を教えたことでやってきたのか。武器を持たず代わりにやってきたことを考えると彼女は街の指揮官か記録係的な立場なのだろう。確かにほんの少し前までここに『戦闘職』と思われる者や街の衛兵はいた。今は彼女の視線の先、『右手』の指先の一部となっているが。指揮が間に合わず、春野がいなければ単身でリューゲルと対峙しなければならなかった彼女の運のなさに、思わず春野は同情を覚える。
その直後、前方から猛烈な熱気に炙られるのを感じた。顔を上げれば、憤怒の形相で睨みつけてくる青年が、背中に背負っている筒に繋がっているねじ曲がった管から橙色に輝く熱球を射出したのだ。見て感じる質量には見合わぬ速さで、真っすぐに迫ってくる。
「ちぃ!」
自分が避ける分にはなにも問題はないが、彼女にはそれを避けるだけの実力はないだろう。路上に敷かれたタイルを蹴っ飛ばし、春野はそこから生み出した衝撃波と、粉々になったタイルで熱球を掻き消した。
彼女を庇う形で姿勢を固め、瓦礫の直撃で発生した熱風に肌を炙られた春野は、その熱量に顔を歪める。リューゲルの方に顔を向けてみれば、熱球が爆発した地点は熱によって溶かされており、路上に敷かれたタイルであったモノは泡を立てている。
人に侵食するタイプの《陛忌》とは聞いたこともないが、未だ背負われるようにしてある《陛忌》がリューゲルの体を侵食しているのを見るに、時間がたてば今よりも凶暴になる可能性がある。その状況下で、彼女を守りながら戦うのはさすがの春野も苦戦を強いられる。見捨てるという選択肢は、なぜかその時には消え去っていた
どうにかならないかと春野は横に立つ彼女に目を向け――、
「――あいつだ」
「……? 誰ですか、あいつって?」
「実力は聞いてんだ。――この街の市長呼んで来い」
睨むような春野の眼差しと命令を受けて、彼女は口を半開きにして見開いた目で春野を見返す。早くしろと春野が肘で突くが、彼女は隠しもしない疑いの目を向けて
「市長のことあいつって言いました? この街でいわば偶像的に崇められるラべスタント市長のことをそんな風に……? あなたが誰かは存じませんが、そんな気安く呼べるような方じゃないんです。それに市長は今、フクーメにいらっしゃるご友人からのお手紙を――」
「お前今どんな状況か分かってんのか! 人が死んでんだぞ! できることは全部すんだよ、肩書とか知らねぇよ! 盾にされなくなきゃ今すぐに――」
「――朔刃。彼はアタシの友人からの紹介よ。丁重に扱いなさい」
降りかかってきたのは、自身に満ち溢れているのが聞いて伝わる女性の声。彼女――朔刃は信じられないといった表情を浮かべて顔を上げ、春野はその発言内容にまさかと顔を上げた。
暗雲の下で儚く輝く紫色のマントを羽織り、薄黄色の長髪を棚引かせる少女。その髪から覗かせるのは二本のねじ曲がった角。その右の角が、半ばでへし折れている。春野たちを見つめるその赤い瞳。その目を見つめ返して、春野は白蓮が言ったことを思いだしたが、間違いなく彼女――ラべスタントとは気が合わないだろう。振り回されるという意味で。
「貴方が、川尻春野ね?」
「……」
「何口笛を吹いているの? 見て確信できるわよ。貴方が私の白蓮から紹介された川尻春野であるってことは」
「だったらわざわざ聞くな……」
わざわざ体が触れ合う寸前の位置で降り立ってきたラべスタントに、春野は失望のあまり長々とため息をついた。何をどう考えて、白蓮は気が合うだろうと言ったのか。
「市長……? なぜ」
「朔刃。あなたは下がっていなさい。ここからはアタシと彼で止めるわ」
「……一人で解決してくれ」
「ちょっと⁉ こういってはなんだけど、白蓮から聞いた貴方の実力を知れるいい機会――」
突如、二人の体が影に包まれて、真っ先に春野がその影の正体に気付く。リューゲルが振りかぶった『右手』から逃れるために春野は後ろに飛び、気付くのがコンマ遅れた二人を、突き出した両手から発生させた衝撃波で吹き飛ばす。
針の山が叩きつけられたことによって路上がまた砕け散り、その凶悪性を目の当たりにして春野は口笛を鳴らした。吹き飛ばした二人の方に目を向けてみれば、少々威力が強すぎたのか、家屋に叩きつけられた朔刃とラべスタントは痛そうに背中をさすっている。
「……な、なるほどね。『戦闘職』に成りたてでそれだけ魔法を扱えて、しかもまだ未完成……末恐ろしいわね」
「助けてやったんだから、恨み言は聞かねぇぞ」
「……ちょっとだけ、貴方のことが嫌いになりそうよ」
そう言いつつも苦笑交じりの微笑みを返すラべスタントに、春野はどうしたものかと顔を逸らし、リューゲルと対峙する。ヌンチャク型の刃を構え、朔刃を半ば強引に逃がしたラべスタントは辺りに霧――空気を凍てつかせる冷気を展開。そこから一本の剣を生み出し、リューゲルに向けた。
「先に聞いておきたいんだが、あいつは?」
「アタシが結成した街の精鋭部隊の副隊長。お気に入りだったのだけれど――もう、自我はないようね」
「そうか。元々から気が狂ってたわけでも、わざわざそんな奴を副隊長に任命したわけでもねぇんだな。そこは安心しておくわ」
『――さ、コォ‼』
二人の会話を、機械質な声調に変化したリューゲルの咆哮が遮り、『右手』を振り回し、砲台から熱球を乱射して突貫してくる。春野が振り回す刃で迫りくる熱球を掻き消し、着実にリューゲルとの距離を詰めていく中で、ラべスタントは春野の肩を飛び越えて『右手』を躱し、熱球の間をすり抜けてリューゲルの懐に飛び込んだ。
手の内に握られた氷剣がリューゲルの右肩に突き刺さり、握っていた右手が空いた次の瞬間には、両手の内に発生させた冷気から生み出した鎚で彼の体を打つ。
砲撃を使うには自分の身が危うく、『右手』ではそのサイズが大きくて自身の懐には届かない。白蓮が言うだけあって、ラべスタントの実力や技量は相応のもの。一方的に攻めを続けている。
――心臓部を突き破って、そこから血にまみれた砲台が現れたことには、流石のラべスタントも即座の対応は間に合わなかった。リューゲルが握る砲台と同じように輝きが砲口に灯されていき、発射の直前、輝きが膨れ上がった。
「――決死の調査ご苦労さん」
呆れた声がラべスタントに届いた瞬間、ラべスタントの胸周りを先端に刃が付けられたエネルギー状の鎖が結び取り、それを手にする春野は彼女の体を一気に引き寄せた。遅れて特大の熱球が撃ち放たれて、同時に春野が空かせた右手を振り払って黄緑色の斬撃を放つ。
刃がラべスタントの体を掠め、迫り来た熱球を縦に切り捨てた。直後、鉄塊が叩き割られる音と共にリューゲルの体が血を噴いた。
切り捨てられた《陛忌》の鋼、砲台。その奥にあった肉体にも先の切断の影響は強く出ていて、鮮血に混じって何かしらの肉塊も共にこぼれている。
「気付くのが遅いな」
気になると言わんばかりに春野は視線を二本ある彼女の角の中で欠けた方の角に向け、それに気が付いたラべスタントはため息をついた。
「そうね。せっかく出会った仲だもの。アタシのこともよく知ってもらわないとね。――先に言っておくと、アタシは人と契約するタイプの悪魔よ。悪魔には確かに視界はあるのだけれど、角で魔力や敵の位置情報を捕らえるの。これは昔負ったもので、おかげで魔力を感じにくいのよ」
春野の隣にまで引き寄せられたラべスタントは、鎖で締め付けられた自分の胸を押さえながら春野を睨む。助けてやったのに、なぜ睨んでくるのかと春野は思う。
『ブ、ぁアァッ、ア‼』
「――なに⁉」
リューゲルが先ほどまで発していたものとは違う濁った奇声を上げ、耳をつんざくそれに振り向いた春野とラべスタントは変異する彼の体を見た。
切り付けられた胸板の傷口から新たな両手が生え伸び、春野たちに向かって突き出される。
放たれる技を予測し、春野は隣にいたラべスタントを庇う形で自身の背後に投げ捨てて、彼女を投げ飛ばした右手を突き出した。
「破壊光線」
『――!』
リューゲルの『両手』から、そして春野の右手から同じ橙色の輝きを持つ光線が同時に発射される。両者の間で爆発に等しい膨大な輝きの押し付け合いが行われる。リューゲルが魔法の酷使から出る『境界の崩壊』を起こしているのは間違いない。だが、その対価として出る火力はかつて戦ったメリーサとは比べ物にならない。現状維持以上に、押し込めない。
「――川尻春野! そのまま耐えていなさい‼」
「……勝算があるってことだな?」
問いかけに対する返事はない。だが、背後から感じる魔力の密度を春野は返事として受け取った。もし今のリューゲルに最低限の知性や本能があるのなら、ラべスタントの秘策に勘付かれる可能性がある。耐え抜いた後、確実なとどめが刺せることを信じて春野は一気に右手から放つ魔力を放出し、自分だけに気を惹かせる。
こちらが渾身を込めたことに対抗するかのように、リューゲルもより光線を膨張させ、代償にその体が歪になっていくのが見えた。
『――』
その心臓部に、一筋の氷の槍が突き刺さった。ラべスタントが投擲した一撃が瞬間的にリューゲルの体を侵食していき、春野を押し込んでいた光線が霧のように消え失せる。歪な外郭となった人間が、針の山のように生え伸びた氷塊に包まれて――、
「――⁉」
氷塊がガラス細工のように内部から砕け散り、リューゲルの野太い絶叫が響き渡る。涙と鼻水を垂れ流し、まるで助けを求めるかのようにリューゲルが右手を二人に差し出した。――直後、見えぬ何かに握りつぶされるようにリューゲルの体が収縮。潰されたそれが『世界』から掻き消されて、その空間に裂け目が生まれた。二人の体が、辺りにある建物や瓦礫、引き裂かれ潰された亡骸が吸い込まれていく。
「なにが起こってやがる!」
「――最悪なことになっちゃたわね……!」
――『世界の裂け目』。
人類が引き起こす『境界の崩壊』の現象の中で最悪と言われるもの。『境界の崩壊』を引き起こした者は現れた『世界の裂け目』によって掻き消され、共に周囲の物を呑み込んでいく穴となる。歴史上幾度か王国に『世界の裂け目』が発生した事例はあり、王国を上げて『世界の裂け目』の抹消を計画したこともあったがいずれも失敗に終わったという。現れた周囲には必然的に生物は住めず、消滅した『数』は測定不能――。
「――!」
歯を食いしばり、路上に指を突き立てた春野は、体を浮かされながらもそれが発する吸引力に逆らおうとする。春野は『世界の裂け目』については知り得ていないが、それが微弱な力ながらもブラックホールに近しいものであると判断し、共に呑み込まれてようとしているはずのラべスタントに目を向ける。
路上に亀裂が入り、建物の一部が崩壊するほどの吸引力に逆らうために、背から生え伸ばしたと思われる、蝙蝠のそれに近しい羽を使ってラべスタントも離脱に専念している。辺りを確認する限り、吸引力こそはすさまじいがその範囲は意外と小さい。それをラべスタントも理解しているようで、より強く羽を羽ばたかせ、――背後から迫るように吸い込まれた二抱えもある瓦礫が、ラべスタントの背に突き当たり、彼女の姿勢が――、
「――!」
「あれにも気づかねえなんて、よほど角が重要らしいな!」
飛び込み、彼女の手をつかみ取った春野は、苦し紛れにそう言葉を投げかけた。指を地面に食いこませて姿勢を固める春野は、手を掴まれながらも体勢を整えたラべスタントが再び羽を羽ばたかせ、彼女に抱えられる形で範囲から離脱した。
「……ふぅ。ありがとう、春野」
生え伸ばしていた羽を萎めるように収納し、息を切らしながらもラべスタントは笑顔と共にそう春野に感謝を告げる。それはお互い様と言わんばかりに、顔を背けた春野は手を振った。
「市長――! ご友人様――!」
呼びかけられ、仰向けに倒れ込んだままそこに顔を向けた春野とラべスタントは、先ほど逃がした朔刃が自分たちの元に駆けてくるのが見えた。その彼女を手で制し、立ち上がったラべスタントは宣告する。
「放送室を開けて。この地域は封鎖して、侵入を禁止させるわ」
「……ふぅ」
「お疲れ様です。市長」
煉瓦で形成された市役所内に設立された放送室。簡単な治療を終えて、ここに向かったラべスタントは目の前にある、手帳のようにも見える魔道具を通して、街全体に置かれた同じものから先ほど起こったこと。戦場となった地区を封鎖することを街の住民に告げた。
そうして放送を終え、初老のタキシード姿が特徴的な自身の部下からタオルと紅茶を受け取ったラべスタントは一息をつく。
「ありがとう。あとは、万が一を考えてあの地区に侵入しようとする人がいたら阻止できるように、あの地区の周りに複数の傭兵を置いておいて」
「かしこまりました」
命令を受け、深々と頭を下げた部下は放送室を後にする。それを見送ったラべスタントは、窓から見える街の様子に目を向ける。
明らかに街の市民たちは困惑し、混乱しているようでその何人かは下の階の受付に流れ込んでくるのが見えた。事態の収束を部下に押し付けるかのようになってしまったことに申し訳なさを感じながらも、ラべスタントは自分が今やるべきことを思い出し、上の階の自室もとい市長室に向かう。
制服ともなっているマントを羽織り、街の市長であることを証明するバッチをつけなおしたラべスタントは、目の前にある自室のドアノブに手を掛けた。
何度も出入りしている部屋であるのに、ラべスタントはどことない緊張感を覚えた。それでも、平常心を取り繕って中に入り、ラべスタントは彼と対面する。
「改めまして、ラべスタント=スペルチールスよ。ようこそスタンダードへ。歓迎するわ、川尻春野」
自慢の髪を指で流す動作を見せつけて、清楚さをこれでもかと表現したラべスタントのアプローチは、つまらなげにため息をついた春野には効果がなかったようだった。
3
「ず、ずいぶんと冷たい返しね」
「俺がそんなアプローチを求めに来たと思ってんのか?」
苛立ちを隠そうともしない春野の様子に、ラべスタントは顔を引きつらせながらも咳ばらいをし、先ほどまでのやり取りをなかったことにする。
「ん……確か、《能力》が不完全になった理由と完全にする方法を聞きに来たそうね」
「そうだ。『人の才能を長けさせる』ってあいつから聞かされたんだが……」
「……なによ、その不満げな目」
「さっさと話してくれ。俺の目的はそれだけだ」
ぶっきらぼうに、だが真っすぐな瞳でラべスタントを見据える春野に、彼女もため息混じりに落胆の表情を見せた。何が目的かは分からないが、『情報』収集以外に春野は興味を持たない。
「そうね……あくまでさっきの戦いと、アタシの友人から聞いたことを元に考察したものだけれど、貴方の体は極限といえるほどに精密なバランス感覚で、『境界の崩壊』を起こさないようにできているんじゃないかと思うわ」
「……『境界の崩壊』を起こさないように」
考察、という逃げ道のような建前を聞いて春野は目頭に皺を寄せる。
「話しておくと彼女から、貴方がこの街にこういった理由で来ると聞かされたのは二日前。でもね、さっき別の手紙が届いたのよ」
「……どんな内容だ?」
「貴方がフクーメにて行った戦闘の詳細、技の詳細。――そしてそれらが激烈でありながら、いずれにおいても『境界の崩壊』を起こさなかったことに疑問を持った彼女の言葉」
いつも彼女が纏っているのであろう高潔な雰囲気が消え去り、冷静でかつ深刻げなオーラが辺りを包む。壁にもたれかかる春野を見つめ返してラべスタントは、
「現在、貴方の《能力》は不完全な状態でありながら、雑兵としての扱いとはいえ《陛忌》を単独で倒せるほどの代物。《陛忌》の一体、倒すことは決して楽なことではないわ。その一体のために自らを犠牲にした者や『境界の崩壊』、『世界の裂け目』を起こした者だっているの。そうしてまで、失敗したこともね。王国が、その一体のために軍を動かしたこともざらにあるわ」
脳裏にフラッシュバックするのは、アルカナサンドを打ち破った時の光景。春野の一撃によって街の一角が消し飛び、春野も倒れる結果とはなったがそれでも『境界の崩壊』や『世界の裂け目』は起こらなかった。
「そして、王国にいる何年何十年もの鍛錬を重ねてきた実力者とは違って、貴方は『戦闘職』になったばっかり。仮に最初から《陛忌》をも凌駕する力が全て使えるのなら――」
「つまり、そんな危険な力を最初からフルに使わせるわけにはいかない、と」
「おさらく、ね」
ウインクと共にそう結論付けたラべスタントに、春野は目を閉じて考え込み、状況を整理する。
もしそれが正しいのなら、《特性》が負荷となっている理由――《能力》を発動した数分後に一定時間只人となるのも、それがリミッターとしての役割を担っているとして説明がつく。
現在は、自分が制御できる分の力しか引き出せないといった所なのだろう。
――だが、一つの問題であり疑問が生じる。
「なら、どうして限界以上の力を引き出していても『境界の崩壊』が引き起こらない?」
『境界の崩壊』の発動条件は、魔法もしくは《能力》の使用者が自分の限界以上にそれをより強く使用することで発生するもの。春野も、フクーメにて最初に戦ったメリーサと決着をつけるために使用した破壊光線に力を込めたり、アルカナサンドに対しては《能力》を使って渾身を叩き込んだ。《能力》の不完全さや《特性》が力を制御するものならそこで破綻と矛盾が生じる。
「正直なところ、貴方は王国……いいえ、世界全体で見ても例を見ないイレギュラーな存在。だからこれもアタシが考える根拠のない考察になるけど、《能力》、《特性》、そしてその身体が『境界の崩壊』を引き起こさないように出来ている特異体質としか、言いようがないわね。少なくとも、『人間』でできている貴方はね」
「……ちなみに聞こう。それを踏まえて俺の《能力》を完全にする方法は?」
「仮に、貴方が自信を極限にまで仕上げたとしても、それに《能力》が答えてくれるかは別と考えられるわ」
「……期待外れだな」
そうため息をこぼし、扉の横に置かれていった帽子掛けに掛けてあった中折れ帽を被り、春野はドアノブに手を――、
「待って!」
呼び止められ、春野はドアノブに触れた状態のまま、振り返りもせずに荒げた声を返す。
「もうここに用はない」
「アタシは貴方にあるわ」
皺が寄った目頭が固まっていくのを感じながら、春野はラべスタントと見つめ合う形で振り返った。ラべスタントは、胸元に付けてある市長の証としてのバッチに右手を当てながら
「貴方の力になれなかったことは謝るわ。でも、これだけ言わせて。貴方はそうぶっきらぼうで、『目的』以外には興味はないというように振る舞うけれど、貴方がいなければアタシの命は危うかったでしょうし、衛兵が遠征に出かけていたこの街にはもっと被害が出ていたはずよ。――だから、感謝するわ」
いつもなにか、普段見せつけているのであろう高潔さを醸し出したラべスタントは、そういって右手を春野に差し出した。気安く頭を下げるより、こういった態度で来られる方が気分がいいなと春野は思う。だが、その差し出された右手には目もくれず、
「……そうかそうか。で、話は終わりか?」
「――貴方、そうまたどこかに出かけるようだけれども、なにか当てはあるの?」
「――」
「確かに、方法や理由なら他の街に行けば実力者にあったりするなりで見つかるかもしれないわね。――でも、せっかくなら最高の環境で追い求めたいとは思わない?」
「何が言いたい?」
そう問いかけると、ラべスタントは待ってましたと言わんばかりに胸を張り上げて、
「アタシの精鋭部隊に入りなさい! これは正式なスカウトよ‼」
精鋭部隊、というのは彼女が言っていた『今遠征に行っている』人物たちのことを指すのだろう。そこに、入隊。――それが、どう最高の環境に繋がるのだろうか。
「勿論、ただのスカウトで終わらせるつもりはないわ。貴方ほどの実力者なら、空いてしまった副隊長の座にふさわしいわ! ちなみに言っておくと隊長はアタシよ! 副隊長になったら王国全土でもそれなりに自由な活動ができるわ!」
「……」
「自慢じゃないけれども、アタシは国都を除けば一番街を発展させた市長なのよ! 無論、そんなアタシのもとで副隊長になればお給料もすごいわよ‼」
「本音は?」
「貴方のようなイレギュラーで優秀な存在、見逃すと思う?――ってちょっと!」
答えもなく部屋を出ようとする春野に気が付いて、ラべスタントは慌てて春野の右手を掴んで再び部屋に引き込む。
「どうして逃げるのよ! 確かにアタシにも理由はあれども貴方を手の内に入れる以上になにかするつもりはないわ! こんなおいしい話、そうそうないわよ!」
「何か勘違いしちゃいねぇか? 俺の目的は《能力》の解放と『記憶』を取り戻すことだ」
それを聞いて、ラべスタントはますます分からないといった様子でその赤い瞳を震わせる。
「そ、そうでしょ? ならどうして――」
「――名のある市長の第一の部下なんて立場、んなところにいたらお前含めて王国から余計な課題に追われて、余計なことを考えないといけなくなる。――《能力》と『記憶』を求めることだけが活動理由の俺が、はいそうですかーと命令を遂行するとでも思ってかのか? こんな残酷で過酷な『世界』で、必要以上のことをしようものなら、死ぬぜ」
「……」
心外だった、とでも言いたげにラべスタントは春野から顔を逸らし、口元に左手を当てる。
「……困ったわね」
「もっとも、悪いが最初にであった市長が扱い酷くてな、お前にも同類の匂いを感じる。誰かの都合のいいように人生を狂わされるつもりはないんでな」
「それってたぶんフクーメの市長のことよね? あんなおじさんとアタシを比べてほしくないのだけれど」
不満げな態度を見せたかと思えば、また困ったといった様子を見せる。――さっきまでの、自信ありげな高潔な雰囲気が、一瞬にして掻き消えた。
「アタシはね、この街が好きなの」
「……急になんだ」
春野の右手を握りしめる彼女の両手に力が加わる。それはまるで、母親に愛情を求める子供のようだ。
「この世界は残酷で過酷、それは皆が思っていることね。アタシも本当にそう思うわ。魔王軍、《陛忌》、『世界の裂け目』――そのどれか一つが現れただけでどんな強固な街でも壊滅するような世界。無論、この街といえども例外ではないでしょうね。できることなら、アタシが皆を守ってあげたいけれども……あなたも、もう分かっているでしょう? アタシの実力はね、とても『全員』を守れるほどのものではなくなったわ。悪魔にとって、角がないことは致命的だもの」
春野の顔を見据えるラべスタントは、そう言って欠けた角に左手を当てた。春野の手を握りしめる右手により力がこもる。
「でも、貴方は世界で恐れられているそれらに対していわば『対抗』を持っている。まだ誰も知らないけれども、いずれ誰もが求めるような光になってくれる人になるわ。……いいえ、ここだと、なってほしいといった所ね」
どこか、自嘲を含んだような言葉と共に、ラべスタントはその苦笑を浮かべた顔で春野の顔を見上げた。
そんな彼女の顔を見つめる春野の脳裏に写り込むのは、アルカナサンドが現れたことで兵士を含めた市民たちが逃げ惑い、誰も助けがいない中ただ一人で立ち向かった白蓮の姿。
自分を犠牲にしてまでも戦おうとした白蓮、今こうして自分の想いを語ったラべスタント。二人が惹かれ合い、友人となったことにはとても納得した。
――この『世界』で、実力者と呼ばれる者たちは、必然的に『世界』を守る使命が精神に宿るものなのか。
「――んな同情を誘うようなことを言っても俺には関係がねぇ。根本的に、俺とお前らでは考えが違うからだ」
「……貴方とは、根の部分から考えが違うそうね」
そう彼女は失望したように語ったが、それで場に険悪な雰囲気が生まれるということはなかった。気持ちを落ち着かせたらしく、一息ついたラべスタントは改めて春野のことを見据える。
「少し、考えてはもらえないかしら? 今は副隊長でなくてもせめて『戦闘職』として復帰してもらうとかでも構わないわ。そうすれば宿の提供や支援もできるから……勿論、副隊長になってくれた時は、貴方の意志を尊重させてもらうわ」
「……」
脳裏に浮かぶのは、かつての『彼女とは気が合うだろう』と微笑みながら語った白蓮の姿。自分が、どういった要素、理由で他者を『仲間』と認識していたか分からないが、少なくとも自分が考えるそれらの条件を目の前のラべスタントと照らし合わせてみても、まるで組み合わない。
――だが、彼女を見ているとまるで思い出を見ているような奇妙な感覚を覚えられる。
彼女が『記憶』や《能力》のことを解決できる鍵になるとは思えないが、この感覚はどうも捨てられない。
一体この街ではどれほどの苦労をさせられるのか、と春野は思わず眉間に深いしわを刻むほどには思い悩んでいたのだった。
言うべきか分からなかった。
仲間であったはずのリューゲルに、傷を負わされた部下がいる医療室に向かって歩を進めるラべスタントは、俯いた顔に暗い感情を宿した。やるせない、といった感情を。
結局、春野は一時的にこの街の『戦闘職』として復帰することにし、副隊長の件は考えるといって立ち去ってしまった。そこでも、遅くても伝えるべきだったのかもしれない。
だがそれを知った時、彼はそう思うか――それを思い出し、気付いてしまった自分は、今後どう向き合っていけばいいのか。
王国の有力者にしか知らされていない情報――『境界の崩壊』を引き起こさない性質を持つのは、魔王軍の《幹部》たちと同じであると言うことを。
5
この街の『戦闘職』として活動するという『意思表明』を済ませた後、ラべスタントの側近兼受付の担当者である朔刃から春野含めた近頃『戦闘職』になったものを歓迎するパーティーに参加したらどうかという提案をされたが、春野はそれを拒否した。
朔刃がどんな人間性をしているのか分からないが、あの冷たい疑いの眼差しは、どうも春野を歓迎していないようだった。もしかしたら、疑い深い人間なのかもしれない。
正直なところ、この街に長く、もしくは永続的に留まることを春野は考えていなかったうえ、その参加している時間すらも惜しいと思ったのだ。春野は役所から手配された宿の一室、そこに設備されている二段ベットに寝ころびながらあの写真と向き合っていた。幾度見ても、脳裏にいくつかのフラッシュ――『記憶』の断片だと思われるものが一瞬移り込むだけで、『仲間』との『記憶』どころか、この男性との『記憶』すら思い出せない。
元から覚えている記憶自体も非常に少ない。自分の生年月日、生まれた場所、親は――母親がいた、という部分的なもので残っている。母親との思い出や、母親がどんな人物であったのか、それらは思い出せない。そして、父の有無も含めて――。
別『世界』に飛ばされた経緯や日本でなにをしていたのか、思い出も同様に思い出せず、友人等も有無が不明。唯一予想できるのが学歴で、ある程度知能を身に着けていることからそれなりの学歴は持っていたと思われる。だが、その時代、『世界』になにがあったかなどは覚えているのだ。 しかも、『親』、『思い出』、『仲間』、というようにあるべきものの数だけ『空虚』がある。だが、不思議なことにそれらが失われたことに不快感はない。強いて言うなら、その『空虚』をまるで封じ込めるような微かな圧迫感は感じる。
自分に関する記憶、過去が全て自分の中で忘れ去られている。
――何者かが、自分の記憶を消し去ろうとしているのかのように。
『再会』があったのは、宿から出て間もない時に起こった。
渦巻く疑問に対し、自問自答を続けていた春野だったが、心を落ち着かせられたのは一時間に満たなかった。そうして気分転換にと満月が浮かぶ夜空の下に出たのだが――、
「――っと、すまねぇ」
「あ、いやそれは私の台詞だ。こちらこそすまない」
狭い裏路地なために、真正面から歩み寄るように歩を速めていた赤毛の少女とすれ違う際、肩をぶつけてしまった。この街の裏路地では、いわゆる当り屋というもの存在する。今回もその手の相手かと春野は警戒を強めたが、その視界に入った少女の姿と様子を見る限り、どうやら違うそうだ。
相手の方は大して気にすることなくすぐに立ち去っていたが、春野は先の感触を思い出し、思わず足を止めていた。
――当たった肩の感触が軽い。そのことに不信がって春野は思わず後方に振り向く。少女の左肩には、本来あるべき腕が生えていなかったのだ。同時に、また気が付いたことがある。
どうするものかと春野は顔をしかめるようにしながら悩み果てたが、まるで諦めたかのように吐息をつき、その少女の背中に歩み寄る。
「……なにか、探してるのか?」
「――⁉」
ほんの一瞬の関係で終わるはずであった男から声を掛けられ、隻腕の少女は弾かれたかのようにその整った顔を春野に向ける。――その一瞬の間に、腰元に下げていったフルーレを引き抜こうとした少女は、その声を掛けてきた人物が先の男であるということを認識し、その残された腕を止めた。
「……なんと?」
「だから、なんか探してんのかって聞いてんだ――余計な世話かもしれねぇが、片腕だったらなんかあった時、不便だろうからな」
少女からの問いかけに春野は苛立ちを雑に隠しながらも、鬱憤を晴らすかのように荒く問いを重ねた。
それに少女は、皺を刻んだ春野の顔を伺いながら自身の口元に、丸く固めた右手を当ててその瞳に疑いの感情を宿した。だが意外にも、その少女が打ち解けるのは十秒にも満たなかった。
「落とし物ではないのだが……その、だな……落とし物よりもタチの悪い人探しをしていてな」
「モノよりもタチの悪い人間、ねぇ」
少女が打ち解けてくれたのはいいが、早くも春野は『関わるべきでなかった』と思い始めていた。――少女が隻腕であるということと共に気付いたこと。それは、この凛々しい顔を作る少女の顔が、僅かながらも焦りに歪んでいる。
その凛々しい顔を歪ますほどのこと。そういったことは大体揃って決まっている。何か大切なモノを失ったときだ。それを見た春野の中には、どこか同情にも近い感情が芽生えていたのだ。
だが、春野は遅れて気づかされることとなる。もとい、この少女とはなんの関係もないということ。しかもその少女の焦りの訳は、一度聞くだけで嫌と言わせるわかるほどの面倒臭さを持つもの。
春野は気まずそうに顔を明後日の方角に向けて、らしくもなく困り果てた表情を浮かべた。
無論、付き添っても何の利益も出ないことは分かっている。仮にそこから人付き合いができたとしても、その『落とし物よりもタチの悪い人』との関係なんて持ちたくもない。
故に、今すぐにでも立ち去るべきなのだろうが、自分から話しかけといて、不利益となったら放置するというのも、教えられた信念に反する。
一体、どちらが本当の不利益か――、
「いたぞぉ‼ あのクソガキはこっちだぁ‼」
練るようにじっくりと悩む春野の意識に割り込むかのように、耳をつんざく怒号が鳴り響いてきた。
フルーレを構えて、即座に警戒の構えを取った少女に遅れて、春野も目元を鋭くして辺りに対して精神を集中させる。
先の男の怒号を考えるに、この少女を狙ったものの可能性がある――しかし、男の怒鳴り声も、絶え間なく叩きつけられるようにして鳴る複重の足音も、徐々に消えていく。――そんな中で春野は不思議な感覚を覚えていた。
「……何か、思い出せ――」
「――すまない。どうやら今話し合っている暇はないようだ」
頭の底にある記憶を絞り出そうとした春野に、少女が不意に、自ら別れを告げて走り去っていった。最後に見た少女の顔は、色濃い焦りの感情で塗りつぶされていた。
『戦闘職』なのだろう。人間の限界を超えた身体能力空に舞い、建物の天井を足場に疾風となって駆けていく少女を見送る春野。先の焦り具合を見るに、男たちが追っていると思われる人物が少女の言う『落とし物よりもタチの悪い人』なのは間違いない。
そして、男たちが殺気立っているのも間違いないだろう。――果たしてあの隻腕の少女だけでどうにかなるものか。
「……足突っ込んだのは、俺の方か……」
懐から取り出した安っぽい煙草を取り出し、それを一服だけ含んだ春野は、口内に染み渡る苦い味に、考えるという意識を捨てさせた。――やっぱり、放ってはおけないから。
――凄みを効かせる男たちと、レンガの壁の間に挟まれる形で追い込まれたあの少女と、その探し人だと思われる同じ赤毛とツインテールが特徴的な少女を見つけだすのは、ものの十数秒で済んだ。
意外にも、追い込まれた立場であるのにも関わらず、少女二人は一本道であることを利用して、隻腕の少女はフルーレの先端を突き刺す形で、ツインテールの少女は引き抜いた拳銃から弾丸を放つことで、同じく躱すための空間を持たない男たちの数を着実に削っていた。だが、そのことに男たちも遅れながら気づいたようでそれぞれ弓を取り出したり、魔法の詠唱を唱えたりと攻撃の準備を始めた。壁に追い込まれた状況でそれらから逃れる逃げ場はない――。
「――禍緒州」
「姉さん!」
その呼びかけを合図として、二人が相手の顔を見つめ合う形で武器を構え合う。
フルーレを持つ少女がその剣先を妹に向ける形で、拳銃を構える少女がその銃口を姉の顔に向ける形だ。互いに、見つめ合っている。
「――《暁乃裏側》」
まるで互いを殺し合うような構えを取り合った姉妹に向けて、一斉に男たちが攻撃を放つ――瞬間、その男たちの背後を弾幕が貫いた。
姉妹に向かって突撃し、後ろにいた仲間が肉壁となったことで弾幕の被害から逃れた男たちが見たのは、実の姉に向けて拳銃を向けていた妹が消えた光景―――もとい、彼らに向けてフルーレを構える少女がいる。
「ぎゃあああああああ‼」
突撃の体勢、つまりは前のめりになっていた前方の男たちの顔面を、鋭く細い一太刀が切り裂いた。
たった一瞬で、姉妹と男たちの立場と状況が逆転した。数十人の男たちの数がますます勢いを増して削れていく。――だが、一人の男が姉の残された右手を蹴っ飛ばし、フルーレを弾いて彼女の目元を掌でふさいだことで戦況は再び姉妹に牙をむく。
「姉さん!」
「動くなァ‼」
姉の体と目を封じる細見の男に向けて、妹が拳銃を構える。しかし、その男は姉の顎を強引に持ち上げて、露わになった首筋にナイフを当てた。姉妹を挟む男たちは勝利を確信して不快な笑みを浮かべる。
――つまりは頭ががら空き。上空からの攻撃、否、第三者からの攻撃を全く予想だにしていなかった細見の男は、真上から飛び降りた春野の踵蹴りによって頭を砕かれた。
頭上に勢いが上乗せされた踵蹴りを受けた男が、一瞬で沈む。口元、鼻、目の端から鮮血を噴いた仲間の一人を見て、春野の存在に気付いた他の男たちは凍り付かせた喉を鳴らしながら、先の威勢も忘れて顔を青ざめて、発狂したのかと思わせるような絶叫を上げた。
本来あるべき所にモノをなくし、歪な顔となった男の屍を見て、男たちの注意は全て春野に向けられた。それは、多勢に無勢を強いられていた少女たちも同じ。間もない再会だが、彼女たちと言葉を交わす時間はない。――攻撃を仕掛けるのは男たちが早かったが、唯一攻撃を届かせたのは春野であった。固めた拳を一人の男の頬にねじ込んだまま、その勢いのままに顔を地面に叩きつけて完全に頬骨を打ち砕く。
その頬の肉をえぐり取るかのようにして固めた拳を薙ぎ、背後に迫っていた男の右手、突き出した刃を握りしめたその手首の骨を粉砕した。打撃を叩き込まれたことでナイフを手放し、骨が砕けた右手が肉を伸ばして垂れ下がる。痛みよりも恐怖が勝ったのだろう。男が上げた悲鳴が戦場をより地獄絵図に染め上げる。
その男の後頭部に引っ掛けるようにして春野は持ち上げた自身の足先を当て、自身の胸元に寄せる。思いのままに引き寄せられた男は、突き出された春野の右肘に顔面を破壊される。その男の顔を貫いて、春野の肘から発せられた閃光が背後にいた複数人を切り裂いた。顔の原型を失った男の首を掴み、瞬時に周囲の状況を確認した春野は、最も男たちが密着している一点に、掴んでいた男の体を叩きつけた。
ただ投げつけただけではせいぜい、直撃を受けたとしても体が倒れるぐらいで済むだろう。だが春野が投擲した男の体は、まるで小石を全力で投げ飛ばしたかのような勢いが乗せられている。その直撃を受けた他の男たちは、体の所々をへし折られながら地面に叩きつけられた。
ものの一瞬で状況が変化する戦場。数を着実にへらしていきつつも、春野は一息ごとに周囲の状況の目配せを怠らない。故に気付いた。特攻する仲間たちを肉の壁として魔法の詠唱を始めるものがいることに。
本能に身のこなしを任せた春野は懐から小刀を抜き取り、魔法の準備を進めている男目掛けて、風を切り裂くほどの勢いをつけて投げ飛ばした。男を隠すようにしてそこにいた大柄な肉壁――その胸を抵抗のなく貫いて、気付くスキすらも与えられなかった男の首元に突き刺さった。
数十人はいた男たちが、今ではもう、十数秒経った今では数人に削り残されていた。
ここまで一方的で、かつ残虐的であれば威勢を張っていた男たちも戦意を失った。それを春野は感じ取り、もう興味はなくしたと言わんばかりに自らが生み出した屍に囲まれるようにしてその場に佇んだ。春野に見据えられて男たちは、らしくもなくおどおどとした態度でその脇を通り過ぎ、一目散に逃げ去っていった。
そんな彼らの背中をため息を乗せて見送ると、春野は少女二人の安否を確認する。幸い、春野が乱入してから男たちが彼女たちに注目することがなかったため、派手に目立つ傷は見られない。
――そこで春野は、隻腕の少女の隣にいるツインテールの少女に目をあわせた途端、頭の中で何かが弾ける感覚を覚えた。
「‥‥おい、女。どこかであった気がするが、気のせいか?」
「えぇ? 誰があんたのこと‥‥」
「……先の、君だな? 君は一体何者だ?」
「待って姉さん。アイツ、どっかで見たことが……」
どうやら目の前の少女も春野のことに覚えがあるらしい。少なからず、彼女と同様に見覚えがある春野も、馬鹿そうな顔にしてはだなとツインテールの少女のことを評価した。
眉間にシワを寄せ、「うーん」と唸って三秒後。
「あ――‼ あのおじさんだ‼」
赤毛の少女は春野の顔を指差し、叫びながら目を見開く。
そこで、春野も目の前の少女の事を完全に思い出した。おっさんという響きが思い出すきっかけとなったのは皮肉なものだ。
「お前‥‥化け物になったリューゲルとか言ってたやつから逃げてたガキか!」
「そうそう! おひさじゃん‼ えー⁉ あいつから生き延びたの⁉ すっげー!」
「か、禍緒州……状況が読み込めない。説明してくれ」
「ほら、前にリューっちが《陛忌》で化け物になったっていったじゃん? その時に出会ったの希石姉さん!」
(‥‥いつまでおっさんおっさんって言いやがるんだ)
禍緒州の言いように苛立つと共に分かったことがある。隻腕の少女の名は希石であり姉であること、そしてかつて出会ったツインテールの少女こと禍緒州がその妹なのだ。
「なるほど、君が妹の恩人か。今回は、私の恩人ともなるな」
やっとのことで理解する姉を放っておいて、春野の胸筋を軽く掌で叩きながら笑顔を見せる禍緒州。その様子に春野以上に呆れた表情を浮かべた希石は、味わい深げな顔を作る春野に顔を向け、
「すまない。先の力を見て、つい敵と疑ってしまった。妹の恩人なのに、申し訳ない」
そう言って禍緒州の姉――もとい希石は春野に向けて頭を下げる。
「気にしないでくれ。‥‥‥それにしても、こいつが妹だなんてな。……なるほどなるほど、確かにこいつは面倒なモノだな」
「へ?」
「遠征を終えた後、市長から聞いてはいたんだ川尻。市長を助け、《陛忌》と化したリューゲルを打ち破った実力者であると彼女から聞かされた」
そんな話題の当の本人は先の希石の言葉を聞いて、「ちょっと面倒ってどうゆうこと」と春野の体を揺さぶるが、当の本人と希石は気づかないふりをしている。
「それにしても禍緒州。さっき店を飛び出すならまだしも、あの時にも言ったが一人で敵には絡むなと何度も――」
「余計なお世話ぁ」
「ぬ‥‥」
「‥‥‥こいつらはどういう奴らなんだ?」
「『戦闘職』の力をつかってやべーことしてるやつら。アタシたちやラベっちも困ってんの」
不満げにする禍緒州の話からまとめると、この街には数多くの派閥があるという。禍緒州や希石たちは例の精鋭部隊の中で、『戦闘職』になることで得られる力を悪用する派閥を鎮圧する役目を市から与えられているそうだ。
他にも、『戦闘職』の力を使う少人数グループが、禍緒州が知ってるだけでも十以上はこの街に存在するとのことだ。
彼女たちの境遇や使命に半ば同情を覚え、春野は目元に皺を寄せる。そんな春野に、希石が問いを投げ掛けた。
「川尻。一ついいだろうか」
「……なんだ?」
「市長から話を含め、さっき見た川尻の実力は目を見張るほどのものがある。それは、私以上の実力者も思うことだろう。――だが、私はこれまで川尻のように《能力》を使わずともあれほどの実力を持つ『戦闘職』の話や噂さえも聞いたことはない――川尻について話してくれないか」
「……」
瞼を閉じ、目尻に皺を刻んで考え込む。――『戦闘職』となった当時、『不完全』として忌み嫌われていた記憶がよみがえる。そして、この二人に話したことで起こると思われる事態。
――だが、春野はかつて赤奈に語った『自身に起こった全て』を二人に話し始めた。
「異世界⁉ なにそれめっちゃ興奮するじゃん‼ ねえねえ春野がいた『世界』」
「……にわかには信じがたいな」
興奮気味な禍緒州と頭を痛める希石。互いの姿には名残があるともその反応の違いは本当に姉妹なのかと疑問を抱かせる。だが、二人の反応には少なからず春野は納得していた。
「気持ちはわかる。だが事実は事実だ。 出会ったばかりのお前らに嘘をつく理由はない上に、こっちは人生がかかってるんだ」
「……《能力》の不完全な発現は本当に聞いたこともないな。それで、この街に《能力》を完全にさせることができるかもしれない人物がいることは分かったがなんというか……本当に名前を聞き忘れたのかと疑いたくなるな」
「おいどういう意味だそれ」
「馬鹿ってことでしょ?」
濡れた洗濯物を思いっきり宙に叩いたかのような音が辺りに響く。
「……妹がすまない。思ったことはすぐ口に出す性格なんだ」
「……お前には一応謝っておくが、こいつには謝らねぇぞ」
「なんで~⁉」
頭の頂点に春野が固めた拳を叩き込み、煙を上げる頭を押さえながら禍緒州が抗議の声を上げる。禍緒州の頭が叩き潰れなかったのは、少なからず春野に理性があったことと、思ったよりも禍緒州の頭が頑丈であったためだ。
「……それで、川尻は《能力》を解放しきれたら街を出るとのことだが……方法は判明しているのか?」
「分からねぇ。しばらく見つかんなきゃさっさと出て行くつもりだ……で、それを聞いてなにになるんだ?」
「恩を返したい」
真っすぐな意思を表したかのような眼差しを受けて、春野は眉を弾いてみせた。予想外だったとか、ありきたりな答えを聞いたからそういった反応をしたわけではない。――本能が、恩を返されることを嫌っていたのを春野は覚えていた。それこそ今春野が求めている、まるで記憶を取り戻したかのような感覚。
「あ! こういうのはどう⁉ 春野も『戦闘職』になったわけっしょ? だったらあたしたちのパーティーに加われば春野にとってもいいと思うんだよね!」
さっきまで痛みに呻いていたのは何だったのか、名案を言ってやったとでも言いたげに禍緒州は勝手に満足げな笑みを浮かべながら何度も頷いている。
「……恩を返してもらおうとか、そんな厚かましいことは考えてねぇよ。お前に加勢したのも、俺の方からお前らの事情に片足突っ込んだからだ」
「――川尻はそう感じるかもしれないが、私たちは恩だと思っている。これが恩の返しになるとは思っていないが、妹の提案は確かに川尻のためになると思う。私と妹は川尻よりはこの街の仕組みについては知っている。少なくとも君がこの街で生きやすくはなる。川尻がここにいる間はせめて力にならせてほしい」
「……」
理由はおそらく違えども、今まで波長が合う所を見せなかった希石も、まるで春野を説得するかのように自分の考えを語る。
それに、春野は目を閉じて考え込んだ。――思い浮かんだのは、赤奈の言葉。
『――仲間だと、理解し合うのは後のことだろう?』
春野自身、過去にあった出来事や自分の想いを失っているため、大切にしていたと思われる『仲間』の重要性が今や分からない。『仲間』を持って、何か利があるのかとも思っている。――だが、今もこうして心を揺さぶられない自分が、記憶をなくしてまで『仲間』を想っていた面影を残している。――それを確かめたい気持ちが春野の中にはあった。
「……わかった。その恩、ありがたく受け取ることにしよう」
6
「……驚きました。歓迎会にさえも参加しなかったのに、まさかあなたが自分から部隊に加入するなんて」
「ちょっとした気まぐれと訳だ。お前が踏み入る話じゃねぇよ」
愕然とした様子の朔刃から顔を逸らし、色褪せたかのような誓約書にサインをし終えた春野は振り返り、そこにいた赤毛の姉妹に視線を向けた。
「これでほんとーのパーティーになったから、なんかあったらいつでもあたしたちをたよってね!」
「……希石ならともかく、お前と一緒ならお前が俺に頼る未来しか見えねぇな」
「……善意で提案させてもらったが、まさかただ迷惑になったか……⁉」
「どういうことさ――⁉」
顔を見合わせて今後の不安を共感しあう二人を見て、自信ありげに鼻を高くしていた禍緒州は濁った声調で抗議する。それに希石は疲れた表情を浮かべながらも妹のことをなだめて、春野は分かれよと長々とため息をついたのだった。
「じゃぁねー春野―!」
「あいあい……」
大通りから逸れる形で春野は二人に別れを告げ、裏路地に歩みを進める。そこで大きな汚れが見当たらない石壁を見つけると、そこに背中を預け、手際よく口にくわえた煙草に火をつけた。気持ちを落ち着かせるために、目を閉じる。
まだ騒いだ様子を見せる宿に戻るのはどうも気が引ける。雑念に『記憶』と《能力》のことを惑わされるのは勘弁したい。――だが今は、人と関わったことが功を奏することもあると思う。
転生して、『彼女』にこの世界での生き方や魔法の扱いを教わることとなり、『記憶』と《能力》を求める旅に出てからは赤奈を助けたことで、この街に出向くこととなり、そこで『仲間』と思えるような人物と関わることとなった。
赤奈を助けたとき、『仲間』と想っていた頃の感覚を味わえると思っていたと話していたが、それはもしかしたらそれはあの時、助ければ何か変化が起こるという決めつけによって何も起こらなかったのかもしれない。――純粋な気持ちが、自分にはあったのだろう。
「――仲間と理解し合うのは後から、か。……最初の俺は最初から分かってて『仲間』を作ったのかね?」
瞼を開き、湿り気のある地面に目を向けた春野は、誰もいないそこに問いかけていた。
透き通ったかのようなため息を、鼻から吐き出す。
「――っ」
――不意に、春野の鳩尾が粉雪の如き銀色の輝きを発し始めたのだ。この感覚を、春野は覚えている。――《能力》と《特性》を手に入れたあの時と同じ感覚。
突き出した左手の内に春野はその輝きと同じ銀に輝く渦を作り出し、《大剣》を形成する。地面に突き刺さったそれを見て、春野は変化に気が付いた。
『極』の文字が刻まれた銀の結晶を囲むようにしてあった色なしの八つの結晶。――その内の二つに、橙色の輝きと、緑色の輝きが灯されていたのだ。
《大剣》を握りしめる左手から伝わるのは、あの二人の――気持ち、魂、それらとは似て異なる『存在』。
スッと、頭の中にあった『空虚』がほんの少しだけ、拭えたように感じた。
「……そうか。俺は、本当に『記憶』がなくなってたんだな。――父さん」
そこにいないかつての人物に愛おしさを込めて話しかけ、春野は懐に手を伸ばす。
今の自分に残された僅かな『記憶』と『仲間』。その写真にのこされたかつての父親の姿を見て、春野は笑って見せたのだった。