9.明くる日
その晩、わたしは夢を見た。
いつものお告げだと瞬時に理解する。
――《薔薇水晶の妖精眼》を通して見る予知夢。
感覚を研ぎ澄ませる。
まず聞こえてきたのは、川のせせらぎだ。
ここはどこだろう。
考える前に、唇にあたたかい何かが触れた。
蕩けてしまうような、甘い感触。
優しい口づけを落とされたことに気づくのに、しばしの時間を要した。
永遠にも思える、長い接吻。
熱が唇から離れれば、ゆっくりと濡れそぼった瞼を開く。
わたしの顔を覗き込む人がいる。
ぼやけた視界。
わたしの、ファーストキスを奪ったその人は。
「……クォーツ?」
微笑むクォーツに、わたしの胸が高まった。
濡れた唇を、人差し指でなぞる。
初めてを奪われた興奮に、耳朶まで赤く顔を染めた。
◇◇◇
「きゃああああああああああ!!!!」
自分の叫び声で、わたしは目を覚ました。
胸を押さえ、ぜえはあと息を整える。
夢の中で、わたしとクォーツがキスをしていた。
夢だけど夢じゃない。
わたしが見る夢は、必ず過去に起こったこと――あるいは未来に起こることなのだ。
わたしはこの先、クォーツにファーストキスを捧げることになる。
「夫婦の演技の延長、かも、しれないし」
言ってから、ぶんぶんと首を横に振る。
「いや。むりむりむりむりむり。演技でキスまでするなんて無理」
熱くなった頬を、両手で押さえた。
頭が沸騰しそうだ。
全部、あの夢のせいだ。
「演技じゃなくて、本当に、わたしはクォーツとそんな仲に……?」
耳たぶの先まで真っ赤になって、わたしはシーツをくしゃりと握りしめた。
「どどどどどどうしましょう」
演技が現実になるかもしれないと思うだけで、動揺を抑えきれない。
確かにわたしがクォーツを異性として意識しているのは、事実、な気がする。
けれど、彼は元奴隷で、わたしは公爵令嬢で。身分差だって、あるし。
「お父様に花嫁衣裳を見せられれば、わたしは、それで」
口に出してから、「本当に?」と内心問いかけた。
自分の気持ちが分からなくなって、布団を頭まで被った。
◇◇◇
「ローズ。おーい、ローーーズ」
こんこん、とわたしの寝室のドアをノックする音。
聞き慣れた低い男性の声。
扉を開けなくても分かる。
クォーツがわたしを訪ねて来たのだ。
そういえば、昨日「確かめたいことがある」と言っていたはず。
「…………」
先程見た夢が、頭から離れない。
気まずい。とても気まずい。
困ったわたしは狸寝入りを決め込むことにする。
「ローズ、まだ寝ているのかい」
返すのは沈黙だ。
すると、予期せぬことが起こった。
「返事がないなら入るよ」
がちゃり、と扉が開く音。そして硬い靴音が無遠慮に響く。
「……本当に寝てる」
靴音が段々と近づいてきて、目の前で止まる。
心臓がばくばくとうるさい。
まさか部屋の中まで入ってくるとは思わなかった。
こんなことなら、狸寝入りなんてするんじゃなかったと後悔する。
必死に規則正しい寝息の演技をしていると、頭に何かあたたかなものが触れる感触。
撫でられている。やさしく。子供をあやすように。
「寝顔もかわいいな、本当に」
思わず悲鳴を上げそうになった。
夢の中のキスシーンが何度も脳内で再生される。
心臓が痛いほどに跳ねている。
「演技でも、俺が夫でいいのかい。本当に」
逡巡するように、頭を撫でる手が止まって。
しばしの静寂。
「お役御免になるまでは、きっちりと務めさせていただくよ」
段々と靴音が遠ざかっていき、最後に静かに扉を閉める音が響いた。
完全にクォーツが去ったのを確認してから、ベッドから上体を起こす。
やさしく撫でられた頭に、そっと触れて。
「…………も~!」
そのまま、薄紅色の髪をぐちゃぐちゃと搔き乱した。
「かわいいとか寝てるときだけ言わないでほしいです! ばか!」
枕を思い切り、クォーツの去った扉に向かって投げた。
◇◇◇
「すみません。今日は寝坊をしてしまいました」
身支度を整えたわたしは、クォーツに粛々と頭を下げる。
クォーツは少し戸惑ったように、わたしを見つめた。
「大丈夫かい。疲れているのなら明日でも……」
「いいえ、問題ありません。それでは父上の部屋に参りましょうか」
「もしかして、何か俺に怒ってるのかい」
「別に怒っていません」
「じゃあ、どうして今日は俺と目を合わせてくれないんだ」
うっ、とわたしは言葉を詰まらせてしまう。
そんなの、クォーツと目を合わせたら心臓がドキドキしてしまうからに決まっているじゃあないか。
今のわたしの脳内の80%が、あのキスの夢に支配されている。
本音を言えるわけもなく、しばし視線を泳がせて。
「……目を合わせたくない気分だからです」
などと答えにもならない言葉を返す。
本当に、わたしという女は可愛くないことしか言えない。
「ローズがそう言うなら、それでいいんだけれど」
歯切れ悪く言って、クォーツは引き下がった。
彼の気分を害してしまっただろうか。指先が冷たくなるのを感じる。
「……では、父上の部屋に参りましょう。確かめたいことがあるのでしょう?」
有無を言わさぬ口調で言い放ち、そのまま父の部屋へと足を進めた。