8.対面の日
「緊張する」
扉の前に立ったクォーツは、眼帯の位置を直したり、髪の毛を整えたり落ち着かない様子だ。
「あら意外。クォーツもそんなに緊張なさるんですね」
わたしがくすくすと笑いながらクォーツの顔を覗き込むと、彼は渋い表情を浮かべた。
「俺の付け焼き刃で、あなたの父君を騙し通せるのか。正直、気が気ではないよ」
「大丈夫です。わたしはクォーツを信じていますから」
「そのキラキラした目をやめてくれ。逆に緊張が高まる」
わたしの薔薇水晶の瞳から視線を逸らして、クォーツは大きく溜息を吐いた。
「……それで、そろそろ心の準備はできましたか」
「なんとか」
「では、扉を開けます。すべては手筈通りに。くれぐれもお父様に粗相のないように」
「わかってる」
視線を交わし、頷き合う。
ぎぃ、と。扉が重い音を立てて開いてゆく。
まず鼻を突くのは、ツンとした薬草のにおいだ。
暗い室内。埃っぽさに目を細めれば、閉じたカーテンの隙間から差し込む光に、空中の埃が微かにきらめいている。
「お父様、失礼いたします」
わたしの声に、寝台の上に横たわった人影が動いた。
「おお、ローズか。……隣のお方は?」
「ご紹介いたしますわ。こちらはクォーツ様。遠い異国の地から、我が国に静養にいらっしゃった王族であらせられます」
一歩、クォーツは前へ進み出ると、片膝をついて寝台の父にかしずいた。
「突然の来訪をお許しください。公爵閣下」
「そう形式ばらずともよい、クォーツ殿。顔を上げよ」
父は柔和な笑みを浮かべると、私へと向き直った。
「ローズ。おまえが殿方を屋敷に呼ぶとは珍しい」
それから、声を低くした。
「……今回の訪問。王太子殿下のお耳には、もちろん入れているのだろうな。無用な誤解を生むことがあってはならん」
「その必要はもうございませんわ、お父様」
「どういう意味だ」
「わたくし、王太子殿下に婚約破棄されてしまいましたの」
父が大きく目を見開いた。
「あの小倅、血迷うたか」
「まあ、お父様。殿下に対してお言葉が過ぎますわ」
「しかし」
「後ろ盾のいない公爵令嬢は必要ないとのご判断でしょう」
「……ローズ。おまえはそれでいいのか」
わたしはそこで、にっこりを笑みを浮かべて見せた。
「いいんです。代わりに白馬に乗った王子様が、わたくしにやって来てくださったのですから」
ひしっ、とわたしはクォーツに身を寄せ、腕を組んで見せた。
これで恋人らしく見えるはず。たぶん。頑張れわたし。
どきどきする心臓に気付かないふりをして、わたしは愛らしい笑みを浮かべる。
「クォーツ様は、傷心のわたくしを慰めてくださいました」
「ななななな……」
「そして……そのお人柄に惹かれて、次第に思うようになったのです。このお方と共に人生を歩んでいけたら、と」
「ほ、本気なのかローズ」
「冗談でこんなことは言いませんわ」
あんぐりと、父は口を開けている。
あまりの展開のスピードに頭がついていかないのだろう。当然だ。
「公爵閣下。……いえ、義父上。娘さんをわたしに下さいませんか」
クォーツのその台詞がトドメだった。
父の動きが、完全にフリーズしてしまった。
長い長い、沈黙。
「お父様? おーい、お父様。……返事がないですね」
「あまりのショックに気絶してるぞ。ローズの父上」
「きゃあ、大変! お医者様を呼ばなくては!」
すっかり魂の抜けてしまった父に慌てふためき、その日の初対面は幕を下ろした。
◇◇◇
「お父様、大丈夫かしら……」
クォーツの淹れてくれる紅茶を啜りながら、ぽつりとつぶやきを落とす。
こうして彼の部屋に入り浸って、紅茶を淹れてもらうのが、すっかり日常と化していた。
「婚約破棄に、見知らぬ男との結婚宣言。あなたの父上が動揺するのも当然だろうな」
さもありなん、といった様子でクォーツは苦笑を浮かべている。
「脈もしっかりしてたし、まず大丈夫だと思うぞ。医者もそう言っていただろう?」
「……ええ。それにしても驚きました。あの時のクォーツの手際の良さ、まるでお医者様のようでした」
呼吸と脈拍の確認。
気絶した父へクォーツが行ったテキパキとした処置を思い返すに、あれはおおよそ素人の行動ではなかった。
当のわたしは、慌てて右往左往するばかりだったのに。
「キューキュータイイン、でしたっけ。クォーツのお仕事は勇者様ではなく、お医者様だったのですか?」
「どうだろう。勇者よりは近い職業だと思うけど、医者ではないよ」
クォーツは立ち上がると、曇った窓硝子を手のひらで拭った。
丘陵の上に建つ屋敷からの景色は、見晴らしの良いものだ。
「俺からも質問をしていいかい」
「なんなりと」
わたしは微笑み、ティーカップを軽く上げた。
「この屋敷から見えるのは、のどかな田園風景だ。この世界に来てから思っていたんだが、この国では麦を育てていないのかい。米が主食、というのに、どうにも違和感があって」
「まあ。お米はクォーツの口に合いませんか」
「そういうことではないんだ。俺の故郷でも主食は米だった。ただ、こんなヨーロッパ風の国じゃあ主食が麦のイメージがあってどうにも……」
「よーろっぱふう……?」
「何でもない。その単語は忘れてくれ」
クォーツは、悩ましげに黒髪を掻き上げた。
わたしは小首を傾げながら、先を続ける。
「クォーツの質問の意味は分かりかねますが……。この国の土壌は、麦の栽培に適していないのです。古来から、伝統的に稲作が行われてきました」
「なるほど。それじゃあもうひとつ質問をしていいかい。あなたの父上のご病名を、俺に教えてほしい」
瞬間。思わず微かに眉根を寄せた。それから、小さな溜息を吐く。
「貴族病、と呼ばれています。平民は掛からぬ病だからです。原因は不明。手足の痺れ、痙攣。歩行ができなくなり、やがて死に至ります」
「……そうか。ありがとう、ローズ。無理をして教えてくれて」
自然と、わたしの声は震えていたらしい。
わたしを気遣うようなやさしい声音。頭にあたたかな感触。
クォーツに撫でられていると気付くのに、しばしの時間を要した。
じんわりと、胸があたたかくなる。
しばらく、そうして黙って頭を撫でられていたけれど。
「……これって夫婦とか恋人っていうよりも、わたしを子供扱いしてませんか」
「おや。やっと気づいたかい」
「わたしは十分に大人のレディですよ!」
「その態度が子供っぽいんだよなあ」
日常となりつつあるじゃれあい。
それから、クォーツはまっすぐにわたしを見据えた。
表情はいつになく、真剣なものだ。
「明日もう1度、ローズの父上に会わせて欲しい。確かめたいことがある」