5.夢の中へ
「クォーツ。まだ起きているかしら」
こんこん、と。
控えめなノックの音が夜更け過ぎに響く。
間もなく「どうぞ」と穏やかなクォーツの声が扉越しに響いた。わたしは彼にあてがわれた部屋の扉を、おずおずと開く。
「ごめんなさい、クォーツ。こんな時間に」
「買った奴隷に対して遠慮する必要はないよ」
「そのことです」
きょとん、とクォーツは目を丸くする。
とりあえず中へ入って、と彼は穏やかに告げて、薪ストーブの上にケトルを置いた。ストーブの中では赤々とした炎が踊り、ときおり炭が弾けている。
「実はメイドさんから、さっき茶葉を分けてもらったんだ。湯を沸かしているから、ローズも飲むかい」
いただきます、と小さく頷く。
もう屋敷の使用人とそんなに仲良くなっているのか、と驚きもした。
なんでだろう。使用人とクォーツが仲良くなることはいい事なのに胸がざわざわする。
わたしは自分の感情に戸惑いながら、躊躇いがちに口を開いた。
「……わたしは、ただ、これでよかったのかな、と思いまして」
「何に対してだい」
「生まれたときから結婚が約束されていた婚約者に、今日破談を言い渡されて。その日のうちに、勢いのままにあなたを新しい婚約者としてお招きしました。その、頭が冷えて考えてみると――」
「思い切りが良すぎる」
「やはりそう思いますよね」
わたしは苦笑を浮かべる。
目の前に、紅茶のティーカップが置かれた。
ほのかに昇る湯気と共に、かぐわしい紅茶の香りが鼻腔をくすぐる。
「それじゃあ、俺をまたあの奴隷市場に戻すのかい」
「とんでもない。そうではなく、その、あなたの事情を考えていなかったな、と。あなたも、良いお年でしょう。故郷に想い人でも残していらっしゃるとしたら、夫婦ごっこにお付き合いいただくのも心苦しいです」
「あはは、そんなこと」
突然、クォーツは快活に笑いだした。
わたしはむぅと頬を膨らませて、紅茶を啜った。
「何がおかしいんです」
「大丈夫。俺はもう2度と故郷に帰れないから」
「それはどういう……?」
「俺がもう帰るのを諦めてるってこと。遠い場所だ。未練がないと言ったら嘘になるが、きっと帰ることは叶わない」
クォーツの声音は、深い諦念を孕んでいた。
「約束の期間を終えた後でしたら、帰郷するためにわたしがお力添えしますが」
「ローズ、ありがとう。それでもおそらく、俺は帰れないよ」
訳が分からなかった。
クォーツ本人は故郷に帰りたい素振りを見せているというのに、協力すると言っても頑なに帰れないと言い切る。故郷でなにか罪を犯して追われているのだろうか。それとも故郷自体が滅びてしまったのだろうか。
疑問符だけが増えていき、けれど上手くそれを問うことができない。
「それよりも、あなただ。ローズ」
「わたし?」
今度はわたしがきょとんと目を丸くする番だった。
「あなたが本気で俺に『新しい公爵令嬢の婚約者』で『異国の王族』を演じて欲しいというのなら、俺はきっとあなたに非礼な態度も取るだろう。覚悟はできているのかい」
「……も、もちろんです」
「本当に?」
くすくす、とクォーツは笑っている。
わたしは意地になって前のめりになった。
「本当です」
「じゃあ、さっそく今夜から夫婦ごっこを始めよう」
クォーツは寝台の上に腰掛けると、トントンと横のシーツを手で叩いた。まるでわたしに「おいで」と言わんとばかりに。
「クォーツ、それはどういう」
「夫婦はいっしょに寝るものだろう」
「~~~~~~~っ!?」
わたしは口を手に当てて、顔を真っ赤にした。
叫び出さなかったことを褒めて欲しい。
頭が沸騰しそうなほどに、熱い。
「な、なななななな」
「驚くほどのことじゃないだろう。お父上を騙すために、真に迫った夫婦の演技をするんだ。これくらいのことができなくては」
クォーツはこちらを挑発するように、くすくすと笑っている。
「それとも、そういう覚悟はなかったかい」
そこでようやくわたしは気付いた。クォーツはわたしを諦めさせようとしているのだ。奴隷と夫婦ごっこなんて碌なもんじゃない、と。
彼なりの優しさだということは理解した。
彼の意図も分かった。
しかし、同時に腹が立った。
「覚悟がないはずがありませんでしょう!」
寝台の上に勢いよく飛び込むと、そのまま布団の中に潜り込んだ。
布団の隙間からクォーツを睨みつける。
「さあ、クォーツ。明かりを消してちょうだい。いっしょに寝ましょう」
「そうかい。それじゃあ、遠慮なく」
燭台の明かりが消えれば、窓からの月明かりがいっそう明るく感じられた。
暗闇に沈んだ室内は、深海の海底を思わせる静けさだ。
ざわり、と衣擦れの音。続いてあたたかな感触。クォーツが布団の中に入ってくる。
「月が綺麗ですね。……と言っても通じないな」
クォーツがわたしの耳元で囁いた。
そのまま、背中から抱きしめられる。
くすぐったい。身体が熱い。
「どういう意味です?」
「俺の故郷の言葉で、意味は――秘密にしとく」
心臓がどきどきして、弾けてしまいそうだ。
きっと今のわたしは耳まで真っ赤だろう。暗闇がそれを隠してくれていることを幸運に思う。
「寝るのにわたしを抱きしめる必要はありませんよね」
「夫婦なら当然、これくらいのことはするだろう」
「そういうものでしょうか」
「さあ。俺も結婚したことがないから分からないけど」
瞬間、わたしの頬が緩んだ。
彼が未婚というだけで、なんでこんなに嬉しいんだろう。確かに、クォーツが故郷に妻子でも残してきていたら、と心配はしていたけれど、この感情は安心というにはあまりにも――
「そろそろ眠れそうかい」
「あなたが話しかけてくるから眠れません」
「ドキドキして眠れないんじゃなくて?」
「分かっているのなら、わたしから離れてください」
「夫婦を演じる気がなさすぎるだろう」
そんな不毛を言い争いをいつまでしていただろう。
いつの間にか、わたしは彼の腕の中で眠りに落ちていた。
◇◇◇
「眠れない」
寝ぼけたわたしの耳に、誰かの声が届いた。
「自分から言い出したが失敗した」
誰の声だろう。男のひと。
ふよふよとした意識の中で、わたしは手近な枕を手に取ると、思い切り抱き寄せた。あたたかい。でも枕にしては少し硬い気がする。
「……我慢するこっちの身にもなってくれ」
頭に、やさしい感触。
誰かに頭を撫でられたことは、分かった。
「おとうさま?」
寝ぼけまなこのまま問うたが、返事はなかった。
そのままわたしは、あたたかな枕を抱き寄せたまま、深い眠りへと落ちていった。
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