3.馬車にて
「クォーツ、お願いします。わたしの夫になってください」
馬車の中で向かい合いながら、わたしはクォーツに薔薇水晶の瞳を向けた。
一方のクォーツはというと、困ったような驚いたような、曖昧な笑みを浮かべている。
「整理させてください。つまりローズ様は、俺に夫のふりをしてほしいということですか」
「そうなります」
「余命いくばくもないローズ様のお父上が亡くなるまでの間、という期限付きで」
「ええ。そのあとのクォーツは自由の身です。しばらく遊んで暮らせるだけの金貨もお渡ししましょう」
「俺にとってはこんな条件の良い話はありませんし、断れる立場にもありませんが」
そう前置きをして、クォーツはぼさぼさの黒髪を掻き上げた。
「奴隷にローズ様の夫が務まるわけがありません。この国での学も教養もない。お父上である公爵様の目も節穴ではないでしょう」
当然の返答だった。
けれど、わたしは臍を曲げたよう子供のように、あからさまに眉根を寄せるしかない。
どうもクォーツの前だと、わたしは上品な公爵令嬢ではいられない。
「そこをやってもらわねば困ります」
「無茶を言いなさる。どこぞの貴族のご令息にでも頼めばよろしいでしょう」
「王太子の元婚約者という微妙な立場のわたしのお願いを聞いてくれるような、奇特な御仁が貴族にいるはずもありません。使用人は全員、父に顔が割れていますし、口の堅い奴隷を見繕うのが1番手っ取り早いと思いませんか」
「そう言われれば否定できませんが……。ローズ様は、おいくつですか」
クォーツは困り果てた表情を浮かべながら、諭すようにわたしに問うた。
わたしの眉根はますます寄ってしまう。
「17歳です」
「俺は28歳です。年の差がこれだけあると、体裁が悪いでしょう」
「あら、思ったよりも若いですね。年若い女は年上の殿方に憧れを抱くものです。問題ありません」
「お戯れを……。それでは、俺のこの目はどう説明なさるおつもりですか」
クォーツは、白濁した自らの左目を指差した。
光を宿さぬどろりと濁った瞳は、見ているだけで痛々しい。
おそらく衛生環境の悪い場所に治療もされずに長く置かれていたのだろう。奴隷にはよくあることだけれど。続く言葉は私にも予想ができる。
「こんな目をした男は、公爵令嬢の夫に相応しくないでしょう」
「眼帯をすれば済む話です。そうですね……クォーツ、あなたは遠い異国の王族です。領地で狩猟の折、不注意で左目を怪我してしまった。その療養のためこの国を訪れた際、わたしと恋に落ちるのです」
「お伽噺のようなストーリーですね」
「他人事のように言いますが、それを演じるのですよ」
「荷が重いです……が、」
わたしの薔薇水晶の瞳が微かに潤んだのを見て、クォーツは目尻を下げた。
「分かりました。やりましょう。父親思いの優しい主人のためなら、夫にでもなんでもなって差し上げます」
「ありがとう。感謝します」
「それを言うなら、俺も檻と鎖から自由にしてもらったことに、礼を尽くさねばなりません」
馬車は郊外を抜けて、人々の行き交う街中を軽快に走ってゆく。
車窓から吹き込む風は冷たく、冬の足音を感じさせた。
しばしの沈黙のあと、クォーツは重い口を開いた。
「……すみませんでした。奴隷の身分であなた様を困らせるようなことを言ってしまった」
「いいんです。どうせわたしを思っての物言いでしょう」
「奴隷相手に夫婦ごっこをする公爵令嬢、などと風聞が立つ可能性もあります。あなた様のこれからの人生を、俺が傷をつけるのではと考えると。どうにも」
「おやさしいんですね」
「その言葉をそのままお返しします。ローズ様はわたしを買ったのです。奴隷に『お願い』などせず、『命令』すればいい話でしょう」
「あら、それもそうですね。いま気付きました」
わたしとクォーツは顔を見合わせ、くすりと笑い合った。
馬車は街中を抜けて、なだらかな丘陵を登り始める。
「ローズ様、この馬車はどこへ向かっているのですか」
「わたしの屋敷です」
「奴隷の身分で公爵家の屋敷に踏み入るかと思うと、足がすくみますね」
「何を言うのです。これからあなたは公爵令嬢の夫になるのですよ。胸を張ってください」
いいですか、と。
わたしはクォーツの胸をツンツンと人差し指でつついた。
「屋敷に着いたら、敬語は禁止です。あなたはわたしの夫になるのですから。ローズ、と呼び捨てにすること。愛しい人を呼ぶように。ハイ」
「ろ、ろーず」
「ぎこちないですね。もう一度。ハイ」
「ローズ」
「よろしい」
クォーツはバツが悪そうに黒髪を掻いて俯いている。
すこしやりすぎたかしら、と思ったところで、彼は顔を上げた。
黒髪から覗く瞳が、まっすぐにわたしを捉える。
彼の表情は、出会ってから初めて見る真剣なものだった。
「愛しいローズ」
低い声が、わたしの耳朶をくすぐった。
クォーツはわたしのすぐ横、座席の背もたれに手を伸ばす。
そのまま前のめりになって、わたしに覆いかぶさるような態勢をとった。
距離が、近い。吐息が届く距離。くらくらと眩暈がした。
「あまり大人をからかうものではないよ。……ね?」
黒髪から覗く穏やかな瞳に見下ろされれば、心臓が跳ねた。
大人の男性とこんなに近くで会話をする機会など、今までの人生で父と使用人以外になかったのだ。
だからこんなこと、本当に、初めてで。
わたしは、息を整えるため大きく深呼吸をする。
「……クォーツ、距離が近いです」
「あはは。ドキドキしましたか」
「主人をからかうとは良い度胸です」
「夫婦生活の良い予行演習にはなったでしょう?」
満足げにクォーツは笑うと、わたしと距離をとって座席にどっかりと座り込んだ。
「もう知りません」
わたしはぷりぷりと頬を膨らませ、車窓に目を移した。
都市部を抜けて、のどかな田園風景へ。
なだらかな丘陵の頂上に、白亜の屋敷がそびえ立っている。
わたしの家は、すぐそこだ。