13.ドレスを
なだらかな丘陵を、1台の馬車が走り抜けてゆく。
車窓に流れてゆくのどかな田園風景を目で追いながら、わたしは同乗者に気付かれないよう小さな溜息を吐いた。
わたしの夫になってください。
この馬車でクォーツにそうお願いをしたあの日が、なぜか遠い昔のことのように思えてくる。
馬車の中で、クォーツとふたりきり。
あの日とシチュエーションは全く同じだというのに、わたしはこの狭い密閉空間でクォーツと目を合わせられずにいた。
なし崩し的に結婚式の準備が進もうとしていることに、罪悪感があったからだ。
父が病から回復した今、「期間限定の偽の夫婦関係」という前提が成立しなくなっていた。
わたしが「本当の夫婦になってください」と言えば、彼が本人の意思とは関係なく首を縦に振ることは想像に難くない。
元奴隷という立場から、クォーツは結婚を断ることができないだろう。
それは、嫌だった。
権力を振りかざして婚姻を迫るだなんて、わたしの道義心が許さない。
ならば、父に本当のことを話して、クォーツを自由にさせてあげるべきだろうか。
それが1番正しいのは、分かっている。
当初の予定通り、お礼の金貨を渡してお別れをすればいいのだ。
……それができないでいるのは、わたしはひどく我儘な人間だからだ。
毎夜、クォーツの部屋で紅茶を飲むひとときを、どうにも手放し難くて。
クォーツを自由にすることを、躊躇っているのだ。
ひたすらに結論を先延ばしにして、駄々をこねる子供。
それが、今のわたしだ。
たった一言、クォーツに問えばいいのだ。
本当にわたしと結婚したいと思っていますか、と。
クォーツの気持ちを確かめる勇気もなく、今この瞬間も、わたしは無言で馬車に乗り続けている。
もしかすると心の底では、このままなし崩し的にクォーツと結婚式を挙げることをわたしは望んでいるのかもしれない。
黙っているだけで、クォーツはわたしの花婿になってくれるのだから。
卑怯で、卑屈で、傲慢な自分の心根に初めて気付き、わたしは自分自身に心底辟易としていた。
「目的地はもうすぐなのかい」
クォーツの問いかけに、わたしは我に返った。
堂々巡りの思考に、蓋をする。
「あと30分ほどでしょうか。今日は公爵家御用達の仕立屋に参ります」
「確か、ローズのドレスを見繕いに行くんだったよな」
「ええ。ふたりの式に使うドレスですから、クォーツの意見を取り入れませんと」
わたしの言葉に、クォーツは苦笑を浮かべた。
「この国の貴族の流行とかセンスは、俺には分からないぞ。使用人を連れてきた方が大いに参考になる意見が聞けるんじゃないのか」
「……クォーツは、わたしと出かけるのがお嫌ですか?」
「そんなわけないだろう。だったら、こうして馬車に乗っていない」
「でしたら、いいではないですか。デート気分で式の準備を楽しんでくださいな」
途端に、クォーツの笑みが悪戯なものに変わった。
彼のこんな表情を、久しぶりに見た気がする。
ずっと何かに遠慮しているようだったから。
「デート気分ねえ。だったら」
クォーツの手のひらが、そっとわたしの手のひらに重ねられた。
ひゃ、とわたしは小さな悲鳴を上げる。
「手を繋ぐくらい、良いだろう」
「別に、良い、ですけど……」
心臓がどきどきする。クォーツの顔をまともに見ることができない。
「ローズの手、あたたかいな」
「クォーツの手が冷たすぎるだけです」
「そうかな」
わたしは、クォーツの手を振りほどくことはしなかった。
本当の恋人みたいに手を重ねながら、仕立屋に到着するまでそうして手を繋ぎあっていた。
◇◇◇
異国の地より交易でやってきた、上等なシルク布の生地を肌に合わせる。
「クォーツ、この生地はどうですか。仕立てたら素敵なドレスになりそう」
「ざりざりしていて着ぶくれしそうだ。華奢なローズに似合う生地じゃないよ」
ははあ、と仕立屋が恐縮して頭を下げる。
気を取り直してわたしは、仕立屋の提案したドレスのデザイン帳を捲り、ページを開く。
「じゃあクォーツ、このようなデザインのドレスはどうでしょう。かわいらしいと思うのですが」
「背中が大胆に開きすぎじゃないのか。肌の露出が多すぎるように思う。別のデザインを見せてくれ」
「もーーーーーっ! クォーツったら注文が多すぎます!」
わたしは声を張り上げ地団駄を踏んだ。
こんなはしたない姿、クォーツ以外には正直見せられない。
仕立屋の応接室にて、こうやって不毛なやり取りをもう2時間以上繰り返している。
「ドレスの生地も決まらない。デザインも決まらない。こんなんじゃいつまで経ってもドレスが仕立てられません!」
「正直に感想を言えとローズが言うから、俺は正直な感想を述べているだけだよ」
「正直にもほどがあるでしょう。こんなに似合わない似合わないと言われ続けたら、さすがにわたしのハートも傷つきます」
「ちょっと待ってくれ。逆だよ、逆逆」
クォーツは慌てたように手を振った。
「全部似合うだろうよ。本当だ。どんな生地だって、どんなデザインだって。ローズの容姿なら、似合わないドレスなんて存在しないだろう。ただ逆にドレス側の粗が目立つわけで……」
「心にもない世辞を言う場面ではありませんよ」
「世辞じゃない。……容姿なんて褒められ慣れているだろう」
「それは。わたしよりも容姿の良いかわいい婚約者が出来たからと、王太子殿下に婚約破棄されたわたしに対する、何かの嫌味ですか?」
「違う違う違う。困ったな。無自覚か」
困り果てたようにクォーツは頭を掻き、わたしに向き直った。
「屋敷の使用人たちから、あなたが何と言われているか知っているかい」
「……いいえ」
「まるで陶器人形のように人間離れした美しさを持ったお方。妖精のような恵まれた容姿をお持ちになった完璧な淑女。すごい褒め称えられようだ」
「そんな話、はじめて聞きましたが」
「使用人の立場では直接は言えないだろうな。じゃあ貴族の男どもからは、よく言い寄られたりしたんじゃないのか」
「わたしは生まれた時から王太子殿下の婚約者でしたので。そのような無謀な殿方はおりませんでした」
「じゃあその元婚約者の王太子殿下とやらには褒められなかったのか」
わたしは眉根を大きく寄せて、溜息を吐いた。
心なしか声が震えてしまう。
「わたしがそのように王太子殿下に褒められる容姿と性格をしていたら、婚約破棄などされなかったでしょうね」
「……それは。その王太子とやらが糞野郎だな。逆に婚約破棄されて幸運だ」
「しっ、クォーツ。不敬ですよ」
「いいんだよ。ローズを悲しませた唐変木だろう。じゃあ、俺が言う」
クォーツは大きく息を吸って、それからいつになく真面目な表情でわたしを見つめた。
「ローズ。あなたは本当に可愛らしくて綺麗なお人だ。どんなドレスでも似合ってしまうから、逆に俺にはあなたに似合うドレスを選ぶことができないんだ」
一語一句、強調するようにクォーツは言う。
世辞ではないと、口調と声音で示すように。
人からこんなに褒められた経験なんて、まったくなかったものだから、わたしは顔を真っ赤に染めて俯いてしまった。
「ええと、クォーツ」
「なんだい」
「嬉しかったので、もう1度言ってください」
わたしの言葉に、クォーツが微笑んだ。
顔を上げなくても、気配で分かる。
「……あなたは本当に可愛らしくて綺麗なお人だ」
「もっと」
「綺麗だ、ローズ」
「もっと」
「可愛いよ、ローズ」
「もっと」
「あなたは妖精のような美しさだ」
ふと俯いていた顔を上げると、今度はクォーツの顔が真っ赤になっていた。
「なんであなたが照れているんですか」
「そりゃ、照れもする。こんな口説き文句みたいな台詞を吐き続けたのは人生初めてだ」
「本心なら恥ずかしいこともないでしょう」
「……それ、本気で言ってる?」
そんなやり取りをしていたら、時間はあっという間に過ぎ去ってゆく。
結局、式のドレスの生地を決めるのに7時間、デザインを決めるのに5時間掛かった。