1.婚約破棄
左手の薬指にきらめく、薔薇水晶の結婚指輪。
それは、幸せな結婚の象徴。
幼い頃から幾度も繰り返し見た夢だ。
きっとその指輪をわたしの薬指に嵌めてくれる未来の旦那様は、いま目の前にいる殿方なのだと、そのときまでわたしは信じ切っていた。愚かにも。
◇◇◇
「すまない、ローズ。婚約を破棄してほしい」
急転直下、とはまさにこのこと。
婚約者のその一言から、わたしの人生の歯車は狂いだした。
わたしは公爵令嬢の当然の嗜みとして、いつもと変わらぬ上品な笑みを浮かべた。薄紅色の髪を揺らし優雅に微笑むわたしの姿は、今しがた婚約破棄を言い渡されたとは思えぬほどに、凛とした佇まいだったはずだ。王太子の婚約者として相応しい淑女となるよう、そう教育されてきたのだから。
「モンド殿下の判断は当然のことでございますわ」
「そう言ってくれるか」
「政治的視点に立てば、父が倒れ病の床に臥した公爵家のわたしには力がありません。国の安定のため、よりよき相手を探すのは王族の務めでしょう」
気丈に言ってのけてはみたものの、心臓は痛いほどに荒れ狂っていた。
王太子の婚約者として蝶よ花よと育てられ、たった今まで幸せな人生が約束されていたのだ。父上が病床につき、後ろ盾を失いつつある自覚はあったが、まさかいきなり婚約を破棄されるとは思っていなかった。
見通しが甘かったといえばそこまでだが、白紙になった将来図に、ため息のひとつも吐きたくなる。
「わたしは父の看護に専念したいと思います」
あっさりとわたしが婚約破棄を承諾したことに、ほっとしたのだろう。
王太子は笑みすら浮かべてみせた。
父が倒れてからというもの、ただでさえ公爵派と宰相派の派閥争いが激化していた。
政争の材料にされないためにも、わたしはここで引くしかないのだ。
そう、必死に内心で言い聞かせる。
「ああ、ローズ。助かる。君の父上の快癒を祈ろう」
「ありがとうございます」
「実は僕の次の婚約者が決まっていてね。君を婚儀に呼びたいんだ」
わたしは大きく目を見開いた。
もう次の婚約者を見つけているというのか。わたしと婚約破棄をする前に。
沸騰するような怒りに、悟られないよう拳を握りしめた。
「実に可愛らしい子なんだよ。菫色の瞳を潤ませて、僕に愛を囁いてくれる。天使とはあの子のためにある言葉だと僕は思うね。……ああ、もちろん。ローズ、君も可愛いよ。あの子が天使のように可愛すぎるだけで」
たおやかな笑みを浮かべるわたしの眉が、ピクピクと痙攣した。
「僕の新しいフィアンセは遠い異国の王女だ。もちろん公爵家令嬢――君よりも出自が上で、僕の相手として身分も申し分ない。来年、盛大に結婚式を挙げる予定だから、ローズにも祝福してほしくてね。僕がよりよい相手を見つけたんだ。喜んでくれるだろう?」
自分の頬が、盛大に引き攣るのが分かった。
相槌を打つ愛想さえ、わたしは失ってしまう。
「父上が倒れて政治的後ろ盾を失った上、器量も僕の新しいフィアンセに負けている君と、僕が結婚する理由は最早ゼロなんだ。君が分かってくれて本当に嬉しいよ」
ぷつん、と頭の中で何かが切れた音がした。
婚約破棄を申し出されて数十秒後に、元婚約者の婚儀に呼ばれ、あまつさえ侮辱される女など、国全土を見渡してもわたしくらいのものだろう。今まで婚約者として敬愛を持って王太子と接してきたが、まさかここまで礼儀知らずの男だとは思っていなかった。
「モンド殿下」
わたしは公爵令嬢らしく、いっとうに上品で愛らしい笑みを浮かべた。
「ごめんあそばせ」
次の瞬間。
強烈な右フックが王太子の頬を捉え、彼の華奢な身体がゴロゴロと赤い絨毯に転がった。信じられないという表情で頬を押さえながら、元婚約者はこちらを見上げている。
当然だ。今までのわたしは、蚊も殺せないような顔をした、愛らしい公爵令嬢だったのだから。
「これであなた様になんの未練もなくなりました」
「な、ななな……!」
「こちらから、王太子殿下など願い下げでございます」
「おい、待て」
「あなた様よりも素敵な殿方と、すぐにでもゴールインしてみせますわ」
薄紅色のドレスを翻して、わたしは王太子の前から立ち去った。
途中で「無礼者」だとか「僕より素敵な殿方ってどういうことだよ」とかいう声が聞こえた気がしたけれど、わたしは振り返らない。
今すぐにでも、婚活をスタートさせなければならないのだから。
きっと時間は多く残されてはいない。
◇◇◇
「お父様、ただいま戻りました」
わたしは先程の婚約破棄などなかったかのように柔和な笑みを浮かべると、病床の父に膝をついた。薔薇水晶にも似たわたしの瞳に、微かに暗い影が差す。指先の冷え切った父の手を取り、握りしめた。
「お加減は変わりませんか」
「ローズか。今日はいつもより調子が良いんだ」
「無理に身体を起こしてはいけませんよ」
「いいや、だいじょ……ごほっごほごほっ」
「もう、言ったではありませんか」
父が倒れてから、すでに3ヶ月が経過していた。食欲不振からはじまり、手足の痺れ、動悸、しまいにはベッドから起き上がれなくなってしまった。高名な国の医者たちは、「不治の病だ」「手の施しようがない」と口々に言う。
母を早くに亡くしてから、唯一の肉親であり、良き理解者であった父の厳しい病状。信じたくない、と強く思った。弱っていく父をただ見守るしかない自分の身を呪った。
子供の頃あれだけ大きかった父の手は、今や土気色で枯れ木の枝のよう。それがつらくて、悲しい。わたしはその暗い気持ちに蓋をして、柔和な笑みを父に向ける。
「お父様には、早く元気になってもらいませんと」
「そうだな。おまえの花嫁衣装を見るまでは死ぬわけにはいかない」
「もう、お父様ったら」
冗談めかして返しつつも、暗澹たる気持ちが心中に広がっていった。「おまえの花嫁衣装を見るまでは死ぬわけにはいかない」という台詞は、昔からの父の口癖だった。以前は軽い冗談だったそれが、父が病の床に臥したいま別の意味を持つ。
この様子では、父は長くは生きられまい。
将来を誓い合った王太子は、先程わたしに婚約破棄を申し出た。
花嫁衣装を見せぬままに父を天の国へ旅立たせでもしたら、わたしは国で1番の親不孝者になってしまう。それだけは、避けなければならない。
わたしは胸にある決意を秘めて、父の部屋を後にした。
「馬車の手配をして」
いつもより硬い表情を浮かべると、使用人にそう命じた。
「ローズ様。どこへ行かれるのです」
「奴隷市場よ」
「まさか。どんな御用があるというのです」
使用人は大きく目を見開いた。当然だろう。
奴隷市場と言えば国の最下層の人々が集う場所だ。
まかり間違っても、華やかな社交界の似合う公爵令嬢が立ち寄るような場所ではない。
「花婿を探しに行きます」
わたしの薔薇水晶の瞳は、爛々と赤く燃えていた。
薄紅色のドレスを翻し、颯爽と馬車に乗り込んだ。
初投稿でとても緊張しています。
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