無垢な人食い少年
何かを持っていたはずだった。何か、何かあったはずだ。あったはずなのに、何も思い出せない。自分は何処で、何をしていたんだっけ。誰と一緒に笑っていたんだっけ。
頭の片隅に何かが浮かんでいる。しかしそれを掴むことが出来ない。ふんわりとしたそれは、手を伸ばした途端に消えてしまった。
呆けていると、不意に訪れた頭痛で目を覚ます。再び開いた視界に映ったのは、自分よりだいぶ大きな男の人だった。
「いいかガキ、今日から俺がお前の父だ」
「おとうさん、ですか?」
「あぁそうだ。物分かりのいいガキで助かったぜ」
「分かってるな、子どもは父親の言う事を聞く。そして俺はお前の父だ。お前は俺の言う事を聞かなければならない」
分からない。分からないが、この人の言う事は聞かなければいけない気がする。心のどこかでは、何かが自分を呼び止めていた。しかし、そんなものに耳を傾けはしなかった。だって、目の前に「おとうさん」がいるから。自分は、彼に従うのだ。
雑に手渡された写真、そこに映る者はどこか懐かしく感じる。しかし、その正体は分からない。だけど、思い出せそうだ。もう少しで、手が届く。
「殺せ。それがお前の飯だ、ヘマしたら飯はなしになるぞ」
しかし、近くにあったそれはその一言でかき消された。
おとうさんが言うんだ。ころさないと。だけど、ころす? それは何だ? 何をどうすればいい? おとうさんを見ると、何か重い物を渡される。見た事のない、Lのような形をした黒いモノ。
「そいつに向けて、その引き金を引くだけだ。簡単だろ? お前みたいなガキにでも出来る事だ」
「行ってこい。すぐそばにいるだろうからなぁ」
背中を蹴られて、急いで外に出る。写真の人に向かって、この引き金とやらを引くだけみたいだ。それなら自分にでも出来る。
ころそう。おとうさんの為にも。その辺りをうろうろしていると、視界の中に写真の中の人が映った。
あの人だ。自分がそう思った矢先に、向こうもこちらに気付いたようだ。
「鏡月! あぁ良かった。さぁ、帰ろう。お母さんも心配しているんだよ」
不安そうだった表情が明るくなる。それが何かを言っているが、蝕まれた思考では、理解出来やしなかった。
子どもはおとうさんに言われた通り、その引き金を引く。
その行為が何を示すか、自分が何をしたのか、そんな事解る訳がなかった。
一つの激しい音を聞いてやってきたおとうさんは、とても嬉しそうに嗤っている。
「ギャハハッ、やっぱ陰壁産まれのガキはちげぇなぁ! 初めてで心臓ぶち抜いたぞ! どうだよ実の息子に殺される気分はよぉ⁈」
「おとうさん、これでいいのですか?」
「あぁ、上出来だ。よかったなぁ、飯ゲットだ」
それはまだ少しだけ生きているようで、悔しそうで、悲しそうで。なんでそんな顔をしているのだろうか。じっと見ていると、やはり何かを思い出せそうで、だけど届かなくて、しかし何故か、とても悲しい気がした。
「しっかり食べてやれよ、お前の父親だ」
言われた瞬間、その一瞬だけ何かを掴めた。掴めたところで、触れた瞬間に泡になって消えてしまったのだが。
先日、山砕を迎え入れた事でご一行は四人になった。超越者が連れて来いと言った奴はもう一人、鏡月と言う奴だ。
森の中にあるのは、陰壁の領土を守るように取り囲む川、鏡月とやらはそこらにいるみたいだ。そして、少しずつだが川の音が聞こえてきた。そろそろ警戒しなければならないだろう、超越者から生身の人間は危ないと言われたのだから。
山砕と尖岩の適当な会話を聞き流しながら進んでいると、尖岩の肩の上で座っていた猿吉の様子が突然変わる。
「キッ!」
「ど、どうしたんだよ? 何があった?」
「キャ、ウキャ! ッキー!」
とても必死に、来た道を指さしている。まるで帰ろうよと言っているみたいだ。
「なんと言っているのだ?」
覇白が尋ねると、尖岩は慌てる猿吉を宥めながらそれに答える。
「『そっちは危険だ』って言ってる」
これから会いに行く奴が危険かもしれない、という事は大方白刃から聞いていた。立ち止まって、川の方向をじっと見ると、向こうから誰かが歩いて来ている。
それを見た途端、猿はさらに騒ぎ出す。
「え、何、アイツなの?」
「ウキャ!」
そうだと言いたげな様子な猿。どうすると尖岩が白刃に声をかけようとすると、先に白刃は覇白から降りた。
「待ってろ」
そう言って先を歩く。そうすると、向こうが白刃に気付いたようだ。
瞬く間にその姿が見えなくなり、素早い動きで背後から襲い掛かって来る。しかし、それに気が付いていた白刃は術で小さな結界を張り、攻撃を受け止める。
「鏡月か」
訊くと、向こうも何かを察したようだ。
直ぐに川の方に戻るように逃げ出す。そりゃ超越者も捕まえることが出来ない訳だ。ほんの一瞬で姿が見えなくなった。
尖岩はまた追えと言われると思い、いつでも走れるようにしたが、今回はそれを言われなかった。
「どうするつもりなんだ?」
何か考えはあるのだろうかと、尖岩が訊いてみる。
「追いかけっこ。お前等、得意だろ」
その言葉は、尖岩だけではなく他二人にも向いていた。
聞かなかったフリは、多分出来ないだろう。幸いな事に、三人とも脚にはそれなりの自信があった。
鏡月は川の上流部に戻ると、その足を止めて息を吐く。逃げるのには慣れているからこのくらいでは何ともないが、それでも急な全力ダッシュは脚に来る。
「はぁ。お腹空いた……」
ここまでくれば直ぐには追ってこないだろう。また気配がすれば逃げたらいい。
川辺の岩に腰を下ろし、靴を脱いで川に足を入れる。水の冷たさが丁度良く心地が良い、これでこの空腹も多少は誤魔化せるだろうか。息を吐いて、吸って、水面を眺める。そうしていると、すっと横からピンク色の物体が顔を出した。
「ブヒ」
「わっ。なんだ、豚さんか。なんでこんなところに……」
「ブー」
思わず尋ねたが、豚が人の言葉を話せるわけもなく、また自分も豚の言いたいことが分かるわけではない。
しかし、豚が人の言葉を理解するか否かは分からない。
「早く帰ったほうがいいですよ。今、お腹が空いているんです」
一応注意をしてから、また水面に視線を戻す。それでも豚はその場に座って、落ち着き始めた。やはり豚も人の言葉を理解できないようだ。
ちらりと豚を見ればそれは中々いい肉付きで、段々と美味しそうに見えてきた。
とても、食べたくなってくる。
「……食べちゃいましょうかね」
なんの警戒も見せないそれに手を伸ばすその瞬間、後ろの草むらからこちらに向かってくる気配があった。
伸ばしていた手を引っ込めると、川を飛びこえ走りだす。素足のままで気配とは逆の方向に逃げた。
この気配は、先ほど喰おうとした人と一緒にいた奴と同じものだ。それなら、複数人で追ってきていると考えた方が良いだろう。あの時歩いていた人間は三人、避けられない人数ではない。
案の定、森の中でもう一人の気配がして、こちらに気付いて走り出す。あまり整備されていない森の道は複雑だ、追いつかれることはないだろう。
しかし、どちらも中々速い。常に動く気配は、きちんと自分を追い込めるように考えられているように思える。
「待てよ鏡月! 少しだけ、少しだけ話するだけでいいからさ!」
もうすでに近くまでいるみたいだ。声と気配が近くなってきている。そして右の方からもう一人、飛び出してくる気配があり、とっさに左にはける。
しかし、靴なしで走るモノではない。ごつごつとした石を踏んでしまい、大きな痛みが走った。
やはり体は鈍っているようだ。空腹も交じって脚が言う事を聞かなくなってきた。
一時的な術で空間を捻じ曲げて、誰も立ち入れないようにする。この術は長くは持たない。ついでに、無理に捻じ曲げたせいで結果行き止まりを作ってしまっているのだ。だから、バレる前にすることをして逃げなければならない。
この際何でもいい。人でもなくとも口にできる物ならと探すと、丁度良く森に人がいた。それは若い女人で、思っていた以上の絶好の獲物だった。
もはや何故こんな所にという疑問は持たなかった。今はただ、この空腹を埋めたかった。
気配を極限まで沈め、陰に潜む。相手は一人、力を持っている気配もない。奇襲をかけたその瞬間、女人の足元から風が巻き上がりその姿を変える。
「うむ、案外簡単に騙せるものだな」
女人は覇白が化けたものであった。腕を掴み即座に術を打ち込むと、鏡月の体から力が抜け、どさりとその場に座り込んだ。
騙し討ちだ。まさかこんな簡易的なものに引っかかるとは。動かなくなった体を無理やり動かそうとするが、どうやらそれは無理そうだ。
それなら無駄に体力を消耗するのは得策ではないだろう。そう考えた鏡月は大人しく、その場はかなり静かであった。その中で覇白が風を飛ばす。
「白刃は獲物が逃げれば逃げる程興が乗る質だ。己の身の為にも、早めに腹をくくるのをお勧めする」
恐らく、逃げようとしても逃げさせてはくれないだろうし。
鏡月を見ると、その体の中の力は異様な形を見せている。覇白はそれから目を逸らし、一つ注意した。
「それに、お前、これ以上人を喰えば本当に魔の者に堕ちるぞ」
真面目な顔でそう告げる。しかし、鏡月はピンと来ていない様子で。
「超越者にも同じことを言われましたね、それ」
その答えに覇白は思考する。魔の者に堕ちるのが嫌ではないのか? そんな奴がいるモノのかと考えていると、彼は思ってもいなかったことを言い出した。
「あの、ずっと気になっていたのですが……魔の者って、何ですか?」
「え?」
思わず短い声を漏らしてしまった。そうすると、鏡月は怪訝そうな表情で続ける。
「超越者が来るときも同じことを言います。魔の者に堕ちる前にこちらに来いと。しかし、そもそもの話として、魔の者に堕ちると言われても何がどうなるかの説明をされなければ理解が出来ません。説明もなしに追われては逃げるしかないのです」
なんと言えばいいのだろうか、まさか魔の者を知らぬとは。流石に予想外だった。
「えっと、普通はな、魔の者の存在は知っているモノなのだぞ。子どもの頃に言われなかったか? 夜は魔の者が動き出す時間だから出かけるなと」
子ども時代、誰もが経験ある脅し文句だろう。実際、魔の者と言うのは夜に活発化するという傾向はあるのだ。身の安全の為にも、出歩かない方がいいと言うのは確かだ。
だが、そこまで言われても鏡月は分からないようで、
「むしろ、お仕事は夜にするものではありませんか?」
しかも、こんな事を訊いてくるものだ。
「……そもそもな。人の幼子は、仕事をしない」
「え」
覇白の訂正に、本気で驚いた顔をしている。だが、ビックリするのはこっちの方だ。世間知らずも良い所だと。
「私も大概世間知らずとは言われる事があるが……お前程ではないぞ」
「魔の者というのは人の成れの果てだ。まともな精神を失い、人を襲う事だけを考える。しかも、その行為に何かを見出すわけではない。ただ襲って、殺して、それだけだ。やがては肉体と魂の調和が乱れ体までもを失い、影だけの存在となる。これが魔の者だ」
「それは、恐ろしいモノですね」
他人事のように恐ろしがるが、まさにお前がそれになろうとしているというのだ。鏡月が何をどこまで理解しているのか分からないが、もう一度教えてやる。
「まさにお前がそれになりかけているのだぞ」
「なんでですか?」
「人を殺すからに決まってるだろう。しかもお前はそれを喰らっているんだぞ、続ければ堕ちて当然だ」
その指摘に、鏡月はまさに仰天と言うべき程まで驚いた様子を見せた。
「食べないのですか⁉ じゃあ他に何を食べろと……」
「普通は食べないし殺さない! 肉なら他にも沢山あるだろ、あと野菜も食べろ」
大きな勘違いを指摘した所で、覇白が飛ばした風を追って白刃達がここまでたどり着いた。
「どうしたの? やけにデカい声だして」
どうやら声が聞こえていたようで、山砕が訊いてくる。
「あぁ、いや。こいつがとんでもない事を常識だと思い込んでいたもので……」
「とんでもない事ぉ? なぁ鏡月、何の事だ?」
「いや、私は幼い頃からずっと、人と言うものは殺して食べる物であると聞いていたのですが、どうやら違うようでして……やはり、そうなのですか?」
その問いかけに、尖岩は少しだけ固まった。
殺して食べるのは家畜くらいだろう。これが常識のはずだ。しかし、いざ問われてみるとそれが違った認識なのかもと思い始めてしまい、出したものは断定した形の答えにはならなかった。
「えっと、そうだな。うん、殺して喰うのは家畜くらいだな。え、そうだよな?」
「そこは自信を持ちなよ、間違いなくそれが正解でしょ」
彼等のこの反応を見る限り、やはり間違っていたのは自分の方だ。
それを理解した時、丁度良く体に力が戻った。立ち上がろうとするが、それを白刃に抑えられる。
「お前、一回吐け」
「え、何を?」
「とりあえず吐け。話はそれからだ」
何をどうしろと言うのだろうか。吐けと言われても、そんな簡単に出来る事ではないだろう。固まって動かずにいると、白刃は鏡月の胸を指で軽く弾いた。
その行為を不思議に思ったその次の瞬間、体の奥底から血がせりあがってくるような味がして、草原の方に避けてそれを出した。
白刃が何をしたいのかが分からかったのは、鏡月だけはなく尖岩と山砕もだった。その中で山砕が尋ねる。
「なぁ白刃、どういうこと?」
「寄生虫だ。吐けば出てくる」
答えられても理解は出来なかったが。
血を吐いた鏡月が目を開ける。吐き出された血の中に混じって、小さな百足のようなモノが十匹程、蠢いていた。
気色悪いなんて騒ぎではなかった。目にした瞬間に寒気がして、直ぐにその場から離れる。
「な、何なのですか? ムカデが……」
「百足じゃない。寄生虫だ、思考のな」
その言葉だけでも悍ましい。しかし、その実態は更に恐ろしい物だった。
「その蟲が持つ毒は思考を鈍らせる事が出来る。その卵を呑ませれば、体の中の血液に入り宿主の中で一年に一匹の頻度で繁殖し着々と宿主の思考を奪う。この手の手法は大分昔に使われていたモノだが」
「随分と古風なやり口で利用されていたみたいだな、鏡月」
白刃は彼の状況を察しているのだろう。説明したその口調は、心なしかいつもより優しい気がする。
事実を聞かされた鏡月は、青ざめていた。その理由は蟲が体内にいたのもそうだが、もっと別の事でもあるだろう。
白刃はなんとなくその理由も察する事が出来ていた。寄生虫を吐いた途端、奪われていた思考が元に戻る。そして、今まで行ってきた事とそれに本来抱くべき感情が一気に思い出されるのだ。
「実のところ、鏡月という名前を知ったのもつい最近でした。超越者が私の事をそう呼んだので、それで……」
「すみません。少し、水を飲んできます」
鏡月は一言断りを入れると川の方に走って行った。こんな惨い事実を耳にして気分が悪くなるのは致し方無いだろうが、心配だ。
「あれ、大丈夫なのか?」
「大丈夫ではないだろうな」
平然と答えられても困るが、尖岩もあれを見て大丈夫だとは思えなかった。
「行くぞ」
「川?」
「他にどこがある? 先行ってるからな」
そう言うと、白刃は間髪開けずに術で移動する。
「ちょ、勝手に行動するなよ!」
もう聞こえないと知っていても声は出ていた。
急いで三人も川に向かうと、そこでは白刃が川辺の岩に座って水面をじっと眺めていた。その先に、既視感のある長い髪の毛がプカプカと浮いている。
いや、訂正しよう。浮いているのは鏡月そのものだ、しかも体の前面が下側で。
「鏡月、なにしてんの?」
山砕が声をかけると、彼は水面から起き上がって髪を結いなおす。
「水遊び、ですかね?」
「なんでそっちが疑問形なのだ……」
「すみません。水を浴びてすっきりしました」
「それで、私に何用でしょうか?」
岩の上に座ると、髪に含まれた水分を絞り出す。問いかけられた事でまだ本題を切り出せていなかったと思いだし、白刃が簡潔に告げる。
「天ノ下に行く。ついて来い」
「天ノ下……それは、どこにあるんですか?」
鏡月が尋ねると同時に、全員の視線が白刃に集まる。意外にも誰もその道を知らないようだ。
「西だ」
「え?」
返された一言に、山砕は思わず声を漏らす。
「今まで俺は天ノ下を御伽噺の一つとしか考えていなかった。そして、超越者から言われた情報は、西にあると言う事だけ。それ以外の情報は教えられてないし、知らない」
恐らく、四人がその瞬間に思ったことは同じだっただろう。
「じゃあどうするんだよ」
ついでに、尖岩はそれを口にした。
「まぁ、誰かは知ってるだろ。期限はないし」
まずは御伽噺とされている天ノ下、別名「楽園」の場所探しになるのだろう。
無茶とかそういう事を言ってはいけない。思っても絶対に言うな。しかし、一回だけ言わせてもらおう。無理がある。
しかし、きっと大丈夫だろう。超越者のお導きがある限り、道は照らされているはずなのだ。……多分。
〇
昔から変わらず、堅壁のお屋敷から放たれる雰囲気はその名の通りに堅かった。それはもう、岩も砕けそうなほど。
「師匠、おはようございます」
「うむ、おはよう」
数多くの朝の挨拶の声に答える彼、大将もまた堅物である。ついでに石頭で物理的にも硬い。
歳は五十程であるが、今までの人生の中で女人に触れたことは数えられる程度、お陰で未だに独身だ。これから先もそうであろう。しかしそれに文句はない。己の背には守るべき堅壁の名があり、多くの弟子がある。これもまた充実した人生である。
厳粛な空気の中、不意に春風が吹く。
「おはようございます師匠。昨晩はよくお眠りになられましたか?」
「春風、おはよう」
長くきれいな白髪の、一目だけでは女人と思われても可笑しくはない程美人な青年。彼の名は春風、この堅い壁の中で唯一柔らかい風を持つ男だ。
「もう、師匠。そんな仏頂面じゃいつまで経っても女性に逃げられてしまいますよ? ほら、にっこりと」
「女人を求めてはいないのでな、これで問題はない」
「しかし、弟子に怖がられてしまいますよ? 師匠、子ども受けは悪いんですからね。あそこのお師匠は怖いからやだーって」
春風がほこほこと笑うと、大将は小さな苦笑いを浮かべ、「笑顔か」と呟く。
確かに、威圧のある仏頂面では幼い子どもに怖がられてしまうだろう。そう考えた大将は、試しに硬くなった頬をぐにっと持ち上げてみる。
「師匠、おはようございます」
「あぁ、おはよう」
振り向いた彼が見せた表情を目にした弟子は、咄嗟にこみ上げた笑いを呑み込むのに苦労した事だろう。
「師匠、朝から無理はなさらないでください」
「そうだな」
弟子はぺこりと頭を下げると再び廊下を渡っていく。色々と言いたげに春風を見ると、彼も堪えるように笑っていた。
「やはり貴方は仏頂面でいるのが一番だ。さっきの笑顔、面白いほど下手くそでしたよ」
「お前は、師匠に対しての遠慮と言うものを覚えた方が良い」
「正直言えば、貴方は師匠と言うより第二の父親でして……ふっ、ちょっと、さっきのもう一回お願いしますよ」
正直に白状したが、先程の不器用以外の何物でもないあれを思い出すと吹き出しそうになる。
大将は、そんな彼を多少不服そうにいなす。
「やらん」
「お願いしますよー。愛弟子の頼みじゃないですか、ね?」
春風のわざとらしいその言い草で、一瞬可愛いと思ってしまったのは彼が美人であるからだろう。
咳払いを一つし、気を取り直す。
「いいから、修行をしなさい。皆そろそろ始める頃合いであろう」
「それに、お前がここにいるのもあと少しなのだからな」
そう言って、彼は庭の方に体を向ける。
目に映る大きな庭木は特殊な木で、春は桜が咲き、夏は緑の葉を付け、秋には葉は紅葉となり紅く染まる。
この木の桜が満開になる頃だろうか、春風は結婚をする。美しい花の横に添えるのはやはり美しい花。春風と共になる彼女は、桜のように可憐な女人である。
「それもそうですね」
「式には来てくださいよ、師匠」
微笑んだ彼の、長い白髪が柔い風に揺られる。その様が妬けてしまう程に絵になるのだから、困ったものだ。
それから数日後、春風は結婚の為屋敷を抜けて行った。まとめた荷物を馬に乗せ、出発の準備が完了する。春風は見送るために門の前まで来ている師匠に微笑みかけた。
「ぼちぼち会いに来ますね」
「妻を持ったからにはそれ相応の責任を持つ。妻を放って遊びに来るなよ」
「では、妻も連れてくればいいのですね。分かりました」
言葉に込めた意味を見事にくみ取ると、今度は春風が冗談めいた笑みを浮かべる。
「師匠、私がいないからって悲しくならないでくださいよ?」
「ならん。弟子なら腐るほどおるわ」
ふいっと視線をそらし、大将は答える。その後ろには冗談抜きに腐る程にいそうな弟子たちが、春風の見送りに集まっていた。
「では、お世話になりました」
「あぁ。精進しなさい」
とある春の日の話。馬に乗って新たな道を進みだした弟子を見送る師匠は、少しだけ微笑んでいるように見えた。
それから年は三回程周った。春風は時折妻の桜花を連れて堅壁の屋敷に訪れ、師匠に近状報告や他愛もない世間話をしていた。他の弟子たちの訓練に混じって励んだり、指導したりもしていて、大将は彼等が戻って来る度に微かに柔らかな笑みを浮かべていた。
そんなある日、春風と桜花はいつもと違う様子で屋敷に訪れた。
「師匠、実は私たちに子どもが出来たのです」
春風がそう告げると、隣で桜花が照れながらも満更でもなさそうにはにかむ。そんな彼女に促され腹に触れてみると、そこには確かに命の気配を感じた。
「性別はもう分かったのか?」
「はい。男の子だそうです」
嬉しそうに答えるその夫婦の様子は、師匠からしても微笑ましく思った。
「それで、名はもう決めたのか?」
「その事なのですが、師匠。貴方に決めて欲しいのです」
春風のその申し出に、師匠は意外な顔をする。
本当に良いのかと桜花に目をやると、彼女は愛らしい笑みを浮かべて答えた。
「はい、春風様のお名前もお師匠様がお決めになったと聞きました。ですから是非、私たちの子にも名を授けて欲しいのです」
「分かった、考えよう」
春風の名は、師匠がまだ弟子の立場であった時、同輩から頼まれつけた名だ。あの時は丁度、初めての春風が吹いた頃だったか。だからその名を付けたのだ。
では、今回はどうしようか。そう思った時、ふと春風が持っている刀に目が行った。
幼い春風が母親から譲り受けたその刀の名は「白龍の聖刃」と言う。その刃は穢れの一点もない純白の刃であり、彼は大層気に入っていた様子だった。
「シラハ。白い刃と書いて白刃だ」
これまた安直だったかと思ったが、春風も彼奴の子のようだ。安直ながら鋭い三文字の響きを気に入ったようだ。
「それは良いですね!」
「私もいい名前だと思います。ふふ、お師匠様もお爺ちゃんですね」
「はは、妻もいないのにお爺ちゃんか」
「そう呼ばせる事にしましょうか? 大将お爺ちゃん。いいじゃないですか、私からしても第二の父なようなものですし」
「うむ……」
一瞬だけ悪くないと思ってしまった自分を頭の中で叩き、咳払いをする。
「春風、子が出来れば更に責任は重くなるぞ。しかと受け止め護れ。門下を抜けたとは言え、堅壁の教訓を忘れるでないぞ」
「『人の道外れず成す事を成す』ですよね、師匠。ご安心ください、こう見えて腕には自信があるので」
お腹の子が生まれるまであと数か月。夫婦は勿論、師匠も密にそれを心待ちにしていた。弟子に子が産まれる、なんとも喜ばしい事ではないか。
自室にて、飾った写真に目をやる。そこには若かりし頃の自分と、春風によく似た顔立ちの黒髪の男とそれに見合う美しい白髪の女人が仲良さげに映っている。
「……お前の息子はよくやっている。私の、自慢の弟子だ」
「子の成長も見届けずに逝きおって。お前はどこまで自由人なのだ」
彼のその言葉に返事をする者はいない。しかし何となく、「悪かったよ」と小さく笑いながら答えるその声が、耳の奥底で蘇った気がした。
そして迎えたその日。産小屋の前でうろうろと落ち着きなく歩き回る春風は、今か今かとその時を待っていた。
夫は子が生まれるまで小屋に入ってはいけない。生命が生まれる瞬間というのを目にしていいのは、その母体と世の超越者のみなのだ。
落ち着く事無くただ時間をつぶしていると、小屋の中から赤子の泣き声が聞こえた。
「桜花! 産まれたのか?」
「春風様、産まれましたよ。私たちの子です」
その報告を聞き小屋の扉をあけると、妻は嬉しそうにその子を抱えている。
「ふふ、綺麗な白い髪。春風様似でしょうかね?」
「あぁ。しかしこの可愛さは桜花似でもあるだろう」
「まぁ、春風様ったら。口がうまいんですから」
産まれたばかりの赤子は両親の仲睦まじい姿をじっと見て、きゃっきゃと笑う。母親となった桜花は、そんな我が子に微笑みかけた。
「白刃、今日から私がママよ。よろしくね」
そうすると、驚くことに我が子はぱっちりとした瞳で母親を見つめ、それを呼んだ。
「まぁま?」
「おぉ! これは凄い」
「えぇ! きっと超越者のお導きです」
「そうだな」
この子は凄い子だ。小さな手を握ると、子はふにゃりと笑う。とても愛らしい子だ。小屋の中には、和やかな空気が流れている。
ただ、どの時代にも幸せを奪うモノはいるようで。
「お邪魔しますぜー旦那」
上がりこんできたその声。入口の方を見れば、ジャガイモとゴボウのような二人の男が、下卑た笑いを浮かべて上がりこんで来ていた。
「誰だ」
「誰だか、へぇ高貴なお方はやはり世間知らずだ事」
ゴボウ男が嗤うと、そこで思い出した。恐らく、魔潜の奴等だ。彼等の目的が何か、そんな事はこの時点で大方察する事が出来る。
「春風様……」
「大丈夫だ、桜花」
怯える妻を背に隠し、刀を抜く。相手は刀も何も持っておらず、それを扱えるようにも思えない。産まれたばかりの子の前で人を斬るのは忍びないが、最悪それも致し方無いであろう。
「へぇ、こりゃ怖い。おい、ガキと女は金になる、傷付けるなよ」
「分かりやした親分!」
ジャガイモ男がゴボウ男に返事をすると、懐とから何かを出してくる。刀やその類いのモノではなかった。見た事のな、黒い物体だ。だが、それが武器であることは間違いない。どうとでも出られるように構えるが、ジャガイモ男ははちきれんばかりに口角を上げて、黒いそれに指をかけた。
その時、小屋の中に鋭い音が響く。それと同時に、春風の身が倒れた。
「春風様っ!」
「やりましたぜ親分!」
「こりゃぁいい! 異世界からの品だと言うから怪しんでいたが、間違いなさそうだ!」
男たちは下品に笑う。そんな二人は意ともせずに、桜花は春風の手を取る。
打ち込まれた小さな弾は魂の宿り場所、心臓に入ったようだ。
「春風様、そんな……春風様!」
「おっと、黙りな嬢ちゃん。命が惜しければガキを渡しな、大人しくしてりゃ悪くはしねぇ」
ゴボウ男が銃を向け、そこに意識が行った一瞬で子供を奪われてしまった。
子どもは異変に気付いて、わんわんと泣きだす。そしてママとパパに助けを求めるように手を伸ばした。
その子が普通の赤子と違う事は、流石の外道も理解したそうだ。ジャガイモ男は嬉々として笑い、ゴボウ男に告げる。
「親分、こいつ一段と高く売れますぜ!」
「こっちの女も中々上球だ! 今日は儲かったなぁ」
下衆な笑い声に、桜花の中で沸々と怒りが沸き上がる。銃を向けられていたが、そんなものは今この怒りの前では無い物と同じだった。
「返しなさい……」
「あ?」
「返しなさいと言っているの!!」
今まで見せた事のない形相で男共を睨み、声を荒げる。
「それは私と春風様の子供よ! お前たちのような下衆の外道共が触れていいものじゃないわ!」
「はっ、威勢のいい女だ事。女は女らしくしおらしくしてなぁ!」
「貴方のような人に女のありようを解かれる筋合いはないわ! 貴方こそ男の風上にも置けない、獣未満じゃない! なんとも嘆かわしい、貴方のような人間が生きているからこの世は穢れるのよ!」
「な、なんだとぉ……大人しくしていりゃよくしてやったのによっ!」
頭に血が上ったジャガイモ男は、その引き金を桜花目掛けて引く。先程の同じ鋭い音が響くと、部屋は一気に静寂が訪れる。
「おい、女は殺すなと言っているだろう」
「だって、親分」
「まぁいい。このガキであの女の分も稼げる。見ろ、この力。間違いなく超越者が選んだ魂だ」
ジャガイモ男とゴボウ男の下卑た笑いが立ち込める。笑い切ったところでずらかろうと小屋の入り口に向かうと、そこに如何にもお堅そうな仏頂面の男が現れる。
「下衆共が」
大きな怒りと圧を孕んだ声で、二人を牽制する。ゴボウ男がそれに怯み、後ずさった。
「げっ……堅壁のご当主じゃねぇか……」
「親分、どうしました? こんなジジイとっとと殺して逃げましょうよ!」
何も知らないジャガイモ男がそう言って、武器を構える。
「ジジイか。まぁ、強ち間違ってはいないが」
その瞬間、ジャガイモ男の顔が青ざめた。自分の構えたその武器がほんの一瞬、まさに瞬く間に、彼の年季の入った手によって握り潰されていたのだ。それを目にした瞬間に、ジャガイモ男もこの男がどんなに恐れるべき存在であるかを思い知る。
「裁きの時だ。人の道から外れに外れたその行い、一度の死では償えぬぞ」
その怒りは力を更に強大にし、二人の体に入り込む。
力が体の中で暴れ、激痛と共に魂が散らされる。痛みに怯える二人の心臓に刀を刺せば、あとは死ぬのみであった。
「……白刃」
子を抱え上げると、その子は分かってか分からずしてか、大将に笑いかける。それはまるで弟子を亡くした師を励ましているかのようで、そして、失った己の両親の事を見ないようにしているかのようで。
「師匠! 春風殿と桜花殿は……」
遅れてやって来た数人の弟子が小屋に乗り込む。二人の男の死体は蹴とばし、兄弟子である春風に駆け寄った。
「そんな、春風殿……あんな、あんな下衆の輩にやられたのですか。嘘ですよね……? ねぇ、春風殿!」
「……やめろ」
必死に声をかける弟子を止める。
「師匠……だって。春風殿は、お強かったのに」
「卑怯を前に、強さの歯が立たない事は珍しい事ではない」
もう、手遅れなのだ。
大将の目に映ったのは、散った二輪の美しい花。春のように暖かだったそれは、もう既に温もりを無くしている。
「その子は屋敷で育てる、至急乳母を手配しなさい」
「今護れるものが優先だ。分かっているな」
「……承知しました」
弟子は俯いたまま赤子を受け取り、先を急ぐ。そうして、小屋の中には師である大将だけが残った。
少しの沈黙の後、彼は春風の横にひざを折る。
「護れとは言ったが、お前の命があってこそだったのだぞ。馬鹿者が……」
「お前らの子は私がしかと育てる。だから、安心して眠ってくれ」
告げると、師匠と呼ばれた彼は小屋の外に出て弟子たちに指示を送る。二人の供養と、今度の話であった。
彼がその場を後にした後、残っていた弟子達は話した。
「師匠も、泣くのだな」
「当たり前だろ。春風さんの事、すごく可愛がっていたじゃないか」
互いに顔を合わせる。その顔は師匠の事を言えずに同じであり、苦笑いを浮かべた。
もう直ぐ、春が終わる。
◆
ハロー!
なぁに驚いた顔しているのさ、君の所の言葉だろ? 知ってるよ! なんてったって僕は全てを超越する、超越者だからね。
なんか腑に落ちなさそうな顔をしているねぇ。あ、分かった! ハローはニホンジンが使う言葉じゃないって言いたいんだろ? それも知ってるもんねー。イギリスジンとかが使うんだろ?
え、ニホンジンもたまに使う? ……もう、この僕の揚げ足を取るなんて、大した度胸だこと!
ん、何だい? 訊きたいことがあるの? うーん、内容にもよるけど、それ次第だな! 言ってごらん。
うん。うんうん。なるほどねぇ、天ノ下が正確にはどこにあるのかね。
じゃあ逆に、どこにあると思う~?
あはは、だから言ってるだろ? 等価交換だって。教えて欲しいのなら僕に君の事を一つ教えてよ! それで手を打ってあげる。
ふんふん……へぇ、君貧乳派なんだ。まさかそんな情報から教えてくれるなんてね、まぁいいよ、交渉成立! 教えてあげる。
と、言ってあげたいところだけども! 残念、教えません。
不満そうな顔してるねぇ、けどこれには理由があるんだ。ごめんね。
まぁさ、宝探しも地図があれば簡単じゃない。難しい方がいいだろう? まぁ、探すのは君じゃないけど。
じゃあその代わりに、僕の事を教えてあげるよ! え、そんなに興味ない? あー、ごめん、僕急に耳が悪くなちゃった。教えてあげるね!
実はね、僕ね、子育てがあまり得意じゃないんだ。何でだろうね、いつも失敗しちゃう。元気には育ってくれるんだけどね、如何せん元気過ぎるのさ。
あー、君今「そりゃそうでしょうな」って思ったぁ。ひっどいなぁー、僕だって頑張ってんだよー?
それに、君だって独りの子どもを放っては置けないんじゃない? あの子たちは非常に無力で、何も出来ないんだ。誰かの保護が必要で、その誰かがいないと生きる事すらできない。
本当に、何も……。
このお話やめね。僕、飽きちゃった。ほら、ご飯食べるから手洗ってきなよー。なんと今日はね、君の故郷の食べ物、スシを作ったんだ! 君も好きだろう? 聞いたよ、ニホンジンはみーんなこれが好きだって! ふっふー、心優しいこの僕に感謝しな!