小さなマギーの物語
夜空がキラキラと輝く。
この世界は、いつだって夜だ。月はいつも満月で、見上げる位置にある上に、雲がかかる事も無い。この世界では、理も導も無い。夜空に輝く星々も当てにしてはいけないのだ。
あれは、毎夜動いて姿が変わる。時々消えたり、新しい光が現れたりと忙しい。時々、月の周りをこれまでかと言う程にぐるぐる巡っているのもある。
ふんわりとしたカールの赤毛を弄りながら、小さなマギーは夜空を猫のニルと肩を並べて見上げていた。いつだって違う顔を見せる夜空を見上げる事が、マギーは好きだった。
「マギー、そろそろ寝る時間だ」
そう言ったニルは、隣で首からネックレスの様にぶら下げた懐中時計をパカリと開けていた。猫とは言っても、ニルの見た目はぬいぐるみそのものだ。ツギハギの黒猫の様相に、失くした目の代わりに、右目は大きめのボタンで補っている。そんなニルの手は、指先が割れている訳でも無いのに器用に懐中時計を支えていた。
「もうちょっとだけ」
「駄目だよ。明日は汽車に似る予定なんだ。遅刻してしまう」
ニルの変わらぬ表情に、マギーはお願い、と両手を合わせて見せた。
そうこうしている間に家の中の古時計がボーンと古めかしい音を九つ鳴らす。ニルの言う通り、眠る時間だ。
「ほら、時計も眠れと言っている」
「あれは、いつも鳴るじゃない」
ムスッと頬膨らませながらも、マギーはこれでもかと、じいっとマギーを睨むニルの目に耐えられず、しょんぼりと家の中へと入った。小さな家は、寝室も居間もキッチンも全部一緒だ。別れているのは、バスルームぐらい。大して広くも無いが、二人で暮らすには十分な大きさだ。
その家の中は、パチパチと暖炉が絶えず焚かれている。マギーもニルも、その暖炉に薪をくべた事は無いが、火が途絶える事なく光と暖かみを生み出す。玄関と室内のランタンも、常に光ったままだが、玄関口のランプは、光がぼんやりと薄暗くなっていた。
「明日は星を取りに行くんだ。汽車は混む。朝一番に乗らないと」
「ニルが人混みが嫌いなだけじゃない」
「君だって、一度蒸し風呂状態の汽車を体験したら、僕に感謝するさ。さあ、寝た寝た」
ニルは無理やりマギーの背を押すと、窓際に二つ並んだベッドの内の一つへと押し込んだ。ニルがギュッギュと布団を上から押さえ付けると、マギーは顔半分が布団から出ている状態になっている。さあ寝るよ。と、じっと見るボタンの目が言っていた。
マギーはむっとしながらも、逃げ場のないそこで、仕方なく瞼を閉じたのだった。
「マギー、朝だよ」
ニルの声で、マギーは目を開けた。朝と言っても朝陽が昇る訳もなく、真っ暗な外と、暖炉の灯りがあるだけで、朝とニルが言葉にしなければ、朝という感覚は湧いて来ない。
「いつか、うっかり昼夜逆転しちゃいそうね」
うーんと、ベッドの上で伸びをしながら、マギーが呟くと、ニルはすかさず言葉を返していた。
「何を言ってるんだ。星は夜にしか見えないのだから、間違える訳ないだろう」
「あ、そっか」
「それより、早く着替えて。最初の汽車は六時三十分発だ。出来れば、直ぐに出たい」
マギーは思わず古時計を見た。チクタクチクタクと振り子を揺らして時を刻む指針は、五時五十分を指している。
「朝ご飯が!」
本当は五時三十分には起きている予定だった。食べ損ねる事を考えたからか、ぐうと、マギーの腹の虫が鳴いている。
「サンドイッチを作ったよ。汽車で食べよう」
「流石、ニル」
「良いから着替えて!」
ニルに急かされ、マギーはパジャマを脱ぎ捨てると、出掛ける様にと用意しておいた服に着替える。ワンピースの裾を軽く払って、準備が出来たとニルを向くいた。
「後、ランタンよね」
「それは、僕が持って行くよ」
そう言った、ニルは既にサンドイッチと水筒の入った斜め掛けの鞄に空っぽのランタンを括り付け、まだ灯が途絶えていないランタンを手に、出かける準備は万端だ。
「マギー、行くよ」
「うん!」
マギーとニルは、戸締まりを済ませ、手を繋いで駅まで駆け出した。
朝一番の駅では、大きな荷物を抱えた熊、郵便を鞄一杯に詰めた山羊、中には、マギー達と同じように鞄にランタンを括り付けた兎の親子などがまばらに汽車に乗っていた。
空いている車内で二人は向かい合わせに座ると、発車と共にサンドイッチを取り出した。水筒の中の熱い紅茶をコップに注ぐと、何となしに旅の気分だ。
しかし、楽しいのはそこまでで、朝食を終えると何もする事が無い車内は退屈そのものだった。更には、ガタン、ガタンと汽車に揺られ、早起きと満腹感からか、眠気を誘われる。
「マギー、僕が起きているから、眠っていても良いよ」
「嫌よ、眠りたくないの」
眠るのは、つまらないもの。そう言って、眠たい目を擦りながら、外の景色に目を向ける。
流れる景色は、やはり暗闇だ。しかし、その中で、小さな灯りがチカチカと光っている。一つしか無かったり、いろんな色の灯りが集まっていたりと、星空に比べると侘しいが、それでも暇つぶしにはなる。ただ、数を数えると途端にうつらうつらと眠気に誘われ、その度に眠気を飛ばす為、マギーは首を大きく左右に振っていた。
『次は、テイメル……次は、テイメル』
雑音の混じった、車内放送が行き先を告げる。
「何処まで行くんだっけ」
「フラムだよ」
ニルは、鞄から汽車の定刻表を取り出し渡した。
「あと……四つ先ね」
「うん、一時間は掛かる。だから……」
「嫌よ、眠らない」
マギーは、意地でも眠らないと、プイッとニルから顔を背け、再び窓の外に視線を向けていた。
マギーの睡眠嫌いは、今に始まった事じゃない。
ニルは、マギーをじっと見て、
「……マギー、早くしないと忘れてしまうよ」
そう、ボソリと呟いたのだった。
『次は、フラム……次は、フラム』
歪んだ音声の車内放送から暫くして、汽車はフラムに停車した。去りゆく汽車を見送ると、二人は駅を出て目的地を目指して歩き始めた。
何も無い、田舎道。簡単な整地しかされていないそこは一本道になっており、目的の場所まで続いている。どうやら、車内で同じく空のランタンを持っていた兎の親子も、駅から続く同じ道で二人の前を歩いていた。
マギーが振り返ると、他にも何人か同じように空のランタンを荷物に歩いている。
「皆、同じかな」
「多分ね、此処は、星が落ちる場所だから」
ランタンの中身は、光を纏った星だ。星は、必ずフラムに落っこちる。それも、決まって湖目掛けて。
それを掬ってランタンに閉じ込めれば、光るランタンの出来上がり。
実は、これは近所の市場でも売っていたりするのだが、汽車の切符台二人分を合わせた値段よりも高く付くので、買うのはめんどくさがりぐらい。
どうせならと、皆、物見遊山のついでに星屑を拾いにフラムへと足を運ぶのだ。
一時間ばかりまっすぐ続く道を歩いた頃だった。
湖まで後僅かとなった頃、ふっと空が光った。その眩しさと言ったら、夜の世界で生きる者達の目を潰す勢いだ。誰もが目を開けてはおれず、手で目を覆っていた。
だが、マギーだけは違った。
まるで太陽だ。この世界に太陽など無いのに、マギーは不思議とそれを思い出していた。大きな箒星が大きな尾っぽを引いて空を瞬き、その軌跡から目が離せない。
それは、どんな夜空よりも美しい輝きを放ったが、やがて、山の向こうへと消えて行った。
「マギー!大丈夫かい!?」
漸く光が静まって、視界が開けたニルが、呆然と空を見つめるマギーの肩を揺すっていた。
「マギー!」
「……ニル、今の見た?」
「光の事?眩し過ぎて、とても……」
マギーは首を横に振ると、そうじゃ無いと言った。
「星が山の向こうに落ちて行ったの」
「山の向こうって?」
「あっち」
マギーが指差したのは、これから向かおうとしていた湖の、更に向こう側だった。星が落ちる湖よりも、その先に、何かは落ちてきた。
「どんな星が落ちてきたのか見に行ってみない?」
「星かどうかも分からないのに行けないよ」
今は星を拾いに行こうと、ニルはマギーの手を引いた。既に周りも平静を取り戻したのか移動を開始している。まるで、何事も無かったかのように。
ニルがほら、と手をもう一度強く引くと、マギーは箒星が落ちた辺りから目が離せないままだったが、ニルの手に引かれるままに歩き始めたのだった。
辿り着いた、フラムの湖。今も、空から、ポロンポロンと星が落っこちている。色とりどりの、金平糖を思い出す形の星屑で満たされた湖は、闇夜で光り輝く。
誰かが星を投げ入れているみたいだ、とマギーは言った。空を見上げても、湖に吸い込まれるように、星屑が落っこちてきている様が見えるだけ。
さて、星を拾おう。と、空から湖へと目を戻しす。既に皆、湖に入って星を幾つか手に比べている。マギーとニルも、それに倣うと、靴も服もそのままに湖へと入って行った。
湖とは言っても、永く星を集め続けたそこは、只の水では無い。一歩、足を踏み入れたなら冷たくも、温かくもない、はっきりと水に触れているとも言えない感覚が肌に伝わる。だからか、服も靴も、水に触れているのに濡れる事は無い。
「マギー、どれにする?」
ランタンはそう大きくはない。星屑の大きさからして、多分三つぐらいは入るだろう。光が逃げてしまう為、ランタンに入る分しか持っては帰れないのだ。
それでも、時間の経過と共に光は少しずつ逃げていく。
「うーん、これとこれ……後は、これかな?」
薄い青と白の星がマギーの掌の上で三つ、輝く。どれも、蛍の様に光ったり鎮まったを繰り返している。
マギーは手の上の星を、ニルが用意していたランタンに入れると、ニルは星の光が逃げない様に、ランタンの蓋をしっかりと閉めた。
「よし、帰ろう」
気付けば、皆、既に来た道を戻る後ろ姿が見えるだけで、湖に取り残されていたのは、マギーとニルの二人だけだった。
ふと、マギーは箒星が落ちた方を見た。湖も山も越えた、その先。
「……あの箒星、この先に堕ちたのかしら」
「さっきの光の話かい?」
ランタン鞄に括り付けたニルも、マギーの真似をしてその方を見る。湖の先は木々が生い茂る森があり、その先がマギーが言う箒星が落ちたと言う場所なのだろう。
ニルは唸りながらも、首にぶら下がっている懐中時計の蓋を開けた。
「まだ昼前。マギー、行くなら早く行こう」
「良いの?」
「けれど、九時には家に辿り着かないといけないからね」
「分かってる」
二人は少しばかり急足で湖から出ると、来た道を背後に森へと向かって行った。
薄暗い森を、二人はそれぞれランタンで照らしながら進んでいた。そう深くはない森は、上を見上げれば、まん丸姿で、いつも変わらず月影となって辺りを照らす。
森は静かだった。湖の向こうに道は無い。整地されていないそこで、草を踏む音だけがマギーの耳に届いていた。
生き物の声も気配すらない森は少々不気味だ。マギーは暗闇に慣れていたが、それでもその向こうに何があるかを、うかつにも想像してしまったものだから、思わず隣を歩くニルの腕にしがみついた。
「どうしたの?」
「……何でもない」
ここで怖いなんて言えば、ニルは帰ろうと言うに決まっている。何より、言葉にすると恐怖が本物になりそうで、ニルの腕にしがみつく事が精一杯だった。
まあ、マギーが肩を縮こませてしがみつく姿を見れば、ニルにはお見通しなのだが。
森を暫く進むと、平坦だった道が少しづつ傾斜に変わってくる。不思議と息苦しさは感じないが、傾斜がマギーの小さな足には歩き難いのか、ペースが落ちていた。
それでも少しづつ、一歩を前に踏み出しては進んでいた。そして――
「どうやら、山頂だ」
俯き加減で歩いていたマギーとは違って、余裕があるニルは真っ直ぐに前を見ていた。
それまで木々で閉じていた視界が広がり、マギーもニルの隣で景色を見渡す。まだまだ鬱蒼とした山々が続く深々とした緑に囲まれたそこで、視界の中にチカチカと光が映り込んだ。
ランタンに収まる星の光とは比べ物にならない程の大きな光を放つそれは、高く聳える木々を照らしながらもゆっくりとした点滅を繰り返していた。
「ねえ、マギー。あれかい?」
「多分そう」
「マギー、帰ろう。確認したから、もう良いだろう?」
「ダメよ。この目で見なくちゃ」
そう言って、マギーはまた進み始めた。
「マギー、待って」
ニルの声などお構いなしに、マギーは歩き続けた。それまでの疲れた様子が嘘だったとでも言う様に、マギーはずんずんと光目掛けて歩いて行く。
ニルも後を追うが、マギーに歩調を合わせて、淡々と歩き続けるだけだった。
そして漸く辿り着いた先。白い光が辺りを包み込む。景色を一変させるほどの光が山を覆い、点滅を繰り返していた。
眩しい。そう感じると、ニルの足は止まった。光で前が見えず、これ以上進めない。
「ニル?」
「僕はここで待ってるよ」
光に背を向け、更には手で目を覆いながら、ニルは呟いた。眩しさに慣れていないからか、ニルはその場で蹲ってしまった。
「……ニル、ごめんなさい」
「良いから、早く。終わったらすぐに帰ろう」
いつも、何にも動じないニルの姿が、弱々しい。それを見ても尚、マギーは箒星の恍惚な光に囚われたままだった。
――ごめんね、ニル。ひと目見たら帰るから
マギーは一目散に光の中へと飛び込んだ。眩しいけれど、何故だか暖かさに包まれている様で、発光の中でもマギーは瞬きすら惜しむ。
森の様相すら変える光の中は、白一色だった。眩しいと言う感覚は失われ、まるで白い部屋にでも迷い込んだのかとすら勘違を起こしそう。
その真ん中に、誰かが倒れていた。
マギーは慌てて駆け寄り、身体をゆすってみると僅かに呻く。
サラサラのショートヘアの男の子。栗色の髪色をさらりと撫でると、また少し呻いて男の子の目が微かに開いた。
紺碧の瞳が覗いてマギーと目が合うと、男の子の意識が次第にはっきりとしてきたのか、マギーから目を逸らし彼方此方を見回す。
「あの、大丈夫?」
マギーが声を上げると、男の子は上体を起こしてもう一度マギーを見た。
「君の名前は?」
まだ意識がはっきりしていないのだろうか。マギーとしては体調を確認したかったのだが、男の子に合わせる事にした。
「私はマーガレットよ。あなたは?」
「僕は、ノア」
ノアはにっこりと微笑んだ。その瞬間、発光していた空間は消え去り、いつの間にか薄暗い深い山の姿へと変貌していた。あれだけ明るかった世界が闇に沈むと、不思議と不気味に感じる。
ランタンの光で、ほのかに辺りは照らされるが、少々、心許無い。目的が達成された今、マギーにとって急に山深い底が恐ろしい場所になった気がしてならなかった。
「ねえ、立てる?」
マギーは、ノアを捲し立てた。ノアは、衣服こそ身に纏っていたが何も持っていない。この夜の世界で、灯りも持ってない人を放ってもおけないが、背後に恐怖がにじり寄っている感覚の所為で、出来るだけその場から離れたかった。
ノアも、マギーから何かを読み取ってか、何事も無かったかの様にスッと立ち上がって見せた。ランタンは一つ。マギーはノアに手を差し出していた。
◆
光が消えた。ニルは背後の光の気配が消えると同時に懐中時計を開いた。
「まずい……」
時間が歪んでいる。山を登り切った時は、まだ一時過ぎだった。なのに、今は時計の針が五時を指している。
どう足掻いても九時に家に帰るのは無理だ。
「マギー!」
ニルは精一杯叫んだ。せめてフラムの湖までは辿り着かなくては。長い耳をピンと立て、欹てると微かに草を踏む音がする。だが、それは一つでは無い。不思議に思いながらも、ニルはもう一度マギーの名を呼ぶと返事があった。
「ニル!」
はっきりと無事を告げるマギーの声に安堵すると、ニルは声の方へと駆けた。こう言う時に、四本足で走る事を忘れた身体が憎たらしい。それでも、マギーよりは速く走れる二本足を必死で動かした。
大した距離も無く、薄らとほのかな光がニルの目に映った。薄らとした灯りは、マギーの顔を映し出したが、もう一つ、見知らぬ顔も同時に照らしていた。
「マギー、その子は?」
「ノアって言うの。置いて行けないし、連れて来ちゃった」
ぎゅっと握られた手に引かれ、ノアの目がニルを見つめた。
「マギー、時間が無い。湖まで戻ろう」
「何言ってるの?時間なら……」
山の頂上にいた時間を考えても、汽車の最終には間に合うはず。そう思いながらも、マギーは空を見上げた。
ポツポツと新たな星が光り始めている。夜の始まりだ。
「嘘……」
「今日に限って時間が歪んだんだ!急ぐよ!君も走って!」
ニルは先導として前を走った。マギーも、ノアを急かす為に繋いだ手を引っ張ると、ノアもその焦りに釣られて、一緒になってめい一杯走り続けた。
深い深い、夜が来る。
灯りを絶やしてはいけない。灯りから離れてはいけない。でないと、夜に飲まれてしまうから。
走りながらも、ニルは時折時計を見る。時計の針はぐるぐるぐるぐる駆け回り、まともな時間は彼方へと消え去った。
ニルは先導しながらも、マギーを気にかけ続けた。足が遅い上に怖がりな癖して、マギーは見知らぬ少年と、しっかり手を繋ぎ暗闇から守ろうと必死だ。が、むしろ引っ張られている。
少年の事を気にしている余裕は無かった。どんな存在だろうが、今は暗闇の方が恐ろしい。時間が当てにならない今、只管に走るしか無かった。
山を下って、足場が平坦になった。見通しが悪い森の中、それでも彼方にある薄ぼんやりとした湖の星の光に心なしか安らぐが、それも束の間だった。
背後から、何かが迫る気配が。それは、九時を過ぎた合図だ。
――まずい!
走りながらも手に持っていたランタンを鞄に括り付けると、ニルは先導をやめて、マギーに並んだ。出来る限り、光を集めなくては。
「ニル……ごめん……ごめんね」
マギーの目が今にも泣きそうな程に、不安が零れ落ちていた。
「マギー、大丈夫、間に合うよ。湖まで後少しだ」
ニルの落ち着いた声。マギーは涙ぐみながらも、うん、と頷く。
それから更に走り続けると、漸く森を抜けた。
目の前には、星屑でいっぱいの湖が視界に広がっている。間に合った!そう、歓喜して、湖に一歩足を踏み込んだ瞬間だった。
『あああぁぁぁっっ!!!!』
呻くとも、叫ぶとも、聞き取れない低く野太い声が闇の向こうから劈く。
ぞわぞわと背筋が何かを這う感覚にマギーは、湖の真ん中へと足を向けながらも、思わず背後を振り返ってしまった。
黒一色で染め上げた、何かが視界一杯に広がって、まるで、今にも手を伸ばしてマギーを捕まえようとしている様。ほんの毛の先にすら触れそう。
それまで星の光でほんのり照らされていた森も道も全てを黒が覆い尽くす。
「立ち止まるな!真ん中まで進め!」
出来るだけ、闇から遠ざからなければ。ニルは、自身の縫い付けられた腕の糸が解れる程に、目一杯引っ張った。
その勢いで、尻餅を着いたマギーは、星の光に包まれながらも、辺りを覆う闇に恐怖して一歩も動けなかった。ニルが、しっかりと包み込み、一方の手ではノアがしっかりと手を握っている。それでも、恐怖は薄まらない。
黒く、蠢き、畝る。形の無い闇は、豪風が如く通り抜ける。光を避けて全てを覆い尽くした。
朝が来た。そう実感したのは、夜空に星が一つも無くなり、ニルの懐中時計がチクタクと、いつもの音を鳴らしているかを確認してからだった。
マギーはくたくただった。本当は、昨日の昼には帰る筈だったものだから、昨日の朝食以降何も食べていない上に、山も登って、更には走って降ったのだ。物見遊山が、とんだ冒険へと変わったのだった。
マギーは家に辿り着くなり、着替えもそこそこにベッドへと倒れ込んでいた。
「もうだめ、歩けない。何も出来ない」
「がんばったね。それと……」
ニルは、ベッドに顔を押し付けたまま立ち上がらないマギーから目を逸らし、ポツンとニルの隣に立つ少年を見た。
「君の家は何処だい?」
ノアは、にっこりと微笑む。
「さあ、何処だろうね」
巫山戯ているのか、それとも本当に分からないのか。迷子にしては全く動じていてない姿が、ニルの目に不可思議に映った。
「まあ、家が分からないなら仕方ない。ソファーを貸してあげるから、今日はそこで寝ると良い」
「ニル、毛布も布団も予備がないから、私のベッドをノアが使えば良いわ」
どうせ眠りたくないし。と、今にも落ちそうな瞼で、強がる姿を見せるマギー。
「じゃあ、僕はマギーと寝るから、ノアは僕のベッドを使えば良いよ」
「本当に眠るの?昼間よ?」
「今にも寝落ちそうな子が何言っているんだ。ほら、布団に入った入った」
ニルは無言でベッドへと入り込むノアを見届けると、マギーを布団の中へと押し込み、自身もその隣へと蹲っていた。
「今日の夜、眠れるかしら」
「明日の朝までぐっすり眠れば大丈夫さ」
ニルは静かにお休みと呟くと、マギーのおでこに頭をくっつけて眠りについた。
◇
〜♪
――今日は音楽が聴こえる。ピアノだけで、歌は無い。もっと愉快な音色なら良いのに。
ゆっくりと単調なテンポが、マギーにはつまらなかった。
――いつもそう、これが夢というならば、もっと明るい音楽なら楽しいのに。
マギーの夢はいつも真っ暗闇で、遠くで聞こえる音だけが世界の全てだ。その音も、マギーが選んだものでも無いから、楽しみでもない。
――なんて、つまらないのだろう。だから、眠りたくなんか無いのに。
瞼を開けているのか、閉じているかの感覚も無いそこで、マギーが出来るのは、思考する事だけだった。身体の感覚はなく、そこに手足があるのかどうかも、動かしたところで、本当に動いているのかどうかも分からない。
ただ、邪魔な音楽こそ耳障りだが、一人で考えるにはもってこいの場所だ。
問題は、目が覚めるまで終わらない事ぐらいだ。
――ノアは、何処から来たのだろう。このまま、街に住むのだろうか。家は、既にニルと二人で一杯だから、身を寄せられる家を見つけてあげなければ。あ、そういえば、ニルにしっかり謝っていなかった。起きたら、いの一番に言おう。
そんな事を考えながら、マギーは何時間も、つまらない耳障りな音を聞きながら、暗闇で明日を待ち続けた。
◇
古時計が振り子を揺らし、大きな音を立てていた。等間隔で、ボーンと古めかしい音を八つ鳴らす。
あの、つまらないピアノの音を聴くよりも、余程楽しみがある。でも、その音が夜を告げるなら、絶望的だ。
マギーは、パチリと目を開けた。部屋の中は、古時計の振り子と暖炉が燃える音だけだ。ベッドの隣に既にニルの姿は無い。起き抜けの上体を起こして隣のベッドを覗くと、ノアの姿も消え布団が整えられていた。家の中を見回しても、二人の姿は無く、マギー一人がポツンと家の中に取り残されているだけ。
ぐうと腹の虫が鳴る。何かあったかしら、とマギーはベッドを抜け出してキッチンを除いた。そこには、メモと一緒に卵サンドが置いてあった。
『ノアと市場に出掛けてくる。留守番をよろしくね』
買い出しに出かけたのなら、今は朝だ。ただ、そんな事よりも……
「置いてかれた」
いつの間に仲良くなったのだろうか。そんな疑問を抱えながら、マギーはニルが作ったサンドイッチを手に、昨日の出来事をぼんやりと思い出していたのだった。
それから、十時を告げる鐘が鳴った頃だった。
ガチャリと、家の扉が開いた。ベッドの上でスケッチブックと色鉛筆を広げて絵を描いていたマギーは、ニルが帰ってきたのだと顔を上げた。
「お帰り」
だが戸口に、ニルの姿は無い。ノアが一人、荷物を抱えて帰ってきたのだ。
「ニルなら寄る所があるから、先に帰ってくれって」
小さなテーブルの上に市場で買った食材を紙袋から取り出して並べていくノア。マギーはベッドから降りると、ノアがテーブルの上に広げた品々を棚にしまっていく中で、何度もノアを盗み見た。昨日は暗闇の恐怖や、疲れでそれどころではなかったのだが、今になって疑問が沸々と湧いてきたのだ。
「ノアは何処から来たの?」
マギーは思ったままが口から出る。荷物を片付け、お茶の準備に暖炉の隅にケトルを掛けながらも、自然な流れだったのだろう。
「うーん、そうだなぁ。外の世界って言ったら、信じる?」
ノアはニコニコと笑っているが、マギーは首を傾げるしかなかった。
「外って、隣町とか?確かに、フラム以外は行った事無いけれど……」
マギーの行動範囲は限られていた。マギーが暮らす、ミレイヌと、星取りに行くフラム。後は、特に用事がなく行った事は無かった。
「じゃあ、訊くけど、マギーは何処から来たの?」
「何処って、ずっと此処にいるよ?」
「いつから?」
いつ?マギーは思わぬ質問に、固まってしまった。
そんなのずっと前からに決まっている。そう答えようとしたが、マギーは、もやもやと胸の辺りがざわついて、咄嗟に言葉が出なかった。
――いつから此処にいるんだっけ?
どれだけ思い出そうとしても、マギーの記憶の中に思い出らしい思い出が、何一つとして浮かんでは来なかったのだ。
不安が押し寄せる。暗闇に追いかけられていた時とは違う。何かいけない事をしている気がして、マギーは思わずスカートを握り締めた。
「どうしたの?」
ノアは、無邪気な笑顔で、ただニコニコと笑っていた。
◆
マギーは空を見上げていた。五時を過ぎると、星が出始める。一つ、二つ、三つ……次第に数え切れない数が空に浮かび上がる。
家の前の道の向こう、広がる草原にピクニックブランケットを敷いた上に、ランタン二つを留め具の代わりにして、真ん中に夕ご飯のシチューとパンを置いたら、いつもと違った夕食だ。
ノアは暫く、一緒に暮らす事になった。今はどこも手狭で余裕が無いのだそうだ。
少し風変わりなノアも増えて、特別な記念日みたいだと、マギーはウキウキと夜空を眺めながらあつあつのシチューを口にした。
そんな時間はあっという間で、気付いたら眠る時間だ。
「マギー、そろそろ……」
ノアは既に眠たくなったと家の中に戻ったが、ニルは隣でいつも通りに懐中時計を見張っていた。
いつも通り、いつもと一緒なのに、まるで先ほどまでが空元気だったのかと思える程にマギーは上の空。マギーは夜空を見上げながらも、うん、と返事はするが、動かない。
「マギー、九時になる」
ニルは少し言葉を強めた。昨日、恐ろしい目に遭ったばかりなのに、と。そんな、ニルの事などお構いなしに、マギーは呆然と空を見上げたままだった。かと思えば、小さな疑問を口にした。
「……何で、九時なんだろう」
あくまで、九時は目安だ。九時の鐘が鳴るまでは、ニルも辛抱強く待ってくれる。
九時までは安全だからこそ、余計に疑問だった。
何故、九時なのだろうか、と。
「何でって、夜が深くなるからさ」
「でも、五時ぐらいから星は出るよ」
「……さあ、僕もそこまでは知らないよ」
ぷいっと顔を逸らしたニルは、マギーの腕を強く掴んだ。
「さあ、寝るよ」
「ねえ、あれに捕まったら、どうなるのかな」
「知らないよ!」
マギーは何気ない質問をしているだけのつもりだったが、その予想に反して、ニルは声を荒げて耳と尻尾をピンと尖らせている。まるで、毛を逆撫でた猫そのものだ。ニルの表情は、人形で目はボタンなのに、はっきりと、その表情には怒りが投影されている気がしてならなかった。
怖い。マギーは思わず後退りし、その顔は恐怖で埋め尽くされている。そのマギーの表情で、ニルは正気に戻ったのか、小さく「ゴメン」と呟くと、マギーの腕を無理やり引っ張って家に入っていった。
◇
♪〜
今日は、ピアノだ。この曲、知ってる。星の、何だっけ……そうだ、きらきら星
あれ、何で知ってるんだっけ?
◇
白い花。平原の中で、綿帽子にも似た掌程の大きさで咲いている。というよりは、実っているという言葉が似合うだろうか。ほんの少し指先で触れたなら、それはポロリと地に落ちる。地に落ちると、種となって大地に染み込んでしまうから、マギーはそれを両手でそっと包み込んで、ゆっくりと手に下げたバスケットに入れていく。
それがバスケット一杯になると、一旦家に帰って、用意しておいたぬるま湯の中に入れる。すると、綿帽子が溶けていく。それを糸車に引っ掛けて指で支えながら、巻き取っていくと、糸が出来上がった。
カラカラと音を立てる糸車を回しながら、その音だけに耳を澄まして集中していると、また、疑問が浮かんでしまった。
――いつ、糸車の使い方を覚えたのだろう。
それまで順調に紡いでいた糸から手が離れて、糸車が止まった。
残ったのは、暖炉で薪が燃える音だけ。決して絶える事の無い火と、燃え尽きる事の無い薪。それまで、当たり前だったその火。だが、また疑問となる。
――何で、消えないの?
マギーは、昨日のノアの言葉を思い出した。
『マギーは何処から来たの?』
『いつから?』
その言葉が始まりで、疑問が溢れ続けて止まらない。マギーは、何一つ、知っている事がなかった。
「私……」
記憶がぽっかり抜けた喪失感も無く、違和感だけが生まれ続ける。
そして、最後に生まれた疑問は――
「私、いつから、ニルと一緒にいるの?」
◆
ノアは、バスケット一杯になった綿帽子を持って家に帰ると、家の中はしんと静まり返っていた。
「マギー?」
床の上に用意された糸がほつれて古くなったシーツの上に綿帽子を広げながら、ノアは家の中を見渡した。すると、ベッドの上で疼くまるマギーの姿が。肩を振るわせ、泣いているのかとも思ったが、顔を真っ青にして何かに怯えていた。
「マギー、大丈夫?」
ノアは震える肩に手を当て落ち着かせようとするも、マギーはノアの顔を見たからか、真っ青だった顔色が更にどんよりと曇っていった。
「ノア、あたし……ノアが言った事、何にも思い出せないの……」
恐怖が恐怖を呼ぶ。マギーの思い出は、些細な事も思い出せない程にまっさらだった。カタカタと震えるマギーの肩を、ノアは強く握った。力強いが、暖かい。ニルに触れても、決して得られない感覚が、マギーを安心させていた。
マギーは、自分を覗き込むノアを見上げた。はっきりした表情の変化があるその顔は、優しくマギーが落ち着くのを待っている。
その少年は、言った。自分は外から来たのだと。
「ノアは、何を知っているの?」
その問い掛けに、ノアは寂しげに答える。
「言っただろ、外から来たって」
ノアはマギーの頭を優しく撫でる。外、その意味を考えもつかないマギーは、困惑と混乱の入り混じった顔を浮かべ今にも泣きそうだ。
「ねぇ、マギー。此処が夢の中だって言ったら、君は信じるかい?」
マギーの瞳が、大きく揺れた。
◆
「戻って来ないな……」
ニルは集めた綿帽子を手にノアが消えたそこを見つめていた。一旦、家まで届けにいった筈だが、いつまで経っても戻って来ない。大した距離でもないから、すぐに戻って来れる筈。
ニルはバスケットいっぱいの綿帽子を手に家へと向かった。そうしてしばらくすると、空から羽ばたく音がした。見上げると、鴉が何羽かニルの前に立ち塞がった。その先頭の一羽は目を細め、バサバサと態とらしく大きく羽を広げると、その目がニンマリと細まっている。
「やあ、ニル。マギーの様子はどうだい?」
「まあまあだよ」
「新しいお客が来たってね。受け取り先も見つからないとか」
「どう考えても異物だけど、マギーが受け入れてしまった。簡単には消せないし、かと言って誰も関わりたがらない」
「だろうね〜」
鴉達は愉快に笑い、カアカアと鳴いてみせるも、暫くすると、その笑いも止まったが、その目はまたニンマリと笑っている。
「また、初めからやり直すかい?」
愉快、愉快。今にも踊り出しそうに羽を羽ばたかせる鴉達。ニルは、表情の変わらぬボタンの目で静かにカラス達を睨んでいた。
「おお、怖い怖い」
嘲笑にも近い笑いが飛び交う中、カラス達は羽を撒き散らしながら飛び立っていった。
「もう、次は無い」
ニルはボソリと呟く。バスケットを持ち直すと、そのままゆっくりと家へと帰っていった。
◆
「此処が、夢?」
マギーは目を見開き、ノアを見た。ノアの顔は落ち着いていて、とても嘘をついている顔には見えない。ノアはマギーが蹲るベッドの端に腰掛けると、優しく微笑んだ。
「そう、夢。ここは、マギーの夢だよ」
マギーから戸惑いは消えるどころか増すばかりだった。それもその筈、はっきりと認識している世界が夢などと言われて信じられるだろうか。
「……もし、ここがノアの言う夢なら、覚める方法があるの?」
「その予定だったけど、君は難しそうだ」
「それって……」
どういう事?マギーは生まれ続ける困惑と疑問を全て消し去りたかった。そのまま言葉を続ける先にある答えに辿り着こうとした。
けれども、事はそう簡単にはいかないものだ。
「何してるの?戻って来ないから心配になったんだけど……二人してサボり?」
突如、戸口から降り注いだ声にマギーの肩がびくりと跳ねた。気付けば、玄関が開け放たれ、そこにはニルの姿がある。
ノアの陰からチラリと覗くその姿、その声色、全てがいつも通りの、ニルの姿だ。
「どうしたの?二人で僕がいない間に悪巧みの計画でもしていた?」
ニルは、ランタンを壁にかけると、マギーに近づいた。
「疲れたなら、今日は此処までにするかい?」
「そうみたいだ。綿帽子は布に包んでおけば良いかな」
「いや、取ってきた分は今日処理しないと、萎れて良い糸にならないんだ」
マギーの代わりに返事をするノアは、平然とニルの話に頷いていた。何事も無い。そう思わせようとしているのか、ニルには何の疑惑も見えなかった。まあ、元よりニルの姿はぬ人形だ。その表情がはっきりと変化する事はなく、何かしらの差異があるとすれば、その声だろうか。
「マギー、どうしたんだい?」
ボーッと二人を見つめていたからだろうか、マギーはニルの声がいつも通りで安心していた。怖くはない。でも、気づいた恐怖は抱えたままで、体は強ばっている。
「ごめん。直ぐにやるね」
「僕がやるよ。やり方を教えて」
ノアはマギーを落ち着かせる為か、にっこりと微笑んで、他ごとに注意を向けようとしている。マギーも、何とかビクビクと跳ねる心臓を落ち着かせる為に、ベッドを降りると糸車の前に座った。
「えっとね、難しくはないの」
そう言って、くるくると回り出す糸車。カタカタと白い糸が綿帽子から巻き取られ、糸の塊になっていく。
ノアに糸車の使い方を教えながら、マギーはテーブルの椅子に座って二人を観察するニルの視線に気づくも、その視線が怖くて糸車から目が離せなかった。
◇
〜♪
――また、真っ暗な夢。ノアは、夜の世界が夢って言ってた。だったら、此処は何?ここの方がよっぽど夢の中みたい。何も思い通りにならなくて、本当に私がここにいるかどうかも分からない。でもね、怖くはないの。ただ、退屈なだけ。
今日も音楽が聴こえる。
◇
ランタンをもう一つ用意しよう。
そう言ったのは、ソファーで寛いでいたニルだった。
夜の国で、灯は必須だ。空のランタンなら売っているけれど、中身の星となると市場で買うかどうか悩みどころだ。紛い物を世に出す者はいないが、その星をいつ拾ってきたかは教えてくれない。値下げの交渉もしてくれないし、星を売る店は少々信用ならない、とニルまで愚痴を溢す程だ。
「また、フラムに行かないとね」
前に、星を売っている店主の狐とニルは、一悶着起こしかけているのだ。だから、あの店で買い物はしない。
暖炉の前に転がって、スケッチブックを広げるマギーは大きく手を挙げて私が行くと主張した。
「じゃあ、あたしがノアと行ってくるよ」
隣で、マギーの落書きを眺めていたノアがキョトンとするも、じゃあ行くと、ノアもつられて手を上げた。
「二人じゃ危ない。僕も行くよ」
糸が高く売れたから余裕がある、とニルは言うが、それでも三人になった分、余裕は無い筈だ。
「何で?汽車の乗り方なら覚えたよ?」
ニルは、マギーとノアを見比べた。腕を組み、じっと見つめて唸り声を上げる。
「本当に大丈夫?」
「大丈夫。湖だって、一本道だったじゃない」
「僕も一度通ったから覚えているよ」
マギーは、ノアの言葉にほらっ、と何とかニルを説得しようと必死だ。そんなマギーの姿に諦めたのはニルだった。
「わかったよ。二人で行っておいで。その代わり出発は朝、昼過ぎには戻って来るように。いいね?」
子供に言い聞かせる大人の様に、ニルはこれでもかというくらいにしつこく、しつこく、マギーににじり寄る。本当は心配なんだからね、と耳を折り曲げ、尻尾を垂れ下げて失念の様子すら見える。
「お使いぐらいできるよ」
そんな沈んでいるニルと打って変わって、明るい調子を続けるマギー。いつも通りにも、空元気にも見える姿だが、ニルは横目でノアを見た。ニコニコとマギーを捉える瞳が何かを企んでいる様に見えて仕方がない。
「ノア、マギーに全部任せると心配だから頼むよ」
「うん、大丈夫」
そう言って、ノアはニルに向かってニコリと笑った。
◆
汽車が蒸気吐き出しながら、ゆっくりと動き出した。ガタン、ガタンと揺れる椅子の上、マギーは駅から見送るニルに小さく手を振った。ニルの首には懐中時計は無く、今はマギーの首にぶら下がっている。
時間を守るんだよ。ニルは必要以上の心配からか、大事な懐中時計をマギーに預けたのだ。
少しずつ汽車は速度を上げ、次第に駅が遠のく。次第にニルの姿が見えなくなると、マギーは窓を閉じた。
車内を照らすのは、薄明るい車内灯の他は、皆が持っているランタンの灯りだ。星灯りのランタンが四つ、薄ぼんやりと輝く。
その朝一番の静かな車内、マギーとノアは二号車の中で向かい合っていた。
「ねえ、本当に……」
「此処は夢だよ」
何度、同じ事を訊いただろう。何度尋ねても答えは同じだったが、その度にノアははっきりと答えた。
「じゃあ、どうして私は目が覚めないの?」
「君が拒絶しているからさ」
それまで、穏やかな顔を保っていたノアの顔つきが変わった。冷ややかで、無情な瞳がマギーを見る。
「君が、現実を受け入れないと目は覚めない」
「でも、現実って何?」
ノアは、一度マギーから目を逸らし、俯くも決意したのか再び顔を上げた。
「ここに来る前、現実の君に会ったよ」
物悲しげに、ノアは静かに語り出した。
「この世界は、君が大切にしていた物で出来ている。星屑物語の絵本、君が友達と称していた人形達、星を模った回り灯籠……他にも色々あったよ」
そして、その御伽話に囲まれた君は眠ったままだと最後に溢した。
「それが現実?」
「そう、そして君が目覚める日を待っている人がいる事もね」
「誰?」
マギーは何気無く尋ねつもりだったが、その言葉でノアの顔色は暗くなってしまった。
「君は、本当に何も覚えていないんだね」
「……ごめん」
「いや、君みたいなケースは初めてだ。大抵は切っ掛けを与えると、少しずつ記憶が広がるものだけど、君は記憶が無い事が分かっても夢の自覚が現れない。困ったものだ」
「……難しいわ」
はっきりと話すノアは、別人だった。それまでマギーに合わせていたとでも言うように、姿形は変わらずとも話し方も内容も大人びている。
「今日、僕と二人で出かける機会を作ったのは、知りたかったからだろう?」
ガタン、ガタンと汽車が揺れる。マギーは揺れる窓に合わせて景色を見た。勿論、窓の外は只の暗闇だ。
マギーにとって、それが当たり前で、今も現実だ。記憶が無くとも、例え、ノアがどれだけ説明しようとも、違和感だけが残った現実だった。
「……分からないの」
「マギー、夢は君の思想の反映だ。君が願えば、君が本物と思えばこの世界は現実だ。でも、それが虚像と知れば夢は崩れ落ちる」
「……また、難しい事言うのね」
「夢は……嘘の世界に浸るのは楽しいよ。全てが理想で出来ているからね。でも、そんな嘘の世界の外側で、君のお母さんはずっと待ってるよ」
それまで暗闇の向こうを見ていたマギーの視線がノアに戻った。ノアの目は真剣だった。紺碧色の瞳が、しっかりとマギーを見つめて、真実を告げる。
その瞳に吸い込まれる様に、マギーの脳裏に何かが映った。
◆
大きな人だ。ウェーブの掛かったマギーと同じ赤毛。背中まであるその髪がふわりと揺れる。
パチパチと赤く燃える暖炉の前、ロッキングチェアに座ったその大きな人はマギーを腕に抱いて一冊の絵本を読んでいた。
『夜空がキラキラと輝く夜の国……』
そう、そんな始まりだった。
マギーの記憶の中で、落ち着いた女性らしい声が夢心地に物語を綴る。眠りへと誘う為か、物語を進める調子に合わせてロッキングチェアもゆらゆらと揺れた。その度に、長い赤毛がマギーの頬を擽る。でも嫌じゃ無い。声と心地に揺られて、マギーの瞼は段々と重くなるのだ。
◆
いつかの思い出が、マギーの記憶にしっかりと残っていた。
あれが、ノアの言う『お母さん』なのだろうか。
マギーは、大きな人を思い出す度に、胸を締め付けられる感覚で苦しくなった。どれだけ思い出そうとしても、それ以上の記憶が出てこないのだ。
くしゃりと顔が歪んで瞳が潤む。その瞳からは一筋の涙が伝うが、悲しいという感覚は無い。その涙の理由が、マギーには分からなかった。
「マギー」
大人びた声から一転、ノアの口調が子供らしさを取り戻していた。
「ノア、あたし、どうしたら良い?どうやったら、その人に会えるの?どうやったら、この世界から出られるの?」
マギーがはっきりと、意志を示した瞬間。静寂だった汽車の中、マギー達の他にいた僅かな乗客達が、ガタンと大きな音と共に立ち上がった。
マギーとノアは思わず乗客達を見るが、動物の姿をしたそれらは、マギー達に背を向け、無言で立ち尽くしている。
何が起こった、そう考える間も無く、今度は車内放送が響いた。
『マギー、マギー、何処へ行く?』
誰とも言えない、低い不気味な声が、マギーを呼ぶ。
「マギー」
ノアは、マギーを他の乗客達から隠す様に背に追いやる。何が起こっているのか。
車内を仄かに照らしていた車内灯が、一つずつ消えていく。残されたのは、ランタンの灯りだけ。マギーはしっかりとランタンを抱きしめ、ノアの手を握った。
真っ暗な車内。ずるずると、足を引き摺る音が、マギー達に近づく。動いている汽車に逃げ場は無い。
さながら、ホラーハウスを思わせる光景。作り物の恐怖とは似ても似つかない程に現実味を帯びて、星屑物語には似つかわしく無い目の前の光景に、ノアはちらりと背後にいるマギーを見た。
初めて会った日の暗闇もそうだった。九時と言うこの世界のルールの中にいる存在。
誰かが、この世界からマギーを逃がさない。その誰かを考えた時に浮かんだのは、黒い猫の姿をした人形だった。
マギーは思わずノアの手を強く強く握っていた。
怖い。あの日と同じ、暗闇の恐怖が迫ってくる。でも、まだ九時には遠い筈。マギーはランタンを手に掛けて、震える手で懐中時計を持ち上げ開いた。時刻は、家を出てから一時間と経っていない。窓の外を見ても星は見えはしないのだ。
「マギー、逃げるよ!」
しっかりと掴んだノアの手が、マギーの手を力強く引っ張った。通路へと出ると、近づく者達など構いもせずに、一目散に隣の車両へと移る。
先頭車両のそこで、わずかでも、何か考える時間を。
だが、思いもよらぬ存在に二人の足はピタリ止まる。そこでも灯りは途絶え、揺れる汽車に合わせて、ゆらゆらと、何かが立ち竦んでいた。
細長い背格好は人の形だが、マギーの様な子供ではなく大きな人だ。真っ黒の姿形に顔はなく、妙に細長い手足が人とは似ても似つかない。車掌の格好で改札鋏をこれ見よがしに掲げパチン、パチンと鳴らしていた。
『マギー、マギー、どこへ行く?』
車内放送と同じ歪んだ声が、車掌姿のそれから飛び出した。いつもなら気にならない、その声が、暗闇の中でより一層不気味で不穏な音に聞こえる。
マギーが恐怖で思わず目を背けると、歩きにくそうな細い足が動き始めた。足を引き摺り、ゆっくりと近づいている。背後を見ても、乗客達と暗闇が迫ってくる。逃げ場は――
マギーとノアは、同時に一点を見つめた。
窓だ。汽車の速度を考えても危険だが、今いるこの場の恐怖が、二人を窓へと押しやっていた。
二人で力を合わせて窓を押し上げる。木枠の古い窓は、歪んでいるのか軋む音ばかりが唸って、動く気配がない。所詮子供の力という事と、今、この世界が何を求めているか。ノアは、それを併せて考えた瞬間に、手を止めた。
「ノア?」
だらりと腕を垂らし、一歩退がる。
「ノア!?」
マギーも手を止め、ノアが何をしようとしているのか。嫌な考えが過ると、慌ててノアに手を伸ばした。
「マギー、僕は大丈夫。此処は夢だ。痛いけど、僕は死んだりしない」
ノアがニッコリと笑った瞬間に、背後にいた暗闇達が一斉にノアに襲いかかっていた。
暗闇や乗客達がノアをマギーから引き離すと、押さえ付け身動きが取れない様にした、その時。
車掌姿が、ゆらりと動いたかと思えば、手に持っていた改札鋏が姿を変える。刃先は大きく鋭く、両手でこれみよがしに鋏を閉じたり開いたり、刃先を鳴らす。
そして、鋏を大きく開くと、ノアの首に押し当てた。
「マギー」
身動きが取れないノアを前に、マギーは震えながら、その場にへたり込んでしまった。
「マギー、これは夢だ」
鋏が閉じる瞬間に、ノアはまたもにこりと笑った。
◇
――真っ暗闇で、何も無い。これはいつもの夢?私、いつの間に眠ったの?
ねえ、ノア。あれが夢だというのなら、ここは何?私は、どこへ行けば良いの?
〜♪
――また、音楽が聞こえる。今日は、誰かの鼻歌みたい。柔らかくて、優しい子守唄。あの絵本を読んでいた声に似てる。あなたが、お母さんなの?
ねえ、ノア。これも、夢なの?
◇
マギーの耳に、パチパチと暖炉の薪が燃える音が響いた。耳慣れた音の方へと、ゆっくりと顔を向ける。まだ、微睡の側にいる視界がゆらゆら揺れるオレンジ色を映し、なんとなく家に帰ってきた気がして、マギーはぼんやりとしながらも起き上がっていた。
だが、徐々に視界がはっきりしだすと、違和感に気づく。眠っていたのは、マギーのベッドに似た感触だったが、ニルと暮らす家よりも大きな部屋だ。
部屋の大きさだけでなく、テーブルや椅子、ベッドもマギーには大き過ぎるサイズばかり。
マギーは、訳が分からず、あちこち目をやっては戸惑いを隠せなかった。
そうしていると、戸口がガチャリと音を立てた。のそりのそりと、大きなライオンがバスケットを抱えて入ってきたのだ。
先のフサフサとした尻尾が揺れ、マギーは思わず見惚れるも、ゆっくりとマギーを向いて目が合ってしまい、慌てて布団に顔を隠していた。
「目が覚めたのか、気分はどうだ」
ライオンの低い声は、落ち着いた口調で冷淡にも聞こえる。
バスケットをテーブルの上に置くと、ライオンはそのまま椅子に座って、マギーを見た。その目つきの悪さと言ったら。マギーは睨まれている気がして、布団の隙間からライオンを警戒しながらも、目が離せなかった。
「あの、あなた誰?」
「助けてやったんだ、礼ぐらい言ったらどうだ」
あ、と思わずマギーは慌てて布団から顔を出しては、頭を下げた。
「ありがとうございます。あの、マギーと言います」
「知ってる」
マギーは首を傾げた。ライオンの知り合いは、いない。そんなマギーの疑問を見透かしてか、ライオンは何事もなく答えた。
「誰でもお前を知ってる。なんたって、この世界の主だ」
ここは、夢だ。そう言ったノアの言葉が浮かんだ。
「この世界は、私の夢だから?」
「なんだ、今回はもうそこまで辿り着いているのか」
「どう言う意味?」
「俺は、前に一度会ってる。此処から出る協力をしたんだがな、邪魔されちまった」
お陰で、ここから出られなくなっちまった、とライオンは呟く。それは、ノアの『外から来た』という言葉を連想させた。
「ねえ、ノアの事知ってる?」
「知らねえな、今回の協力者はそいつか?俺がお前を見つけた時は、一人で倒れてたんだ。他に乗客の姿も無かったよ」
ライオンは、フラムにたまたま星を拾いに行った帰り、汽車の中で倒れているマギーを見つけたのだと言った。
「ねえ、ライオンさん」
「俺は、ハッシュだ。それも忘れちまったんだな」
あの、クソ猫とハッシュと名乗ったライオンは悪態を吐く。その口ぶりと共に、本当に忌々しいものでも思い出しているかの様に目まで鋭くなった。
「猫?」
「ニルとか言ったか。あの人形だよ」
マギーの心臓が、大きく脈打った。
ハッシュは獰猛な獣さながらに、その目がギロリとマギーを捉える。ベッドでビクビクと脅える小鼠同然に、布団で身を隠しながらも、その目から逃げられない。
ハッシュの怒りは、ニルだけに向けられたものじゃない。マギーの事も少なからず恨んでいた。そんなハッシュがマギーを助けたのは、気まぐれか、裏があるのか。今、自分が何処にいるのかもわからない状態では、マギーが頼れるには、ハッシュ一人しか居ないのも大きかった。
何より、ハッシュの言葉が、マギーをより揺らがせていた。
「ハッシュは、どうして私を助けたの?」
「俺も此処から出たいのさ。その為には、お前の力が必要だ」
「私の?」
良い拾い物だった、とハッシュはくつくつと笑う。後は、あの猫をどうやって出し抜くか。ハッシュが不穏な言葉ばかりを繰り返すものだから、マギーは不安が押し寄せて、布団をぎゅっと握っていた。
「私……その」
何も覚えてない。ハッシュが何をしようとしているのか、ニルが何を考えているのか、何も分からず、込み上げる不安に誰も信じてはならないのでは無いのかとすら思えせた。
「何か思い出そうとはしてるな。今は、それで十分だ。現に、あの猫に助けを求めようともしてねえ」
「あ……」
マギーは、何となしに自分の胸元に手をやった。そこには、懐中時計が一つ。蓋を開けると、今も、チクタクと時計の針が時を刻んでいる。
「そりゃ、あの猫の時計だな」
「そうだけど……」
マギーは、ハッシュの視線に気づくと、懐中時計の蓋を閉じて、両手で包み隠した。
盗りゃしねえよ。そう、ハッシュがぼやくも、マギーの手は強く時計を握りしめて離さなかった。
◆
カラスの群れが、マギーの家の扉を嘴でコンコン、と突く。家の主に知らせる為に、それはもう執拗に。すると、次の瞬間、扉が怒り任せにとんでもない勢いで開いた。危うく、カラスはスレスレで飛んで無事だったが、後一歩遅ければ、その嘴がひん曲がっていた事だろう。
「煩い」
不機嫌なんて可愛らしいものでは止まらない、心の奥底から吐き出した様な声に、カラス達は面白おかしく笑う事は出来なかった。
「ノアってのは消えたが、ハッシュがマギーを連れてった。どうする?」
カラス達は、それまで事の次第を見届けていた。命じられていたのもあったが、元々そう言う役目も有り、戦々恐々とはしているものの、ニルに言葉は選ばずにありのままを伝えていた。人形姿は表情が変わらない。その声色と、耳や尻尾の仕草だけが感情を伝える術と言っても良いだろう。
先程まで、怒り心頭の様子も鳴りを潜め、落ち着きを取り戻していた。
「お前達は監視を続けろ。どうせマギーは出れやしないんだ」
「あんたはどうする?迎えに行かないのかい?」
「行くさ。でも、次はもう、やり直しじゃない」
その言葉を聞いた瞬間に、カラス達は嘴を大きく開けて感極まった高い声で、カアカアと鳴く。
「良いんだな、お前が可哀想だと言ったんだぞ。良いんだな」
「良いよ。どうせ記憶が蘇るなら、もう変えてしまうだけだ」
ニルの意思をはっきりと聞き届けた、お喋り鴉達は、バサバサと羽を羽ばたかせながら、夜の国中に響くように、声高々歌い始めた。
『来たぞ、来たぞ、漸く時が来たぞ。新しい器を用意しろ。魔女の身体はフラムに沈めろ。これで、マーガレットもこの国の一員だ』
夜の国が、鴉達の声に合わせて騒ぎ始めた。この国の、様々な命の形が蠢き出す。
◆
「さて、猫どもが動き出す前に、移動しねえとな」
マギーの顔色が良くなって、ハッシュが用意した食事も食べ終えた矢先だった。
ハッシュはバスケットの中の小さな服を、マギーに向かって放り投げた。大きなフードのついたパーカーに、ジーンズのズボン。どれもこれも、地味な色で、マギーが好む物とは真逆だ。
用意周到とも言えるが、ハッシュはマギーを見つけた時から、マギーを外に出す事を考えていたのだろう。
「どうする、猫にもう一度逆らってみるか?それとも大人しく家に帰って、猫に従順なふりを続けるか?」
最後の選択を迫るハッシュの眼差しは、重くマギーにのしかかった。
マギーにとっては、ノアもハッシュもニルでさえも記憶の辿れない者達ばかり。
家に帰れば、ニルは何事も無く迎えてくれるかもしれない。
きっと、御伽話の続きを辿るだけ。
――マギー、これは夢だ
マギーの意識の中に、ノアの声が響いた。
何を信じるかを決めなければ、何が真実かを見極めなければ。マギーは、胸にぶら下がっていた懐中時計をギュッと握ると、ハッシュを見た。
「ハッシュ、私……知りたいわ」
決意を固めたマギーの目に迷いは無い。ハッシュは、決意を固めたマギーを前に詰め寄った。
「いいか、後戻りはできねえ。もしもの時は俺は消される」
脅しだ。きっと、マギーが揺らがないかを確認しているのだ。
ハッシュは後ろを向いているから着替えろ、とマギーに背を向ける形でどっしりと椅子に座った。マギーがゴソゴソと、ハッシュが用意した服に袖を通す間も、ハッシュは喋り続けた。
「やらなきゃならねぇ事が幾つかある」
「うん」
「一つ目は、鴉共の監視の目から逃げ出す事。二つ目、お前がこの世界の主導権を取り戻す事」
「主導権って?」
「九時の闇だ。あれを止めねえと、俺は喰われちまう」
マギーは首を傾げた。そもそもの主導権の意味がわかっていないのだ。後ろを向いているせいか、それとも説明が面倒なのか、ハッシュの口は止まってはくれなかった。
「普通はな、夢の主が考えた事ってのは夢に反映されるんだ」
「例えば?」
「お前ぐらいの歳の頃だと……空を飛びたいとかな」
丁度着替えが終わったマギーは、ハッシュの背後に立って準備ができたと大きな背中を指で突いた。その回答に憎たらしい顔で返して。
「出来るわけないじゃない、鳥でもないのに」
その憎たらしい顔に、ハッシュは鼻で笑う。
「馬鹿言え、夢に物理の法則なんて当てはめるなよ。お前が、その条件さえ解除してくれたら俺も出来る事があるんだ」
「何?」
「ガキの言葉で言えば、魔法さ。この世界には無い物として認識されてる」
「それって」
「お前がこの世界をはっきりと夢だと信じ込まねえといけねえ。何でも出来る、それが必要だ」
何とも、獰猛なライオンが不可思議な事を言うものだから、マギーは吹き出して笑い出してしまった。
「魔法って、何だか御伽話みたいね」
今まさに、自分達が立っているこの世界こそが御伽話なのだ。ハッシュは呆れと共に出るため息が鼻から抜けると、ゆっくりと立ち上がった。
「前も、同じ事言ってたな」
その言葉に、マギーは頭を傾げる事しかできなかった。
二人はそれぞれランタンを手に、外に出た。
時刻は、昼の三時。一歩、外に出ると、マギーは鉛色の世界に紛れ込んでいた。
カタカタと回る歯車と、パイプが張り巡らされたそこは、上を見上げれば蒸気で空が覆われている。月光が街の明るさに消え去って、少しばかり寂しい。汽車の終点の二つ前に位置するそこは、あぶれた者達が辿り着く、仄暗い街。だが、夜の国の中で一等眩しい街でもある。
雑多で鉄に覆われた街、ドゥイン。擬似的な人工灯で包まれ、別名、鉄の街と呼ばれている。
荒っぽく、ずんずんと歩くハッシュは、横で立ち並ぶとまあまあ大きい。マギーが小ぢんまりして見える程だ。
マギーはフードを深く被り、ハッシュの影に隠れる様に歩く。赤毛が隠れ、マギーを知っている者でも、きっと気づかないだろう。
「ねえ、ハッシュ。今から外に出るのは危険じゃないの?」
「問題ねえ、協力者がいるから、そいつに会いにいくだけだ」
ハッシュは、自身が通れるギリギリの細い路地を選んでは、どんどんと街の中央奥深くへと進んでいた。賑やかしい街から一転して、侘しく、人工灯の数も減っていく。
薄暗いと感じる程になった頃、それに合わせて、マギー見られている気がしてならなかった。ねっとりとした嫌な視線が集まって、マギーは背筋に冷たいものが流れハッシュの腕の袖口をギュッと握っていた。
「大丈夫だ。あいつらが表に出てくる事は無い」
そう言ったハッシュは、それらしい視線がある方へと睨みを効かせる。すると、途端にマギーに纏わりついていた視線が無くなった。
「……ハッシュは慣れてるのね」
「もう、此処に来て一年ってとこだ。嫌でも慣れるさ」
ハッシュが再び嫌そうな顔をした。ニルを思い出している時と同じ、憎たらしいものを考えている時の表情。ハッシュの顔が歪むと、マギーは悪い事をしているのが自分な気がして、地面に目を向けていた。
そうやって歩いていると、黒い鉄だらけの街の中から、茶色の錆だらけの場所に辿り着いた。行き止まりにも見えたが、上に登る階段が一つだけある。
錆だらけで、今にも崩れ落ちるのではないか。壁に張り付いただけの簡易的な階段は、手摺りはあるが何とも風通しが良い様で、所々に穴が空いている。しかも、その高さといったら建物の五階に達していた。
マギーは顔を青くしながら、ハッシュの袖を引っ張ると、無言で階段を指差した。
――あれに登るの?
声に出ずとも、ハッシュも察したらしく。軽く、「ああ、五階までな」と返事する。
更には「あんまり落ちる事ばかり考えてると、落っこちるかもな」、と笑って階段を登り始めた。
ハッシュの袖を掴んだままだから、自然とマギーも階段を登るのだが、鉄でできた階段は、段差と段差の間に隙間がある。
それを十段程登った頃、その隙間から下が見えるものだから、うっかりと想像してしまった。そうなると、身体とは言う事を訊かなくなるもので、手摺に捕まっていても足が思う様に動いてくれない。それどころか、手すりに捕まっていないと立てない程に足が震え始めたのだ。
「ハッシュ……」
名前を呼ばれると共に、掴まれた袖がピンと張る。ハッシュは何気無く振り返るも、左手は手摺に、右手はハッシュの袖口を掴んだ状態でガタガタと震える姿に、ハッシュは呆れた目を向けた。
「何だよ、高所恐怖症かよ」
「だって、高い所なんて行かないもの」
今にも泣きそうな表情と震える声に、ハッシュは、それはもう盛大にため息を吐くと、マギーが足止めを食らっている場所まで戻ると、ヒョイっと軽々しく右腕に持ち上げていた。
「暴れるなよ、本当に落っこちるぞ」
マギーは、ハッシュ言う通り大人しくの右腕と右肩にがっしりと捕まると、浮遊感から逃れる為に目を瞑った。
カン、カン、とハッシュのブーツが一定のリズムを鳴らして階段を登る。
それの数を数え様ものなら、マギーは忽ち震え上がって再び浮遊感に襲われた事だろう。だから、出来る限りハッシュの大きなブーツが奏でる金属音を楽しむしかなかった。
そうしていると、音が止まった。
目的の五階に辿り着いたのか、ガチャリとドアノブを回す音がマギーにもはっきりと届いた。
だが、そこはハッシュの家では無いはずだ。ノックも、声をかける様子も無く、ドアを開けた様子にマギーは思わず目を見開いてハッシュの顔を覗き込んだ。
「ハッシュ、勝手に開けて良いの?」
「構う事はねえ、鍵も掛けねえズボラな女だ」
そう言って、部屋の主人の承諾も無しに、ハッシュはズカズカと部屋へと踏み込んだ。
中は、薄暗くランタンの灯を照らして漸く視界が開けるといった具合だ。
ハッシュはゆっくりとマギーを下すと、マギーは降りた足の感触に違和感を感じた。
カサカサと、平でない床の感覚。マギーはランタンを床へと近づけた。すると、床が幾重もの紙で埋まって、足の踏み場も無い状態だったのだ。中には丸まったものがあるが、大抵が何かしら文字や絵が書かれて捨て置かれている。
「踏んじゃったよ?」
「気にすんな、どうせゴミだ」
その紙を踏みつけて、ハッシュは中へと勝手に進んでいく。マギーも、遠慮がちではあったが、ハッシュと離れるのが不安で「ごめんなさい」と、小さく漏らし、くっきりと紙の上に浮かんだハッシュのブーツの跡を飛び石の要領で奥へと進んだ。
よく見れば、部屋の中は机や書棚と一応リビングらしき様子だ。そこを通り過ぎ、ハッシュが二手に分かれた扉の内の一つを開ける。すると……
「メレディス!」
いつまで経っても姿を見せない家主に対して大きな声をあげて名前を呼んでいた。どうやらそこは寝室だったようで、ぼんやりとした星の灯りに照らされたベッドがモゾモゾと動く。「うーん」とトーンの高い声を上げて、欠伸をかきながら、何かが這い出てきていた。
灰色の毛並み、フサフサの尻尾。犬にも似た姿の狼が立ち上がると、再び欠伸と共に、思い切り伸びをする。相変わらず煩いわねぇ、なんてハッシュへ嫌味を向けながら。
「鴉の対処は準備してるんだろうな」
「したわよ、したから一回寝たの」
大きな口が開くたびに、白い牙が覗く。立ち並ぶ姿はハッシュと大差ないものだから、マギーは上を見上げてばかりになる。
ハッシュの背後で、狼の様子を伺っていたのだが、メレディスと呼ばれた狼は、鼻をヒクヒクと動かすと、その首がぐるんとマギーに向く。同時にその瞳には、しっかりと赤毛の少女が映っていた。
「やあ、マギー。初めまして」
その狼からは、女性の声が発せられている。体付きは服を着込んでいてよく分からないが、そのトーンの高い声とメレディスという名前だけが、狼は女の人なのだろうと、マギーに思わせた。
そのメレディスが、初めまして、と言うと同時に差し出された右手に、マギーも右手を返して合わせた。
「……初めまして」
硬い表情のハッシュとは違って、鋭い獣の姿をしたメレディス。オドオドと半身をハッシュに隠したまま、ぎこちなく挨拶するマギーを見て、ただ目を細めてにっこりと笑って見せた。
メレディスは、客人の為だからとコーヒーを用意すると言って寝室から抜け出した。
この家のキッチンは、マギーの家とは違って暖炉はない。どうやって火を熾すのだろうか。ハッシュが無遠慮に、散らかった部屋の中に埋まっているソファーに腰掛ける中、マギーはテーブル越しにひょっこりと顔を出しながら、家の中でも真っ当に片付いているキッチンを覗いた。
小さな鉄瓶とも鍋とも言えるゴツゴツとした鉄壺の蓋を開けると、ジュワッと音が鳴る。火箸でその中の一つを取り出すと、カンカンに赤く染まった石が出てきた。それを、キッチンのコンロの中に一つ落とす。コンロの上にケトルを置くと、暫くしたらコポコポと音を立て始めたのだ。
「この世界ってさ、不思議だけど便利だよね」
「え?」
マギーは、コンロに気取られすぎて、メレディスの言葉を聞き流していた。その事に気づいていないのか、メレディスはそのまま続けた。
「キッチンは、現代よりもずっと古い。でも、永遠に火は消えない。まるで童話なんだけど……でも、電気もあるんだ」
「電気って?」
「人工灯の事。あれは、星の灯も使ってるけど、それを強く光らせるのには電気を使ってるんだ」
この国のどこよりも、明るい、明るい街、ドゥイン。だけど、その技術はドゥインだけのものだ。
「この技術はね、この世界のものじゃない。君が想像した世界に、電気は存在しなかったんだろうね」
あっという間に沸騰したケトルを傾けて、用意していたサイフォンに湯を注ぐと、ポタポタとコーヒーが下側に出来上がっていく。
そのゆっくりとした時間が、メレディスの余裕を表している様だった。
雑多に紙が散らかったままのリビングで、湯気の立つコーヒーが出されるも、マギーは口を付けない。
じっと湯気越しにメレディスを眺めていた。
「それで、いつ決行する?」
ソファーで座ったままのハッシュに、メレディスは話し掛ける。
「次に鴉が来た時だ。奴ら、どうせ監視しているだろうからな」
マギーは二人の会話を聞きながら、懐中時計を弄る。これと言って特徴の無いそれは、天頂部を押すとパカリと音を立てて開く。手持ち無沙汰から、足を揺らしながら懐中時計を何度も開いて閉じてを繰り返していると、向かいに座ったメレディスの瞳がじっとマギーを見つめていた。
「マギー、これからなんだけどね」
肘を突き、頬を斜めにマギーを伺う姿は、オオカミと言えど女性的だ。そう思った瞬間に、マギーは揺らしていた足を止めた。
「さっき言った事」
「電気の話?」
「そう、どうして電気が存在するのかって話」
メレディスは、静かにコーヒーを啜る。
「此処が夢だから?」
「違うよ、君が知っていたからさ」
ここは、夢の世界。
記憶が反映されるが、知識も又、記憶なり。
絵本の世界、現実の知識、マギーの心が思い描いたもの。それが、夢の世界で現実となる。
メレディスは、そう言って欲望にも似た瞳をマギーに向ける。その目は真剣だった。獣同然に鋭い瞳は、強かにマギーを捉える。
「ねえ、魔女って知ってる?」
獲物を見る目は変わらない。だが、メレディスの言葉はマギーにとって現実味から程遠い物だった。
魔女、という言葉で想像したのは、箒に乗ったシワシワのおばあさん。とんがり帽子をかぶって、黒い服。黒猫か鴉を引き連れていたら、もっとそれらしい。
だが、マギーが想像したのは、あくまで絵本の中の魔女だ。
『コラプスの魔女』に出てくる魔女が正にそれだ。子供をネズミに変えて攫ってしまうのだ。最後は、唯一魔女の魔法が効かなかった子供に騙されて、大鍋に落とされて死んでしまう、と言うお話だ。
最近読んだばかりとあって、マギーにとって魔女は良い印象ではないからか、顰めた顔をメレディスに向けた。
「絵本に出て来る、悪い奴?」
「まあ、悪い奴も中にはいるね」
マギーの回答が思ったものと違ったのか、メレディスは頬を人差し指で掻きながら苦笑いで返す。
「おい、記憶がないんだ。急に飲み込めるか」
「何の説明もしてないの?」
「魔法の話はした」
「魔法って、御伽話じゃないんだから」
いや、御伽噺みたいな夢の中にはいるんだけど、と呟きながらメレディスは項垂れてしまった。机に突っ伏してしまったメレディスを前に、マギーは困惑を浮かべながらハッシュに助けを求めた。
「マギー、記憶を思い出そうとした切っ掛けは何だった?」
「ノアが、ここは夢だって……」
「そういや、ノアがどうとかって言ってたな」
目覚めてすぐに、マギーがノアの居所を訪ねた事をハッシュは思い出すも、重要でないと聞き流していたのだ。
メレディスも興味を持ったのか、顔を上げ期待の眼差しを向けていた。
「ノアって?」
「……箒星と一緒に落ちてきた男の子」
箒星?一瞬、メレディスの頭の上には疑問符が浮かんだ事だろう。だが、此処は夢なのだ。そう言った事も、ある筈。と自分を納得させると、テーブルを挟んで前のめりにマギーへと詰め寄った。
「今、何処にいるの?」
「あ……その」
マギーは答えが見つからない。ノアは、自分は死なない、大丈夫と言ったが、しっかりと、その瞬間は見てしまったのだ。
「消えちまったんだとよ」
変わりにハッシュが答えた。
「ノア……大きなハサミで首を……でも、ノアは死なないって」
マギーは思わず首に手が伸びる。それが示すものは、二人にだって想像はついたのか、ハッシュとメレディスは目線を交わすと、再びマギーを見た。
「マギー、そいつって人の姿をしてた?」
「……うん、人の子」
「じゃあ、そいつ、死んでない。目覚めたんだ」
「どうして分かるの?」
「恐らくだけど、私とハッシュと同じなのよ。多分、死ぬ事がスイッチだったんじゃないかしら」
スイッチ?マギーはその真意が見えず、首を傾げる。
「夢から目を覚ます為のスイッチがあるの。私も、ハッシュも無くしちゃったけどね」
「もしかして、私も?」
漸く話が進んだと、メレディスがにっこりと笑った。
「マギー。その子、多分魔女」
「男の子なのに?」
「他に言葉がないから、男も女も魔女。私も、ハッシュも」
マギーは、二人を見比べる。そこには魔女とは程遠い姿のライオンと狼がいるだけだ。
「マギー、あなたも魔女なの」
メレディスの言葉は、マギーの中で、大きな鐘の音の中で打ち付けられている様に、鳴り響いた。
◆
〜♪
オルゴールの音が、マギーの耳に届く。一音、一音の音の粒が、キラキラと星の瞬きを奏でる様に。
そのオルゴールの音に合わせて、楽しげに鼻歌を歌う少女は腕にお気に入りの猫の人形を抱えながら、暖炉の前でスケッチブックとクレヨンを散らかして落書きに勤しんでいた。
暖炉の前に敷いてあるカーペットは、フワフワと動物の毛を思わせるが、偽物なのだと誰かが言った。寝っ転がって、足をゆらゆらと交互に揺らしながら描くのは、箒に乗った少女自身だ。
『マギー、魔女は箒になんての乗らないのよ』
同じく暖炉の前でロッキングチェアを揺らしながら、誰かが言った。少女が、そちらに向けて顔を上げると、少女と同じ赤毛の大きな人が、暖炉の灯りでオレンジ色に染まった部屋の中で、ゆったりと微笑んでいる。
『じゃあ、どうやって飛ぶの?』
『変身するの。鴉か、蝙蝠』
『えー、どっちも嫌』
『じゃあ、梟は?』
『んー、やっぱり箒が良い』
そう言って、少女は再びスケッチブックに目を戻すと、続きを描き始めた。
満月を描いて、星をこれでもかと言うくらいに描いて。あと、流れ星も。
『マギーは魔女になりたいの?』
『うん、怖い魔女じゃないよ。楽しいの。お空を飛んで、色んなところに行くの』
『……そう』
女性の声が、少しばかり小さくなった。僅かな変化に少女は、再び女性を見上げるも、その顔が悲しげに目を細めている。
『お母さん?』
少女は、母と呼んだその人の表情が只事では無いと膝に擦り寄った。
『マーガレット』
不安げに膝に縋りつき、女性のスカートを握り締める。女性は、少女の頬を両手で包み込んだ。幼児らしく、赤く染まった頬に、暖炉の熱で温まった身体。
愛しい子、とその人は呟く。
『マギー、忘れないで。魔女に奇跡は起こせない。奇跡を起こせるのは、夢の中だけ』
――夢の中では、全てが貴女の思いのままよ
◆
記憶が、はっきりとマギーの脳裏に宿った瞬間だった。少女……マギーは、はっきりと女性を『お母さん』と呼んだのだ。
頭を分厚い本で叩かれた様な衝撃に、マギーは目を見開いたまま固まってしまった。
「マギー?」
メレディスは、思わず前のめりにマギーに手を伸ばそうとするも、それよりも早く、ハッシュがマギーの背を撫でた。
「大丈夫か?」
マギーの目線は何も捉えていない。
「マギー」
ハッシュは、何度か名前を呼ぶ。最初の荒々しい印象とは違い、背中を撫ぜる手は温かい。ただ、記憶の中の手とは違って、大きくて慣れない感触もある。多分、肉球だろう。
マギーは、ゆっくり背を撫でるハッシュを見上げた。荒っぽい表情が地顔なのか、優しさとは程遠い。此処から出たいから、優しくしているのだろうか。それとも――
「……ハッシュは、何で夢の中にいるの?」
マギーに沸いた疑問だった。
ノアにしてもそうだが、マギーはそれまで言われるがままに行動していた。言われるがままを信じて、鵜呑みにしてたからこそ、一番の問題を見落としている。
此処は、マギーの夢だ。
そもそも、どうやって入ったのか。何が目的で、此処にいるのか。記憶が戻ると共に、思考が目覚め始めていた。
マギーの問いに、ハッシュは頭の後ろを抑えながら目を逸らした。どうしたものか、と悩んでいる様にも見えるが……
「俺は――」
と、語り始めた矢先だった。
カンカンカン――、と階段を駆け上がる金属音が激しく家の中まで鳴った。五階まで止まる事なく駆け上がるその音は、戸口の前で止まると同時に扉を勢いよく開いた。
「メレディス!来たぞ!」
ワニの頭が、扉の隙から飛び出たかと思えば、若い男の声で慌てている。大きく開いた口が、ずんずんと慣れた調子で部屋の中へと入ってきた。ハッシュと同じで、散らかっている紙など気にも留めていないのだろう。
「来たって、今何時?」
メレディスは、部屋の壁に掛かった鳩時計を見る。針は、五時半。星が出始める頃あいだ。
「そこら中で鴉共が監視してる。どうする」
じゃあ、とメレディスは立ち上がる。
「マギー、残念だけど、話は此処までだ」
ニヤッと口の端を吊り上げて、急足で寝室に向かう。何が始まるのか見当もつかないマギーだけが、きょろきょろと頭を動かして、戸惑いを隠せない。
そうこうしている間に、メレディスが大きなズタ袋を肩に担いで戻ってきた。
仄かに発光して、ズタ袋自体が光っている様にも見える。それをテーブルの上に、どんと置くと、ごろごろと中で動く音がした。
「これって、星?」
「そうだよ。ずっとさ、集めてたんだよね」
「そんな所に入れていたら……」
「光が逃げるね。大丈夫、今日の為に集めたものだから」
メレディスが一個だけ取り出して、状態を確認しているのかまじまじと眺めると、問題なさそうだ、と言ってズタ袋に戻し、ズタ袋をワニに渡した。
「あいつら、この街がはみ出し者と思って侮ってるんだ。徹底的にやってやれ」
メレディスの目に、狂気が満ちる。御伽噺とはかけ離れた……いや、悪い狼さながらのその姿に、マギーは後ずさる。
何だったか、狼が女の子を食べる為に待ち伏せする話。そんな、童話の狂気を思い出す。
マギーは、気づいた。今まで、いかに自分が、守られていたかを。自分が生きていた範疇こそが、御伽噺であったのだと。
マギーは、ハッシュに抱き上げられながら外に出た。
どうせ怖くて降りられないだろ?と言う。既に夜が始まりつつある中で、移動を開始する事態にも驚いたが、一歩外を出ると、マギーは空の黒さに息を呑んだ。
バサバサと空を鴉が埋め尽くす。
カアカアと、丁度メレディスの家の真上を中心として、ぐるぐる旋回を続けていた。
その中で、一羽がゆっくりとマギー達に近づき、近くの建物で羽を休める。
「ハッシュ、以前の事を懲りていないのか」
そうすると、次々と鴉達が喋り始めた。
「間抜けな、ハッシュ。本当の姿を奪われた」
「大事な記憶を奪われた」
「間抜けな魔女共、魔術の使い方も忘れちまった」
「覚えていても仕方がない。何せ、帰りたくとも帰れない」
カアカアと、更に湧き上がる笑いで空が埋まる。
「クソ鴉ども。よくまあ、集まったもんだ」
マギーは、ハッシュが汚い言葉を発する度に、ハッシュをじっと見る。何で、わざわざ、そんな言葉を選ぶのか。と言いたいが、そこに憎しみも篭っっているものだから、下手に口に出来ない。
「まあまあ、あいつらは所詮、下っ端なんだから。悪態吐いたって無駄ってものよ」
さて、とメレディスは肩に手を当て、ぐるりと回す。気合いを入れているのか、ふう、と息を吐く。その瞬間、
「走るぞ!」
メレディスは足に力を入れ、そのまま階段を蹴った。
此処は、五階。飛び降りたメレディスを追う様に、ハッシュと近くに居たワニも動いた。
「口閉じて、目瞑ってろ」
マギーは一瞬で顔が青ざめた。ハッシュが何も言わなくとも、これから何をするかは予測できる。
マギーは、ハッシュにしがみついて目と口をギュッと閉じた。
ふわりと浮く。かと思うと、ほんの数秒後、ドシンッ――と大きな音を立てて、マギーにも着地衝撃が伝わる。そのまま、上下に揺れるものだから、マギーは目を開けた。
メレディスを先頭に、一行は街の中心街へと向かって走る。細い道を抜け、大通りへと出ると待ち構えていたと言わんばかりの鴉達が一気に滑空し始めたのだ。
普段空を舞っているだけなのに、一直線で嘴を向けて鴉の群勢が襲ってくる姿は、まるで一体の怪物の様。メレディスがチラリと背後を振り返りながら声を荒げた。
「カート!用意は!?」
「出来てる!」
それに返事をしたのは、メレディスとハッシュに遅れを取らない様に必死に走るワニだ。大きな口が開きっぱなしになって、更には手荷物もあって走りにくそうだ。それでもワニは、鴉達に追いつかれまいと短い後ろ足を必死に動かしていた。
マギーは再び前を見る。既に夜が始まりつつあるからか、道はがらんと人通りは無い。
その先に、開けた場所が現れた。円形状に開かれたそこを、鉄色の建物がぐるりと囲い、四方への道を作る。その中央に、大きな、機械仕掛けの時計が待ち構えていた。
黒く膨らんだ、半身とも言える下部の構造は、パイプが張り巡らされて、そこかしこの建物へとつながっている。上部だけがほっそりと、何かのタワーを思い出す。その先っちょに、四方に向けた時計が飾り物の様に取り付けられていた。
その大時計は、街の明かりに照らされて鉄色よりもずっと黒く鈍く光り、街の中心で静かに佇んでいた。
大時計に近づくと、カチリ、カチリと歯車が動く音が鳴る。その音と共に分針が丁度六時を指した。その瞬間、そこかしこから、ゴーン――と鈍い鐘の音が鳴る。四方に向いた時計と同じ方向、周りを囲む建物の上には大きな鐘が、大きな歯車が回るとともに揺れ始め音を鳴らしたのだ。
重苦しい音を鳴らして、街が動き始めた。
耳の中が、鐘の音でいっぱいになりそうだった。マギーは堪らず耳を塞いでいたが、ハッシュもメレディスもカートも平然と時計に近づく。
そんな中、空がそれまで以上に騒がしくなった。鴉達が、鐘の音と共に、野太くガアガアと呻き声を上げ始めたのだ。軍列を組んでいた鴉達は乱れ、荒れ狂う様に空を舞っていた。
マギーは耳を塞ぎながらも、空を呆然と見上げるなか、メレディスは時計の下部についていた取手に手を掛け、勢い良く開いた。
そこに、後から辿りdp着いたカートが星をずた袋を逆さまに、ゴロゴロと入れていく。キラキラと光る星達が、時計の中で、暗闇を照らす。
メレディスは、星の輝きを確認して、扉を閉めると星を閉じ込めた。
そして、星を取り込んだ時計が、少しづつ光り始めたのだ。
最初は鈍く、そしてほんのりと明るくなる。段々と輝きは増し、その明るさは、再び星や月の輝き以上をマギーに思い出させた。
――太陽みたい
ノアが乗ってきた箒星にも勝るとも劣らない輝きになった頃、鴉達の呻き声が、叫びに変わった。
「ギャアァァァ!!!」
烏合の衆に成り果てた鴉達は、叫び声を上げ、一羽、また一羽と声を失くした者からポトリ、ポトリと力無く地に落ちていった。
鐘も鳴り止み、鴉の鳴き声も消えたそこに残ったのは、太陽程に眩しい光と、マギー達。そして、事をひっそりと陰ながら見届けていた、街人達だった。
鴉の羽ばたきで、家々に隠れ息を潜めていた者達も、騒ぎが静まった事で姿を現したのだ。
そんな中、誰かが言った。
「太陽だ……」
その懐かしい眩しさに、呟きは広がっていく。ゾロゾロと、雑多な声が広がりの中には、瞳は潤み揺れ、想い馳せる者、啜り泣く者すらあった。震えた声で、帰りたい、と。
そして、その中の一人がマギーを視界に捉えて言った。
「マギー、お願いだから俺たちを解放してくれ」
「帰りたいんだ」
「なあ、もう良いだろう?」
姿形が様々な動物を模した人々は、マギーに擦り寄る様に近づいたが、マギーの耳には声は届いていない。マギーの視線は、じっと太陽の輝きを見つめたまま離れなかった。
◆
照りつける日差し。マギーは掌で太陽の光を遮った。
暑い、干からびそう。昨日、カラカラに干からびたトカゲを見たからか、もしかしたら自分もそうなるのではと、萎んだ姿の自分を想像しながら、マギーは家の外に居た。
家の外と言っても、目の前は凸凹でまともに舗装もされていない茶色い田舎道で、その向こうも草原が広がっているだけだ。家の背後も雑木林が続いている。
下手をしたら、凸凹な道に一台も車が通らない日すらある長閑で小さな村の端っこにマギーの家はある。
以前、二キロ程、凸凹道の先にある家の男の子に電気は通ってるのか、と揶揄われた事もあるぐらいだ。
勿論ある。古ぼけた自家発電機が、毎日轟々と唸って頑張っているのをマギーは知っている。時々、力尽きて停電も起こるのだけど、と付け足さねばならないが。
その何も無い草原で、マギーは時間を潰すしか無かった。
家の中には客人が居る。黒く真っ直ぐに伸びた長い髪の女の人。彼女は青い瞳が細まって、にっこりと微笑みながら、「私はモルガナの友達なの」と言った。親しげに母の名前を呼ぶ姿は、馴れ馴れしいとも人懐こいとも言える。
ただ、名前を呼ばれた当人は眉毛を歪ませ、マギーを叱りつける時よりも怖い顔をして、友達とやらを睨んでいた。
流石に友達というのが方便である事は理解できる。だから、マギーを外に出てる様に言い付けたのだ。
そう大きくもない家だけれど、二人の声など外に漏れもせず、家は無人かと思う程に静まり返っている。
マギーは、いつものスケッチブックと色鉛筆、そして一等大事にしている人形、猫のニルを連れて草原に寝そべりながらも、何度も家を横目に見た。
今の所、誰も出てくる気配もない。
「ねえ、あの人は何の話で来たのかな?」
マギーは、スケッチブックに適当な線をぐるぐると意味も無く描きながら、直ぐ横に置いていたニルに話し掛けた。
ツギハギだらけの人形は座りだけはしっかりしていて、草原の上で尻尾でバランスを取りながら、ちょこんと座っている。
マギーが話し掛けた所で、ボタンの目は動かない。勿論、口もだ。
だが、マギーの声に、それは答えた。
『あれは友達じゃないよ』
ニルから聞こえた少年の声に、マギーは平然と返す。
「知ってるよ」
マギーは寝そべり脚をゆらゆら動かしながら、もう一度家を見た。
『マギー、あいつは魔女だよ。気をつけないと』
「お母さんも、私も、魔女だよ」
『そうじゃない、あれは、悪い魔女だ』
悪い魔女。マギーにとって、それこそ絵本の中の存在だった。子供を食べる魔女、人を呪う魔女、それから――マギーは、思いつく限りの悪い魔女らしき存在を思い浮かべるも、レパートリーは少ない。
「でも、どうして悪い魔女って分かるの?」
『勘だよ。それに、お母さんも良い顔してなかっただろ?』
それには、マギーも力無く、うんと頷いた。あんなに怖い顔したお母さんを見るのも、初めてだった。
マギーは握っていた黒い色鉛筆に力を込めると、ぐるぐると無意味に描いていた線を更に何重にも重ねていく。次第に、線は黒く染まる。
「悪い魔女なら、やっつけないと」
ぐるぐる、ぐるぐる。水溜まりみたいに、黒い渦は広がっていく。
「クローゼットのお化けが、全部飲み込んじゃうんだから」
無邪気に言葉を吐きながら、マギーは照りつける暑さも忘れて、スケッチブックを黒く染めていった。
◆
鴉で一面が黒く染まった時計広場。マギーは思い出した記憶に言葉を失った。
はっきりとした、思い出にも近い記憶の中で、親身な存在だったニル。
ただ、本物の人形だったのだ。ちょこんと座ったまま、身動ぎの一つもしないが、人形の声は確かに聴こたのだ。それも、この世界のニルと同じ声、同じ話口調、更には同じ姿でだ。
眩しすぎる程の太陽の記憶は、マギーが予想だにしない程に非現実的で、今までが夢見心地に思える程の衝撃が脳天に直撃して、瞬きすら忘れていた。
光を見つめたまま動かないマギーに、腕に抱き上げたままだったハッシュが、顔を覗き込む。それでも、マギーが眉一つ動かないものだから、流石に心配になるというものだろう。
「おい」と、一言声をかけると、流石に瞼がぴくりと動いた。目をパチクリとさせてから、ゆっくりと覗き込むハッシュと目線を合わせてはいたが、その顔は惚けたままだ。
「ねえ、魔女って人形とお喋りできるの?」
呆然とした顔で、惚けた言葉。ハッシュは、夢見心地のまま出た言葉でも真剣に返していた。
「そう言う事が出来る奴もいるな。大抵、人形に命を吹き込むんだが」
俺は出来ねぇ、と荒っぽく返す。マギーの記憶の中にあった、絵本の魔女には当て嵌まらない姿。
「お前が、そういった事が出来たってのは、聞いてる」
「お母さんから?」
お母さん、という言葉に違和感を覚えながらも、マギーはその言葉を吐露する事に迷いは無かった。
「そうだ。俺と、モルガナは、……古い友人だ」
モルガナ、という記憶で見たままの名前が、さも当たり前に登場する。親しげで、何度も呼んだ事がある、慣れた口調。
記憶の中で、お母さんの友達なるものに良い印象は無かったものの、ハッシュが目を逸らして遠くを寂しそうに見つめる姿に、マギーは、何となくではあったが嘘ではないと感じた。
「メレディスも?」
「知らねえな、あいつは俺より前から此処にいるが……此処らにいる奴らは、同時期に此処に来たらしい」
「みんな、箒星に乗ってきたの?」
「なあ、その箒星に乗ったって何なんだ?何かの比喩か?」
マギーは言葉のままを伝えているつもりだったのだが、ハッシュは首を傾げるばかりだった。
「ノアは、箒星に乗ってきたよ?」
「俺は、あの家で目が覚めただけだ」
この姿でな、と鼻を鳴らしながら言う。
どうにも、ライオンの姿は気に入ってはいないらしい。
ただ、どうにも噛み合わない事だけが、疑問を生んでいた。
「マギー」
マギーに覚えの無い声が、漸く耳に届いた。か細くも、弱々しい声。街の住民達の目線が、マギーの近くに集まっていた。
触りはしない。マギーがハッシュの腕の中から降ろされても尚、誰も近付けなかった。虚な目の奥底には憎悪がある。同時に恐怖も。
重苦しい視線がマギーに纏わりついていたが、街人達はマギーに視線を送るだけに留まっていた。
まるで、マギーが元凶なのだと告げる様に。
夢の中で、自分がスケッチブックに描いた何か。『クローゼットのお化け』が悪い魔女をやっつけるとは言っていた。
だからと言って、記憶の中の自分が何かをしたという事実だけで、マギーは街人達の視線を受け止める事は出来ない。
視線を逸らし、自然とハッシュに寄りかかる形で、ハッシュの裾を摘む。ハッシュは決してその手を振り払いはしない。そっと移動すると、街人の視線を遮っていた。
「おい、メレディス。こんな大袈裟な事しておいて、これからどうするつもりだ」
少しばかり距離の空いていたメレディスに向かって、ハッシュは声を上げる。
「いやぁ、うまくいき過ぎちゃって」
それまで、カートや他の仲間らしき人物達と話し込んでいたメレディスは、ハッシュに話しかけられた事でコソコソと隠れるマギーに目線を落とした。
メレディスは、マギーに懐中時計を見る様に自らの胸元をトントンと指差す。マギーは、慌てて時計を覗くと、まだ針は六時を指してはいない。
時間をずらして態と鐘の音を鳴らしたんだよねぇ、爆音で。とニコニコと上機嫌だ。
仕込みは、ハッシュがマギーを見つけたとメレディスに報告した時から始まっていた。その上機嫌の笑顔は、ハッシュに近づき、マギーを引っ張り出す様に抱き上げると、わざとらしく街人に見せつける。
「メレディス!?」
戸惑うマギーとハッシュを他所に、メレディスの口に端が吊り上がり牙がしっかりと見える悪い狼さながらの嫌な笑みを浮かべた。
「こいつらはさ、君の事恨んでるんだってさ」
さもありなんと、愉楽を込めた瞳がニヤッとマギーを捉える。
「皆、帰りたがってる。この連中は、君の事知ってるよ。今までは、あの猫に守られていたけど、どうする?」
「おいっ!」
ハッシュがメレディスの口を塞ごうとするが、背後から幾人もの街の住人達がハッシュを取り押さえていた。「離せっ!」と乱暴に力を振るおうとするも、流石に数の多さに圧倒される。
「ハッシュもさ、巻き込まれたんでしょ?別に庇う必要は無いんじゃない?」
街の住人達の目の色が変わっていた。虚な目から、その奥底に溜まっていた憎悪が滲み出る。その対象は、勿論、マギーだ。
「メレディス……私……」
「ねえ、どうする?ハッシュは助けてくれないよ?自力で逃げなきゃ」
「脅したって、何もならねぇ!メレディス止めろ!」
焦るハッシュの力は凄まじかった。野生の獣を思わせる獰猛さで前に出ようとするが、止める側も必死だ。見た目がどれだけ変わろうと、中身が人であると、良く知っているから些細な違い程度なのだろう。
「ほら、無理そう」
マギーは怯え、周りは混乱にも近い狂気が渦巻く中、メレディスがただ一人、愉し気に嗤う。
メレディスが怖い。押し迫る憎しみよりも、恨みよりも、何を考えているとも判らない、メレディスの愉しそうな表情が、何よりも怖かった。
口の端が吊り上がるたびに、オオカミ特有の牙がギラつく。メレディスの腕の中で、マギーの恐怖が高まっていた。
ゴーン――と、虚をついた音が広場に響き渡った。それも徐々に、徐々に速くなり、幾重にも音が重なる。上記を逸脱した鐘の鳴り方に、誰しもが恐怖した事だろう。
先程聞いたばかりの鐘の音に、時計に視線が集まる。時計の分針がグルグルと秒針の如く動いて駆け巡る。そして、それは九時を指すと、ピタリと止まった。と、同時に鐘の音も同時に鳴り止んだ。
「……夜が来る」
誰かが呟いたと同時だろうか、それ迄憎しみに囚われていた者達の目が、恐怖一色で染まった。燦然と輝いていた、時計の光も段々と闇に飲まれるが如く消えていく。
深い夜が始まる。
「うわあぁぁ!!」
恐怖は感染する。誰か一人が耐えられなくなり叫び声を上げた瞬間、誰も彼もが建物目指して走り出した。我先にと前に行こうとするも、弱い者は押しのけられ押し潰され、混乱で阿鼻叫喚とした広場。
そして、時は来た。
黒い闇が、大津波の勢いで街にやってきたのだ。どれだけ明るい街だろうと、飲み込まれる。街を覆った暗闇が、逃げ惑う人々をあっという間に、貪っていく。
街の中心である時計広場で、メレディスだけは落ち着いていた。もうそこまで、暗闇が迫っているというのに、怯える様子もない。
「メレディス!もう間に合わなくなるぞ!」
ハッシュを抑えていたカートが叫ぶ。その声で、それ迄ハッシュを抑えていた者達の中の何人かが、「ひっ」と小さく呻きながら手を離し逃げていった。
ハッシュは、それ迄抑えていた人数が減ると、力尽くで振り解き、残っていたメレディスの仲間を吹き飛ばす。直様メレディスに駆け寄るも、邪魔をするなと、ハッシュに何も無い右手の掌を向けた。
「メレディス!」
ハッシュの声で、メレディスの意識が僅かにマギーからそれた。その僅かな隙、確かに子供一人の重みがあったはずの左腕が、ふっと軽くなる。とん、と軽く胸を押しのけられ、メレディスから離れたマギーの目には何も映っていなかった。
マギーが離れた瞬間、暗闇が全てを覆い尽くした。
「マギー!!」
ハッシュは、視界が遮断される寸前にマギーに手を伸ばすも、その手に触れるより前に、全ては暗闇の濁流に飲み込まれた。
目の前が、完全な暗闇に支配され、誰もが闇に飲まれたものと思った事だろう。四方八方、上も下も、全てが虚無の闇だ。嵐の真ん中にいる様な轟音だけが続いて、それ以上何も感じない。それでもお互いの気配だけは、鮮明に感じていた。
メレディス、カート、もう二人のメレディスの仲間。ただ、目の前にあった筈のマギーの気配が消えていた。その代わりに、強く濃い何かの気配が、マギーが居たであろう場所から感じる。
そこが嵐の中心にであるかの様に。
そこに立っているのは、小さな女の子の筈だ。視界は無い。誰かが、何か声を発した訳でもない。なのに何故か、そこに居るのは別の何かの様な気がして、ハッシュは警戒しながらも、もう一度だけ名を呼んだ。
「マギー」
マギーが居た筈のそこに手を伸ばし、まだマギーがそこにいる事を願った。この世界に取り残された事は恨んだのは確かだ。ただそれは、もうこの世界の住人いなるしか無いと諦めていたのもあったからだった。
「マギー、お前が暗闇を操っているから、俺が飲み込まれないのか?それとも、俺は何も判らなくなっちまったのか?どっちっだ?」
藁にも縋る思いで伸ばした手の指先に、何も無い暗闇以外の感触があった。
もうなりふり構ってはいられ無い。ハッシュは触れた先を力付くで掴んだ。マギーであってくれと、願い掴んだそれは、細い人の腕ではあった。ただ、
――何だ?
小さな女の子の腕というよりは、大人を思わせる。鶏ガラみたいに細っこい事に変わりは無いが、一回り大きく感じるのだ。自分が掴んでいるものが、肌触りから人の腕程度の感覚で殊更、体温も感じ無い。棒切れでも掴んでいるのかもしれないと感じても、その手を離す事がハッシュには出来なかった。
何故だかそれが、マギーの様な気がして。その腕も、ハッシュの手を振り解こうとはしない。
「……ハッシュ」
轟々とした音の中から、少女でない、か細い澄んだ声がハッシュの耳に届く。今にも、暗闇に飲み込まれてしまいそうな程、弱く、儚い声。
ハッシュは消え入りそうなその存在の手を、これでもかと、強く握った。
自身の体温が伝わる様に、声が届く様に。
夢の世界から出たいという想いだけでは無い。ハッシュもまた、忘れていたのだ。大事な記憶を――
「飲み込まれるな!この力は、お前自身だ!」
心の底から叫ぶ声。激しくも、その声は温かい。ハッシュの手の中で、何かがドクンと脈打った。
◆
どこを見ても、真っ暗。此処は、夢の中?今、立ってるの?座ってるの?寝転んでるの?
自分が何処にいるかも判らないのに、左腕がほんのりと温度を感じる。フサフサの毛並みが左腕をくすぐって、暖炉の前のお気に入りのカーペットみたいな感触だ。
でも、あれは偽物。じゃあ、この触り心地は本物?ふわふわであったかくて、でも、握ってる所はフニフニしてる。
そうだ、肉球の感触。毛はふわふわで温かいのに、肉球はちょっぴり冷たい。
この腕を掴んでいる人はどんな姿だろう。
ぼんやりとした頭の中で、ふっと浮かんだのは、ライオンだった。あの立髪は、抱き上げられた時に顔に当たって、実はくすぐったいのだ。
「……ハッシュ」
そう、ハッシュ。あれ、夢と違う。声が出る、そもそも手の感覚がある。
腕をしっかりと握られて、痛いけど、嫌じゃ無い。
――飲み込まれるな!この力は、お前自身だ!
ハッシュが、呼んでる。これは、いつもの夢じゃない。行かなきゃ――
◆
轟々と唸り続けていた暗闇が、ピタリと止まった。音が止まると、今度は大きく風が吹く。
また、嵐だ。街ごと吹き飛ばす勢いで風が吹く中、その風に暗闇が飲み込まれていく。
ハッシュはマギーの腕を右手で掴んだまま決して離さなかった。
嵐の中心は、マギーだ。自身も飛ばされそうな突風の中、マギーを守る様に覆い被さる。
竜巻にも似た黒い渦が空高く立ち登りまた別の何かに姿を変えたかの様にも見えたが、その暗闇はマギーの中へと吸い込まれ、すうっと煙同然に消えていった。
暗闇が無くなり、風も止むと、辺りに残ったのは静寂だった。鴉の死骸は全て暗闇に飲み込まれたのか、一羽として見当たらない。代わりに全てが夢だったと思える程に元に戻った広場では、気を失った者達で溢れていた。
静まり返った事を確認して、ハッシュは警戒しながらも覆い被さっていたマギーからゆっくりと離れる。すると、澄んだ瞳の少女が照れ臭そうに見上げていた。
温かい手の感覚が、今もマギーの中にしっかりと残っている。
「ハッシュ、ありがとう」
ハッシュは、小さく「あぁ」と返す。
頭の上に手を置いて、ポンポンと軽く頭を撫でる。
そんな中、ハッシュが動いた。マギーを背後に隠し前に出る。ハッシュの視線の先は、メレディス達だった。メレディスも又、鋭い眼光をマギーに向けていた。
「ハッシュ、何をそんなに警戒しているの?」
メレディスは、いつだって余裕だ。マギーは、ハッシュの影からメレディスを除くと、変わらずにんまりと笑っている。
今の今まで、混乱の最中だった筈。その証拠か、カートともう二人の仲間は、頭が重いのかやっとの事で立っている。なのに、メレディス一人が何事も無かったかの様にそこに佇んでいるのだ。
「元々、この世界から脱出するために手を組んだじゃない。予定通り、この世界に魔女の定義が組み込まれたのよ?何か不満?」
態とらしく首を傾げて、ハッシュと向き合うメレディス。
「お前と手を組むのも、これまでだ」
ハッシュは、背後にいるマギーに向けて右手を差し出す。その手に触れろ、とでも言っているのか、指がマギーを拱いて小さく動いている。
マギーは迷わずその手を取った。
「鴉共を退治してくれた事は感謝するが、お前のやり方は荒すぎる」
「何言ってるの、ハッシュが言ったんじゃない。どんな手を使っても、帰りたいって」
マギーは思わずハッシュの手を握る力が強張る。
マギーは一度失敗した。マギーに記憶は無いけれど、ハッシュは覚えている。それが、憎しみとなって残っている事も。それでも、暗闇で必死に叫ぶ声を聞いた今、マギーは強張ったままの手を離しはしなかった。
「ああ、今は後悔してる」
ハッシュは、メレディスに敵意を見せつつも、その顔はすっきりとしていた。
「お前が派手な事をしてくれたお陰で、俺も思い出した事がある。それに関しては感謝する」
すっきりとした表情は、マギーの手を確りと握ったかと思えば、足元の影が動いた。
足元の影は大きくなり、二人を覆った。
「じゃあな」
ハッシュの最後の言葉と共に二人の姿は影に飲み込まれ、水溜まりに石でも放り込んだ様に、ドプンと音を立てて、その影も消え去った。
何も無くなったそこで、笑っているのは、メレディス一人だけ。
慌てたのは仲間の内の一人の羊だった。
それなりにお互い信頼していると思い込んでいたのもあり、ハッシュがマギーを連れて逃げる事は予想外だったのだ。
「おい、メレディス!逃げちまったぞ!?」
羊はメレディスに詰め寄るも、危機感の無い変わらず楽しそうな顔がニヤニヤと笑っている。
「大丈夫、ハッシュが力を使ったって事は、成功したんだから」
二人が逃げた事など、どこ吹く風と、今にもスキップでもしそうなほどに上機嫌なメレディス。
実際、マギーが暗闇を操った事は事実で、それはマギーが魔女である事を思い出した証だ。だからこそ、ハッシュはマギーを連れて逃げてしまったわけだが。
それを踏まえても、メレディスの様子は不可思議だった。
「おい、どうした」
流石に心配になったのか、カートが近寄ると、メレディスは笑うのを止めた。
「私も、思い出したよ」
それまでとは打って変わって、ぎらりと目が光る。その目に映るのは、解き放たれた羊達だ。
「お前……」
「カート、どうする?」
メレディスの瞳の奥底にある、深い闇が見える。カートはただ静かに、頷いた。
◇
〜♪
『夜空がキラキラと輝く夜の国……』
また、あの声だ。声の後ろで、知らない音楽が掛かってる。でも、嫌いじゃないよ。
『決して太陽は登らないけれど、月と星の光が国を照らしてる。小さなマギーは、黒猫のニルと一緒に夜空を見上げた。
二人は旅の途中。さて今度は何処に行こう。
フラムに星を拾いに行く?
それとも、魔女の古城に行ってみる?
それとも、輝く街ドゥインはどう?
二人は手を取り合って、星灯のランタンで道を照らしながら、何処へ行くとも迷いながら歩き始めた……』
あれ?止まっちゃった。続きも聴きたいな。
ねえ、お母さん。
『モルガナ、様子は?』
今度は、男の人の声……あれ?
これって……ノア?
◆
暖かい感覚が、マギーに朝をもたらした。特に背中、前は毛布を纏っているから十分に暖かかったが、背中の体温がぬくぬくとマギーを毛布の中に留まらせた。
何処ともしれない小さな火鉢に火が焚かれているだけの何も無い小屋。真四角で、他に部屋も無いのか、入口は窓の側に一つだけ。その小屋の中、ハッシュはマギーを抱き抱える形で、壁にもたれて眠っていた。
――此処、何処だろう?
マギーは、ハッシュを起こさない様に身を捩り、唯一の窓に目を向けた。ヒビが入って、今にも窓は粉々に砕け散りそうで、何も見えやしない。
マギーはもう一度、同じ場所に収まると、昨日の出来事を思い出した。p夢だったのだろうか、と一瞬考えるも、ハッシュと今二人でいる事が幻でなかったのだと実感させる。
マギーは確かに九時の闇を取り込んだのだ。
そっと、自分の胸に触れ、其処に何かがいるのだと。そして、ハッシュの力で此処まで移動してきたのだろう。真っ暗闇に取り込まれて、その後の記憶は無い。
「影を移動してきたのかな?」
「あぁ、そうだ」
マギーの肩がびくりと跳ねた。うっかりと口から声が漏れていた事もだが、てっきりまだ眠っていると思っていたものだから、心臓が飛び跳ねそうな程だった。
マギーは振り返り上を見上げた。まだ眠気の中にいるのか、とろんとした目の猛獣の首が、ゆらゆら揺れている上に、大欠伸をかいている。
「ハッシュ、眠いの?」
「あぁ、肉体の方が限界らしい。もう少し寝る。大人しくしてろよ……」
そう言って、ハッシュはもう一眠りと目を瞑った。もう最後は、ふにゃふにゃとした口調で、呂律も回っていない。どうにも相当に眠い様だ。
ハッシュの様子からも、一応安全な所にいるのだろう。暫く眠っているのであればと、マギーは、ハッシュの腕の中から抜け出すと、唯一の扉へと向かった。
ドアノブに手を掛ける前に、マギーは念の為時計を見る。
針は七時を指して朝なのか、それとも夜に入ろうとしているのかどちらかよく分からない。何時だろうと、外に出ても問題はないのに、マギーは少しばかり怖気付いていた。
変わらない世界がそこにある筈なのに、未知の世界の様で。
――マギー、ここは夢だよ
ふと蘇るお守りの言葉。そう最初に言った、ノアの言葉がマギーの背を押した。もしかしたら、ハッシュも同じ事を言っていたかもしれない、なんて考えながらマギーはドアを開く。
ぎぎ、と重たい扉が鈍い音を立てる。錆びついた蝶番が、扉を重たくしていた。マギーは身体をドアにくっつけてめいいっぱいの体重を乗せて扉を押す。
ぎぎ……ぎぎ……と煩く叫ぶ扉を無理やり押すと、やっとマギーが通れるだけの隙間が開いた。
扉の向こうは、森か、雑木林か、鬱蒼とした木々が続いて奥底は真っ暗だ。
マギーは、ふうと大きく息を吐いて空を仰ぐと、キラキラと輝く星屑が、その瞳に映る。
平穏だった日々と、何も変わらない景色は、今も尚続いている証拠だ。
――ニルと過ごしたのが、ずっと昔だった気がする
夢と現実が入り混じり、幻ばかりが過ぎ去りつつある。ニルと別れて、何日がたっだだろう。たった数日の日々が、目まぐるしく過ぎ去った。
ふと、頭にニルの姿が浮かぶ。マギーの手が、自然と懐中時計を握っていた。
――なんで、ニルは懐中時計を渡してくれたんだろう
何の飾り気もない、銀色の時計は今はずしりと重たい。
帰って来ないと思ったから?それとも――
マギーの記憶の中で、ただの猫の人形が身動ぎ一つせずに、マギーの名前を呼んでいた。
◆
「鴉が死んだ」
ニルは家の前で座り込み、月を見上げて、ぽつりと呟いた。その手には、マギーのスケッチブックと黒色の色鉛筆が握られている。スケッチブックは真っ黒に染まって、小さな赤毛の女の子を飲み込もうとしている様子が描かれていた。
絵は拙くも、禍々しい。
新しいページを開いて、はあ、と一息吐くと家の中で、古時計が九つの音を奏でた。九時を過ぎたのにも関わらず、星の瞬きを残したまま、世界は静かだ。
「あいつら、言う事を聞いていれば良かったのに」
それは、死んだ鴉への言葉だったのだろうか。ニルは、態とらしく大きくため息を吐いて、「あーあ」なんて言ってみせる。ニルが指示したのは、監視だけだ。恐らく、鴉達はニルの指示を無視してマギーを連れ去るつもりだったのだろう。
マギーが創った、マギーの為の世界。その源は、やはりマギーだ。
マギーの心が揺れれば、世界は乱れるし、マギーが世界を壊そうとすれば、この国の住人は必死になる。
何たって、夢だもの。幻は、煙の様に消えて跡には何も残らない。
マギーの力で出来た世界は、永い時の中で、住人たちは独自の意志が芽生え、各々動いている。
芽生えた意思は、消える事を恐れるようになった。一度、経験してからは尚更に。
自らが、夢の住人だと知っていても。
ニルは握っていた黒い色鉛筆を置くと、今度は黄色を取り出した。新しいページを開いてクレヨンを走らせる。
ふさふさの立髪と尻尾、猫にも似た大きな大きなライオンが真っ白なページの真ん中に現れた。
心なしか、その目は鋭くニルを睨んでいる。
ライオンを描き終えると、もう一度黒い色を取り出す。今度は、ライオンの隣に真っ直ぐに伸びた長く黒い髪を描く。それに、黒いローブを纏わせて、目の色を赤にして、さあ出来た。
目つきの鋭い大きな人を描き上げて、その絵に小さく息を吹きかけて、名前を呼ぶ。
『古城の魔女』
その時、ビュウ――と一陣の風が吹き抜けた。土埃を纏って、それは何処へともなく駆け抜けていく。
ニルはその風の行方を目で追うと、立ち上がった。
「マギー」
その風の向かう先は――
◆
マギーは、パチパチと赤く燃える石炭を見つめながら、火鉢の前で膝を抱えていた。
チラチラと背後に目をやっては、ハッシュが目を覚ますのを、今か今かと待ち続けているのだ。
ぐうと鳴るお腹を抑えて、鳴るな、煩いと文句を言う。
マギーも星を見た後に、もう一眠りをしたのだが、その間も、ハッシュは目を覚さなかった。
特に、病気とは聞いてはいない……とは言っても、ハッシュとは知り合ったばかりと同じだ。
「そう言えば、ハッシュは何でこの世界に来たのかな……」
ずっと聞きそびれていた理由は、今もあやふやなままだ。
メレディスも、カートも、あの街の人達も。何故、マギーの夢の世界にいるのだろうか。
そしてその疑問は自分にも返ってくる。
――私は何で、この世界に来たのだろう。
◆
「悪いな、一日以上寝るとは思ってなかった」
予定外だったと、ハッシュは罰が悪そうに頭を掻きながら、マギーから目を逸らした。
「ここ、安全なの?」
「鴉がいない分にはな。だが、いつまでもここにいる訳にもいかない」
ハッシュは、自分の服のポケットをそこかしこと探っている。
「やっぱり駄目か」と呟くと、マギーにポケットに忍ばせていた飴を手渡した。そんなハッシュの様子に首を傾げながらも、ぐう、と鳴るお腹を抑えるのも限界だったマギーは素直に飴玉を受け取る。
「ハッシュはお腹空かないの?」
「ここは、夢だからな。肉体の方が確りと管理されてりゃ問題無い」
包み紙を外し、今にも飴玉を口に含もうとしていたマギーの手が止まった。
本来なら必要の無い行為であり、目の前にあるその飴も、その味も、マギーの記憶から作られたものなのだ。
「食べずにいたら、夢って自覚できるかな」
「無意識の感覚ってのは夢にありがちな話だが、お前の場合は記憶を弄られている事が問題だ。食っとけ」
飴玉をじいっと見つめるマギーにハッシュは、一つ問い掛けた。
「その飴玉、何味だと思う」
マギーはキョトンとした顔でハッシュと顔を合わせると、再び掌の上で転がる飴玉に目を向けた。
色は、赤。苺味の様な気がするけれど、ハッシュがその味をずっと持ってたと思うと、何故だか可笑しい。吹き出すマギーにハッシュは怪訝な顔を見せる。
「何だ?」
「ううん、いちご味の飴だったら、ハッシュに似合わないと思って」
似合わないという言葉は流して、食べてみれば良いとハッシュは促す。
マギーも言われるがままに口に飴を放り込んだ。やっぱり、甘酸っぱい苺の味だ。
「いちご味」
口の中で歯に当たる度にカラコロ鳴る飴玉を転がしながら、当たったと嬉しそうにハッシュに答えると、ハッシュが意地悪く鼻で笑った。
「そいつは、色味がついただけの飴だ。味なんか無い」
「え?でも、いちごの味するよ?」
「お前が、苺だと思ったからさ」
言っている事が分からないと、マギーはまた首を傾げた。
「お前は赤い飴玉を見て、苺を連想した。その思想が反映されただけだ」
夢ってのは、そういうもんだ。とハッシュは言う。
思い描いたままが、目の前に現れる。時には記憶が、時には思いが、時には空想が夢を創り上げるのだ。
「じゃあ、ハッシュが何か考えても……」
マギーが言い掛けた言葉に、ハッシュは溜め息を吐いた。
本来なら出来る筈なんだが、と憂鬱そうに答える。そう言って、再びゴソゴソと自分の衣服を探りだす。
「さっきから、何してるの?」
「試してるんだよ」
「何を?」
「スイッチさ」
駄目だな、と小さな息と共に諦めを吐き出すハッシュの背は少し丸まって見えた。
「夢から覚める方法ってのは人それぞれだ。前にノアってやつが死ぬ事が条件だったんじゃねえかって話したろ。俺の条件は、ライターの火をつけて消すだけなんだ」
「ライターって?」
『ライター』が何か浮かばないマギーは、頭を傾げる。
その様子に、ハッシュはがっくりと項垂れた。
「火を付ける道具だ、マッチみたいな……」
そう言って、ライターの蓋を開けて火を付ける真似をしてみせる。所謂ジッポライターの仕草だったのだが、マギーにはそれが火を付ける行為には到底見えなかった。
「それがいるの?」
「ああ、必要だ。普通の夢なら、干渉した夢に影響を与えて、俺の自由にできる。スイッチを作り出す事は簡単だ」
その簡単な事が出来ない。要は、ここは普通では無いのだと、ハッシュは言った。
「夢ってのはな、もっと曖昧で不確定なもんだ。夢の主にほんの少しの思想を刷り込ませただけで景色すら揺らぐ、幻みたいなもんだ。だが此処は、魔力で夢が固着されてる上に厳格なルールが敷かれて干渉を受け付けなくなってる」
難しい言葉が入り混じり、マギーは苦い顔をする。ただ、幻という言葉が、この世界で暮らすマギーにとって心苦しいものだった。
「俺は夢に干渉するのが得意だったから、モルガナに頼まれて此処に来た。来てすぐの頃は、まだ干渉出来たんだ」
そして再び、鋭い目つきが現れて、クソ猫と罵る。
「ニルが、何かしてるって事?」
「魔女の概念を取り戻すだけじゃ足りないらしい」
はあ、と息吐くハッシュを、マギーはじっと見つめた。
「ねえ、どうやって此処まで来たの?」
「あ?影の中を移動しただけだ」
「どうやって?」
説明が面倒だったのか、ハッシュは物珍しいものを見つけた子供特有の期待に満ちた目をとても見ていられず、プイッと顔を逸らした。
「お前もその内できる。俺が出来る事は、大抵の魔女が出来る事だからな」
「じゃあ、メレディスも追いかけて来るの?」
「俺は影移動も得意なんだ。痕跡は消してるから、そう簡単には見つからねえよ」
そう言ったハッシュの顔は、すこしだけ誇らしげだ。
さて、とハッシュが立ち上がった。
「移動するぞ」
休息は十分に取れたし、何より長居が過ぎた。とハッシュは苦々しく溢した。
「次は、何処に行くの?そう言えば、ここって何処?」
そもそも、ここが何処かもわからない事を思い出したマギーは、今ひとつ状況が掴めていない。
「ここはフラムだ。湖からは離れてるがな」
駅とは反対側にある森の中。なのだそうだ。
「この小屋、ハッシュが作ったの?」
「いや、元々あったものだ。誰が建てたかは知らねえが、駅からも見えない分には使えると思ったんだ」
ハッシュと共にマギーも、立ち上がった。
「次は……」
ハッシュが言いかけた時だった。
ドンッ――と、小屋の壁に何かがぶつかった。ガタガタと小屋が揺れ、外の木々もザアザアと葉がぶつかり合う音で埋もれる。
不穏の始まりを告げる様に、その騒めきは次第に激しく、強くなっていった。
「ハッシュ……」
不安を駆り立てる音ばかりが耳を占領して、マギーはハッシュの上着の裾を摘んだ。
何かが来る。
マギーが、そう感じた矢先、今度は誰かが扉を叩く音が鳴り響いた。
――ドンドンドンッ!!
激しくノックを繰り返し、更には扉を開けようと、ガチャガチャと取っ手が動く。更には、そこら中の壁がドンドンと叩かれ続けている。唯一の外への出口は使えない上に、小屋は囲まれていた。
マギーはもう一つ、戸口の近くにあった窓に目をやるも、そこにはびっしりと何かが張り付いてこちらを覗いている。ひび割れたガラスは今にも圧迫で割れてしまいそう。
恐怖がマギーの心を埋め尽くし、考えてしまった。そのガラスが割れる瞬間を。
ミシミシとガラスが内側に膨らんだと同時、甲高い叫び声を上げてガラスの破片がマギーとハッシュに向かって弾けん飛んだ。
ハッシュはマギーに覆い被さると、そのまま抱え上げる。火鉢の灯りに照らされたハッシュの影が僅かに動いた。が、鈍い。ずるずると上に向かって形を変えようとするも、力無く波打つだけで終わってしまう。どうにも上手くいっていない。ハッシュが舌打ちすると、影はずるずると元の位置へと戻っていった。
そうこうしている間に窓からは、人の手らしき物が次々と入り込んでいた。小さな窓を埋め尽くす黒い影は、幾重にも枝分かれした腕をマギーへと伸ばす。
『マギー、マギー、迎えに来たよ』
何処からともなく降り注いだ声は、汽車で聴いた車内放送と同じ声だった。機械混じりの歪な声は、優しくもなく、怒ってもいない。起伏のない言葉が続いて、マギーに語りかける。
『マギー、マギー、一緒に帰ろう』
頭は人の形に似ているそれは、巨大蜥蜴に人の腕が幾重にも生えたどす黒い身体を壁に、ズズッ、ズズッ、と這いつくばらせ二人に近づく。
マギーはその声に、姿に、身体が震えた。
ノアの首を斬ったあいつだ。今度は……
「見るな」
大蜥蜴から目が離せなかったマギーの目をハッシュが塞いだ。
「お前の思考は影響する。特に恐怖はな」
ハッシュは冷静だった。
「だから、別の事を考えろ」
そんなの無茶だ。今も、壁もドアも叩く音が鳴り続けている。風の音すら止む気配が無いのだ。
「む、無理」
マギーは目を瞑ったままだったが、ハッシュにしがみ付きながらも震えも止まらない状況で、他の事など浮かぶはずも無い。何なら、あの時、ノアがどうなったかを、はっきりと思い出してしまったのだ。
大蜥蜴の勢いが増した。それまで、壁をゆっくりと這っていたのに、全ての手をバタつかせてその顔をマギーの眼前迄近づく。大蜥蜴の手が、マギーへと触れようとしていた。
『マギー、外は危険だ。夢の中なら、いつまでも幸せなんだ。また全てを忘れてやり直そう』
――また、やり直して、ニルと暮らすの?お母さんを忘れて?
マギーは目を見開いた。
目の前の表情の無いのっぺらぼうでニタリと笑う大蜥蜴と目が合うも、マギーはキッと睨んだ。
「近付かないで!」
怖いのが無くなったわけじゃない。唇を震わせて、ザワザワする心を抑え込んで、マギーの精一杯の叫びだった。
すると、今に身触れそうだった大蜥蜴の手が、ぴたりと止まる。眉が垂れ下がり、物悲しい顔で、後ずさっていた。
『マギー、マギー、行かないで』
大蜥蜴の声を皮切りに、機会混じりの音以外に、次々と声が溢れ始めた。
『寂しい』
『行かないで』
『置いていかないで』
どれもこれも、悲嘆に暮れ、今にも泣き出してしまいそうな声ばかり。その中で、一際野太く低い声が、か細い声を押し潰して現れた。
『消えたくない』
マギーに拒絶された反動か大蜥蜴から鳴る声が、腹の底から響く。次第に、全ての声が重なって、小さいのも、大きいのも、全部が、『消えたくない』と叫び始めたのだ。
後退りを続けていた大蜥蜴が止まった。かと思えば、その身体が、ボコボコと水疱が至る所に現れ始め、その水疱の分、身体が大きくなってく。
徐々に、大蜥蜴は大きさを増し、小屋が破裂しそうなほど膨らんで塒を巻いてマギーとハッシュを取り囲んだ。
巨大化したそれの顔が再び近づいて、マギーを抱えるハッシュの腕の力こそ力が篭ったが、ハッシュは微動だにしなかった。
『お前は邪魔だ』
『マギーを渡せば、スイッチを返してやる。とっとと消えろ』
淡々と告げる野太い声に、マギーの顔が強張った。スイッチが手元に戻れば、ハッシュは目の前から消えてしまう。
ノアの様に。
マギーは、何も言えない。ハッシュは最初から言っていたのだ。此処から出たいのだと。出たらきっと、帰っては来ない。
そうしたら、何にかも忘れて、やり直すしか無くなる。
太陽の事。魔女の事。箒星から現れたノアも。ハッシュも。そして、お母さんの事も――
動揺するマギーを他所に、ハッシュは眼前ににじり寄る大蜥蜴を見据えていた。
「そりゃ、あの猫が言ったのか?」
『言った。言った。確かに言った。お前を生かしておいたのは、マギーの為だ。でも、もう必要ない。これが最後だから』
大蜥蜴の言葉にハッシュはマギーを見た。ハッシュに縋り付き、今にも不安に潰されそうな顔だ。だが、決してハッシュの顔を見ようとはしない。
「安心しろ、置いて行かねえから」
マギーは恐る恐る顔を上げた。
「何の為に此処に来たかを、思い出したからな」
ぶっきらぼうな顔は変わらないが、ハッシュの落ち着いた声が、心無しか優しい。マギーが、勝手にそう感じただけかもしれない。それでも、十分だった。
マギーの震えが止まった。その目に、もう恐怖は無く、冷静に大蜥蜴を瞳に映していた。
「ごめんね、ずっと一緒にはいられない」
大蜥蜴がピクリと反応し、完全に止まってしまった。
呻く様な声も、泣き叫ぶ声も無く、ただ静かにマギーを見る。
「私、ハッシュと一緒に帰りたいの」
マギーの澄んだ声は、大蜥蜴にも、外で壁を叩き続けていた何か達にも響いた。
壁を叩いていた音が無くなり、風も止んだ。
無音になったそこで、それまでそこら中を這っていた手は、ダラリと力なく落ちた。身体は地面へと伏せ、終いには黒い身体がドロドロと溶けていく。そしてついrには、大蜥蜴ではなくなっていた。
彼方此方にマギーの掌よりも小さい人形が散らかり、力無く横たえる。汽車と車掌。動物を模した小さな人形達。どれもこれも見覚えがある。
マギーの脳裏に、その人形達を手に遊ぶ記憶が蘇る中、小さな玩具達は最後の力を込めて、ぎこちなく動き始めた。
『……マ……ギー』
精一杯の力で、おもちゃ達は頭を動かして、マギーに目を向ける。
『……悪い魔女が……ココ……に、くる……よ』
「え?」
『アルチアが……目を覚ましたよ』
誰?マギーに『アルチア』という人物に心当たりは無かったが、代わりにハッシュが慌てていた。
「此処に居るのか!?」
ハッシュが驚く声と共に、人形達の口が一斉に、そして滑らかに歌い始めた。
『アルチアは、怖い魔女。
アルチアは、強い魔女。
アルチアは、強欲な魔女。
欲しくなったら、止まらない。
最初はモルガナの力を欲しがった。
でも、一度たりとも成功しなかった。
それでも、アルチアの欲望は止まらない。
今度は、マギーの力を欲しがった。
モルガナの目を盗んで、マギーを何処かへ連れ去った。
魔女の力を手に入れるには、生きた心臓が必要だ。
でも、アルチアはマギーの心臓を食べられなかった。
強欲の魔女アルチアは、クローゼットのお化けに食べられてしまったのだから』
歌は止まった。人形達の力が抜け、パタリと床に転がる人形に戻っていた。
小屋を出れば、辺りは静寂に包まれていた。
木々は微動だにせず佇み、小屋の周りにも小さな動物達の人形が転がるばかり。平穏そのものに戻ったというのに、ハッシュはマギーの腕を引っ張り何処かへと移動を始めたのだ。
その焦りがマギーにも伝わったが、引っ張られた腕が痛くてそれどころではなかった。
「ハッシュ!痛いよ!どうしたの!?」
「アルチアがこの夢に存在するなら、急いで移動した方が良い」
人形達が口にした、またも聞き覚えの無い名前。
強欲の魔女アルチア。マギーは忘れているだけなのかもしれないが、その名前を聞いた瞬間からハッシュから冷静さが失われた。
「ハッシュッ!」
マギーが渾身の力をお腹に込めて叫ぶと、森の中を突き抜けて進んでいたハッシュが、はっと振り返る。
やっとマギーの顔を見たハッシュは、焦りで一杯だった。
「ハッシュ、此処はフラムなんでしょ?湖に向かおうとしてるの?」
荒い息を吐きながら、ハッシュは振り返るとマギーを抱き上げ、再び早足で歩き始めた。
「歩けるよ」
「急いだ方が良い」
「湖で何するの?」
「お前の記憶を呼び起こす。強い刺激が必要なんだ」
フラムの湖は、星が集まる場所だ。そこで、湖の光を光源に魔力を使って最大限に引き上げるのだという。
湖へは駅まで行けば、そこからは一本道だから簡単に辿り着く。此処は駅からそう離れてはいないのだというが、ハッシュがマギーを抱く手が汗ばんだ。
ライオンなのだから、汗なんてかかない筈なのに、その手がじっとりと湿る。人だった時の感覚が、ハッシュの焦りを身体に滲ませて、どれだけ大事かを実感させたのだ。
「人形の歌の通りだ」
「お母さんの方が強かったって事?」
「そうだ。白の魔女モルガナは何者も寄せ付けない……そう言われてたぐらいだ。だが」
ハッシュの足がピタリと止まった。マギーは、ハッシュの口が急に止まったものだから、顔を覗き込んだ。
緊張がマギーにも伝わる程に、怖い顔をしている。
「ハッシュ?」
「口を閉じてろ」
そう言ったハッシュは、一目散に走り始めた。その身が本当の獣にでもなった様に風を切って走る。二本足でなかったら、もっと速かったかもしれない。
木々の間を駆け抜ける中、マギーは後ろから何かが追ってくるのに気がついた。
月の灯りだけが頼りのそこで、背後は暗闇だ。九時の闇が無くなっても、夜の国は変わらず夜のまま。
ずっと過ごして来たはずの、世界の闇はどれも同じなのに、その見えない暗闇の奥底から、何かが近づいて来るのだ。
そう感じた矢先だった。ドウッ――と風が吹いた。
まただ。そう思う間も無く、轟々と風が鳴き、太い木々まで大きく揺れて唸り声を上げる。
あまりの風の強さに背中を大きな手に押されているかの様で、とても目など開けていられなくなった。
ハッシュも同じか、マギーを守る様に腕に抱いたまま、その場から動けなくなっていた。
そして、ピタリと風が止んだ。
木々の揺れも一斉に治る様は、時が止まったかの様で再び、月明かりだけが頼りの静寂が戻った。
その時だった。
「あら、誰かと思ったら、ハッシュじゃない」
艶のある、甲高い声がハッシュの真後ろから響いた。
その声にハッシュは恐る恐る振り返る。まるで、そこに居る人物が誰かを理解しているかの様。
静寂の中、足元すら隠す長い裾のスレンダードレスと黒いローブを纏った黒髪の女。長い黒髪の隙間から赤く光る目が、マギーを確りと見つめていた。
「マーガレットも、久しぶり。今日は違う猫を連れているのね」
お母さんの友達と名乗った、あの人だ。目の色こそ違ったが、ニッコリと微笑むその顔は確かに、マギーの記憶のままの人物だった。
「……アルチア、此処にモルガナは居ない」
ハッシュは身構えながらも、魔女アルチアとの距離を出来るだけ離そうと、静かに後ろへと下がる。
「知ってるわ。私を此処に閉じ込めたのは、マーガレットだもの」
アルチアの真紅の口紅で染まった口角が上がり、ゆったりと笑ってみせる。
メレディスとは違った笑み。メレディスの笑みが、何を考えているかが判らず、マギーは好きではなかった。
だが、この魔女アルチアの笑みは、優しく微笑んでいる筈なのに、背筋がぞっとする程に冷たく感じる。不気味さを秘めた冷たい笑みを携えて、アルチアは動き始めた。
一歩、一歩と近づくが、ハッシュはそれに合わせ、アルチアから目を離さないで更に背後に下がっていた。
「ねえ、マーガレット。私の身体、もう無いのよ」
その言葉で、人形達が言った言葉を思い出す。
『強欲の魔女アルチアは、クローゼットのお化けに食べられてしまった』
その言葉を思い出した瞬間に、マギーの脳裏に、ノイズの掛かった記憶が蘇った。
◆
『あれ、どうするんだ?』
女の声で、マギーは目を覚ました。
暗闇の中で、唯一の灯りが線の様にマギーの顔まで伸びていた。
手足が縛られ、口も布で覆われて、硬い床の上に放り出された状態。視界だけが唯一の自由だった。マギーは、その灯りの先のを辿るが、扉と思われる隙間は小さく、これと言って何も見えやしない。
『どうって、食べるのよ。任せて良い?それとも、手が汚れるから……』
『いい、やる。その代わり、少し分けてくれない?それぐらい、分前があってもいいと思うんだけど』
唯一の情報とも思える声が二つ。
マギーの記憶の中で聞き覚えのある女の声が、食事の相談事をしている。
ええ、いいわ。と嬉々として答える艶のある声は、アルチアそのものだ。そして、もう一つは――
『じゃあ、メレディス。お願いね』
『今日じゃ無いでしょ?』
『明日。満月だもの』
じゃあ、休むからと言ったと同時に、遠ざかる足音がコツコツと響く。これ以上ない喜びで、その足取りすら浮ついている。
足音が更に遠ざかると、扉から差し込んでいた光が太くなり、身動き取れないマギーの顔をはっきりと照らした。
その光の中、重苦しい表情を浮かべた女が、マギーに同情の瞳を向けていた。
◆
マギーは、脳裏にこびり着いた記憶の一端が蘇ると、恐怖も同時に舞い戻っていた。
食べる、とは。
人形の歌にもあった、『生きた心臓』の事だろうか。例え話でも何でもなく、そのままの意味だとすれば――
「ねえ、ハッシュ。あんたは助けてあげる。此処にいるのは、モルガナに頼まれたからでしょ?あんた、夢見が得意だったものね」
急かしているのだろうか、早口で捲し立てるアルチアは、笑顔のままハッシュに近づこうとしていた。
しかし、ハッシュは返事どころか反応もしない。それどころか、身体を反転させそのまま目的であるフラムの湖に向かって走り始めた。ハッシュが全速力で走る中、再び月に照らされた影が揺らいだ。
何とかなるか……と、ボソリと風の中にハッシュの小声が混じる。マギーはまた、影で移動するものかと思ったが、ハッシュは行動しない。
走るハッシュを見送るに止まっているのか、アルチアは歩いているだけで距離は広がっていた。追いかけては来ないのに、月影に照らされた黒い存在が、恐ろしい怪物が佇んでいるようで、マギーは目を逸らす。
ハッシュもまた、警戒は解いていなかった。なのに、進む方向は変えずに真っ直ぐに走り続ける。
何か手があるの?そう、尋ねようとしたが、ハッシュの足が止まった。
走り続けたからか、ゼエゼエと荒い息を吐きながら、ハッシュはマギーを下ろす。
気付けば、駅まで辿り着いてた。しんと静まり返って、車掌どころか人っ子一人いない
マギーは静かな駅を見上げながら線路を越えたが、背後から足音が立ち止まったままである事に気が付いた。振り返ると、ハッシュとの距離が開いているではないか。
マギーを下ろした線路の向こう側で、ハッシュは立ち竦んだままだ。
「お前は先に行け」
そう言ったハッシュの姿が、みるみる小さく縮んでいく。獣だった姿は、あっという間に、赤毛の小さな女の子に変わっていた。
何処をどう見ても、マギーそのものの姿で、ハッシュは口を開いた。
「まだ、思う様に魔力が扱えないが、これくらいなら出来る」
淡々とマギーの声でハッシュの口調が続き、魔女は変身できるんだ、とハッシュは付け足す。
その姿でマギーには嫌な予感が湧き起こる。
「ハッシュ何する気なの!?」
「足止めする。お前は湖に行け」
「でも……やり方も……」
「やり方も何も、ここはお前の夢だ。何をしたいか、どうしたいかを考えろ。夢は、お前の思いのままだ」
そう言って、ハッシュは屈んで線路のレールに触れると、指でなぞる。すうっと仄かにハッシュの指先が光った様にも見えたが、ほんの一瞬で消えてしまった。
何かをやり終えたハッシュは立ち上がり、踵を返して背中を向けて歩き始めていた。
「マギー、アルチアに立ち向かえるのはお前だけなんだ」
最後の言葉を告げると、ハッシュは暗闇の中へと颯爽と駆けて行った。
「まって!!」
あんな恐ろしいものに、ハッシュが向かっていく。そんなのダメだ。ハッシュは巻き込まれただけなんだ。マギーは慌てて追いかけようとするも、線路の境目の目前で足がピタリと止まった。
レールを跨ごうとしても、足がうまく上がらない。
「ハッシュ……何したの?」
マギーの言葉は、悲しみに埋もれ闇夜に溶けて消えていった。
◆
ハッシュは、マギーの姿のまま走った。アルチアの気配が、自分を追ってくる。レールを使ってマギーの気配を遮断したものだから、マギーの気配が染み付いた存在を追いかけているのだろう。
さあ、追ってこい。
ハッシュは、小さな身体を必死に動かした。小さい身体に、小さい腕に、小さな足。
どれだけ腕を振ったところで、すぐに疲れてしまう。どれだけ大きく足を広げたところで、大した差は無い。
どれもこれも、逃げるのに適していない姿だ。それでも、姿を戻すわけにはいかなかった。
やっと思い出した、大事なものの為に。
そんな覚悟を携えて、ハッシュは走り続けた。近づく気配に、もう怯えはしない。
そして、また、風が――
◆
マギーは道を進むしか無くなった。
魔女の力で何かをしたのか、レールを境目に通れない。
解除の方法を今は知らないだけかもしれない。そう考えると、マギーは、ハッシュの言葉通り、フラムの湖に向かうしかないと考えた。
寂しい道が続く。
少し前に来た時は、同じ汽車に乗って、同じ目的の為に歩くニルがいた。
今は、ひとりぼっち。そう思うと、マギーの瞳にじんわりと涙が浮かんでいた。
ああ、怖いと思ったらダメなんだ。自身に言い聞かせ、滲み始めた涙を拭うと、弱気を蹴散らす為にマギーは走り始めた。
マギーは、ハッシュの言葉を思い出す。
『ここはお前の夢だ。何をしたいか、どうしたいかを考えろ。夢は、お前の思いのままだ』
何度も、皆が言う。
此処は夢なのだと。
マギーの夢なのだと。
マギーは、がむしゃらに走った。
月光が照らす湖まで真っ直ぐに延びるその道を。振り返る事も無く、今自分がすべき事だけを考え前だけを見て。
駅から湖まで、歩くと一時間。走ったら、どれぐらい掛かるだろう。
ぼんやり浮かんだ考えを振り払い、マギーは一つの考えに集中した。
魔女は変身出来る。
――夢の中ならば、何だって出来るんだ。鳥なら、飛べる。鴉でもなくて、蝙蝠でもない……そう、梟。
マギーの姿が、少しばかり縮んでいった。その姿は宙に浮き、大きな白い翼を広げ羽ばたかせる。
マギーは白いフクロウへと姿が変わると、走る勢いのまま空高く舞い上がって見せたのだ。そして、上空から見えるのは、虹色に光り輝く星屑の湖。
マギーは、もう一度羽を羽ばたかせると、一直線に向かっていった。
◆
ハッシュは、追いかけてくる気配が段々と鋭くなるのを感じていた。恐らく、あちらはマギーでない事に気がついたのだろう。だが、線路でマギーの感覚が遮断されている事には気が付いていないのか、標的をハッシュに見定めていた。
ある意味で、狙い通りだ。ハッシュからしてみれば、アルチアの気がマギーから逸れるだけで十分だった。今は怒りのまま、マギーの姿をしたハッシュを轟々鳴る風に身を任せて追い上げてくる。
そして――
「ハッシュ」
ハッシュの耳元で艶のある声が響く。
背後にいる、なんてものじゃなかった。
首に何かが巻き付いていて、アルチアの顔はすぐ横にあったのだ。艶かしく動き、ハッシュの首をどんどんと締め付けるそれは、蛇の姿をした、アルチアの左腕だ。
「ねえ、何でそこまでして助けるの?あんた、モルガナに捨てられたじゃない?ねえ、何で?」
ひしひしと伝わる悪意に、皮肉を込めて笑ってやりたいのにハッシュはそれ以上首が絞まらない様に力を入れるので精一杯だった。
ハッシュは、耐えきれずにその姿をライオンの姿に戻すと、これでもかと蛇を引っ張って引き剥がす。捻って絞め殺してやろうと力を入れるも、その蛇はいとも簡単にハッシュの手をすり抜けて、アルチアの手元に戻っていた。
アルチアは元に戻った自分の手の爪先が割れていないかを確認しながら「乱暴ねえ」なんて言っているが、その顔は余裕そのものだ。ハッシュが力加減を間違えたとしても、大した痛みでも無いのだろう。
敵う相手ではない事は百も承知だった。
アルチアの視線が、その爪先から再びハッシュに向く。
「ねえ、もしかして、マーガレットって……」
ニタリと、意味深な顔を見せるも、ハッシュが踏み出した事によって、その続きは出て来なかった。
「うるせえ、くたばれ」
ハッシュは掌をアルチアに向けながら、勢いづいたまま向かった。その手に影が纏わりつく。月影に照らされて、出来上がった影が今度はアルチアに絡みついた。
身動き取れない様に、全身を影で縛り上げようとするも、肝心の手応えがハッシュには感じられなかった。
更にきつく締め上げるも、一瞬にしてアルチアの身体が数多の黒い蝶となって飛び散ったのだ。その飛び散った蝶は、今度は黒い風となる。ゴウッ――とけたたましい音を立ててハッシュを襲った。
黒く冷たい風。防ごうと顔を腕で覆うも、風に混じった刃がハッシュを突き刺した。
風が通り抜ける度、鋭い痛みが走る。顔に、腕に、脇腹に、足に。見えない刃相手に、ハッシュはどうする事も出来なかった。
いや、ハッシュは最初から理解してしまっていたのだ。
――魔女アルチアには敵わない
その凝り固まった思考こそが、ハッシュにとっての一番の敵だと言えるかもしれない。
此処は夢だ。どれだけ自分に言い聞かせた所で、目の前のその姿、その実力に、長年の染みついた思考が消える事も無く、ハッシュは黒い風の中に飲み込まれていった。
◆
あっという間に、マギーは湖へと辿り着いた。
空を飛んだのは初めての筈なのに、何をどうすれば良いかを、全てを体が理解していた事に、マギーは驚いた。ただ、次はどうすれば良いかがわかならない。
湖の淵に座り込み、その光を目に映す。覗き込んだ輝きの中、薄らと自分の姿が水に映る。首から懐中時計がぶら下がったままの、その姿。
銀色の、シンプルな何の飾り気もないその時計。マギーは瞼を閉じて、その時計を、ぎゅっと握り締める。
誰もいない、何の音もないそこで、瞼の向こうの輝きが淡い光となって擦り抜けた。
光が揺らめく中、マギーは心の底から望むものを考える。
――ハッシュと一緒に、お母さんと……
何が夢で、何が現実か。マギーは、今も蘇る記憶は夢現の間で揺れている。
だから、マギーにとって記憶よりもハッシュの存在こそが、お母さんとの繋がりになりつつあった。
ハッシュは、モルガナとお母さんの名前を呼ぶ度に、いつも強張った顔が、緩むのだ。
その想いは、きっと本物なのだと。そして、ハッシュを助けたいと願う、自らの心も――
ふと、瞼の向こうが眩しく感じた。
マギーが目を見開くと、湖の輝きが増している。マギーは徐に、その湖の中を覗き込んだ。すると、輝きの中の景色が変容し始めた。風も無いのに、中心から弧を描いて、水面が揺れる。波紋が、一つ二つと増える中で、マギーは水面に映る自分の姿も歪んでいる事に気がついた。
その変化に、マギーは思わず「あ、」と声が出る。無理もない。それまで、幼い少女が岸辺に座っていた筈なのに、水鏡に映るのは、すっかりと身体が成長し大人びた姿だったのだ。
同じ赤毛のその姿は、身長が伸びて、幼さを残しつつも、顔の丸みがなくなり、身体つきも女性へと変わりつつある時期。マギーから見れば、それは大人の姿、とも言えたかもしれない。
「これ……私?」
水鏡の向こうから見つめてくる大人の姿。驚きと戸惑いで、マギーは岸辺に座り込んでしまった。まじまじと湖を覗き込み、その水鏡に触れる。
その触れた部分から水面が揺れ、新たな波紋によって、再び景色が変わった。
それまで、対面していた大人の姿は立ち上がり、湖から視線も外れている。湖に沿って延びた視線の先を目で追うと、そこにいたのは、ハッシュだった。
水面に映った景色が、記憶に変わる。
水鏡の中で口が動くと、そのままマギーの頭の中に声が響いていた。
『ハッシュ、私、帰れない』
『何言ってる、思い出したんだろう!?』
『……お母さんには会いたいけど、まだ何か忘れてる……大事な事』
何だっけ、と呟くその目は虚だ。
まるで、自分の意思が伴っていない。
ハッシュは、マギーに近づき肩を掴むと、大きく揺すった。
『このまま夢に呑まれて生きてくつもりか!?』
マギーの意思を呼び起こさなければ。ハッシュがどれだけ必死になっても、マギーがそれに応える事は無い。
何が足りないのか、マギーはその答えを探そうともせず、小さく「あ、」と零した。ハッシュの肩越し、その視線の先で、ガサリと草を踏む音がする。
ハッシュも、漸く気配に気づいて慌てて背後を振り返った。
『マギー、マギー、迎えに来たよ』
マギーのオモチャ達が隊列を成して、楽しげに踊りながらマギーを囲む。その最後尾には、ニルの姿があった。
ニルは、ハッシュを無視して、マギーに近づくと、その手を引いた。
『さあ、家に帰ろう』
小さくはない姿で、マギーはニルの手に応えて握り返すも、足は動かなかった。
『……ニル、私』
あそこは、私の家じゃないの。囁く声は、消え入りそうな程にか細い。はっきりとしない意識の中に、大事な記憶が消えているのだと、ニルに訴えようとしていた。
『中途半端に思い出しちゃったんだね。可哀想に』
そう言って、ニルは漸くハッシュを視界に捉えて睨んだかと思えば、すぐにマギーに視線を戻す。
『マギー、大丈夫だよ。また、忘れてしまえば良いんだ』
『ニル?』
何するの?そう聞き返そうとした瞬間に、マギーの意識は途切れた。
記憶の中で声は無くなり、景色だけが水面で続く。気を失ったマギーの身体は、その場で崩れ、みるみると小さくなっていた。
今と同じ、小さなマギーの姿に。
静かな情景の中で、静寂がマギーの心そのままの様に、輝きが元に戻った。
行かなければ。
覗き込んでいた湖から僅かに目線を上げる。その視界の端に、見慣れた存在が映り込んでいた。
ツギハギだらけの猫。
マギーはゆっくりと、そちらへと頭を向ける。見慣れていたその姿が久しぶりの様で、懐かしくも感じていた。
相変わらず、大きさの違うボタンの目で、マギーをじっと見て、その目が物申そうとしている事は確かだ。
マギーは立ち上がると、ニルに向き合った。
「ニル……」
「マギー、外は危険なんだ」
ニルはマギーの言葉を遮り、近づいた。
「迎えに来たよ。帰ろう」
「でも、アルチアが」
「マギー、身体はアルチアに渡してしまえば良いよ。此処はまた、作り直せば良いのだから」
ニルが、そっと手を差し出す。その手を取れば、夢は続く。
だが、マギーは首を振った。もう、誰かに助けてもらうだけの、小さなマギーは居ない。
姿形こそ小さな女の子のままだったが、その目には、しっかりと意思が宿っていた。
「ニル、急に消えてごめんね。でも、もう逃げない」
マギーは、にっこりと微笑んだ。
「……もう、怖くないの?」
「怖いよ。だけど、このままハッシュが夜の国の住人のままアルチアに殺される方が嫌なの。身体を渡したら、今度はお母さんが……」
マギーは全てを思い出した。
魔女アルチアに殺されそうになった、あの日。
◆
『逃げるぞ!』
暗闇の中、ボソリと誰かがマギーの肩をゆすった。
確か……メレディスと呼ばれてた。同情の目を向けた女が、今はせっせとマギーを縛っていた縄を解いている。
そして、目を凝らすと、ドアのそばにはもう一人、外の様子を伺う役目の男が一人立っていた。
『早くしろ、勘付かれる前に出るぞ!』
『カート、車の準備は?』
『問題ない、それより縛りは解けたのか?』
『今やってる!』
呆然とするマギーを他所に、男女が必死になってマギーを助けようとしているではないか。アルチアを出し抜こうとしているのか、暗闇の中でも、二人の焦燥は手に取るように浮き出ていた。
『出来たっ!行くよ!』
パンッ――と何か小さく爆ぜる音と共に、縛られていた感覚が消えた。何時間も横倒れの状態でいたせいか、立ちあがろうとすると少しふらつく。それを見てか、メレディスが、マギーを横から支えた。
『歩けるか?』
マギーは頷く。支えるて力は優しく、気遣いがある。
『何で、助けてくれるの?』
『お前の母親に恩を売りたいだけだ、気にするな』
上手くいけばな、とメレディスは弱々しく笑う。まるで、失敗を恐れているよう。
この屋敷は、アルチアの術式が張り巡らされ、魔力を扱えるのは、その時々、アルチアの許可があった者だけ。
だから、屋敷から出てしまえば……メレディスはマギーを支え歩く中、マギーにそっと説明した。
刻々と、時を刻む古時計の振り子の音だけが、屋敷の中で響く。そこは玄関ホールか、大きな広間は吹き抜けになり天井は遥か上だ。左手には上へと続く階段が、右手には目指していた玄関が、薄暗い中で仄かに光って見えた。
これで逃げられる、そんな希望が見えた矢先だった。
『メレディス、カート、何処へ行くの?』
上階から、艶のある声が響いた。身体中を蛇にでも絡め取られているような感覚と共に、冷や汗が伝う。
メレディスとカートは、その声を聞いた瞬間に動けなくなっていた。
アルチアの声が、二人を縛ったのだ。
『二人して仲良く裏切るのね、悲しいわ』
一切動けないメレディスの恐怖を滲ませた瞳が、メレディスの心象をそのままに映す。それは、先導していたカートも同じだった。
それでも、メレディスの口だけは動いた。声は出さず、『逃げろ』とだけ。
マギーは戸惑いながらも、従うしかなかった。彼女達を助けようにも、メレディスの言葉通り魔術を使える気配がしない。
出口はすぐそこ。マギーは、一目散に出口へと向かった。だが、マギーが扉に触れるようとした、その時。
暗闇が揺れた。
玄関口があった筈の場所は、突如壁になり出口は消えた。
誰の仕業かなど、一目瞭然で、マギーは振り返り二階を見上げ、声の主を辿った。
すると、二階の欄干で肘をついて、高みの見物をする黒髪の女の姿が。マギーはその女に、見た覚えがあった。
濃い青い瞳は暗がりの中でも、サファイアの如く美しい。その輝き故に、その目は真冬の様に冷たい。
『貴女だって魔女の端くれでしょう?魔女の領域から簡単に出る事が出来ると思ったの?』
アルチアの洋館は、魔術で覆われた空間だ。その領域は、アルチアそのものと言ってもいいだろう。その、屋敷の中にいる配下もまた、アルチアの支配下だ。
差し詰め、マギーは囚われた羊。
『カート、マーガレットを取り押さえて』
マギーはびくりと、男の方を向いた。声に支配されたカートに、最早情は残っておらず、ゆっくりとマギーに近づく。メレディスに視線を送るも、メレディスもまた、同じだった。
――逃げなければ。けれど、何処に?
玄関ホールと、上階にはアルチアの配下か、人が集まり始めていた。そこには多くの男女……恐らく、全て魔女。
『今日は満月じゃないのが残念だけれど、始めましょうか」
その瞬間、アルチアの瞳が赤く光る。それに連なる様に、集まった者達も、カートも、そしてメレディスの瞳も赤く染まった。
皆が動き始める。そうなると、その数を前にマギーになす術もなく、簡単に床に押さえ付けられてしまった。
ああ、もう駄目だ。
マギーは自分の終わりが見えた途端に、力が抜けた。どう足掻いても、周りは誰も助けてなどくれない、力も敵わない。
その恐怖の中心に立つ女が、動いた。コツコツと踵の高いヒールの音を響かせて、ゆっくりと階段を一段一段降りてくる。
待ち侘びた供物を前に、真っ赤に染まった唇を舌舐めずりする姿は、悪魔か怪物だ。その右手には、魔力の篭ったナイフが一つ。
アルチアは、マギーの上に跨り、その心臓目掛けて振り下ろした。
筈だった。
ボーン――と、玄関ホールに置いてあった大時計が、時刻を知らせた。
その音に、アルチアは手をとめた訳ではない。手がそれ以上動かなかったのだ。
アルチアは、何かに気づき、ハッとマギーの顔を見る。
マギーの顔に、恐怖は無い。そこにあるのは、虚無だ。その無にも等しいそれと目が合うと、マギーの唇が動いた。
『クローゼットのお化けが来るよ』
その言葉にアルチアは何かに気が付いた。屋敷の中で何かが蠢く。
何かが来る。四方八方、その屋敷の隅々から禍々しい気配が玄関ホールへと向かっていた。
そして――
押し寄せる濁流の如く、暗闇が全てを飲み込んだのだ。
クローゼットのお化けと称された暗闇は、全てを飲み込んだ。アルチアも、その屋敷も、アルチアに従っていた者達も。助けようとしたメレディスとカートもだ。
何もかも飲み込んで、そこに残されたのは、恐怖によって自らの力に取り込まれてしまった、マギーの身体だけだった。
そして、マギーは夜の国で、目を覚ました。
小さなベッドは夢心地を誘って、起き上がってもなおゆらゆらと揺れるマギーを支えるには不十分だった。
マギーは、ぼやけた視界と思考で考える。
いつから、眠っていたんだっけ、と。
『やあ、マギー』
暖炉のオレンジ色を背後に宿しながら、ニルがそっとマギーを覗き込んだのだった。
◆
そう、あの日。マギーにとって、意識が混乱する中、現実と夢を取り違えてしまったあの日。
夢の世界に飲み込まれた者達は、みんな御伽話の登場人物になってしまったのだ。
アルチアは古城で眠る魔女に、メレディスは悪事を企てるオオカミに、マギーは夜の国を旅する女の子に。
此処は、マギーの夢。
幼いマギーがニルと一緒に星屑物語を模して創った、完璧な世界。
ここは、マギーの領域。そして、マギーに力を与えられたニルの領域でもある。
ニルは、全てを夢に飲み込んだ後、魔女の概念を消してしまった。魔女の概念さえ失くして仕舞えば、例え、優れた魔女だったとしても、この世界の前では魔女アルチアも、御伽噺の登場人物でしか無くなるからだ。
「外だと、守ってあげられない。僕は、マギーとずっと一緒にいたいんだ」
おもちゃ達は、マギーに命を与えられた者達。ニルも、その一人だ。マギーの一番近くにいて、いつも一緒。
誰よりも、マギーの力をよく知り、その扱い方を知っている。だからこそ、ニルはそのボタンの目と尻尾を揺らして不満を訴えた。
この世界が、どこよりも安全だと。その安全の為には、マギーが想う相手も記憶も、邪魔だった。
「もう一回、私の記憶を消す?」
ニルは、項垂れながらも首を振った。
結局、記憶は消える事はなく深く深く眠るだけ。
大きな衝撃に耐えられずに、元に戻ってしまうのだ。ならば、マギーの魂を新しい器に入れて、完全な御伽の国の住人に変えてしまえば永遠に一緒にいられる。
そう、考えたけれども、やっぱりニルには出来なかった。
それは、きっとマギーじゃないから。ニルの変わらない筈の表情が、苦しそうで、その想いに押しつぶされている様。それでも何とか、ゆっくりと息を吐いては顔を上げた。
「行くんだね?」
「うん」
今、夜の国は崩れかかっている。小さなマギーが創り上げた世界は、マーガレットの意志によって、終わりへと突き進んでいた。
「じゃあ、行こう。マーガレット」
ニルは、いつもの様に手を差し出す。
フラムへと二人で星を拾いに行った、あの日の様に。その瞬間、マギーの姿に変化が始まった。
ぼんやりと、幻の如く虚いを見せたかと思えば、その姿は身長が伸び、身体つきも大人の一歩手前となった十五歳のマーガレットの姿へと変わった。いや、元の姿に戻ったと言うべきだろう。
マーガレットはニルと手を繋ぎながら、向かう先を頭に浮かべる。脳裏には、ハッシュの姿があった。
マーガレットとニルの身体を、月影に照らされた足元の影が包み込む。そうして二人は影に飲まれ、湖から姿を消した。
◆
ハッシュに起き上がる力は無かった。
鬱蒼と茂る大木の一本を背に、力なく凭れる。
赤く染まった視界はぼんやりと、黒に包まれた女を映すも最早恐怖は無く、死神にすら見えていた。
――時間は、稼げたのだろうか。
あっさりと殺されてもおかしくはない状況で、アルチアは未だハッシュにとどめを刺してはいない。
その顔は、愉悦に染まっている。相変わらずの狂人振り、だからこそ魔女の悪しき因習をなぞって、マーガレットの心臓を喰らおうとした女でもあるのだ。
白の魔女モルガナの娘。
それはそれは、強欲な魔女の瞳にはマーガレットが甘美な果実として映った事だろう。
何せ、アルチアとモルガナは、対等で拮抗している。何かしら弱みでも無ければ、アルチアがモルガナに勝ち得る事は出来なかっただろう。だからこそ、モルガナはマギーの為に魔女達の前から姿を消したのだ。
たった一人の弟子であった、ハッシュすら置いて。
「ハッシュ、マーガレットとモルガナに遺言ぐらい伝えてあげるけど?」
ニタリと笑う悍ましい美しさを持つ麗人は、ハッシュにとどめを刺さんと近づいていた。
まあ、いち魔女として偉大な魔女の一人に殺されるなら悪くないかもしれない。
ハッシュは途切れそうになる意識を保ちながらも、死に向かう思考が止まらなかった。
「アルチア」
突如、声が湧く。アルチアではない、トーンの高い女の声。
アルチアは足を止めた。雑木林が続く暗闇で、声はあれど、気配は無い。動くものもない。
ピンと張り詰めた空気の中で、アルチアは微動だにせず、気配だけを窺っている。
アルチアには、その声に覚えがあった。優秀で忠実だった、配下の一人。
突如、景色が揺れる。揺れたのは木だ。そこら中の大木が、四方八方からアルチアに向かって枝を伸ばした。蛇の様に自在に、鞭の様にしなやかに。しかし、アルチアには無意味だった。
「メレディス?それとも、カート?どちらかしら。上手く隠れるのね、久しぶりに顔が見たいわ」
木は全て、アルチアをすり抜け当たる気配も無い。
それでも、猛攻は続いた。
「出て来てくれないの?悲しいわ」
アルチアの口端が吊り上がり、一歩踏み出した。足下は土の筈、なのに鳴らない筈のヒールの音が、コツン――と響いた。
音が響いたと同時、オオカミ姿の女と、ワニの男が、影の中から弾き出される様に現れた。
「クソッ」
「汚い言葉は嫌いよ。ねえ、メレディス」
アルチアは動けないハッシュに背を向けて、メレディスとカートの元へ向かう。影から吐き出された反動か、動けなくなっていた二人の前で膝を突いて二人の頬を撫でるも、その目は憎悪で一杯だった。
「二人仲良く裏切って」
アルチアに睨まれ、二人は指一本動かなくなっていた。
力が使えるのに、結局手も足も出ない。
ハッシュと同じ、頭の中で敵わないという思考が拭えないのだ。下手をすれば、永く傍にいたメレディス達の方が、ハッシュより重症かもしれない。
アルチアの赤い目が妖しく輝く。
その目が近づくだけで、メレディスの息は止まりそうだった。
嫌な感覚。蛇が全身を這って、今にも獲物を飲み込もうとしている様。
しかし、アルチアは幼子にでも微笑む顔をしたかと思えば、さてと、と言ってアルチアは立ち上がる。背後の弱々しい気配にむけて振り返った。
「それで、ハッシュ。何か思いついたかしら」
息も切れ切れに、メレディス達の様子を見届けいていたハッシュは、ああ、と淡々と返事をした。
「くたばれ」
悔いは無い。
ハッシュは、モルガナと共にマーガレットと三人で並ぶ姿を想い浮かべながら、目を閉じた。
静かな嗤いと共に、ハッシュの周りに無情な黒い風が巻き起こる。今にも、黒い風がハッシュを取り込もうとしていた、その時。
「待って」
ハッシュの前に立ち塞がる様に影から現れたマーガレットとニル。その姿を目にした瞬間、アルチアの余裕のある顔が、更なる嬉々を描いた。
赤い唇が、狂気を形作る。
「マーガレットじゃない」
狂気を宿し、憎悪が増す。
「私をこんなくだらない夢の中に陥れた挙句、肉体まで奪った償いは、してくれるのでしょうね」
麗人の顔は消え去った。憎悪に塗れ、悪魔の如く古代の魔女を体現した姿とでも言えるだろう。
その怒りの根源であるのは、アルチアの肉体は闇に溶け、現世にすら存在しないという事実だった。
現世に戻るには、マーガレットの肉体を奪う事だけが手段になり得るが、高々、十数年生きただけの魔女の肉体では、到底満足など出来ないのだ。
マーガレットの肉体では、モルガナには敵わない。
だが、他の楽しみはある。
「貴女の身体に入った私を見たら、モルガナは娘を殺すかしら?それとも……」
マーガレットの反応を見て楽しもうとしたのかもしれないが、マーガレットもニルも小さな表情の機微すら見せない。二人は手を繋いで、モルガナを静かに見据えていた。
「貴女は此処から出られない」
ゆっくりと近づくマーガレットに、アルチアは更なる憎悪を向けた。なぜ怖がらない、なぜあの日の様に怯えない。
アルチアの中で焦りが募る。
「此処は、私の夢」
それが何だと言うの?とでも言いたげに、アルチアの身体が変化する。全身が黒い風となって、マーガレットへと向かう。
マーガレットとニルに風が纏わりつこうとするが、それよりも先にマーガレットは胸の懐中時計に触れていた。天頂部にあるスイッチをカチリと押すと、懐中時計の蓋が開く。
チクタク、チクタク――マーガレットの手の中で、時を刻む音が鳴り響いた。次第に、その音は大きくなり、耳の中を埋めていく。
そして、ボーン――と古時計が時刻を報せる音に変わる。更に大きく、数が増すと、音の反動でアルチアの動きが止まった。
黒い風に姿を変えたはずなのに、アルチアは人の姿へと戻っていた。アルチアは、何が起こったのか判らないと言った顔で、呆然としている。
しかしそれも束の間、マーガレットをギラリと睨む。睨むだけ。アルチアの身体は動かなくなっていた。
「あの日、私は貴女の領域を侵した。あれは、私の力が死を感じて偶然、貴女の力を上回っただけかもしれない」
でもね、と、マーガレットは動けなくなったアルチアにニルと共に更に近づいた。
「お母さんもハッシュも言ってたの。夢の中では、私の思うままだって」
どれだけ強い魔女でも、意味は無い。
マーガレットが自身の足下に目を落とす。月明かりに照らされたマーガレットの影がモゾモゾと蠢き始めた。
「コラプスの魔女って知ってる?」
アルチアの余裕は消えていた。その意味を聞き返さずとも、魔女ならば容易に汲み取れるだろう。魔女は最後に大鍋に落とされるのだ。
大鍋はどこにも無いが、要は――
モゾモゾ蠢くだけだった影が、一斉にアルチアに纏わりついた。
アルチアが悲鳴を上げる間もなく、覆い尽くしてしまうと、アルチアの形だった影の塊が出来上がる。
それは、中でアルチアが暴れているかの如く、モゾモゾ動くとその形はどんどんと小さくなっていった。
どんどん、どんどん小さくなって、しまいには掌サイズにまで。マーガレットが影に向かって手を差し出すと、その手の上にちょこんと影が何かを吐き出した。
小さな、ブリキのネズミの人形が、マーガレットの手の上でちょこんと乗っていた。ご丁寧にネジ巻きまでついて。誰かがネジ巻きしなければ永遠に動けない、弱々しい姿。何より、この夜の国が消え去れば……
「マーガレット、それは僕が預かるよ」
行っておいで、とニルがマーガレットの手を離して、ハッシュを指差した。
その指差す方には、傷だらけで、血まみれで、今も息絶え絶えの姿のハッシュが大木に凭れて、マーガレットを見ていた。
「あっちは僕が様子を見るから」
そう言って、ニルはもう一方で倒れていた二人に目を向けた。アルチアの力が消えたからか、ゆっくりと肩を支え合いながら立ちあがろうとする二人の姿がある。
「何にもしない?」
「しないよ」
じっと、悪戯にマーガレットはニルを見る。
「じゃあ、お願いね」
ニルは小さく頷いたのを確認して、マーガレットは急いでハッシュに近寄った。
「ハッシュ、大丈夫?」
近くで見ると、毛にべっとりと血がついて余計に重症に見えるものだから、あまりの痛々しさにマーガレットは眉を顰めた。
「そんな顔すんな、夢から出たら、怪我なんて消える……」
傍に座り込んだマーガレットに、ハッシュは手を伸ばして頭を撫でた。身長が伸びて少しばかり頭の高さに違和感を感じるも、ゆっくりと、その感触を実感しようと何度も撫でていた。
ハッシュの手が止まり、その手を支えにハッシュは座り直す。痛みに苦悶する表情を浮かべながら、その目線の先には、ニルの姿だ。
「おい、クソ猫!さっさと俺のライターと、マーガレットのスイッチを返せ!」
メレディスとカートを気に掛け、何か話をしている様子だったが、ハッシュの大声で、今度はニルが顰め面でもしていそうな素振りで、ゆっくりと振り返った。
「うるさいなぁ、もう返したよ」
ハッシュは上着のポケットを探った。慣れた利き手の右ポケットに、覚えのある金属の感触を感じて、ハッシュはポケットから手を引き抜く。
銀色の本体に小さなガーネットの飾りが嵌まった、ジッポライター。慣れた手つきで蓋を開けるも、まだ火はつけない。
「マーガレット、スイッチは……」
「大丈夫」
そう言って、マーガレットは空を見上げた。あいも変わらず、空には満月と星空が広がる。
アルチアを完全に消滅させるには、この夜の国を閉ざす必要がある。
見上げていた目線を、今度は正面に向ける。
その目線の先は――
夜の国の崩壊が始まった。
世界の端っこから崩れていく感覚が、マーガレットとニルに伝わる。
砂の城が崩れ、漂う海の波に消えていく。
ハッシュも何となしに感じたのか、ゆっくりと起き上がると、マーガレットを庇い抱き寄せ、メレディスとカート、そしてニルを見据えた。
「マーガレット、もう帰りな、待ってるんだろ?」
メレディスは、ふわりと笑う。それまでの悪意ある狼とは違った表情にマーガレットが驚いたのは言うまでもない。
「メレディス、カート、ありがとう」
実直にお礼を言うマーガレットの言葉で二人は照れ臭く笑う。
二人も、アルチアと同じで既に肉体は存在していない。この夜の国と一緒に消える運命だ。
二人に顔は消える恐怖など無く、澄み渡っている。じゃあな、と手を振って何処かへと消えていった。
二人の姿が見えなくなると、マーガレットは目線を下へと下げる。
猫の人形が、寂しげにマーガレットを見つめて近づいた。
「マギー、さよならだ」
「……うん」
ニルは、ブリキのネズミを自身の身体の継ぎ接ぎの隙間から、綿の中に押し込むと、空いた手を大きく広げた。
マーガレットは、ニルに合わせてしゃがむと、ニルをぎゅっと抱きしめる。
「ありがとう、ニル」
その瞬間、崩壊は加速度的に進み、あたり一面暗闇になった。
ニルは崩れゆく砂と共に消え、抱きしめていた温もりだけが僅かに残った。
何もない、無。上も下も、右も左もわからない。
マーガレットは再び立ち上がると、その無を一望する。背後で、小さな明かりが灯った。
仄かだが、ハッシュのライターで闇は照らされる。
マーガレットも懐中時計に触れた。チク、タク、チク、タクと時計の針がしっかりと伝わる。そのまま、瞼を閉じて、10数える。
1、2、3、……7、8、9……10
マーガレットが数え終わると同時、暗闇から最後の灯りが消えた。
◇
『こら、マーガレット!いつまで遊んでるの!』
マギーの部屋の時計は既に九時を過ぎようとしている。寝かしつけに部屋に入ってきた、お母さんは部屋の散らかりと、今も人形達と楽しく遊ぶマギーを見て、またか、と呆れていた。
『だって、眠くないもーん』
『ネムクナイモーン』
『ネムクナーイ』
マーガレットの言葉に合わせて、命を得た人形達が踊り出す。
『マギー、アソボウ!』
『マギー!』
騒ぎ立てる人形達に、マギーは興奮して益々眠りから遠ざかる。そんなマギーに対して、お母さんにはとっておきの呪文があった。
『マーガレット、九時になっても眠らない悪い子は、クローゼットのお化けに連れ去られてしまうわよ』
その瞬間、マギーの肩がびくりと跳ねる。
夜のクローゼット。その隙間が、マギーは大嫌い。あちら側から、何かがじっとこちらを覗いているのだ。
『寝る!もう寝る!!』
『ソウダ!マギー、ネヨウ!!』
今度は、マギーと一緒に人形達が『コワイヨー』と騒ぎ恐怖を煽る。
その様子が可笑しくて、こっそり笑うお母さんを他所に、人形達は慌ててマギーのベッド横にある棚の定位置に自ら戻っていく。そして、マギーは、猫の人形を抱えてベッドへ。布団からひょっこり顔を出して、お母さんをじっと見る。
『ねえ、お母さん、お話して』
お母さんが一緒なら、九時のお化けは怖くない。だって、お母さんは強い魔女だもの。
『良いわよ』
子供部屋のベッドにお母さんが一緒に居る時間は特別だ。いつも一緒だけど、少しだけ特別。
星の回転灯籠が回り始めると、子供部屋に夜空が浮かぶ。その中で、お母さんが語る物語は、怖かったり、悲しかったり、楽しかったりと様々。その中でお気に入りは、星屑物語だ。登場人物の名前を、お母さんはマギーとニルに差し替えて話してくれるものだから、マギーは目を輝かせて話に聞き入った。
『――そうして、二人はいつまでも仲良く暮らしたのでした』
物語が終わると、マギーの瞼が下りてくる。うつらうつらとしながらも、お母さんに顔を向けながら話しかけた。
『ねえ、お母さん。夜の国って、どうやったら行けるの?』
『行けるわよ、夢の中ならね』
『どうやるの?』
お母さんは急に困った顔になった、どうやって説明しよう……と、珍しく口籠もる。
『お母さん、苦手なの』
『じゃあ、私は?』
『マーガレットはもしかしたら、上手にできるかも。お父さんも得意だったから』
その瞬間、マーガレットの顔が、パッと明るくなった。
お母さんは、滅多に話してくれないお父さんの事を口にしたのだ。どんな人だったの、と聞いたら、ぶっきらぼうで、いつも、つまらなさそうな顔をしてるの、と楽しげに語ってくれた事をマーガレットは忘れてはいない。
『お父さんみたいに、上手に教えてあげられないけど、少しだけ、ね』
お母さんはマーガレットの手を強く握った。
目を閉じて、さあ、夢の中に――
◇
――目が痛い
マーガレットは、目に刺すような痛みが走った。
――何だっけ、コレ。
痛みで瞼が開かないが、何かがいつもと違う。起こそうと思った身体も、自分の身体では無いようで、今一ついう事をきかない。
どうしたものかと困っていると、誰かが啜り泣く声がする。
「……マーガレット」
弱々しい声が、今度は耳元ではっきりと聞こえた。
その人だろうか、しっかりと握られた手は温かい。その上、ポツリポツリと溢れる何かで濡れている。
そこからじんわりと体が暖かくなって、力が入った。
あれだけ重かった身体が嘘のように、むくりと一気に起き上がり、何事も無かったように目を見開いた。
見覚えのある自分の部屋、そして、自身の左側。泣きくれる、赤毛の綺麗な女の人がいた。
「……お母さん」
何で泣いてるの?
と、浮かんだ言葉が口から出るよりも早く、お母さんに抱きしめられていた。もうそれはそれは、痛いくらいに。
その温もりが、懐かしくて、掛けがえの無いもので、マーガレットの手にも力が入った。
「お母さん……お母さん……」
ボロボロとこぼれ落ちる涙を止められ無かった。
子供みたいに泣きじゃくって、何度もお母さんと呼んでいた。
そうやって涙で視界が埋まっている中、マーガレットの視界の端、部屋の入り口に見覚えの無い男の人が立っていた。
栗色の髪と紺碧の瞳。
その人は、マーガレットと目が合うと、小さく手を振ってどこかへと行ってしまった。
ノアに似てる、とも思えたが、「アンブローズ、帰るのか」という、ハッシュの声でマーガレットは驚く。
ハッシュも此処にいるのだ。
マーガレットの手から力が抜け、お母さんもハッシュに気付いたようで、マーガレットから離れて涙を拭う。
ふわりと微笑む顔は、マーガレットが無事で安心した表情もあるのだろうが、もう一つ、ハッシュの事でもあるのかもしれない。
「ハッシュ、マーガレットが目を覚ましたわ」
お母さんが、廊下に向かって声をかけると、そこから恥ずかしげに一人の男の人が部屋に入ろうか迷っている。
マーガレットも何だか気恥ずかしくて、お母さんの陰にこっそり隠れたのだった。
◆
ある、夏の日。
マーガレットは自室の窓に肘かけて外を見る。
蒸し暑い日ばかりが続いていたけれど、今日は風があって、眠気を誘われるほどに心地良い。
そのままの心地に身を預けようとした、その時
「マーガレット」
と、部屋を覗いたお母さんの声で一瞬にして眠気の向こうから戻される。
「なあに?」
振り返ると、おめかしして、恋した顔のお母さんがいる。
「お母さん、お父さんと出掛けてくるからね」
「はいはい、いってらっしゃい」
邪魔しませんよ。と嫌味も付け足すと、お母さんは満面の笑を浮かべて足取り軽く玄関へと向かっていった。
マーガレットの部屋まで、車のエンジンが掛かる音が響いて、暫くすると視界の端に赤い丸みのある車が通り過ぎていった。
家の中には一人だけ。マーガレットは静寂の中、ベッドの上に置かれたツギハギだらけの猫の人形を手に取る。
今も、マーガレットは人形に命を与える事が出来る。けれど、ニルと名付けたその人形にだけは、命を吹き込む事は無い。
それは、きっとニルでは無い別の誰かだから。
サラサラと流れる風の音を聞きながら、マーガレットは人形を腕に抱きベッドに横になると目を閉じた。
夜の国を冒険した日々を思い出しながら、マーガレットは今日も夢を見る。
これで、小さなマギーの物語はお終い。
もし、お話が続くとしたら、それはマーガレットが魔女として活躍する話……かもしれない。
終