第37話 彩音の痴漢事件
それは思い出したくもない記憶だ。
中3の夏休み、受験勉強の傍ら、仲の良くなった友だち二人と伊乃莉と4人で原宿に遊びに行った。
息抜きも大事だってことで、伊乃莉の提案だった。
実際原宿は楽しかった。
いろいろなカラフルなお店を見て回り、おしゃれな洋服を見て心躍らせていた。
4人でプリクラも撮った。
友人とこうやって遊ぶのが楽しいと感じられたのも嬉しかった。
それは帰りの電車で起きた。
ちょうど帰宅ラッシュにあたってしまって、ほぼ満員電車状態であった。
最初は解らなかった。
ただ手が体にあたってるだけだと思っていたのだ。
違った。
確実に、頃合いを図りながら、執拗に体に触れてきている。
怖くなった。
泣きそうになった。
顔が青ざめていくのがわかる。
とうとうスカートがまくられ始めた。
このスカートは、伊乃莉がすごく褒めてくれて、嬉しくて、今日着たお気に入りだった。
嫌なのに、声が出ない。
この状態を誰にも伝えられない。
触ってきてる男のものと思われる荒い息が恐怖となって攻めてくる。
涙がたまってる瞳に、伊乃莉が気付いてくれた。
伊乃莉との間には、微妙に人が立っていた。
だが、伊乃莉はそれを無視して、押しのけるように近づいてきた。
視線が下に落ちる。
と同時に、今まさにスカートを捲ろうとしている手首をつかみ、
「この人痴漢です!」
大きな声で叫んだ。
その時、彩音の様子がおかしいことに気づきながら、動けなかった周りの人が動き出した。
一瞬のうちに何人かが、その男を動けないように捕まえた。
「俺は何もしてないぞ」
男は何もしていないふりをする。
でも、その不自然な動きに気づいてる人は確かにいた。
しかし決定的な確証ができずにいた。
その人たちを、伊乃莉の言葉が動かした。
「何言ってやがる。その子を狙うように見てたくせに。」
「変な手の動きをしてたくせに。」
「女をなめんなよ。」
捕まえた人の中には、女性もいた。
次の駅でその男は、駅員に引き渡された。
さっきの女性は刑事だった。
夏休みに増える、若い女性を狙った痴漢を発見するために警戒していたそうだ。
彩音と伊乃莉、他二人も事情を聴かれたがすぐに帰してもらった。
だが、話はそれで終わらなかった。
夏休みが終わった新学期、学校で男子数人から痴漢のことを言われた。
それも、まるで彩音が悪いかのように…。
最近色気づいて、男に見せつけてたからだろう。
男誘ってたんじゃね。
冤罪作って、小遣い稼ぎしてたんじゃねえの。
男子生徒たちの性的な視線、下卑た会話は彩音の心を引き裂いていった。
ただ依然と違うのは伊乃莉だけでなく、クラスの女子が守ってくれたことだった。
これは彩音にとって大きく救われた。
それに反して、男子生徒は軽蔑の対象になった。
自分を触ってきたあの男は嫌い。
でもクラスの男子はもっと嫌い。
たぶん、このことを当時の担任だった今野聖子教諭は心配してくれて、高校に申し送りをしていたのだろう。
彩音は、もし、こういった訳ありな生徒の担任から、申し送りがされていたとしたら、本当に先生といった職業は大変だと感じた。
「あやねるは、中学であんな嫌なことがあったせいで、男子にすっごっく冷たい態度をしてたんですよ。確か、卒業式の日に、その中学でイケメンランキングベスト3に入るくらいの男子に告白されてたけど、思いっきり振ったよね。」
「あれはしょうがないじゃん。大橋君だっけ、あの事件の噂の時、私を守るどころか、一緒にからかってたの、知ってたもん。」
「ほー。それでよく告白なんてできたもんだな。ある意味感心するわ。」
「あははは、先生、それちょっと違います。そいつ、ナルちゃんだったんですよ。自分はモテるから、自分の告白で振る奴なんかいないと思ってたんですから。」
伊乃莉が慎哉の話に解説を加えた。
「いやなやつでね、自分が振られたのに、友達に「あやねるから告ってきたけど、あんな男ならだれでもいい奴なんて振ってやった」みたいなこと吹聴して回ってたみたい。」
それを聞いた彩音はかなり衝撃を受けたようで、伊乃莉のことをカッと見開いた瞳を向けた。
「何、その話!私、知らないよ!」
「当然だよ、あやねる。ウッチーやマコちゃんとあやねるの耳に入らないようにして、クソ大橋の話を聞いたやつに片っ端から、本当に大橋がクズだって、上書きしたから。クラスの女子や他の知り合いも手伝ってくれたしね。卒業生はもとより、後輩もこの話知ってるから、もう奴は中学にはいけんよ」
「いのすけ、ありがとう。」
「女子、こっわ!」
信哉と彩音が同時に言った。
ウッチーとマコちゃん。内田真緒と福田真琴。
痴漢事件の時、一緒にいた二人である。
「だからさ、男性不信って言うの?あやねるがそんなにすぐ男子と仲良くなるって信じられないんだよね。」
光人にさんざん突っかかっていた伊乃莉が、本音を語った。
実は、慎哉も昼食に誘ったのは、光人のおかしな言動もさることながら、彩音の光人への距離感に奇異を感じたからだ。
信哉の記憶にある中学からの申し送りとズレを感じていた。
彩音は痴漢事件以降、男性不信もさることながら、電車のような閉鎖空間に一人であった場合、極度の緊張感にさいなまれていたはずである。
そのため、彩音を独りで帰すわけにいかなかったのである。
今後、電車通学が続く限り、どこかで克服する必要があった。
もう、大丈夫なのかもしれない。
信哉はそう思っている。
「私も不思議。なんでだろう、白石君なら、変な安心感があるんだよねえ。なんか、可笑しな言い方かもしれないけど、お父さんみたいな雰囲気あるし、あと、唐突にあやねるとか呼ばれて、いのすけが教えてくれた声優さんとダブって見えたのかなあとか、あんな人みたいに感じてくれたのならいいなあとか。だめだ、うまくいえない。」
彩音は、光人に初めて会った今朝の教室の光景と、その時の得も言えぬ感情を思い起こしていた。
白石君のような人だと大丈夫そうだけど、塩入君みたいな男子、やっぱりやだな~。
「あの白石君以外の男子も大丈夫そうなの?あやねる。」
「うーん、まだちょっと厳しいかも。でも、白石君がいてくれれば徐々に慣れる気がする。」
「まあ、あんまり慌てなさんな。無理せずな、宍倉。」
信哉が、軽い調子で彩音を励ました。
「これ食ったら、二人の地元まで送ってくから、ご両親に連絡しといてくれ。」
「「はーい」」
信哉は二人に言いながら、公用車の使用時間を大きく超えてしまったていることに、「また嫌み言われそうだ」と、少し憂鬱になっていた。




