第246話 俺の決意
とりあえず嗚咽を堪えつつ泣いていた伊乃莉が、落ち着くのをしばらく待つ。
そして、また一段と顔の化粧が落ち、凄い状態なのでそのまま化粧室に行った。
ああ、またあんな美人を泣かせたよ、あいつ。
どんな鬼畜なんだ。
という声が、そこかしこからひそひそ声で俺の耳に届く。
おい、聞こえてんだかんな。
あらかたはあんな美人を連れている俺へのやっかみなのはわかるが、いい加減ほっとけってんだ。
(それはいい女を泣かせる光人が悪い)
(別に泣かせたくて泣かせたわけじゃないよ。まあ、伊乃莉がいつも以上に綺麗になってて、褒めてて泣くとは思わないよ。あやねるの話ではもしかしたらなくかも、とは思ったけど…)
(悪い男だな、お前)
伊乃莉が化粧を直して帰ってきた。
やっぱりこう見ると、綺麗なんだよな。
「ごめん、光人。また泣いちゃって。なんかみっともないとこ見せちゃったね。」
そう言って、席に座った。
見事に今まで泣いていたとは思えない表情だ。
少しすっきしたようで、よかった。
「みっともないということはないだろう。今まで頑張ってきた伊乃莉の努力が実を結びそうなとこまで来たんだよ、これは。」
「光人の言葉にちょっと感極まって、感情がこぼれちゃったんだもん。バッチリ化粧して光人を驚かせたとこまではよかったんだけどなあ。」
伊乃莉は少し拗ねたようにそう言い、俺に視線を向ける。
「でも、でもさあ、光人。さっきの話って、かなり想像力豊かって感じだけど、本当なの。」
「想像だということは認めるよ。でも、真理さんにしろ、敏文氏にしろ、あやねるに関する今言った事実の部分と、生理の話は想像だけど、そのすべてを知ってるわけじゃないから、さ。専門の人に聞いた時だって、その事実をすべて話したわけではないと思うんだ。あやねる自体は覚えていないというに決まってるしね。」
自分でも強引な論である自覚はあるんだ。
でも、あやねるの変化が始まってることは間違いない。
それを、頑張ってきた伊乃莉には伝えたかった。
もしかしたらもっと時間がかかるかもしれないけど、絶対にあやねるは記憶を取り戻す。
俺はそう思っていた。
ただし、その時が来た時に、伊乃莉も、そして俺もあやねるの行動に対して心の準備をしておく必要がある。
「でもね、伊乃莉。何度も言うけど、あやねるが俺に対しての気持ちについては、その考えしかないと思う。俺がそんなに魅力がある男だとは思ってはいない。特に一目惚れをされるようなやつ出ないことは充分わかってる。」
「確かに、それはそうだ。」
自分で言っておいてなんだか、伊乃莉のその言葉にちょっと落ち込む。
ちょっとだけね。
「ああ、そのね、光人が魅力がないと言ってんじゃないからね、一応。」
「フォローありがとう。大丈夫、そんなに落ち込んでないから。」
だめだ、反射的に言っちゃたけど、これ落ち込んでるって言ってるようなもんだ。
「だから、俺をあんなふうに思ってくれてるということには、理由がある。これは間違いない。そして、あやねるは俺の親父を慕っていた。となれば、その面影を理由としてもおかしくないだろう?」
「高校入学してからのあやねるがおか……変わったのは間違いないからね、うん。」
「お前、今、おかしいとか言おうとしたな。ま、その通りなんだが…。だから、今後、何かの拍子に記憶の封印が完全に解ける。おそらく、そう遠くない未来に。」
自分の言いようが変に予言者めいて、気持ち悪かった。
「で、だ。その時に考えあられるあやねるの心情を予想しておかないといけない。でないと、俺たちがあやねるの心を守り切れない可能性がある。」
その言葉に、伊乃莉ははっきりと狼狽した。
ちょっと強く言い過ぎたかもしれない。
「そんな言い方しないでよ。まるであやねるに悪いことが降りかかるみたいな言い方。」
伊乃莉が軽く抗議してきた。
が、その顔には、その未来に待ち受けるあやねるの動揺を想像しているのは明らかだ。
「仮にだ。仮に、伊乃莉があやねるのことを忘れていて、あやねるがなんも言わずに友達付き合いをしていると、想像してくれ。そして、ある日、急に昔のあやねるとの楽しい日々、そしていなくなった悲しみの感情を思い出した時に、あやねるに伊乃莉なら、どうする?」
「ど、どうするって言われても…。とりあえず思い出したことを伝えて、忘れてたことを謝る、かな。」
「その時に、あやねるは笑って、大丈夫みたいなことを言ったとしよう。」
「わかってるよ。いたたまれなくて、絶対その場から逃げ出す。私ならそうする。」
「実際にその時がどんなタイミングで訪れるか、全くわからない。だからこそ、どうするのがいいか、考えていた方がいい。」
俺の言葉に真剣にその時のことを考えているんだろう。
しばし考えこむように、両肘をテーブルについて、頭を抱えるようにしている。
俺は二人に事について、あまり悲観的なことは考えていない。
二人の関係を冷静に見てれば、その時に多少の波乱があっても、時間が解決してくれるはずだ。
そして過去のことも今も、そして未来についても、語り合える親友同士になるんじゃないか。
そう思っている。
問題は、おそらく、俺の方だろう。
「まだよくわからない。彩音がどう思うかもわからないし、私が何をしてあげられるかもわからない。何かいい方法はないの?」
「なくはないだろうが、まずは自分で、今のあやねる、そして過去の彩音ちゃん。それをよく知っている伊乃莉なら、どんな答えも、間違いではないはずだよ。」
やり方に関しても、いくつかあるとは思う。
でも、重要なのは伊乃莉が考え、伊乃莉が答えを出すこと。
そうすれば、その時にやったことに対する自分のあやねるに対する気持ちを再確認できる。
そしてそれはあやねるも同じだろう。
「光人はその時にどうするの?お父さんの面影だけで好意を示されている現在、それが恋愛感情ではなくて、ただの懐かしさみたいな勘定だとあやねるが気づいてしまったら…。」
伊乃莉の問いは、しかし俺の想定の中だった。
そして、すでにあやねるには伝えてある答えでもある。
「そのことに関しては、もうあやねるに答えを渡したよ。」
「えっ!」
「昨日の帰り道に、智ちゃん、西村智子との経緯の後、電車で言われたよ。俺のことが好きだと。」
「そうね、そう言ったみたいね。」
「なら聞いてるだろう、俺の答え。」
「うん聞いてる。あやねるが今一歩を踏み出したところで、偶然光人がいた。今は、その変わりたいという気持ちが好意に感じてるけど、ちゃんといろいろな壁を克服できて、それでも俺を好ましく思っていたときに、初めてその返事ができる。そんな感じかしら?」
「うん、そういう感じ。俺は中学の時にいろいろあって、すっかり人間不信に近いところにいた。それを二人の幼馴染に助けられた。でも恋愛というものはまだ自分には、よくわからない。」
そこで少し気持ちを落ち着ける。
「俺は宍倉彩音という女性が好きだ。何かあれば守りたいし、支えたいとは思ってる。でも、もし親父のことを思い出して、それが恋愛感情ではないと思ったとしても一人の友人として支えたいと思っている。」
「いいの、それで?」
「もし、本当に恋愛感情が俺の中で芽生えているのであれば、こちらから告白するつもりだ。」
俺がそう言い切ると、伊乃莉がほほ笑むように口元を緩めた。
「私も応援するよ、光人!」
そういう伊乃莉に、俺はしっかりと頷いた。




