第208話 柊夏帆の秘密 Ⅱ
その言葉は、自分と親父にとってはすでに共有した事実だった。
話した岡林先輩も柊秋葉さんも知っている事実である。
宍倉彩音さんにとっては、その事実が何を意味するかは、よく分からないかもしれない。
だが、妹の静海はその事実に対し、体を硬直させていた。
柊夏帆は事故関係者の親戚という立場ではない。
事故関係者なのだ。
おそらく親父がはねられる瞬間を目撃している。
倒れている親父を見ている。
にも拘わらず、その現場には居合わせなかったことになっている。
それが何を意味するのか。
「見殺しにしたんだ。私のお父さんを…。」
ぽつりと、隣からそんなつぶやきが聞こえてきた。
そう、思ってしまう。
静海の体温が下がった気がした。
密着している子の態勢で、肩を抱いているにも関わっらず、静海の体温を感じない。
まずい、そう思ったときには、遅かった。
「私の、私たちのお父さんを、見殺しに、したんだ!」
静海は俺の腕からすり抜けるようにして立ち上がり、柊秋葉、柊夏帆の妹に向かって、そう叫んでいた。
俺は慌てて立ち上がり、静海の前から両腕で抱きしめた。
「違う、違うはずだ!柊先輩は、そんな人じゃない!」
俺は静海の気持ちを抑えるためにそんなことを言っていた。
正直、柊夏帆という女性を、そんなに良く知っているわけではない。
だが、この数日の彼女の行動を見ていて、見殺しにできるような人じゃない、と単純に思ってしまった。
さらに、その現場にいたということは、おそらく蓮君と一緒にいたはずだ。
仮に親父を見殺しにするとしても、その蓮君まで見捨てて逃げたとは思えない。
「静海!お前の気持ちは痛いほどわかる。親父を失ったのは俺も一緒だ。でも、彼女は昨日、あれほど真摯に静海に対しただろう。」
「そうよ、昨日はそう思った。素敵な先輩と知り合えてよかったと思った。でも、私に、私たちに嘘をついてたんでしょう。それも絶対についてはいけない嘘を。私たちのお父さんを助けられる場所にいて、見殺しにして、そしてそこにはいなかったことにして!全部嘘じゃない!信用なんかできるわけないよ、あんな人!」
「それでも、だ。もしそうなら、あんなに積極的に自分から俺たちに会いに来るわけがないだろう!まず、岡林先輩と、あの人の妹である秋葉さんの話をしっかり聞こう。すべてはそれからだ。」
俺は妹を抱きしめながら、そんなことを言っていた。
別に柊夏帆を庇おうとしたわけじゃない。
だが、妹の静海の言ってる通りだとするなら、あの人は、俺たちを避けるはずだ。
あんなに積極的に俺に会いに来るわけがない。
本当にしつこいくらいに…。
「うん、わかった。聞く。」
ほとんど単語だけで話す妹、静海。
俺はそんな静海の頭を優しく撫でて、ソファに座りなおした。横にまた身体を密着させて座った。
あやねるは俺たち二人の姿を興味深そうに見て、何も言わずに岡林先輩に視線を戻した。
俺は小刻みに震える静海の肩をもう一度抱き寄せて、岡林先輩に視線を向け、先を促した。
「うん、カホはその場所にいたの。その男の子、蓮君と一緒に買い物をして、蓮君と家に帰る途中だったそうよ。」
岡林先輩の声が詰まった。
俺は、その原因の人物を見た。
かなり険しい表情を作っている静海の顔。
叫びそうになるのを必死で堪えているのだろう。
俺はそんな静海の肩に置いた手に力を入れる。
身体が強張っていた静海の力が少し抜けた。
「お姉ちゃんは、バイトの帰りに蓮ちゃんと駅で待ち合わせをしていました。うちの姉は特に蓮ちゃんを溺愛していて、会えるのを楽しみにしていたんです。別に、蓮ちゃんの家は駅の近くのマンションだったので、家まで行く予定ではあったのです。ですが、蓮ちゃんが駅ビルの中の書店で、人気の漫画が出ているとかで、一緒に買う事になったそうです。駅の改札で待ち合わせたそうなんですが…。その後に何があったかは、正確には解りません。その部分は姉は誰にも語ろうとしません。蓮ちゃんも何も言わなくて…。」
小学3年生にとっては、この事故はトラウマレベルだろうから、その前後の記憶があやふやという事もあろうかと思う。
ただ、柊先輩が何も言わない出来事が何かあったとは、誰でも想像できる。
問題は、何があったのか?
それが事故に関係するのか?
「何があったかは分からない。でも、その後に事故の現場、駅下の横断歩道での出来事は聞いているの。」
静海の鋭い視線に耐えながら、今度は岡林先輩が引き続いて話し始めた。
「カホはその買い物を終えて、現場について信号が青に変わるのを待っていた。信号が青に変わる時にカホは安全を考えて、蓮君の手を握ろうとしたの。それを蓮君は嫌がって、振り払うようにして横断歩道に飛び出した。でも、その時点ですでに青信号に変わっていたことは間違いない。そうよね、白石君?」
岡林先輩は俺に確認してきた。
その事故の様子に関しては、既に警察からも、弁護士の鶴来さんからも聞いている。
飛び出した男の子は青信号で横断歩道を駆けているのが、監視カメラで確認されていた。
単純に言えば、男の子と柊先輩の間に何かあったとしても、交通ルールを守っていることは間違いなかった。
間違いを犯したのはトラック運転手、大園友也さんである。
柊夏帆、浅見蓮に何の罪もない。
それを頭で理解していても、心が邪魔することはよくあると思う。
静海は懸命に心の中の荒波を抑え込んでいるようだ。
「ええ、警察の方からそう聞いています。浅見蓮君は決して悪くない。でも、今の話から柊先輩が悪いとも思えません。何故、そこから姿を消したのでしょうか?」
「そのことがおそらく一番聞きたい事よね。でも、まずは順番に話させて。手を振りほどいた蓮君は一気に渡り切ろうとした。そこに信号を無視したトラックが突っ込んできた。蓮君はそれに気づいて動けなくなってしまった。それを助けたのが白石影人さんだった。」
そう、入学式までの間、何度見せられたことだろう、あの夢を。
「蓮君は多少の擦り傷と脳震盪を起こしただけで、ほぼ無事だったけど、白石君たちのお父さんがはねられてしまった。その後、カホ自身混乱していて、記憶もあやふやだったけど、蓮君と影人さんの周りに人が集まって、すぐに救急車と警官が来た。その時には浅見蓮君の両親がいたとの事で、カホは浅見蓮君のお父さん、浅見英治さんでいいよね。」
そう言って秋葉さんを見る。
秋葉さんはかろうじてわかる程度に頷く。
「その英治さんに、強制的に家に連れていかれたみたい。おそらく蓮君の両親に連絡したのはカホ自身。でも、現場からいなくなったのは彼女自身の判断ではなくて、大人たちの判断。」
岡林先輩の話で何故、あの場に居なかったように振舞っているかが、見えてきた。
とはいえ、この話は本人から聞いたわけではない。
どこまでが本当かなんてわからない。
それでも、その大人たちの判断。
聞いておかないといけない。
「大人の判断、とは?」
「カホはすでに、読者モデルなんかをやっていて、そこそこの有名人、でしょう。たぶん、大人たちは蓮君との関係などが知られると、マスコミに面白おかしく書かれ、カホの心を心配したんだと思う。」
確かにその可能性が高い、とは思う。
「でも、その大人たちの判断が、逆にカホを追い込んだみたい。影人さんに対する申し訳なさ、罪の意識が過剰にカホの負担になったようでね。ただ、カホの体調が戻ったきっかけは、白石君の言葉だったそうよ。」
「俺の?」
「ええ、お父さんが誇りだ、って話したんでしょう、蓮君のお母さんに。」
ああ、ここでもその話が出るんですね、やっぱり。
「お姉ちゃんは、本当はこの事を白石君たちに伝えたがっていたの。でも、両親や叔父叔母が自分のためにしたことを否定することもできないって悩んでいたんです。その気持ちだけは解ってください。」
秋葉さんは目元にうっすらと涙が光っていた。
その言葉に、静海の緊張が少しずつ解けてきたようだ。
この事が、柊夏帆の俺に対する異常な執着心に納得がいった感じだ。
反対側にいたあやねるが、今は俺の方を見ていた。
その表情は俺の知っているあやねるだった。
先程の、あの表情をした宍倉彩音は何に納得したのだろうか?
俺自身も納得は出来ている。大人たちと自分の判断に差があることは、この年ではしばしばある。
自分にも親父たちの価値観とは異なる考えがあることは思ってる。
(今は、柊夏帆の苦悩は汲んでやれ、光人)
(それは解ってるよ。静海も一昨日のようなこともなかった。あんな状態で取り乱されると、この場では対応しようがなかった)
(今の説明は結構不明瞭なところがあるけど…。本人でも目撃者でもない。この事を話してくれた二人は、きっと柊さんの心配をしているんだろう。光人、お前の態度が普通の男子高校生に見えない。特に柊夏帆というスターを前にあの警戒心バリバリの雰囲気出してたし、妹の静海も、普通じゃない状態だしな。とりあえず、二人には安心させてあげな)
(そうしておくよ。たとえ、その大人たちの判断が、納得のいかないものでも)
親父が俺の頭の中で苦笑した。
そう、俺は大人たちの判断とやらに納得がいっていない。
でも、どうやらその大人の判断について、当事者である夏帆自身は納得しているらしい。
まだ、俺は柊夏帆に対して、完全には警戒を解いていなかった。
「岡林先輩、柊秋葉さん、話してくれてありがとうございます。ちょっと引っ掛かていたことが、今の説明で納得できました。それに、本人に内緒で俺たちに話すことは悩んだと思います。うちの妹が少し興奮してしまい申し訳ありません。ですが、今の説明で納得できたと思います。な?」
「うん、大丈夫だよ、お兄ちゃん。岡林先輩、秋葉先輩。ありがとうございました。実際、夏帆先輩の兄に対する態度が不思議だったんですが、よくわかりました。まだ、うちの母の気持ちが落ち着かないと無理ですが、その際にはうちのお父さんに線香をあげて頂くと嬉しく思います。」
静海はしっかりと、そう言った。
「うん、ありがとう、静海ちゃん。ぜひその時はお願いします。」
この話のために、俺たちは呼ばれたのだ。
もう結構な時間が過ぎている。
生徒会の役員が来る前に席を立った方がよさそうだ。
「では、貴重なお話をありがとうございました。」
俺はそう言って、ソファを立ち上がった。
続いて、静海とあやねるが立ち上がる。
「宍倉さん、この話は他で話さないように、ね。」
岡林先輩が釘を刺してきた。
「はい、決して他には漏らしません。同席させていただいてありがとうございました。」
「じゃあ、今度は生徒会役員として待ってるね。よろしく、ね。」
3人で生徒会室を後にした。
外に出て、すぐにあやねるが俺達兄妹に謝ってくる。
「ごめんなさい。重要な話に無理やり参加するようなことをして。」
「大丈夫だよ。今の話は俺にとっても、静海にとっても有益なことだけど、秘密にしたいのはあちらさんだから。」
俺はそう言って生徒会室に目を向けた。
「うん、大丈夫だよ、宍倉先輩。今の話は知らないといけないことだったから。なんとなく、柊先輩のご両親と親せきの人の気持ちも分からなくはないし。うん、大丈夫。」
静海のダメージが思ったほどではないことに、少しほっとした。
「わたしね、昨日、光人君がうちに来てくれて、嬉しかったの。でね、もしかしたら光人君や静海ちゃんを支えることが出来ないかなって思って、無理矢理ついてきちゃった。本当にごめんなさい。二人には余計なおせっかいだったね。」
そんなことを考えてたのか。
「それと、昨日光人君が帰ってから、お母さんと話してて、私、何か忘れちゃってる気がしていたの。もしかしたら、思い出せるような気がしてっていうのもあってね…。」
あの顔はそんな意味があったのか。
やっぱり、宍倉彩音という少女は、変わろうとしているんだ。
「ちょっと、自分本位になりすぎてたかも…。だからいのすけにも、我儘って言われちゃうんだよね。そこは何とか直していくようにするよ。光人君もそんな心配そうな顔をしないでよ。」
そんなに顔にでていたのか。
「ほら、早く行こう!きっと、いのすけも、佐藤君も待ちくたびれているよ。」
ああ、そうだった、伊乃莉の家に呼ばれてたっけ。
景樹に連絡しないと。
俺は、自分なりになんか納得している美少女二人とともに、生徒会室を後にした。
(ああ、とうとう光人は気付かなかったか。あの部屋に柊夏帆が隠れていたことに)




