第15話 柊夏帆 Ⅰ
人が跳ね飛ばされるのを目撃した日。私の心は凍り、固く閉ざされた。
事故の日から10日程度が過ぎた日、柊夏帆は従妹の浅見蓮の部屋にいた。
泣きながらベッドに寝る連の頭を夏帆は優しく撫でていた。
蓮も悪夢のような記憶にさいなまされていた。そして夏帆も。
夏帆自身も両親からただひたすら慰められていた。
「お前の所為ではない」同じ言葉が繰り返されている。
そんな言葉は夏帆の心には響かなかった。
そして、蓮と夏帆は大人たちによって、その事故から遠ざけられていた。
蓮の両親である浅見夫妻は、事故の被害者である葬式に参加したい旨を直接伝えに行ったという。
だが、家族葬で行うことを理由に、参加は拒否された。
ただ、その後、被害者の白石家には通され、お線香をあげることはできたと夏帆は母親から聞いている。
浅見夫妻は、白石影人の遺骨の前で、被害者の家族であるボロボロに疲れ切り、涸れ果てている妻と、目は充血して真っ赤になり、動きも緩慢な息子に謝罪と感謝の言葉を、ただ、ただ、泣きながら繰り返したという。
それに対し、疲れ切っているその二人は、かろうじて微笑みを浮かべていると思われる表情で、しかし凛とした声音で語ったという。
「息子さんに怪我がなくてよかった。亡くなってしまったのは悲しく悔しいけれども、父のとった行動、あなたたちの大切なお子さんを守るために飛び込んだ勇気は、褒められこそすれ、謝られることではない。私たちは父を誇りに思っています。」
誰も責めずに、その言葉を伝えたという。
その言葉は、母から伝えられた時は何も感じなかった。
けれど、心の中で何度もリフレインしていた。
そして、今日、夏帆は蓮の髪をなでながら、またその言葉が心を駆け巡った。
まだ見たことのない、あの日トラックにはねられて亡くなった人の息子である少年。
「子供を守るために飛び込んだ勇気を持つ父を誇りに思う」
気づいたら、蓮が起き上がって、夏帆を見つめていた。
夏帆は今、蓮の前でカラーコンタクトを外していない瞳から涙がこぼれているのを感じた。
蓮はその涙と、夏帆の表情に気づいた。
「お姉ちゃん、ぼく、大変なことを、しちゃった」
あの日から、何もしゃべらずに泣いていた蓮が、つたない言葉で自分の気持ちを紡いだ。
夏帆も閉ざしていた心が開かれるのを感じた。
夏帆は泣きじゃくりながら、大声で泣き叫ぶ蓮をただ、ただ、抱きしめていた。
その後、二人の鳴き声に蓮の母親である浅見玲子が駆けつけて、二人をゆっくり介抱した。
泣き疲れた蓮は、居心地よさそうに母の胸で眠りにつき、涙でくしゃくしゃになった夏帆に玲子は顔を洗うように勧めた。
言われるがまま冷水で顔を洗い、自分の心が落ち着いていく。
しかしながら、玲子には二人の大泣きの理由をうまく伝えることはできなかったが、浅見宅を出る際には、少し心が軽くなっている。感情が動き出したことを感じる。
自宅に着いて、マンションの玄関を開けると父の清司と母の冬花が待っていた。浅見家から連絡があったのだろう。
「ただいま、パパ、ママ」
少し意識してはにかみながら笑顔で言った。
二人は瞳に涙をため、雪花は口を両手で押さえながらいった。
「お帰り、夏帆」
「夏帆の笑顔がやっと帰ってきた」
口々に言った。
そう、まだ心の氷は完全には溶けていないけど、以前の自分に近づき始めていることはわかっていた。
けれどもそれは、新たな苦しみと対面することも夏帆は感じていた。
自分の心を閉ざさなければ壊れてしまうだろう、心の痛みと直面することになるのだろうから。
事故からのこの10日間、夏帆の顔から表情が完全に消えていた。
言葉のやり取りはしていたものの、そこに感情は全くなかった。
夏帆には、この10日間の記憶はある。
だがそれは薄く霧がかかったように現実感はなかった。
まるで他人が何かしているような感覚だった。
両親はそんな夏帆の様子の原因が、事故によるものであると考えた。
それは紛れもない事実だったが、夏帆の両親と浅見家は夏帆を世間から守るために、あの事故現場から遠ざけた。
助けられた浅見蓮は無関係ではいられないため、蓮の両親が前面に出て、遺族に会いに行ったのである。
遺族である白石影人の妻と息子は誠意をもってそれに答えたのである。
浅見家はそんな白石影人の家族にできうる限りの援助を約束したのだった。
夏帆の両親はそれで終わりだと思っていた。
娘を守りきれたと。
そして、心を閉ざしていた夏帆にやっと表情が帰ってきたことに涙したのだ。
だが、夏帆自身は何も終わっていないと、心の一部が凍ったままであることを理解していた。
蓮はきっと、本当には何があったかは、理解していないと夏帆は考えている。
あの時、迫りくるトラックと突き飛ばされた自分。
人が死んでいると感じるよりも、自分が跳ね飛ばされてる事実。
誰が突き飛ばして、その誰かがどうなったかはおそらく知らない。
そう、蓮は突き飛ばされ、道路に転がった時に、意識を失ったのだから。
トラックが迫りくるその瞬間しか知覚していないだろうから。
ただ、意識を取り戻したときに、「大変なこと」が起こったとしか知らないはずだから。
蓮は優しい母と父のもと、ゆっくりと元の元気な蓮に戻ればいい、それだけでいい。
あの事故の責任は、すべて私が受け止めなければならない。
蓮を不幸にしないために。
そして、実際、自分の軽率な行動が蓮を怖がらせ、あの行動を起こさせたのだから。
夏帆はまず最低限のこととして、事故の被害者である白石家の遺族に謝らなければならないと考えた。
あの時、蓮の手を放しさえしなければ、運転マナーが悪いトラックが目の前を通り過ぎただけで終わったのだから。
夏帆の願いは、しかし叶えられなかった。
この10日間は、従妹の蓮が事故に巻き込まれたショックで心身とも落ち込んでいることを学校側に伝えて休ませていた。学年末テストも近いため、もう休むわけにもいかないことはわかっていた。
それ以上に、夏帆の妹、秋葉が姉を心配して体調が悪くなりつつあったことに夏帆は自責の念に駆られた。
妹の秋葉は夏帆の出身中学である日照大千歳中学の3年生である。
単純に進級ということでは問題がないが、夏帆と同じく学力が高く、高校での特進クラス入りがかかっている。その直前のこの大事な時期に、大好きな姉を心配するあまり食が極端に細くなり、睡眠も満足に取れない状態だった。
現時点で、この事故にこれ以上関わることは夏帆にはできなかった。
夏帆は大きな負の感情を抱いたまま、自分を鼓舞し、学校に通い始めたのである。
秋葉は表面上元気になった姉に喜び、体調も急激に回復し、学年末テストに向けて、勉学に集中していった。夏帆も心に重しを抱えながらも、テストを終えた。
夏帆自身はテストの結果に満足のいくものではなかったが、学年で何とか50番台に乗せることができた。秋葉も充分特進クラスに入れる順位をキープできた。
学年末テストが終わると、生徒会には卒業式、そして次年度の入学式、委員会部活紹介など様々な行事へのかかわりが大きくなる。
特に今後の生徒会を担う人材の発掘と育成は重要なテーマとなるであろう。
従弟の事故の件は生徒会役員には知らせてあるが、その事故現場にいたことは両親の希望で伏せられている。いや、正確には両親と蓮の両親の協力で夏帆は現場には存在しないことにされていた。
この事実は近親者しか知らない。
警察が来る前に隠されたのだから。
ただ、この隠蔽に夏帆の意志はなかった。
そして仲間にも結果的に噓をつかなければならないことが、夏帆の心を蝕んでいく。
トラックに跳ねられ、死亡した白石影人のことは知っているが、遺族の名前も顔も夏帆は知らない。
だが、その件に関して職員会議で議題が出ていることは、生徒会という特性上、耳に入ってきた。
正確には新年度の生徒会顧問に決まった大友裕太教諭が生徒会長の斎藤総司がどう動くか、面白半分にリークしたようだ。
ここで夏帆は考えた。
職員室で白石影人死亡事故が議題に上がるということに。
結論は1つしかないように思えた。
そう、白石影人の子供が在学している、もしくは新たに入学しているということだろう。
夏帆が知る限り、現高校1年生2年生に白石という姓を持つ生徒はいないはずだ。
もし、新しく自分の後輩としてこの高校に入ってくるとしたら、自分はどうすればいいのだろう。
まず行動を起こすこと。
それだけを今、私、柊夏帆は考えていた。




