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人は帰れど心は返らず


 『ジュウニブンノイチを刻むきみ』。


 二〇〇〇年代初頭に発売されたそのコンシューマゲームは、ヒロコが人生で初めてプレイした乙女ゲームであり、同時にヒロコの人生を変えたゲームでもあった。


 人が自らの手で時を進める街・クロノシティでは、時計塔の内と外で時間の流れが十二倍違う。黒野家一族は代々、その街の時計塔を管理する役目を負っていた。


 黒野翔人は、黒野家に初めて生まれた双子の兄弟、その兄である。


 七歳になった翔人が時の管理人を継いだことで、弟・大地だいちは時計塔の外の世界へと解放される。ゲームはその一年後であり十二年後――翔人八歳、大地十九歳の時点から始まる。


 プレイヤーは人格と記憶を共有する二体一対の人形・水从すいしょうとして二人に仕え、時計塔の外と中、二つの視点を行き来しながら、兄弟と絆を深めていく――『ジュニきみ』の大まかなストーリーはそんなところだ。


 翔人は人生のあらゆる面で弟に先を越されたことによって抱いた劣等感から、従者である水从にキツくあたる。それでも献身的に仕える水从に、次第に心を開き、時には甘え、時には反抗し、そして時には狂愛を向ける。その未熟な狂気はバッドエンディングの一つで象徴的に花を開く。


「あいつといる方が楽しいんでしょ? いいよ、もう――自由にしてあげる」


 そう言って翔人は水从を焼却炉に突き落とす。翔人が零した一滴の涙が、炎に飲まれていく水从の頬に弾けるイベントスチルが表示され、物語は幕を下ろす。


 パラダイム・シフト。


 脳みそがめくれ上がり、その裏側に直接テキストを書き込まれたような衝撃。


 そのワンシーンに起因してヒロコの脳内で展開されたのは、公的に存在しない、水从に未成熟な性愛を向ける翔人の姿だった。それが自分自身の内から生まれた妄想であると理解するには、ヒロコは余りにも幼かった。十四歳の少女は空想と現実を区別する能力に乏しく、自らの妄想を公式設定と誤認してしまうのも無理のないことである。


 考察という名の妄想はまた別の妄想を生み、ヒロコの脳内で際限なく増殖を続けた。


 翔人は水从を愛していた。つまり性的に見ていたはずだ。であれば水从の意識が遠くにあるとき――水从が大地と共に時を過ごしいるあいだ、無防備な水从のカラダを、翔人は一体どうしただろうか。


 考えて、考えて、考え続けても――結論はでなかった。あるのは無限の可能性だけだった。膨張を続ける無限に脳を灼かれながら、ヒロコは天を仰ぎ見て、かのシーンの水从と自分を重ねた。ヒロコの顔に滴るのは翔人の涙などではなく、彼女自身の涎であり、鼻血であり、涙であった。やがて抱かれる一つの情念――――


(えっちだ――)




 ***




「――つまりね? 翔人は人形である水从をえっちな目で見ていたの。水从が大地の腕に抱かれているときも、翔人は無防備な水从のカラダに未熟な性愛を向けていた、いや、水从を使って発散させていたことは! ……確定的に明らかと言えるんだよね」


「へ~……『ジュニ君』って、そういうゲームだったんだ……」


「それを裏付ける証拠だってあるんだよ! 大地とのデートシーンで、水从が動悸・息切れを起こしたり、頬を染めるようなシーンまであるの! 水从が大地にときめくなんてことはありえないのに、どうしてこんな描写が挿入されたのか? ……そう、水从は人格と記憶だけでなく、快感までも共有していたんだよ」


 初代『ジュニ君』をプレイしたことがないというギャルに対し、ヒロコは作品のあらましをつまんで教えていた。


 掻い摘むというには余りにも偏向が見られた上、そのほとんどは本編と無関係なヒロコの妄想だった。そもそも『ジュニ君』は全年齢対象のゲームでありえっちなシーンなど存在するはずもない。


 しかしそれも仕方のないことかもしれない。


 当時中学生のヒロコを貫いた幼い性衝動は、彼女をインターネットの海へと向かわせた。クロノシティの時計塔のように、インターネットの中は時間の流れが現実と異なる。そこではヒロコは十八歳だった。まだ見ぬエロパロを求め、少女のはるかなる航海の旅路が始まった。


 「翔人夢」「翔主」「主翔」「翔水」「水翔」「ジュニ君 夢小説」「ジュニ君 裏小説」「ジュニ君 二次創作」「ジュニ君 二次小説」――――あらゆるキーワードの組み合わせを検索窓に打ち込み、複数のランキングサイトを跨ぎ、別タブで開いては閉じ開いては閉じを繰り返した。訪れた個人サイトの数はゆうに千を超える。


 長い旅の中で、ヒロコにとって事実と空想の境目はますます曖昧になっていった。ゲーム内のテキストと自分の妄想と他人の書いた夢小説の区別など、とうの昔につかなくなっていたのだ。


「か、かいかん……」


 自分の好きなコンテンツの話題になると途端に雄弁になるというヒロコの悪癖を、ギャルの反応が助長していた。


 ギャルは死ネタに悲しみ、パロディに笑い、下ネタに恥じらいを見せた。もちろんこうしたギャルの態度は、ヒロコにとっては予想の範疇である。〈オタクに優しいチェリーキリング〉のギャルが「遊んでそうに見えて実はウブ」なのは自明のことだ。そうでなければヒロコの粗末な性経験ではマウントを取ることができない。同年代の女子に性知識で勝っているという優越感と、一つ一つの下ネタに恥じらいを見せるギャルに対する嗜虐心は、ヒロコにより過激な表現を使わせた。


「挑戦的なゲームだよ……翔人ルートでは二人のプラトニックな恋愛を描く一方で、大地ルートではほとんどのシーンで、描写こそないけど、えっちなことをされているわけだからね」


「え? ……描写ないの?」


「うん。だって大地ルートは翔人出てこないし」


「……じゃあなんでわかんの? その……え、えっちなことしてたって」


「……………………?」


「……?」


 ギャルのこの発言には、さすがのヒロコも面食らってしまった。――やれやれ、この娘は行間を読むということを知らないのだろうか。昨今の若者は嘆かわしいほどに国語力が低下している。「大水」や「水大」などというカップリングはありえないのだから、大地ルートにおいて脈絡なく発情する水从の描写がもう一つのカラダに行われている淫靡な行為を暗示していることは明らかだ――ヒロコが肩をすくめようとすると、運び屋が声を張り上げた。


「ストップだ! ……おいおい……なんだこりゃあ?」


 運び屋の静止の声に、ヒロコとギャルは軌道自転車を押す力を緩め、車両前方を覗き込む。線路上には、置き石と呼ぶには大きすぎる岩が置かれ、進路を塞いでいた。


「いったい誰がこんなことを……」


「おじさーん、この道塞がってんじゃん。引き返すよう?」


「いや、教国側に通ずるのはこの道しかえ。おかしいな、つい一ヶ月前にはこんな岩無かったんだが……」


「ふふっ、どうやらお困りのようだねえ……」


 ヒロコはスキル《限界超越》を使い、背から伸びる四枚の翼を器用に動かして岩を挟み込んで持ち上げ、線路上からどかした。


「いっちょあがり! これで通れる?」


「あ、ああ……今の背中の動き、だいぶ気味悪かったな……」


「なんか言った」


「いや、何も」


 限界超越によって創り出された翼はヒロコの意思ひとつで自在に動かすことができた。とはいえ、人が本来持ち得ない器官を操作するのは非常に難度が高い。レースゲームをする際に体が傾いてしまうヒロコには、翼だけを動かすというのは無理難題だった。


 まったく、お礼の一言も言えないのか。異世界人というやつは、どうやら相当に非常識らしい――ヒロコが立腹していると、にわかにギャルがその手を取った。


「――す、すごいじゃんヒロコ! 今のなに!? ヒロコのスキル!?」


「え、えっ? うん、まあ、そうだけど……」


「やば! 羽生えてたじゃん! なにあれ!? どういう仕組み!? 空とか飛べんの!?」


「そ、空は飛んだことないけど……怖いし……」


「飛ぼうと思えば飛べんだ! すごいよそれ最強じゃん!」


「そ、そうかな……えへ、えへへ。まあそれほどでもあるかな! でゅへへ」


 ヒロコは得意げになって、翼の付け根を見せびらかすように身を捻った。前世ではもちろん、転生後の現世界でさえまともに人に褒められたことがなかったのだ。


 ギャルは繰り返し繰り返し賞賛の言葉を口にした。それでヒロコは少し恥ずかしくなった。褒め殺しにされることに対してではなく、つい先ほどまでこのギャルをIQの低い山姥やまんばの幼体程度に見積もっていたことを恥じたのだった。


 ――なんだ、悪い子じゃないじゃないか。この子となら、友達になれるかもしれない。こんなにもわたしのことを褒め称えるのだから、これはもう、ほとんどわたしに惚れているといっても過言ではないだろう――


 この世界に来て初めての、対等な友人。いや、もしかしたら、もっと深い関係になるのかもしれない。そんな予感が、ヒロコの心を躍らせた。




 ***




友延とものべさん……! おかえりなさい! 遅かったじゃないですか!」


「たっだいま~! ……なぁに、オタクく~ん? そんな顔して。心配だった?」


「当たり前じゃないですか! 遅れるなら連絡くらいしてください! どれだけ心配したと……!」


「あはは、顔がマジじゃん? ほんっと、センサイだよねぇ……オタクくんは。……でもありがと」


 気づけたはずだった。


 ギャルは〈オタクに優しいチェリーキリング〉の二つ名を持っていた。〈竜殺しドラゴンキラー〉という二つ名を持つ者が、一度たりとも竜を殺したことが無いはずはない。二つ名とは行動の結果として獲得されるものであって、潜在的な能力を示すものではないのだから。


 つまり、ギャルはヒロコに会う以前から、オタクに優しくしていたのだ。


(ああ――『オタクくん』は、わたしじゃなかったんだ)


『《脳破壊耐性(中)》が《脳破壊耐性(大)》に変化しました』


 世の中にオタクは自分だけではない。そんな簡単なことに、どうして気づけなかったのだろうか。


「あ、紹介するね。この子が新しいギルメンのヒロコ」


「ああ、無事に入国できたんですね! よかった……。初めましてヒロコさん、僕は春原すのはらゆう。友延さんとは同じクラスで――今は同じギルドで活動しています」


「この子のスキル、まじ超すごいから! オタクくん見たらビックリするよ~! ねぇヒロコ、さっきのあれ見せてやってよ! ……ヒロコ? どしたん?」


「……てたのに」


「え?」


「……信じてたのに!!」


 ヒロコは慟哭した。


 ギャルとオタク。陰と陽。同じクラスの、カーストの最上層と最下層。その黄金のカップリングに、肉体年齢でさえ二十二歳の自分が割り込めるはずがない。


『《脳破壊耐性(大)》が《脳破壊耐性(極大)》に変化しました』


「裏切った……! 信じてたのに裏切った! いい子なのかもって……友達になれるかもって思ってたのに!」


「ちょ、ちょっと落ち着いてよ! どうしちゃったの急に!?」


「うるさい! わたしは二番目だったんだ……ユカリちゃんにとって初めてのオタクはその子だったんでしょ!?」


「なに!? ごめん、ヒロコが何言ってるのかわかんない!」


「わたしは初めてだったんだよ……? 陽キャに自分の趣味を打ち明けるのなんて、ユカリちゃんが初めてだったんだよ!? それなのに……それなのに裏切った!」


「ヒロコさん、一旦落ち着きましょう! 僕が何かしてしまったのなら謝ります! 少し冷静に――」


「――ッ! よりにもよって……っ。よりにもよって……!」


 ヒロコはオタクの顔を見た。


 ――その男子生徒は、無造作な黒髪、まんまると大きい目を覆う色気のない丸眼鏡、そしてギャルと同じ学校のものであろう制服のブレザーを着ていた。背丈はヒロコと同じ程度で、ギャルよりも低い。おそらくは階段一段か二段分程度の差――もっともキスしやすい身長差に思えた。


 物腰柔らかで常に敬語を使い、丸眼鏡をかけている――典型的な合法ショタの特徴だ。


 厳密にはオタクは合法ショタとは言えない。彼はギャルと同学年であるため高校二年生、十六歳か十七歳だ。ちょうど合法と非合法の境目にあるショタ、いわば脱法ショタだった。


 しかし、それはヒロコにはなんの慰めにもならない。ヒロコにとって理想のショタは年齢一桁の無垢ショタであったが――それはそれとして、ショタと共に青い春を過ごしたいという願望は無いでもなかった。


『《脳破壊耐性(極大)》が《脳破壊耐性(絶大)》に変化しました』


「わたしの一番欲しいものを……っ! ちくしょう、ちくしょう! 本当はバカにしてたんだろ! わたしのことっ……! イタい妄想してるキモオタだって! クソックソッ、クソッ!」


「だ、誰もバカになんてしてないって!」


「じゃあっ! 証明してよ!! その子と別れて証明して! なんとも思ってないならできるよねぇ!?」


「そ、それは……」


「ほら……やっぱりできないんだ! そうだよねぇ、その子に色々教えて貰ったんだよねぇ!? カードゲームのデッキの組み方からオンラインゲームの立ち回りまで! 小さいおててに手取り足取りしてもらってさぁ! 膝に座らせちゃったりなんかしちゃったりしてさぁ!!」


「そ、そうじゃなくて……あたしたち別に……付き合ってないし……」


「そうですよヒロコさん! な、何か誤解があるみたいですけど、僕たちは()()そういう関係じゃ……」


「――ッ! ――ああアアアあ!!」


 ブチブチ、と。


 いつかのような感覚。


 脳みそのがめくれ上がり、裏側に文字を直接書き込まれるような――。


『《脳破壊耐性(絶大)》が《脳破壊無効》に変化しました』


「お、オタクくん……『まだ』って、どういう――」


「――っ、ああ! ち、違いますよ! 今のは言葉のあやで!」


「あはは。二人は本当に仲良しだね。早く付き合っちゃえばいいのに」


「うわあ! ヒロコさん!? 今度はいったい何ですか!?」


「ひ、ヒロコ……? だいじょうぶ?」


「だいじょうぶって何が?」


「いや、さっきまであんなに――」


「ああ、忘れて? 若気の至りだから。そもそもわたしとユカリちゃんは会ったばかりだし、わたしより仲が良い人がいて当然だよね。それに恋愛は個人の自由であるべきだし、わたしから二人に言うことなんて一つもないよ」


「……な、なんだかずいぶん物わかりがいいですよ……さっきまでの錯乱具合が嘘のようです」


「そんなことよりオタクくん! さっきのハナシ終わってないんだけど! あれってどういう意味?」


「だ、だからそれはっ! 忘れてくださいってばぁ!」


 ヒロコは薄く微笑んで、じゃれ合う二人を眺めた。その心は穏やかで、さざなみの一つも立たなかった。涙は流れず、怒りで上気していたはずの顔はいつの間にか元に戻っていた。


 何も感じない――嫉妬も、羨望も、尊さも。


(あは――壊れちゃった。わたしの脳、壊れちゃったぁ――)


 この世に一人として、痛みを感じない人間はいない。いるとしたらそれは死人だ。


 《脳破壊無効》はヒロコに心の痛みを忘れさせた。それは同時に、人間性の放棄を意味した。


 何かを得るためには、別の何かを差し出さなくてはならない。


 ヒロコは今日、新しい二人の友人と強靭な精神を得た。それははたして、差し出した対価に見合うものだったのだろうか。


 誰も答えてはくれなかった。


 ヒロコの頬を濡らすものは、何一つとして無かった。

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