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入浴回は早いほうが良い


 今は昔、漁のために谷川を舟で下り、道に迷った漁師がいた。偶然に見つけた桃の花の咲き乱れる道を行くと、その先には外界から隔てられた仙境が広がっていたという。


 ヒロコは目の前の光景に、不意にその話を思い出した。


 見渡す限りショタ、ショタ、ショタ。


 着用しているバスローブは膝丈までしか無く、少年たちが無垢に跳ねたり、バタバタと足を振り回そうものなら、その広い裾口からモチモチとした太腿が顔を覗かせる。白い柔肌は血色の赤みに艶を放ち、頬、肩、二の腕、膝小僧にくるぶしといった丸みのある部分はまさしく白桃のようで、かぶりついてくれと言わんばかりではないか!


 ヒロコの身体は芯から燃え上がり、過度の興奮によってその顔は上気した。ヒロコの深い部分を流れる熱い血潮が流れを速め、全身を真っ赤に染め上げた。まさに紅一点となったヒロコの姿を、不審に思う者は誰もいない。


 なぜならそう、ここは――銭湯なのだから!


「――Grazie di cuore――」


 気づけばヒロコは、心からの感謝と共に拍手喝采を送っていた。内側を流れる熱いものの奔流は、行き着く先を求めて鼻から噴出した。ヒロコの足元に照手紅の花が咲いた。


 街に唯一のこの公衆浴場は、男女別の脱衣所の前にフロントと一体化した待合室がある。その先で廊下が二手に分かれ、男女それぞれの脱衣所があり、その先でまた種族ごとに浴場が分かれる。裏を返せば、あらゆる種族の客がこの待合室で合流するということだ。ヒロコにとってこれは僥倖であった。


 木製のベンチが複数並ぶ広々としたエリアで雑談に興じるのは、当然ショタだけではない。大人もいれば、女もいる。しかしそれは大した問題ではなかった。実のところ、ヒロコにはもう、ショタとショタでないものの見分けもつかなくなっていた。無理もない話である。むせ返るような桃花の香りの中、数本の桜や梅の花を見分けろというようなものだ。きっと桃源郷に続く道にも、多少は別の樹々が生い茂っていたに違いない。


 ヒロコは酩酊しきったような千鳥足でまっすぐに男性用の脱衣所へ歩を進めた。「Dankon、Dankon」と呟きながら。これはエスペラントで感謝を示す語である。決して卑猥な単語ではない。


 しかしその歩みを遮るものがあった。この地の主、番台である。


「お客様。そちらは男性用でございます」


「大丈夫。わたしは気にしないから」


「いやいや。他のお客様のご迷惑になりますので」


 ヒロコは虚を突かれる思いがした。この場においてヒロコは客であり、番台はそれをもてなす立場にあるはずだ。ヒロコのいた世界では、客に対して店員が口答えをするなど考えられないことだ。やはり異世界の接客サービスの水準は随分と低いらしい。しかしそれも仕方のない事かもしれない。祖国日本は、「お・も・て・な・し」というたった五文字の単語で国際的なスポーツ大会を招致したこともあるほどだ。その余りある滅私奉公の精神と比較するのは酷な話であろう。ヒロコは肩をすくめた。


「ふむ……浸透圧って知ってる?」


「は?」


 やれやれ、異世界人はこんな初歩的な知識も無いらしい。ここは一つ、世界に誇る入浴文化を持つ日本人の私が、正しい見識というものを教えてあげなくてはいけない。ヒロコは使命感に燃えた。


「あなた達にもわかりやすいように言うとね……お風呂っていうのは、一番風呂よりも二番風呂のほうが皮膚への刺激が少ないの。先に入った人の皮脂や角質が湯に溶け出すことが原因でね。私の故郷では、『年寄りに新湯は毒』という言葉があってね。体の弱い人――そう、私のようなかよわい女性は、他人の入った後のお風呂に入るほうが体への負担が少なくて、肌荒れも防げるし、極めて合理的なの」


 ヒロコは聖書をそらんずるがごとく、淀みなく言葉を紡いだ。


 その時、偶然にも女性客の集団が脱衣所から現れ、他愛もない会話を交わしながらヒロコたちの視界を横切った。番台はそれを見送ってからヒロコを諭した。


「女性客もいますので」


 ヒロコは番台に平手打ちをかました。


「そうじゃないじゃん」


 番台は信じられぬものを見るような目でヒロコを見た。自分が何をされたのか、理解が追いついていないといった様子だ。


 ヒロコはボロボロと大粒の涙を流しながらも、不屈の精神を持った目で番台を睨み返した。


「そういうことじゃないじゃん!」


 絶叫と言っていい声量でヒロコが叫んだ。騒ぎに気づいた何名かがフロントの方から廊下を覗き込んでいたが、そんなことは気にもしなかった。


「じゃあ入れなくていい。ワンショットだけ頂ける?」


「バーではないんですよ」


 番台は怯えながらも、ハッキリとした口調で告げた。


 ヒロコとて、ここが酒場でないことくらい承知の上だ。ただショット・グラス一杯分の――ほんの数十ミリリットル程度の残り湯を譲ってくれと言っているだけだった。ここまで頑なに拒まれるようなことだろうか。ヒロコは不思議でしょうがなかった。何もユニットバス一つ分の残り湯をよこせと言っているわけではないのだ。


「ねぇ……いい? よく聞いてね? 広大な湯船の中から、たったコップ一杯分の湯を失ったとして、あなたにとってはなんてことはないでしょ。そうでしょ? けど、もし私が、あの残り湯のほんの一滴でも口にすることができたら、あ間違えた。手にすることができたら! 私の乾ききった砂漠のような心にも、一晩にして大河が生まれる。たった一滴の残り湯が、私の心にオアシスを作るの。それって素敵なことでしょ。奇跡みたいなことでしょ?」


 新湯で満杯の湯船でも、そこに一滴の残り湯を入れれば、すなわち残り湯となる。たった一滴の残り湯は、一杯の残り湯に変貌を遂げるのだ。そしてその一滴をまた新湯に移せば、それもまた残り湯となる。永久機関である。


 恐ろしいことに――もし、その残り湯にヒロコが浸かろうものなら、ショタとヒロコが混浴をした後に生まれたものと同質の成分となる。これは四次元を認識できるものからすれば、ほとんど混浴と同義であると言っていい。同じ湯の離れた場所にショタがいるか、離れた時間軸にショタがいるかの違いでしかないからだ。


 ヒロコは耳あたりの良い言葉に変えた上で、なんとなくいい事を言っている風に己の思想を述べた。


「?」


 番台はまったくピンときていないようだった。ヒロコはカッとなってもう一発ぶった。


 かくしてヒロコは出禁となった。桃源郷は、二度訪れることはできないのである。




 ***




 道ばたに投げ出されたヒロコを迎えたのは、エンエンと子供のように泣きじゃくる、聞き慣れた声だった。


「エ~ン、エ~ン……」


「剣道部……どうしてここにいるの? てっきり先に入ってたのかと」


「メェェン……エメメン」


「ああ……そんな格好してるから追い出されたの?」


「エエ……」


 脱げばいいのに。ヒロコはそう思ったが口には出さなかった。きっと何かしらの事情があるに違いない。もし呪いの装備の類なら、ヒロコのスキル《完全解呪》を使えば解呪は可能かもしれない。しかしヒロコは『覆面キャラは最後まで顔を出さないで欲しい派』だった。歌い手やインターネット配信者に対しても同じ意向を貫いていた。どれほどの美男美女であったとしても、『思っていたのと違う感』は拭えない。ヒロコは幾度となくその失望を味わってきたのだ。自分から他人の仮面を剥ぐような真似は、決してできなかった。


「……場所、変えよっか。ここじゃ迷惑になるし」


 ヒロコは座り込んでいる剣道部に左手を差し伸べ、先ほどまで店内で駄々をこねていた人間とは思えない殊勝な提案をした。もはや取り返しがつかないほどに迷惑はかかっていたが、ヒロコにはその自覚は無かった。


「メェ……」


 剣道部は差し伸べられた手を取ることなくうつ向いた。


 銭湯の入口は人通りの多い道に面していた。奇怪な格好をした剣道部は注目を集めてしまう。立ち止まって見物する者こそいないが、チラチラと二人の方を伺いながら歩き去る通行人はいくらか見受けられた。ヒロコは少し焦燥感に駆られ、無理やりに剣道部の右手を取った。


「ほら、早く――」


「――――――ッ!!」


 取られる。そう思った剣道部は、掴まれた右手を押し出すようにして膝を立てながら入身し、自らの手首を握るヒロコの左手首を左手で取り、交差させた両腕を頭上に掲げるようにしながら体の向きを転換させてヒロコの小手を制し、後方に投げた。ヒロコは背中から地面に打ち付けられた。半身半立ち片手取り四方投げ、合気道の投げ技である。


「――ッメェェェェェェェン!!!」


 合気道の技である。


 背中に走る激痛がヒロコの目尻に涙を浮かばせた。夕暮れ時の空の、その赤と青の境目は、涙で滲んでいっそう曖昧になった。


 どうしてこの世界には混浴が無いのだろう。男女の境目も、この空の色のように曖昧だったら良かったのに。そうしたら、ショタと一緒のお風呂に入れるのに。ヒロコはそんなことを思った。


 江戸以前の日本に生まれたかった。


 あるいはここが渋谷区なら良かった。渋谷区なら、ジェンダーフリーの観点から入浴を認めてくれたはずだ。先進的な渋谷区なら、きっと。


 間もなく日が暮れる。この世界に来てから何度となく見てきた日没。やがて暗がりに身を落とす太陽を見ながら、この日ヒロコは初めて、故郷を恋しく思った。


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