チェイン・メイル
「……ねえ、この人たち、何を待ってるの?」
冒険者たちの集う集積手配所――彼らがギルドと呼ぶ小さな酒場の中、痺れを切らしたようにヒロコが尋ねた。
早朝に宿を出て冒険者ギルドの戸を叩くまでなんの説明もされなかったのだから、無理のない話だと、尋ねられた優自身にもその心中は理解できた。この世界に召喚されてすぐの頃、自分もまったく同じ思いをしたからだ。
「ここは集積手配所といいます。またの名をギルド。都市の依頼が集まる唯一の場所」
優が告げると同時にギルドの扉が開かれ、コツコツとヒールの音を響かせながら一人の女性が姿を現す。浮浪者のように背を丸めるでもなく、かといって都市の権力者たちのように肩で風を切るような事もなく、その佇まいにはただ精緻さだけがあった。そうすることが真の気品であるいうように。
無秩序にひしめき合っていた冒険者たちが女に道を譲り二手に割れる。決して敬意や礼といった意識から来る行動ではない。この場にいるのは、そういった作法とは無縁の生き方を選択せざるを得なかった者たちだ。それでも彼らがそうしたのは、単に原始的で動物的な反応だった。
女性は不気味な程に一定の歩幅を保ち、掲示板の前で立ち止まった。脇に抱えていた書類の何枚かを貼り付けると、即座に踵を返しその場を後にする。見えない壁に阻まれたように遠巻きに眺めていた冒険者たちが一斉に掲示板に群がった。
飼い慣らされている、と優は感じた。その事に気づいているのは優だけだった。今しがた道を譲った者の誰一人として、自分がこの女性にコントロールされているとは感じていないだろう。むしろ彼らは、この女性を見下している。あるいは、女性が自分たちを恐れていると思い込んでいる。優は彼ら冒険者の態度から、餌を与えられる側の人間に似つかわしくない高慢さを感じ取っていた。
「あれは何?」
背後でヒロコが再び問う。優は小声で応じる。
「冒険者たちは、取ってきた依頼の中で自分の能力に見合わないものをあの掲示板に貼り出します。貼り出された依頼は他の冒険者が自由に持っていく。この形式を持寄手配と言います」
掲示板に貼り出された依頼書が、一枚、また一枚と剥がされていく。群衆から離れた場所でそれを眺めながら優は続ける。
「他方、今貼り出されたのが国選手配。平たく言えば、僕たちの世界で言うところの公共事業です」
「国が依頼主ってこと?」
「厳密にはそうじゃない場合もありますが、必ず国が仲介して報奨金を出します。だから冒険者が取りっぱぐれることがないんです」
「持寄の方は取りっぱぐれがあるの?」
「依頼主が見つからないなんてことはザラです」
「ふーん……だからみんな、あんなに必死なんだ?」
国選手配の依頼書をもぎ取った者たちが掲示板から離れる。入口付近にいる優たちには彼らの相貌がはっきりと見て取れた。蓄えた髭を無造作に撫でる初老の男性、いかにも荒くれ者といった出で立ちの男、メッキの剥がれた甲冑に身を包んだ騎士かぶれ。優の視線は、彼らを見つめるヒロコの無感動な表情にこそ向けられた。
虚ろに揺れる瞳はその焦点すら定かには思えず、退屈な歌劇をぼんやりと眺めるかのようでもあった。その眼には男たちはおろか、彼女自身の感情すら映し出されていないように思えた。例えば先だってのヒールの女性のような、自敬の念。反対に男たちが女性に向けた侮り。
優はそういった他人の気質や好悪を測ることには自信があった。常に他人の感情を測り、向けられる感情の好悪のバランスを保つことが、ヒエラルキーの最底辺に位置していることを自覚する彼の生存戦略でもあった。
しかしヒロコからは何も感じられない。現に今も、彼女の感情の矛先は自他のどちらにも向けられておらず、まさに放心、まるで空中に心を放り投げているようだった。
夜を濡らしたような黒目が、不意に優の方を向き、視線が交差する。見開かれた眼に光が差す。
「は、え、なに? ……なんで見てるの?」
ヒロコは照れ臭そうにはにかんだ。整った顔が不器用に歪む。またしても強い違和感が優の内に生じた。
容貌に優れた女性は普通、こういった顔をしない。生育の過程で自己演出の術を身につける。自分の立ち振舞が、相手にどんな感情を引き起こすかを想定できる。笑顔はその最たるものだ。笑うのが下手な美女はいない。それはただの偏見だったが、経験に裏付けられた偏見には一考の値打ちがある。
つまり、彼女は自身の美貌を理解していない。あるいはそれを活用する術を身につけていない。なぜか。美しさを武器とする必要のない環境に身をおいていたからではないか。その不躾な憶測が、彼女のバックボーンを理解する唯一の手がかりであるがゆえに、優はその考えを手放せなかった。
「……いえ、なんでも」
「見惚れてただけっしょー? すーぐ鼻の下伸ばすんだから」
「なっ……だから違いますって……!」
「どーだか」
男たちに混ざって依頼書を確認していた縁莉が、呆れたように言った。
「っ……! さ、さっきの話だけどさ! その、国選手配っていうのが、〈異能喰らい〉とどう関係するの?」
焦ったようにヒロコが割り込む。額にはうっすらと脂汗が滲み、どこか苦しげに見えた。話題を逸らそうとしていることに、優はあえて触れなかった。
「僕たちがこの街に来てから、国選手配は日に日に増えてます。それも、『野鳥の生態観察』だとか、『薬草の調達』だとかいう、危険度の少ないものです」
「……ああ! 冒険者たちを監視役にしてるってことね?」
「そそ。そんであたしたちは、この依頼に乗じて国の周辺を探索して、地図を作ってんの。国の依頼なら、あたしたちでも合法的に国外に出られるからね」
「なるほど……お金も稼げて地理情報も手に入って、〈異能喰らい〉の捜索もできる。一石三鳥の策ってわけだね」
「策というほどのものでもありませんよ……僕たちにできるのはそれくらいしかなかったんです」
「謙遜しなくていいって」とヒロコが優の肩を叩く。薄幸そうな外見に合わない、天真爛漫な童女のような、けれん味のない自然な笑顔を浮かべていた。
「また見惚れてる」
「だ、違いますって!」
「あぐッ――! そ、それでそれで!? 依頼ってどんなの!? わたしホワイトカラーだから、疲れないやつがいいなあ!」
「ホワイトカラーって……地図作るんだから外仕事に決まってるっしょ?」
「目星は付けてあります。北東の未開拓地域での『草本の種類調査』。とにかく手当り次第に草木をむしって持って帰ってくるだけです」
「おお、まあまあ楽そうだね! ……それで、依頼書は?」
「……そういえば友延さん、手ぶらですが……」
「いや、無かったんだけど」
「……え」
「無かったの。あの依頼」
***
春原優はオタクである。
世間一般のステレオタイプなオタク像をそのまま当てはめても差し支えない程度にはありふれた人間性である。それは彼自身も自覚するところであった。
体力テストで同年代の平均以上の成績を出したことなど一度もないし、縁莉と違って部活動にも所属していない。嫌いな科目は何かと問われれば迷わず体育と答える。
それでも彼は走っていた。
取り残された街――そう呼ばれる街の路地は、初めて訪れる者には見分けがつかないほどに混沌としていた。この街でひと月を過ごした優でさえも、ひとつ、ふたつと曲がり角を数えなければ迷子になる程度には。
頭の中の地図と目の前の道を懸命に照らし合わせながら、右に左に、西に東にと何度も曲がりながら駆け抜けた。路地は入り組んでいて、ひとつひとつの道は長くない。いつまで経っても追いすがる相手の背が見えないことが焦燥を加速させた。
ようやっとその背中を見つけたとき、すでに優は疲労困憊だった。肩で息をして、声を出すことはおろか、呼吸すらままならない有様だ。
「はあっ……はあっ……! あのっ!」
必死に息を整え、遠ざかるヒールの音に向かって精一杯の大声を張り上げて呼び止める。
「ちょっと……待ってください!!」
二度目の叫びにヒールの女性が足を止め、振り返る。その単純な動作すら緩慢ながらも流麗で、あらかじめ決められた手順をなぞるかのようだった。
「冒険者から手配人への接触は禁止されています」
女性は無感情に告げた。平坦に繕われた声に、優は彼女に感じた底知れぬ不気味さの正体を見た。
彼女の一挙手一投足は、どこか芝居がかっているのだ。
不気味の谷現象というものがある。人間に似せた人工物の擬人性が一定以上に高まると、かえって見るものに不快感を与える。それと同じことだった。彼女は反対に、人でありながら自らを機械的な、人形的な存在に似せていた。常に一定の歩幅、感情を宿さない瞳、まるで調子の変わらない声色といったレトリックで。
「国選手配についてお聞きしたいだけなんです! ……それ! 掲出忘れがありませんか?」
「繰り返します。冒険者から手配人への接触は禁止されています。あなたの行為はギルド規約に反する可能性があります。鑑札の提示を求めます」
「――っ、だから! 僕はただ話を――」
取り付く島もない応対に、思わず優は女性の方へ手を伸ばした。
優自身、その手の行く先を定めていなかった。女性の腕を取ろうとか、彼女の抱える依頼書の束を奪い取ろうとかいった考えがあったわけではなく、なんの気なく反射的にそうしただけだった。
しかし女性の側にはそう映らなかったらしい。こちらが怖気立つほどに警戒心を現し、懐から短剣を取り出し抜き放った刀身を自らの首筋に当てた。
「近づけば刺します」
女性がそういった瞬間、金縛りにあったように優は動けなくなった。
隷属の呪い――イ民は、この世界の原住民を傷つけられない。女性は自らを人質として優の行動を制限したのだった。
(甘く見ていた……こんなことまでできるだなんて……!)
優はどうにか体を動かそうと試みたが、首から下のいたるところが、まるで自分の体でないように言うことを聞かなくなっていた。
(これが誰にでもできるなら……教国が彼を追わないのも納得できる)
言ってしまえば隷属の呪いを刻まれたイ民とは、緊箍児をはめられた孫悟空のようなものだった。呪文を唱えられれば輪っかが絞まり、逆らう術はない。ただ一つ異なる点は、三蔵法師だけでなく、この国に住まう全ての人間がその呪文を唱えられるということだ。
であれば、イ民を追う必要はない。あらかじめ敷かれた網にかかるのを、ただ気長に待っているだけでいい。
作りかけの地図が脳裏をよぎった。複雑に入り組み、蜘蛛の巣のように張り巡らされた都市の網――それらを構成する一つ一つの糸は、自らの首にかけられた絞縄へと繋がっていた。
「手配人への脅迫・強要行為は重大な規約違反です。規定に基づきあなたの身柄は拘束されます。不服のある場合には二十四日以内に申し立てを――」
「あっ、いたいた! ヒロコ! こっちこっち!」
耳慣れた声は優の背後から聞こえてきた。次いで二人分の足音が近づいてくる。振り向こうと首をひねるが、九十度も回らない。視界から女性の姿を外すことができないのだ。首から下と違って完全に自由が効かないということはなかったが、彼女の支配はしっかりと効力を発揮していた。
「こひゅーーっ……こひゅーーっ……ちょ、ちょっとまって……もう無理。ユカリちゃん速すぎ……」
「えー、結構抑えめに走ったんだけど」
「わたしホワイトカラーだって言ったよね……? 陸上部の物差しで測らないでね……」
「ていうかさー、元はと言えばオタクくんが悪いんじゃん。一人でさっさと行っちゃって、きょーちょーせー皆無かー?」
「来ないでください!! こっちを見たらダメです!」
「はあ? なに言って――」
一際大きな砂利を踏みしめる音の後、片方の足音が止む。引きずるようなもう一方の足音はヒロコのものだろう。
「なに、これっ……体が……?」
「……どうしたのユカリちゃん。急に立ち止まって…………あれ? さっきのお姉さん?」
「全員動かないでください。一歩でも動けば刺します」
そのヒロコも、どうやら女性と目を合わせてしまったらしい。最悪の状況だった。この場の全員の生殺与奪は、ヒールの女性が自らに向けた一本の短剣によって支配された。打つ手なしだと優が諦めかけたその時、ザクザクと砂利を鳴らしながらヒロコが横を通り、優の前まで躍り出た。
「お姉さんさ、悪いこと言わないから、そういうのは十代で卒業しなって。若い内はいいけど、三十超えてからそういうのやっても、ほんと、誰も心配も同情もしてくれないし。頭おかしいと思われるだけだからさ。そういうので他人の興味引いてると年取ってから後悔するって」
「ヒロコさん……? 動けるんですか……?」
「安心してよユウくん。わたしはこういうメンヘラ……じゃなくて地雷女……もとい! 精神的に不安定な女の子の扱いになら自信があるんだよ! さあかわいこちゃん、そのナイフを下ろして? 話聞くよ?」
話を聞いてもらいたいのはこっちだ、と言いたい気持ちを優はこらえた。
疑問もツッコミどころも山ほどあったが、兎にも角にもこの状況を打開できるのはヒロコだけだった。こうも簡単に行動を制限されてしまうのでは、自分や縁莉では交渉の余地がない。
「――あなたは、イ民ではないのですか」
「イ民? うーん、わたしはこの国の人間じゃないから、その言葉に馴染みがなくて……正直、よくわからふぉおおおおおお!!!」
ヒロコの返答を待たず短剣が投擲され、彼女の耳元を掠めた。
「なに!? なんで!? なんで投げた今?!」
「なるほど……偽りではないようですね」
「いやなるほどじゃないけど!! そんな嘘発見器ある!? 魔女狩りかな?!」
ヒロコは裏返った声で喚き散らした。冷血な表情を崩さないヒールの女性とはあまりにあべこべだった。今しがた攻撃を受けたばかりだというのに、その滑稽な姿のおかげか優の緊張はむしろ解れていた。
「あの! 僕たちはただ、目当ての依頼が貼られていなかったので、話を伺いたかっただけなんです。北西部の森、未開拓領域の……つい三日前くらいまでは毎日掲出されていた国選手配です」
「北西部の……ああ」
女性はチラリと優の顔を眺め、バツの悪そうな顔をした。
「あれは……もういいんです。長いこと請負人もつかないので……取り下げようかと」
「あたしたちが受けるって言ってんじゃん。ていうか、それを決める権利があんたにあんの?」
「権利?」
女性があからさまに不快感をあらわにした。
「貴方がたにはあると? 私の手からこの依頼書を取り上げる権利が」
優は内心で舌を打った。縁莉の発言が彼女のタブーに触れたらしいことは、女性の目元がわずかに歪んだことからも明白だった。
女はその立ち居振る舞いから見て、下層の人間ではない。ろくに整備もされていない街の路地を歩くには高すぎるヒールは、そのことを隠すどころか誇示するかのようだった。彼女にとってはそのヒールの高さが――自分が見下ろす側の人間であるという体感こそが絶対的な尊厳なのだろう。
「お願いします……僕たちのような子供にできる依頼は限られているんです、どうか御厚情を……!」
と優は大げさにへりくだった。女性の放つ怒気が和らぐ。
他者を見下すことで自らの尊厳を保つような手合いに対し、こういった表面的な敬意は呆れるほどに有効だった。彼らが欲するのは真の敬意ではない。不服を抱えて頭を下げる姿こそが彼らに承認の実感を与える――他者が自らの尊厳をなげうつ姿こそが、彼らの支配欲を満たすのだと、優は知っていた。
「確かにこの依頼は危険度が低いものです。しかし現在は似たような依頼が数多く出回っています――それも毎日のように。わざわざ私を追いかけて来てまで、貴方がたがこの依頼に固執する理由は何ですか?」
「固執しているのはあなたの方じゃないかな」
短剣の投擲を受けて以降口を閉ざしていたヒロコが割り込む。女性がそちらを睨む。その目には再び怒気と――僅かながらの怯えのような揺らぎが見て取れた。
「だってそうでしょ? 『受ける』って言ってるんだから、黙って渡せばいい。あなたが損をするわけじゃない。あなたは何のかんの理由を付けて、わたし達にその依頼を渡したくないみたいだけど――そっくりそのままお返しするよ。なんで?」
「……貴方がたは、何かを企んでいるように見えます」
「違うね。何か企んでるのはあなただよ。わたし達を反乱分子みたいに言ってるけど、教国にとって有益でない非合理な行動を取っているのはあなた。国選手配を個人の采配で止めるなんて、大した背信だと思わない?」
女性の瞳に、明確に恐怖が宿る。優にはそう見えた。しかしそれは優自身の怯えだったのかもしれなかった。確証が持てず、紡ぐべき言葉も浮かばない。
「そうじゃないなら、証明して? あなたがこの国にとって有益で、有用な人間だって。手を噛まない飼い犬だって」
紛れもなく脅迫だった。ヒロコは、優とは正反対の手段を用いて女性を籠絡しようと試みたのだ。――彼女が振りかざした、権力や支配といった力を、そっくりそのままお返しするという手段で。
凶器こそが弱点だった。相手が何に恐れるかを知らなければ、彼女は脅しの道具として、自らが恐れるものを突きつけなければならない。ヒロコは優よりも鋭敏にそれを察知していた。
女性から依頼書を受け取ったヒロコが名を尋ねる。女性はメイルと名乗った。
手紙、帷子、男性――ヒロコは口の中で飴玉でも転がすように、何度もその名を口ずさんだ。