8話 overwhelm-7
いつの間にか振り出していた雪が、吹雪に変わるのにそう時間はかからなかった。目的地に近づけば近づくほどその勢いは増していく。ワイパーを動かしフロントガラスに張り付く雪を除去するが、むしろ中途半端に溶けた雪を塗り伸ばすような状態になり、視界は悪かった。
「ちょっと車止めて。ワイパーも」
「どうして?」
「いいから」
フェリシティの要望に従い、車を脇に寄せ停車させる。彼女は出し抜けに車から降りると前側に回り込み、フロントガラスの雪を拭って綺麗にした。再び車内に戻るとエアコンの操作盤をいじり、凍結防止の為に温風を吹き出させていたデフロスターを冷風に切り替える。フロントガラスが冷えるまでの間を待って、送風を通常口からのものに切り替え、冷風を温風に戻す。ワイパーを数回だけ動かすと、また止めてしまった。
「フェリシティ、君がやってるのって何?」
「知らないの? 雪道では今みたいにするの。さ、車出して。ワイパーは止めたままでね」
折角一旦綺麗にしたフロントガラスにも、また雪が降り積もっていく。彼女の行動は無駄に思えたが、黙って車を発進させた。
「あれ、雪が付かない」
積もったと思われた雪は張り付くことなく、風で飛ばされていく。フロントガラスがクリアな状態を保ったまま、車を走らせることができた。ゾーイが感心といった風にフェリシティに話しかける。
「フェリシティ、よくこんなこと知ってたね」
「前にパパの運転で雪道を走ることがあって、見て覚えてた。それでね」
「へぇ」
彼女の言う前とは、ウィルチェスターシティに引っ越してくる以前のことを言っているのだろう。彼女は過去にどんな経験を積んできたのか。今回の事件が終われば、聞いてみよう。フィーリクスはふとそう思いながら更に前進する。しばらく進んだところで、また車が止まった。
「進まない」
「こりゃ、スタックしたね」
「タイヤチェーンは?」
「ない」
「お手上げね」
車の中でしばらくやり取りした後、結局諦めて残りの行程を徒歩で行くことにした。外はいよいよ冷え込み、最低レベルに設定していたレティの出力を若干上げる。最後に車の気温の表示を確認した時は、零下二十度を下回っていた。
「冷凍庫より冷えてるみたいだ」
街並みは雪や氷に覆われ、既に一面の銀世界となり果てている。フィーリクスが街路樹の一本に近づき、葉を一枚握り締める。手を開けば、葉は粉々に砕けていた。破片が風に飛ばされ宙を舞う。雪に紛れてすぐに分からなくなった。手を払っていると、それを見ていたフェリシティが彼に言う。
「マジでやばいかもね、皆無事だといいけど」
「そう簡単にやられるMBIじゃないさ。きっと、多分……」
「はいはい、弱気にならないの」
彼女に人差し指で二度ほど額をつつかれる。真剣な表情で顔をまじまじと見つめられる。彼女の指摘するように気落ちする部分はあった。
「分かってるよね?」
「分かってるさ」
どうしてか、少しばかりではあるが苛立ちを覚えた。彼女の手を振り払うようにして目的方向へ歩き出す。
「ふぅん」
後ろからそうため息を付くのが聞こえる。作為的な物を感じたが、振り返るのはやめた。
「ちょっと、不穏なものを感じるよ。仲違いとかそういうのはやめてよね?」
意外に、ゾーイはそういう空気に敏感なのだろうか。フィーリクスはそう考えながら後ろを歩く彼女に振り返った。
「そんなことしないよ。ねぇフェリシティ」
「しないよ、多分」
「多分って、どういうことだよ」
「どうもないよ、喧嘩はしないつもり。それでいいでしょー」
彼女は投げやりな雰囲気を漂わせつつ、足早にフィーリクスを抜き去り先頭に立つ。聞かせるつもりがあったのかなかったのか、風に運ばれて彼女の呟きがかすかに耳に入ってくる。
「あたしだって、前に進んでる」
「何? 確かに進んでるけど……」
聞き返したフィーリクスに彼女が答えることはなかった。繰り返し聞くのは躊躇われて、追い付いてきたゾーイとともに静かに彼女の後ろを歩く。
街を東西に分断する河川は、目的地の手前で南から一旦西へと大きく進路を変える。目的地を過ぎた後、川幅を更に広げながら、数キロメートルかけて再び南へと向きを戻す。川沿いの道も同様だ。猛吹雪の中、道なりに進めばやがてその西向き部分、目的地までもうすぐという場所に到達した。したのだが、三人とも言葉を発することはない。目の前に広がる風景に言葉を失っていた。
「川が、凍ってる……」
フィーリクスはやっとその言葉だけを白い息とともに吐き出す。道路は左右とも防風林が植え込まれているため、その向こう側が見えないようになっている。それが途切れて川が見えるようになっている箇所があった。川が、氷に覆われていた。対岸までは一キロメートル以上あるような巨大な河川が完全に凍結していたのだ。
「あれって、何なの?」
三人が驚くべきものはそれだけではない。ゾーイの指さす先に、不可解なものがあった。半透明の、巨大なドームともいうべき物体がそびえていたのだ。大きさは半径数百メートル以上、高さは数十メートル以上はあると思われる横に広い扁球状のものだ。防風林の向こう側に見えたそれは、目的の場所と一致している。以前訪れたことがあるだけに、無論フィーリクスは本来そんなものがあるはずがないと知っていた。
「ヒューゴの説明にあった冷凍領域だ」
「説明じゃそんなに大きくなかったよ?」
フェリシティの言うとおりだったが、それだけでは正確ではない。歩き続けながら、ヒューゴの言葉を思い出す。
「拡大してるんだ。もしかしてだけど、この寒さはあれの余波みたいなものなんじゃないかな」
「そんなことってあるの!?」
「多分フィーリクスの推測は当たり。きっとあの中はここよりもっとヤバいことになってるよ」
「お、驚かさないでよゾーイ」
フェリシティが、眉根を寄せている。腰が引けていた。フィーリクスは珍しいものでも見た気分で彼女を見る。もしかして、先程から妙な態度を見せているのはこの環境のせいなのではないか。彼はそう考える。彼女の行ったことのあるという雪
の降る地で、何か大変な目に会ったに違いない。それでトラウマにでもなっているのだろうと。つまり彼女の行動は、相手に発破をかけているのではなく、相手を通して自分自身をこそ勇気づけていたのだ、と結論付ける。
「辛いときは、俺に頼っていいんだよ?」
「はぁ? ……ぷっ、ははは!」
救いの手を差し伸べたつもりが、笑われてむっとした。彼女はひとしきり笑った後、それでも笑いが治まらないようで腹を押さえている。
「何を言い出すかと思えば。はーん、あんたの考えてることが分かった。あたしが雪に嫌な思い出があるとか思ってるんでしょ。だから元気付けるつもりか何かだった。違う?」
「そ、それは」
言い返せない。図星だからだ。彼女は何か、意地悪そうな顔をしている。それを見て余計に言葉に詰まる。諦めて首を振った。
「参ったな」
「でもありがと。それって、あたしのために言ってくれてるってことでしょ? 少し気が紛れたから、もう大丈夫」
爽やかに笑う彼女は極寒の世界において、なお魅力的だと感じられた。彼女に対して抱いていた苛立ちなどの僅かな悪感情が霧散していく。自分は彼女のそういう顔が見たいのだと気が付いた。
「さあ、俺達の仕事はもう目の前だ。気を引き締めていこう」
「了解、相棒」
「あれ、でもさっきからフェリシティがちょっと妙だったり、弱ってるように見えた原因って何だろ」
「弱ってる? あたしが? そんな訳ないでしょ。気のせいよ」
妙なところは否定しないのか、という突っ込みはやめて、ずんずんと進む彼女の後を慌てて追う。吹雪の中をひたすらに歩く。上空には渦巻くように黒雲が形成され、あたりは薄暗い。冷凍領域の目の前にまでたどり着くと立ち止まった。巨大なドームは半透明の膜のようなものにより構成されている。じりじりとその大きさを増しているのが見た目にも分かった。どうなっているのか。そう思い触れてみようと伸ばした腕が、何の抵抗もなくすっと通り抜けてしまう。驚いたフィーリクスはすぐに腕をひっこめたが、何か違和感を覚えた。
「あれ、今何か……」
「ビビってる」
「ビビってない」
「いや、これはビビってるね」
「ゾーイもやっぱりそう思うよね」
否定しても二人は彼への評価を変えない。行動が必要だと思い、宣言する。
「入ってみるか」
「それしかないでしょ」
「二人とも覚悟はいい?」
ゾーイが引き締まった声で言う。
「何の?」
具体的に何に対しての覚悟のつもりなのか。それを聞かなければ覚悟の決めようもはずがない。
「いざとなったら、その身を犠牲にしてでもあたしを逃がす覚悟」
「「……ゾーイ」」
フィーリクスとフェリシティの声は綺麗にハモる。
「はいはい、冗談冗談。場を和ませようと思って言ったんだって」
「むしろ萎えたんだけど」
「俺も」
「いいからさっさと入った!」
二人に責められ、はぐらかす様に大きめの声でそう言った彼女は、二人の背中を押して領域の中に押し込む。そして自らもその中へと入っていった。




