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8話 overwhelm-3

 フェリシティに主だった動きはない。一先ずは話を聞いてくれるようだった。己を見つめる彼女を見つめ返し、フィーリクスは話を続ける。


「シャワーを浴びる前、俺や自分の匂いを嗅いでたでしょ。あの時君は『汗と土の匂いがする』って言ったんだ。汗臭い、とかじゃなくてね。それを妙に思って、それから観察するようにしてたら、ね」


 フィーリクスの言葉を聞いて腕を組み目を瞑るフェリシティだったが、何か思い出したらしい。軽く唸ったあと目を開いた。


「そういえばあったっけそんなこと。それっていつだっけ」

「バルーンモンスターを倒して、MBIに一晩勾留されて、解放されたあと」

「そうだった! ……あれちょっと待って、嘘でしょ!? それってもう本当に最初っからじゃない!! 今までずっと黙ってたの!? どうして!?」

「嫌じゃなかったからさ」


 フェリシティは目を見開いて、半ば抗議ともとれる調子でまくしたてる。だがフィーリクスの言葉に嘘はない。彼女の行動に最初こそ驚き戸惑ったが、割とすぐに慣れた。別に好んで体臭を嗅がれたいわけでもないが、彼女が望むなら自由にさせようと思っただけだ。


「あのね、フィーリクス。これにはちゃんと訳があって」


 フェリシティはなにやらうねうねと動いていたが、やがてぴたりとその動きを止めた。少し落ち着いたらしい。今度は左右の人差し指を合わせ、視線をフィーリクスから逸らし気味にしている。彼女の態度は、フィーリクスの目に新鮮で珍しいものに映った。普段このように恥ずかしがる彼女を見たことがなかったように思い返す。目の前にいる彼女が、この今の状況が、非常に尊いもののように思えてならなかった。フィーリクスは、自分が微笑んでいることに気が付く。それと同時に彼女をからかいたい、という思いも沸き起こっていることを自覚した。微笑みがニヤニヤとした笑いに変わるのを抑えきれずに彼女に迫る。


「それって、どんな訳?」

「それは、……先に言っとくけど、誰でもってわけじゃないからね! その、あんたの匂いを嗅ぐと、落ち着くっていうかなんていうか」

「満たされる?」

「そう! 満たされる……って、ちょっと、変な誘導しないでくれる!?」

「バレたか」

「当たり前でしょ!」


 呼吸を置かずヘッドロックをかけられる。避ける暇は与えられなかった。締め付ける力は弱い。彼女もこのやりとりを楽しんでいるのだと分かった。そこへノックの音が響き、返事をする間もなくドアが開けられる。入ってきたのは、フェリシティの母親だ。フェリシティの腕の中から見た彼女はトレイを持っており、そこにはスナックの入った器とドリンクが二つ乗せられている。


「あら、本当に聞いてた通りに仲がいいのね」


 母親にそう言われ、フェリシティがさっと腕を解く。フィーリクスも素早く居住まいを正した。母親は机の上にスペースを作るとトレイを置き、二人に向き直る。


「続けてくれてもいいんだけど」

「そ、そう、とっても仲がいいの。でも遊んでただけだし、別にいい」

「俺も」


 母親の言葉に二人は焦りを隠せない。が、その二人の様子を意に介した風もなく彼女は話を続ける。


「そう? ……そうそう、フィーリクスもうちの子が魅力的なのは分かるし、若いから色々有り余ってるかもしれないけど、節度を保ってね?」

「……はい」


 彼女は何か勘違いをしているようだ、とフィーリクスはそう踏んだ。色々と違うと言いたかったが、何か逆らえないものを感じ取り素直に肯定する。フェリシティが何か言いたげな顔をしていたが、結局何も言わずじまいだった。手を振って部屋を出ていく母親を見送り、閉じられたドアを見た後二人は顔を見合わせる。ややあって、フェリシティに肘で脇腹を軽く一突きされた。


「さっきのは、なしだからね」

「さっきのって、節度を保つってところ?」

「違ーう! ママの言葉は取り敢えず忘れて。……本当は分かってやってるでしょ。満たされるってやつよ」


 フィーリクスは彼女のセリフに軽やかに笑い、頷く。彼女の反応は充分堪能した。


「分かったよ」

「疑わしいけど、取り敢えず納得しとく」

「助かる。ところで、テレビ付けていい?」


 いただいたコーヒーを一口飲む。一段落すると、違うことに考えを巡らせる余裕が出る。フィーリクスはこの曜日この時間に、普段していることを思い出した。


「はいリモコン。何見るの?」

「その様子だと知らないみたいだね。是非見てもらいたい番組があるんだ」


 リモコンの受け渡しをし、二人ともテレビに向かって座り直す。フィーリクスがチャンネルを合わせる。CMがいくつか映り、程なくして目的の番組が始まった。


『30分間トラブルクッキング』


 楽しげな音楽とともに小さく手を振る進行役の女性のアップから始まる。カメラがややズームアウトすると、オープンキッチンを備えたスタジオであることが分かる。番組名にあるクッキングの単語とセットから分かるように料理番組の一種で、フィーリクスが毎週欠かさず楽しみに視聴しているものだ。フェリシティは彼の言うように番組の内容を知らないようで、彼がただの料理番組を楽しそうに見ているのがよく分からない、といった顔だった。


『この番組では毎回素敵なゲストをお呼びして、あたくしマーサと激しい口論を交わしながら時に流血沙汰は日常茶飯事の楽しい30分をお送りいたします! 今日の料理はお芋の煮っ転がしよ』


 出演者はにこやかに微笑んで、早速料理の準備に取りかかるようだ。


「ねぇ、今流血とか不穏な単語が聞こえたんだけど……」

「静かに、まあ見ててよ」


 フェリシティが眉を顰めるが、フィーリクスはお構いなしだ。


『ちょっと、私の出番はまだなの!? 早くしなさいよ!』

『やかましいわねこのあばずれが! あたしの段取りに割り込まないでちょうだい!』

『なによこの※※※※が! あんたなんて※※※※※※にして※※※※よ!』


 ゲストであろうマダム風の女性が突如画面端から現れ、マーサと言い争いを始めた。放送コードに引っかかったか、ピーという音に所々セリフがかき消される。


『言ったわね! かかってらっしゃい!』


 マーサとゲスト、番組の登場人物二人が突如殴り合いを始めた。


「ちょっと待ってガチ殴りじゃない! 血が出てるよ!? これまずいんじゃない!?」


 テレビとフィーリクスを交互に見やるフェリシティは、少々混乱しているようだ。そこへフィーリクスが得意げに番組内容を解説する。


「この街でしか放送されてないけど、人気番組なんだ。流れはこう。マーサが毎回ゲストと適当な理由で乱闘を始める。彼女はいつもピンチに陥る。けど、華麗に巻き返して相手をノックアウト! ちなみに料理が完成したことは番組が始まって以来一度もない」

「何の番組なのよ……」

「最後まで見たら絶対気に入るよ」


 番組の放映時間は30分。終盤に差し掛かり、どうやら和解したらしいマーサとゲストが、お互いの健闘を讃え合いハグをしている。フェリシティはなにやら興奮気味だ。


「マーサの熱い魂の叫びが伝わってきたよ! こんなにも素敵な番組があったなんて今まで人生損してた!」

「おめでとう、フェリ。これで君もウィルチェスターシティの真の住人になれたよ」

「そんな変なハードルがあったの? でもありがとう! これからは毎週欠かさず見る!」


 満足したフィーリクスは寝転ぶ。ふと、何となく違和感を覚えてうつ伏せになり、上体を浮かせて掛け布団をめくる。フェリシティのものであろう、上下の下着がそこにあった。振り返って見ると、彼女は気が付いていない。来週の番組予告にさしかかり、それに夢中のようだ。


「これは……ワォ」


 スポーティなタイプだ。グレーのショーツはウエストのゴム部分のみが白色。前も後ろも布面積はやや少なめ。これならば、今フェリシティがはいている短パンからはみ出ないと納得する。ブラはそろいのようでカラーもスタイルも同じタイプだ。飾り気はなく、激しい運動でもしっかりと保持できるようなバンド状のもの。肩紐はタンクトップの肩部分の下に隠れる程度には細い。カップは、その、控えめだ。


「なるほど」


 ともあれ、ぴったりと彼女の肌にフィットし、ラインの美しさを損なわないであろうと思われる。じっくり観察した後いつの間にか手に取っていた下着を置く。めくりあげていた掛け布団を元に戻して起き上がると、無表情のフェリシティと目が合った。


「何をしてたかもちろんあたしの目を見て言えるよね」

「も、もちろん」


 彼女の話し方は抑揚が少ない。危うい状態の彼女から目を反らしかけたところを思いとどまる。彼女の顔をじっと見つめる。やはり表情は、ない。それが逆に恐ろしかった。怒りに燃えている方が分かりやすくてまだましだ、とフィーリクスには思えたが、どうすることもできない。すべては自分の行動の帰結、自業自得だからだ。ただ、言い分はあった。


「嗅いでない!」

「シャアァ!!」

「あああ!」


 猫のような威嚇音と共に彼女に襲い掛かかられた。


 しばらくして。


「その、ごめんなさい。恥ずかしさで頭に血が上っちゃって……」

「いや、俺が誘惑に勝てずにあんなことを……」

「それは簡単には許さない」

「分かってる」

「ああ、でもちょっと頼みたいことがあるんだけど」

「それって? 何でも言ってよ」


 赤く腫れた頬のフィーリクスに課されたのはマッサージだ。うつ伏せになったフェリシティの肩、背中、腰、足と全身の揉みほぐしをさせられた。ただし、尻は除いてだ。


「うーん、気持ちいい。あんた結構上手じゃない」


 それでもフィーリクスにとってみれば至福の時間だ。彼女の太ももに存分に触れられる大義名分を得たためだ。フィーリクスのその顔は十分過ぎるほどに幸せに満ちたものだった。


「どういたしまして」

「それにしても平和ね」

「そうだね」


 彼とフェリシティが、こうして安穏としていられるのには訳がある。しばらく前に解決した事件において、彼らにとって憂慮せざるを得ない事柄が判明した。それが最近になって、杞憂に終わったことが分かったからだった。


「いつも通り、普通であることって、こんなにもいいものだったのね」

「ああ」


 とそこへ二人の端末に、同時に着信が入る。不測の事態に備えて、またMBIとの契約で、休日であっても支給されている端末とコンタクトレンズ型のHUDを装備している。着信音は、そのMBIからかかってきたときのもの。それもある特定の人物から。


「おい、フィーリクス、フェリシティ聞こえるか!?」

「聞こえてる」

「聞こえてるよ」

「ん、なんだ、二人とも一緒にいたのか」

「あたしの家でだべってる」

「丁度いい、一緒にMBIに来てくれ。大事件だ」


 それは二人のボス、ヒューゴからのものだった。

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