4話 capture-9
そこからの展開は早かった。彼女が、更に顔を近づけフィーリクスの口を、しっかりと手で掴むと無理やり開かせる。開いた口に押し込もうというのか、何かを持った手が迫ってくる。胴体を彼女の両脇で押さえつけられ抜け出せない。フィーリクスは彼女の手首を掴み、抵抗するが異常な腕力を発揮しているらしく力負けし、徐々にその何かがフィーリクスの口元へと接近する。
「やえへふれっ……! ふぇりふぃふぃー!」
唇に触れたところでフィーリクスはたまらず身体強化を使い、押し返すと拘束から抜け出し、上体を起こして彼女の手首を捻じり関節を極める。彼女は持っていたものを取り落とし、それはベッドから落ち床に転がった。彼女はまだ諦めていない。じたばたともがき、手首を痛めるのもかまわずにフィーリクスの拘束を解こうとしていた。これ以上は折れる。そう判断したフィーリクスは一度彼女を解放すると、その瞬間に飛び掛かろうとした彼女にタックルを加えベッドに押し付ける。手錠を取り出し後ろ手に拘束すると、途端に大人しくなった。
「フェリシティ。何か変だとは思ってたけど、一体どうしたんだよ」
大人しくなったフェリシティは、無表情だった。それは今日いくつも見た顔だ。
「何か言ってくれよ……」
彼女を警戒しつつ、フィーリクスは先程床に転がった何かを拾い上げる。楕円形で、綺麗な青緑色をしており、黒い筋のような模様が入った石だ。
「なぁフェリシティ、答えてくれ。これは、何? どうして俺にこれを飲ませようとしたんだ」
フェリシティは、反応しない。身動き一つ、瞬き一つしない。呼吸すらしているのか疑わしいほど何もしなかった。フィーリクスは涙が出そうになるのをこらえる。先ほどまでと打って変わって死人のような状態の彼女に心配しながらも、一つ思い出したことがあった。
「答えないんなら、こっちにも考えがあるよ」
フィーリクスはそう言うと、彼女の脇腹に両手を添え、軽くくすぐった。その途端にピクリと彼女が震える。反応があったと見るや、フィーリクスはくすぐりを再開する。彼は以前、偶然彼女の脇腹に自分の肘が当たった時、彼女がびくりと震えてくすぐったがったの覚えていた。数少ない彼女の弱点だ。
「ひっ、……ふっ! ふふっ!」
口元が緩む。体が強張っている。軽く痙攣状態にもあるようだ。効果覿面であることが分かり、くすぐりを強化する。
「やめっ! ひぃっ! あははは!」
「ゲロっちゃえ」
「うひゃひゃひゃあはひひ、だめだめ、ぐ、オエッ」
本当に吐いた。
「まずい!」
仰向けのままの嘔吐は気管を詰まらせ窒息の危険性がある。慌ててフェリシティの姿勢を横向きにし、背中をさする。嘔吐を続ける彼女だが、吐瀉物は多くなく、ほとんどは胃液だ。昼食は食べていなかったらしく、それが幸いした。
「うわ、どうしよう」
荒い息をし、汗をかいてぐったりとしているフェリシティを見て、やりすぎたことを後悔する。意識はないようだが表情は苦しそうで、うなされている。その時、フィーリクスは彼女の吐瀉物の中にあるものを発見した。胃液にまみれたそれをシーツで拭ってから拾い上げる。それは床に転がった石と同一のものだ。
「気持ち、悪い……。あれ、手が、体に力が入らない。なんで……?」
「フェリシティ! よかった、気が付いた」
フェリシティが目を開けた。仰向けになると辺りを見回し、現状確認に努めているようだ。見るからに混乱している様子だった。
「フィーリクス!? 何であたしこんな……。手が痛い。手錠? ……何この匂い、ゲロ? あたしの!? フィーリクス、どうなってんのよこれ!」
「覚えてないの?」
「ええと、もしかしてあんたがあたしをこんな目に?」
フェリシティの態度は演技ではなく本当に覚えていないようだ、とフィーリクスは判断し、そのことに安堵した。恐らくは、彼女が後を付けていたという数人の不審人物、彼らにやられどういう手段かは不明だが緑の石を使い、操られていたのだろうと推測する。今はそれが解けた状態、つまり元のフェリシティに戻っているものと思われた。
「そうなんだ、実は」
「早く手錠を外して、変態」
「へっ、変態!? いや、ちょっと待って今説明を」
「いいから早く」
有無を言わせない迫力がそこにはあった。手錠で自由が奪われていてもなお、フィーリクスは彼女に若干の恐怖を感じ、急いで手錠を外しにかかった。その間も威嚇するように唸り、彼女の顔にフィーリクスの顔が近づくと噛みつこうとする。まるで獣のようだ、とフィーリクスは彼女に恐れを抱く。
「君が帰ってくるなり襲ってきたんじゃないか」
文句が口をついて出る。変態呼ばわりされたお返しとしては軽いものだろうと考えたが、すぐにそれはよくないものだと改める。フェリシティは、震えていた。怯えているのだ。
「あたしがフィーリクスに!? いや、でも待って。あたしここに来るまでの記憶がない。あ、あたしは、あたしは何を……?」
「何があったのか聞かせてくれないか」
自由を得たフェリシティは差し出されたフィーリクスの手を取って起き上がる。洗面台まで行くと水道水でうがいをし、歯磨きを開始する。
「それ俺の歯ブラシ……」
「袋から出した新品だよ?」
「そういうことじゃなくて」
「フィーリクスから連絡があった時、あたしは怪しい連中を尾行中だったの」
フィーリクスの苦情を華麗にスルーし、ざっと磨いたら納得したのか、またうがいをして彼の前に戻ってきた。
「怪しい連中? 何それ」
「何人かが妙な動きをしてたのよ。人目に付かないような場所に移動してて、あたしはピンと来たの。ああこれは何かやばいブツの取引かなんかだってね」
彼女は両手を胸の前で掲げ、見えないボールでも持っているかのように向かい合わた格好で、眉を軽くひそめる。フィーリクスを怖がらせるつもりのようだ。
「あんたからの着信音が鳴った時は焦ったわよ。幸い見つからなかったからよかったけど。いや、結局見つかったのかな」
「それは、ごめん」
フィーリクスが電話した時、フェリシティが妙に焦っていたのはそういう事情があってのことだったようだ。彼は悔やむ。彼女がやられたのは自分の不用意な通話が原因だったのだ。
「いえ、いいの。でね、電話を切った後も様子を窺ってたんだけど。ええと、そうね」
フェリシティは指で何かの物の大きさと形を表す。フィーリクスを責める様子が全くないことに不思議に思ったが、まずは彼女の話を聞くことにする。
「これくらいの大きさで楕円形の何かをたくさん、受け渡ししてたんだよね」
「それって、もしかしてこれ?」
先ほどフェリシティの吐瀉物に紛れていたものを彼女に見せる。
「そう! それよ! どうしてあんたがそれを持ってんのよ」
フェリシティはフィーリクスからそれを奪い取ると詳細に眺め、匂いを嗅ぐ。
「ん? なんかゲロ臭い」
彼女が石を放って返したのを、フィーリクスは落とさないように慌てて受け取った。
「おっと。……そりゃ、フェリシティが吐いた時に出てきたものだからね」
「あたしのゲロまみれなのによく持てるわね。ひょっとしてそういう趣味が?」
「どんな趣味だよ!」
フェリシティは信じられないものを見るような目つきでフィーリクスを見つめる。あらぬ誤解を彼女に与えてしまったようだ。
「まあ、取り敢えず置いとくとして。で、話の続きね。そうこうしてるうちに後ろから誰かに口を塞がれて、……そこで記憶が途絶えてる。多分、その時にこれを飲まされたのね」
「もう一つ同じものを持ってる。ほらこれだ。俺もフェリシティに同じことをされたよ。さっき俺の部屋に入ってきて、その、……ちょっと話をして。急に君がこれを俺に飲み込ませようと襲ってきたんだ」
事細かに全てを話すと更なる誤解を招きそうな気がしたフィーリクスは、かいつまんだ説明に留める。それでも意味は通じるだろうと思ってのことだが、フェリシティの彼を見る目つきが険しい気がした。改めて彼女にもう一つの石を渡し、二人で観察する。
「これは、……うん。ゲロの臭いはしない」
「そりゃそうだよ」
フェリシティのつまむその石に、急に人間のもののような目玉が一つと昆虫のような脚が複数本生え、かさかさと動き出した。
「ひいぃぃ!」
叫んだ彼女は石を床に落とす。それは獲得したばかりの脚で自力で移動を開始すると、どこかへ逃げようというのか床を走り回った。
「きもい! このこのこの! ふんにゅいい!」
フェリシティは訳の分からない言葉を叫び続けて逃げ回るそれを踏みつけようと追いかけ回し、何度目かで成功する。ぐちゃっという何か生ものがつぶれる音と、パキリと固いものが砕ける音。緑色の変な汁が床と足の隙間から漏れ出た。それは砕けた瞬間に絶命したのだろう、すぐに蒸発するように消えてしまった。
二人はお互いしばし無言で見つめ合う。フィーリクスがもう一つ持っていた石を胸のあたりに掲げる。二人は互いの顔と、フェリシティが踏みつぶした場所と、フィーリクスの持つ石に視線だけを何度も移動させ様子を見ていたが、もう一つの石にも先と同様目と脚が生えた。
「うわあぁ!」
今度はフィーリクスが悲鳴を上げる。逃げ回るそれに、彼女と同様にやたらに床を踏み、ようやく踏みつぶすと、やはり後も残さず消滅した。
「変な汗が出た。何なんだこれ!?」
「消えるってことは、モンスターってことよね!? ……新種の虫とかじゃなくて」
「分からない。いや、モンスターだとは思うけど。……うん、多分これは、分裂体というより主従型の従の方だろうね」
同一性能を持つ分裂型のモンスターに対し、一体のメインと複数のレプリカからなる主従型のモンスターがいる。悪いことに、今回の相手は人に寄生し操る能力まで備えており、随分厄介な相手に当たったようだと、フィーリクスは敵の正体の一片が見えたことに戦いの予感を感じた。
「あたし、怖いよ。少しだけど」
「俺も。少しだけど」
二人は不安から身を寄せ合い、僅かな間沈黙する。もう何も起こらないことを十分に確認した後ホッとため息を軽くつき、ようやく気を緩めた。
「ところで、あたしってなんでゲロ吐いちゃったの? 別にあんたにお腹を殴られたわけじゃなさそうだし」
微妙な具合なのか、フェリシティは腹をさする。彼女の問いはフィーリクスにとって答えづらい内容だったが、大きく息を吸って吐くと彼女に白状する覚悟を決めた。
「それは、その、……くすぐった」
「はぁ? なんで?」
彼女は片方の眉をはね上げ、口元を引きつらせる。下まぶたがピクリと動いた。これは彼女の怒りが爆発する兆候だと、フィーリクスは身構えながら弁解を試みる。
「いや、人形みたいに固まって、全く反応してくれなかったんだよ。凄く心配した。だから、何か有効な手はないかって考えたんだけど。君がくすぐりに弱いことを思い出してね」
ちらとフェリシティの様子を見るが、まだ聞いているようでフィーリクスは話を続ける。
「まさか吐くとは俺も思わなかったよ。でもさっきのが出てきたら、君は元に戻った。結果として功を奏したんだ」
フィーリクスが話し終えると、フェリシティは深々と息を吸い込み、吐き出す。フィーリクスには正面から相対せず斜め下を向き、髪をかき上げながらポツリと言った。
「やっぱり変態ね」
「どうしてそういう感想が!?」
彼女は怒りをコントロールする術を身に着けたようだ。そして、フィーリクスへのダメージが大きいと思われる返答を、的確に言葉を選んで彼にぶつけた。
「助けてくれて感謝はしてる。でも評価は変えない」
「埋め合わせはするよ」
にっこりと笑ってフェリシティが一言。
「よろしい!」




