3話 invisible-10
風は、ない。ここウィルチェスターシティは大きな大陸の西海岸側近くに位置している。そのため彼らの戦っている中洲も比較的海に近い。通常であるならば海から吹き寄せる海陸風によってフィーリクス達が発生させた霧を運び去ってしまう所だ。
だが折しも時間帯は夕刻、凪の時。ほぼ無風状態の今、霧はそこに重く留まり視界を著しく妨げるものとなっていた。そのさなかを走り回る影がある。それは幻影のように揺らめき霧の中から霧の中へと現れは消える。
敵の気配を感じない。においも音もなくただ何かが暴れ狂う。
見えない何かが二人を惑わせる。
「うまくいった!」
現状を忘れたかのような、純粋に嬉しく楽しそうなフェリシティの声が霧の中に響く。そういう状況ではないはずで、その余裕などないはずだ。それにもかかわらず彼女のその声をフィーリクスは好ましいものと受け止めた。ただ、彼女の居場所が分からない。
「フェリシティ、どこ?」
霧の中蠢くものがあった。気流の流れが形となってフィーリクスにそれを知らせる。咄嗟に身を捩った彼の脇を何かが猛スピードで走り抜けた。その姿は見えず、音もない。アイビーの最後の一体は分裂体の魔力を吸収し三倍の力を得ている。その突進力は先程までの比ではない。ただし、敵の攻撃ラインはフィーリクスに対して真っすぐに向いているものではなかった。アイビーもまたフィーリクスを見失っており、闇雲に突っ込んできたものが偶然通過したものらしかった。この霧がなければ今ので終わっていたかもしれない、とフィーリクスはそれを防いだフェリシティの妙案に感謝する。
「狙いは分かったけど、お互いの姿も見えないよ。フェリシティ?」
彼女を見失ったフィーリクスが小声で呼ぶ。その呼び声に応えたか、再び目の前の霧をかき分け急に姿を現したものがいた。
「ぅわ……!」
思わず情けない声で叫びそうになるが、人差し指を唇に添えられ止められた。相手はフェリシティだ。
「呼んだ?」
「びっくりしたよ」
「しっ、静かに。あいつに聞かれちゃう。それから、あたしとあんたは」
彼女はフィーリクスの唇に当てた手を下げると次に彼の手を握った。その感触は確かなもので、とても安心できる力強い握りだ。フィーリクスもしっかりと握り返し、フェリシティと隣り合った。
「こうすればいいのよ」
「なるほどね」
「って言ってたら」
「早速来たな!」
敵の移動速度は速い。霧の中相手の位置が判明するのは気流の流れが確認できる時、接触直前になってからだ。それでも、二人はその攻撃を避けられる。全くの手掛かりなしの先ほどまでよりも遥かに回避の蓋然性が上がっていた。いや、それは最早必然と言ってもいいものだ。二人のどちらかが反応し、手を強く握って引くことで回避する先を知らせる。
敵の攻撃は同時にフィーリクス達にとっての攻撃の機会ともなった。回避行動をとりつつ射撃を行う。魔法弾を放つ先は気流の流れた先、すなわち敵が移動し走り抜けようとするその瞬間を切り取ったもの、霧のないぽっかりと空いた小さな何もない空間こそがアイビーのいる位置だ。外すことなく、確実に当てる。
「————!!」
見えず、鳴き声一つ出さなかった透明の獣が、咆哮を上げたような気がした。それは空気が震えて伝わる通常の音ではない。魔力の振動によるうめき声だ。二人の体に直接届くそれは鼓膜ではなく脳に響いた。
「これは効いてるのか!?」
「そうに決まってる!」
アイビーの突進のスピードは変わらない。ダメージを与えられてもなお逃げることはしない。どこまでダメージが通っているのかはわからないが、それでも届いているはずだった。だが止まらない。それゆえに、フィーリクス達もまた止まらない。二度、三度と敵の攻撃を避け二人は攻撃を命中させる。霧の中で二人と一体は決死の攻防を続け、その終わりは突然に訪れた。
フィーリクスにはその攻撃は、アイビーが衰えるどころかむしろ急激に速度を上げたようだと感じられた。猛然たる勢いで霧を裂いて現れた敵を認めた瞬間、それに反応したのは二人ともで繋いでいた手に力を込めるタイミングも一緒だった。
「いい加減くたばりなさい!」
アイビーが迫るのは斜め前からだ。その進行方向はフィーリクスのいる場所にぴたりと一致している。彼はフェリシティに斜め後ろへぐいと手を引かれ、繋いでいた手を離すと自身も同方向へと地を蹴り跳んだ。銃を敵に向けて放ち地面を転がって受け身を取り起き上がる。フィーリクスが跳んだ時、フェリシティが彼を引っ張った反動を利用してアイビーに対しカウンター気味に強烈な横蹴りを放っているのをフィーリクスは見ていた。確かな手応えを得たようで短く鋭い息を吐く音が聞こえる。再度、脳にアイビーの咆哮が伝わり、フィーリクスはモンスターの消滅音をその耳に捉えた。
「フェリシティ! どう!?」
「しっかり蹴り飛ばしてやったぜい!」
風が吹き始めた。夕闇が迫り風向きが逆方向へと変化した海陸風が霧を海へと運び去っていく。開けた視界の中、立っているのはフィーリクスとフェリシティの二人だけだった。アイビーが倒れたと思しき地点で何かをフェリシティが見つけ、拾い上げる。
「豚ちゃんだ」
「三匹の、子豚?」
彼女が持っているのは三連一組となっている陶器製の豚の人形だった。フィーリクスはじっとそれを見つめるが、ふと眩しさを覚え目を細める。地面に落ちている何かが西日に照らされ反射した光が原因だ。よく見れば透明な宝石のようなもので、フィーリクスがそれを拾い観察しているとフェリシティが横から覗き込んできた。
「それって、もしかしてこの豚に使われてたジェムじゃない? 透明だし」
「ああ、多分そうだね。さて、それより」
「ええ、みんなのところへ」
モンスターがいなくなった今、やられた他の面々の怪我の具合が心配だった。エイジとニコがヴィンセントの手をそれぞれ肩に回し彼を支えていた。フィーリクス達が霧を散布した時点で彼を回収して距離をとっていってくれていたものらしい。ヴィンセントは支えられながらもヒューゴに連絡を取り、戦いが終わったことを報告している。キーネンもディリオンとともに車のそばで待機している。姿が見あたらないのはラジーブだ。
「ラジーブ! まさか川に落ちてそのまま溺れたんじゃ!?」
「いやいや、俺はここにいるよ」
フィーリクスが振り返れば、びしょ濡れの彼がそこにいた。
「よかった、無事だったんだね!」
「無事っちゃあ無事だけど、情けないことこの上ないね」
空を仰ぎ言うラジーブは意気消沈の様子で嘆いてる。フィーリクスはその様子を見て思わず吹き出した。それは戦いが終わり、緊張の糸が切れたためでもあった。
「そんなに笑うかぁ?」
フィーリクスに釣られてかフェリシティも、エイジ達やヴィンセントまでもが笑い出した。見れば声に出すとまでは行かずとも、ディリオンもニヤリと笑みを浮かべている。その様子をフィーリクスに見られたことに気が付いたようだ。途端にしかめっ面をして見せるとそっぽを向いてしまった。
「とっととHQへ戻るぞ。ヒューゴが報告を待ってる」
「ああ、分かってるよ、ディリオン。確かに彼を待たせて怒らせるのはよろしくないや」
ディリオンに同意したフィーリクスは周りを見渡す。エージェント達は全員移動を開始しておりそれぞれの車へと向かうところだ。次にフェリシティの方を向くと、彼女はフィーリクスの肩に手を置き頷いた。
「ちょっと話があるんだ。車の中で帰りがてらいいかな」
「ええ、いいけど。改まって何の話?」
「今日の反省点とか、かな」
「あんまり硬い話は苦手だよ」
「まあまあ」
フィーリクスは渋るフェリシティの背中を押しながら車へと歩かせ車内へ押し込むと、自身も助手席側に回り込む。その強引なやり口に彼女が不平があると言わんばかりに頬を膨らませた。
「ちょっと……」
ヴィンセント達の車三台が先行して出発するなか、フィーリクスが座ると同時に彼女が文句の第一声を放つ。二の句を継ごうとしてできなかった。フィーリクスが彼女を力強くハグしたからだ。
「あ、あの」
「無事でよかった」
「そ、そうね。お互い、いえみんな無事でよかった、よね」
彼女のやや焦った様子が、彼の腕の中で細かく身動きする様から窺えた。フィーリクスはもう少しこのままでいたいと思ったが、あまり時間をかけてもいられないため彼女を開放する。
「前に、俺が小さいころにモンスターに襲われたことがあるって言ったの覚えてる?」
「ええ、バスターズか誰かに助けてもらったって」
「その時俺、両親と姉をモンスターに殺されたんだ」
フェリシティが目を大きく見開き、瞳が左右に揺れた。動揺した様子で、視線をフィーリクスに合わせられないようだった。
「そんな、……そんなことがあったのね。でもその、急になんで」
「驚かせてごめん。でもこれは、仕事に関わる、差し支えがでるかもしれないことだから、言わなくちゃいけないんだ」
彼女の泳ぐ視線はあちこちさまよった後やがて下に、落ち込んだように俯いた。フィーリクスは彼女が話を聞いているかじっとその様子を見ながらゆっくりと話す。
「幼いころだから、よくは覚えてない。でも」
「でも?」
彼女が聞き返しながら顔を上げ不思議そうな表情をする。
「その時からはっきりとしない恐怖が、ずっと張り付いててね。恐怖で固まってたまにフリーズする事があると思うから、そん時はフォローよろしく」
彼にとってこの告白は一種の賭けだった。
「オゥ、その、何て言ったら……何ていうべき?」
「ごめん、こんな話しても引くよね」
「引いたりはしない、……嘘。ちょっと引いた。けど、何か言うべきなのに何を言えばいいのか分からなくて。もどかしいっていうか」
彼女はくねくねと体や首をひねりながら難しい顔をしてそう言う。フィーリクスは、硬い話ではなく重い話の部類に入るだろうなと思いつつ、その手の話題に関しても彼女は苦手としているようだという新たな発見をする。それと合わせて、彼女が自分の話を聞いて考えてくれているという事実に、話す内容とは逆向きの感情を抱いた。それは嬉しいという思いだ。些細ではあるが、彼女のことをまた一つ理解できたというところから去来するものだった。
「それが普通だよ。こんなこと、本当は自分で解決しなくちゃいけないんだ」
「そんなことない! ……大きな声出してごめん。でも、話を続けて。聞くよ」
「ありがとう。……両親は俺を可愛がってくれてたと思う。姉も、具体的には覚えてないけどよく遊んでくれた。それからよく喧嘩もしたよ。おやつの量が多い少ないとか、お気に入りのおもちゃを先に使うのはどっちかとか。そんな下らないことはよく覚えてる」
フェリシティはもう落ち着いていた。彼女は感情の移り変わりが激しいが、それはつまり切り替えも早いということだ。視線は真っすぐにフィーリクスの方へ向けており、真剣なまなざしで彼の話を聞いている。フィーリクスはそれを快いと思いつつも、胸の奥から吹き寄せる寂寥感に打ちのめされそうにもなっていた。ポツリと漏らす。
「また喧嘩したいよ」
「そういうのなら得意よ!」
「フェリシティ?」
彼女は急に自信に満ちた態度になると、胸を張って握った拳をフィーリクスの胸に突き当てる。
「フィーリクス。その時はあたしにぶつかってきなさい。あたしはあんたのお姉ちゃんの代わりにはなれないけど、あんたの喧嘩相手ぐらいならなれる。ただし全力で潰しにかかるけどね!」
彼女の主張はフィーリクスの胸に強く響く。何か胸が詰まるような感覚が起こった。彼女の殴りつけた勢いが思いのほか大きかったのもあるが。フィーリクスは一呼吸置くと彼女に軽やかに、爽やかに笑ってみせた。
「フェリシティ、ありがとう」
「それくらいはするわよ。同僚として、パートナーとして、一人の友人として、ね」




