10話 equilibrium-29 フィーリクス
目が覚める。何か夢を見ていたような気がする。……思い出せないや。さ、いつもの朝が始まる。そう、いつもの朝。彼女がいない朝。これまでと同じはずなのに、どこか色褪せた世界。起き抜けにこんな感想を抱くのは、これで何度目だろう。あれから、二週間がたった。とても大きな事件だった。特別な数日間だった。夢のような時間だった。全部が全部いい夢だったって訳じゃない。それでも、俺の人生でとても重要なものだったんだ。
ベッドから起き上がる。まずは洗顔だ。モッダー関連の事柄については、連日テレビやら何やらで大きく取り扱われた。話の大筋としては、突如現れ街の中枢を目指していた大量のモッダー達を、SRBの活躍によりその全ての個体の活動停止に追い込むことに成功し、街の平和が守られた、ってことになってる。
次に歯ブラシを握る。歯磨き粉の量は普通。丁寧に磨く。クイーンに関しての情報は伏せられ、もちろんSRBエージェントが操られていた、なんてことが報道されることもなかった。徹底的に情報統制が敷かれ、SRBに不都合な真実は全て隠されていたから。まあ、信用問題に関わるものだからね。全てをばらせば、最悪SRB解体だなんて世論が持ち上がる可能性だってある。それは国益にならない。俺達にとって為にならないことだって、理解できる。ただ願わくば、彼等にはこれを期に反省し、モッダーに対する危機意識を高めてもらいたい。それを踏まえて、体制の見直しや更なる発展を遂げてもらえたらと思ってる。
服を着替えよう。いつものシャツとスラックス。今日は平日だ。仕事に行かなくちゃいけない。俺も今回のことに関して、先と同じ理由から彼等に堅く口止めされていた。事件解決に一役買ったってことで表彰され、口止め料込みで結構な額の報奨金をもらってもいる。そうそう、SRBにスカウトもされた。丁重に断ったけどね。
彼女のことは、クイーン達同様何一つ、誰の口にもどの文字媒体にも話題に上ることはなかった。異世界の住人に不可思議な力で事件を解決してもらいました、とか絶対に漏らすわけにいかないよね。でも、それって彼女がこの世界にいた痕跡を消すような行為に思えて、少しばかり寂しい気持ちになったのは否めない。
彼女は、確かにそこにいた。俺は相棒として彼女の、フェリシティの横に立っていたんだ。
そして、その彼女はもういない。俺が一目惚れして、あっさり振られた彼女にはもう会えない。そんなわけで、俺は大きな喪失感を覚えたまま、毎日腐ってる。
このままじゃいけないのは分かっていても、そう簡単には立ち直れそうにないや。さてそれは別として。今日はいつもと同じとは言ったものの、実のところ一つ違う点がある。SRBのエージェントの一人、ヴィンセントに呼び出されていたんだ。指定場所はSRB近くのどこかの喫茶店。時間は午前。つまりもうちょっとしたら出かけなくちゃいけないってことだ。キッチンに立ち、簡単な朝食を作る。パンやハム、スクランブルエッグとか、変わり映えのしないメニュー。それでも、彼女と一緒に食べたときは、格別に美味しく思えたな。
呼び出しに応じるのは、それほど気が進むことじゃなかった。ただ事件の事後処理で重要な案件があるって言われてて、行かないわけにもいかない。仕事はそれが終わってから、少し遅れて出勤することになる。その旨も既に俺のボスに伝えているから、まあ問題ないっちゃ、ない。朝食をコーヒーで胃に流し込み、仕事用のバッグを持って玄関ドアをくぐった。
初めて訪れる喫茶店。そこはSRBから見て北方向に少し歩いた場所にあった。店の名前は『フォースムーン』。聞いていたものと、軒先に下がってる看板に書かれた文字が一致している。外観も、内装もお洒落でいい店だ。テーブル席が複数に、カウンター席が数席。そういや、何でヴィンセントは指定場所をSRBじゃなくて、ここにしたんだろう。重要な話と言っていたけれども、機密情報について話をするような場所じゃない。もしかしたら、またスカウトをしようとしているのかもね。そうなったら彼には悪いけど、再度お断りをしよう。まあ、背負うことは何もない。気楽に構えていこうかな。そう思い、待ち合わせがあると言って店員の案内を断り、通路を奥に進む。一番奥、窓側のテーブル席。そこが彼が指定した場所だ。
「やあ、ヴィンセント。待たせたかな」
「おはよう、フィーリクス。まだ時間じゃないから問題ない」
彼と挨拶を交わす。聞けば彼も数分前に来たばかりということだった。そういえば、テーブルにはまだ飲み物も置かれていない。彼の正面に座り店員に注文を伝えると、お互いの近況を伝え合った。SRBは事件から二週間たって、ようやく落ち着きの兆しが見えてきたそうだ。俺の方は変わり映えしない毎日を過ごしてる、としか言いようがなく、彼に苦笑されてしまった。一通り話し終え、そろそろ彼も本題を切り出してくるかな。
「さて、今日ここに来てもらった件なんだがな……、ん、電話だ。すまないが、少し席を外す」
「オーケー」
全く間の悪い。立ち上がり、携帯電話を手に通路を行くヴィンセントと入れ替わるように、店員が飲み物を持ってくる。テーブルに置かれたカップの中身は、もちろんコーヒーだ。一口口に含んで味わう。「あれ」そこで妙なことに気が付いた。ヴィンセントの分がまだだ。先に注文していたなら、遅くとも一緒に持ってくるだろうに。それとも時間のかかるようなものでも注文してるのかな。なんて考えながら窓の外をぼんやりと眺める。お、戻ってきたか、通路に誰かが立ち止まった気配がある。随分短い通話だったね。
「飲み物は頼んでる?」
「あんたがSRBの人?」
視線をそちらへ向けながら言ったのと、相手が話しかけてきたのは同時。
「え? まだだけど」
「え? 君は……」
彼女の返答は胡散臭げなものを見る目つきだ。俺は一瞬驚きで言葉に詰まってしまった。嘘だろ。一度ギュッと目を瞑り、開く。そうしてみたその人物の顔は、見紛うはずもない。
「帰ってきたの!? フェリシティ!」
「は? 何言ってるのよ?」
見たかった顔。聞きたかった声。でも、どうして彼女がここにいるんだ。……いや、違う。これは、やられたな。彼と彼女に謀られた。彼とはヴィンセント。さっきの苦笑の意味が分かった気がした。で、彼女とは、目の前にいるフェリシティではなく、もう一人の彼女。
「ねぇ、あんたSRBだよね? あたしの名前知ってたし。今変なこと言ってたのは、よく分かんないけど」
「いや、あの、そうじゃなくて……」
「そうじゃない? SRBじゃないの? じゃああんた誰よ。ストーカー?」
立っているのもしょうがないと思ったのか、彼女は俺の正面に座った。ただ、疑いの眼差しはそのままだ。まずいぞこれは。これじゃ俺はただの変人だ。何か言い訳を考えろ。彼女は身を乗り出して、俺のことをジロジロと値踏みするように睨め回している。
「違うよ! そんなんじゃないって。……実は、今日俺もSRBに呼ばれててさ。SRBのエージェントは、今電話で外に出てると思うんだ。もう少ししたら、戻ってくるんじゃないかな」
「ふぅん? そっか、じゃあ待つか」
「そうだね」
フェリシティは落ち着きを取り戻したか、店員に注文を伝えると、リラックスしたようにソファに深くもたれかかる。危なかった。彼女が深く追求してこなくて助かった。そう、こっちの世界に元からいる方のフェリシティ。彼女と俺は、初対面だ。彼女がここに来た理由としては、恐らく俺と似たような内容で呼び出しを受けたため。彼女もSRBとは接点がある。これはヴィンセントに確認した事柄だ。やはり、彼女の家にエージェントが聞き込みに行っていたらしい。推測通り、彼女が被疑者としてしょっ引かれるようなことはなかったみたいで、それを聞いて安心したんだよね。
「中々戻ってこないや。ねぇ、あんたはそのエージェントに、あたしの名前を聞いたんだよね。一方的じゃずるい。あんたの名前を教えてよ」
「俺は、フィーリクス。よろしく」
「よろしく、フィーリクス」
彼女のことを探そうかとも思った。でも考え直してやめたことだった。面識のない彼女を探し出して会おうだなんて、それこそストーカーみたいだと思ったし、それに俺と彼女の間に縁があるのなら。いずれ出会うこともあるだろうから。そう考えてた。なのに、ヴィンセントと『フェリシティ』め。本当に、……ありがとう。
「暇だし、あんたのこと少し聞かせてよ。どうせなんかやらかして、ここに呼ばれたんでしょ?」
「えぇ? 俺は何もやらかしてないよ。むしろ彼等に感謝されることをしたんだ。で、そういう君こそどうなんだよ」
「あたし? あたしは被害者だよ。変な事件に巻き込まれそうになった。多分今回は、謝罪かなんかだろうね。わざわざここに呼ばれたのは、癪に障るけど」
それから、時間を忘れて随分と話し込んだ。ここに来ることになったいきさつや、お互いのこと。彼女は、デザイナーを目指していると語った。近く、大きなファッションショーが開催されるらしい。彼女はそこに行く予定があるのだと、嬉しそうに話してくれた。
「参加するの?」
「まさか。見に行くだけだよ」
彼女の勤め先のアパレルメーカーの上司に、会場に付いて行って見学するだけ、ということらしい。その会場は、奇しくも俺のボスが設計したイベントホールだった。
「すっごい偶然! こんなことってあるんだね!」
「本当、人生何があるか分からないや」
実際、俺の胸中は驚きに満ちていた。結局この世界は、なんだかんだ言って釣り合いが取れるようにできているらしい。向こうの俺は、向こうの彼女と出会うべくして出会ったんだろう。強い絆で結ばれている。別れの間際、あの二人を見ればすぐにそれが分かった。こっちの俺と彼女もそうだったらいいんだけどな。いや、きっとそうだ。俺はそう信じる。神の取り計らいなのか、世界が均衡を保とうとする力が働いたのかは知らない。今回はそれが、ちょいとばかり早まっただけなのかもしれない。ともかく、その要因となった何かに感謝しよう。
「あ、今『これって運命の出会い!?』とか思ったでしょ」
「えっ、いやまさか、そんなことないよ」
オゥ、彼女意外と鋭いところがあるね。慌てて否定する。
「なーんだ、あたしはそう思ったのに。ちょっぴりだけ、ね」
「後出しでごめん、実は俺もそう感じてた」
「何それ、ずるい」
「気を悪くした?」
「いーえ。ちょっと恥ずかしい、かな」
僅かな間沈黙が訪れる。気が付けば結構な時間が過ぎていた。これは後でボスに怒られるな。でも今はそれどころじゃない。俺は、ある提案を持ち掛けた。
「俺の設計した会場で世界的なショーを開催。君のデザインした服を着たモデルが、ランウェイを歩く。それを二人で見る、なんてのはどう?」
「夢物語ね。……でも好きよ、そういうの」
彼女はとても楽しそうに、表情をころころと変え、大きく手振り身振りをしながら夢を語っている。その姿は、とても輝いて見えた。その彼女も、ある提案を俺に持ち掛けてくる。
「ね、どっちが先に有名になるか、競争しない?」
「面白そうだ」
「あたしが勝つよ」
「俺だって負けないよ」
歯を見せた不敵な笑みを、彼女と向け合う。彼女とがっちりと握手を交わす。
「じゃあ、またね」
「ああ、また」
彼女と過ごす時間はあっという間だった。連絡先を交換すると、再会を約束して別れた。その後俺達は、何度も会い親交を深めていった。それから月日が流れて、その時語り合った冗談のような話を、実現させることになった。どっちが勝ったかって? そんなことは重要じゃない。俺達二人は、その後もいい関係を築き、人生を謳歌したってことがとても大切なことなんだ。ヒューゴやクロエ、ヴィンセント達とは、今でもいい友人だ。そのきっかけとなったあの数日間を、俺は生涯忘れない。あの経験が、平凡だった俺の人生を変えた。何物にも代えがたいものをもたらしたんだ。
「ありがとう」
「なぁに? 急に」
「そのままだよ。君に、感謝してるんだ」
「ふぅん、変なの。でも、ありがと。あたしもよ」




