10話 equilibrium-16
「はい、どちらさんかな?」
「SRBのヴィンセントです。少しお話がありましてね」
「なんだ君か。話? 何の話だ?」
ドアが開けられる。玄関先でヒューゴが来客の対応をしている。相手はSRB。フィーリクスの言うとおり、ただの客じゃなかったね。ってことで、これからあたし達は彼らの裏をかいてヒューゴの家を脱し、車に乗り込んでこの場から逃走する必要がある。残念なことに、行くあてなんてない。それでも、次の行動に移らなければならなくなってしまった。
「まずは家の中に入れてもらいたいんですが」
「今取り込み中でな。改めてくれ」
ヒューゴは渋る様子を見せ時間を稼いでくれている。彼から聞いて、見て確認したことがある。この家には彼とヒューゴのいる表玄関と、裏側の勝手口の二つの出入り口があった。あとはタイミングを見計らって、ヴィンセントが見てないところでこっそり飛び出すだけだね。
「誰か来客でもあるんです? 表に車が一台余計に止められている。レンタカーだ」
「甥っ子だ。……実験を手伝ってもらってる。いつもの、な」
「甥ね。そうですか。それで、いつもの、ね。さっきの今で、随分熱心なことで」
「そうだ。忙しいから帰ってくれ」
何かぶつかる音が聞こえ、閉じられようとしたドアが完全には閉じられなかった。ヴィンセントが足を差し挟んで閉じるのを阻止したってところかな。
「それが、そういうわけにもいかないんですよ」
「どうしてもか?」
「お願いします」
ヒューゴは唸ったりしてたっぷり悩む振りをしてみせる。それからドアをまた開き、もったいぶって返事をよこす。
「仕方がない、入っていいぞ。ただし話は手短に頼むからな」
「分かってますって。ラジーブ、いいぞ」
家の裏側でドアが急に開かれる音が響く。ヴィンセントの合図と同時にラジーブが家に踏み込んだのだ。
「こっちにはいないぜ!」
通路奥側から彼のそんな声が聞こえてくる。そう、あたし達は脱出経路に裏口を選んでいない。彼等が手分けしてそこを塞ぐのは想定の範囲内。
「何!? ヒューゴ、彼女はどこにいる!?」
「さあな。多分、休憩がてら応接間でクロエと一緒に、茶でも飲んでるんじゃないか」
「適当なことを!」
ヒューゴのはぐらかした答えに憤りながらも、無視するわけにはいかないらしい。ヴィンセントは勢いよく玄関に踏み込み、応接間に駆けて行く。
「ってことで今の内」
「達者でな」
玄関ドアの裏に隠れていたあたし達は、ヒューゴの声を背に受けて外へ出る。止めてある車まではすぐ。それに乗り込むまでの問題は後一つ。
「んなっ! おま、お前っ! どっから湧いて出やがった!?」
「また会ったね。見てたでしょ? 普通に玄関からだよ」
三人組の内のもう一人、クライヴの疑問に直球で答えてあげる。いえ失礼、皮肉がこもってたかも。彼は自分達が乗ってきた車にもたれ、手持ち無沙汰にだらけてた。見張り役として配置されたものの、どうせ自分の番は回ってこないとでも思ってのんびりしてたんだろう。慌ててあたし達に向き直るものの、様になってない。
「ヴィンセントの奴何やってんだ、ったく。……ん? う、うわっ!!」
彼が呑気に首を傾げているところに、あたしは跳び膝蹴りを食らわせにいった。もちろん彼の顔めがけて。
「ぶげっ!」
我ながら見事なまでのクリーンヒット。油断大敵だっての。クライヴは地面に仰向けにひっくり返って静かになった。その拍子に、着けていたインカムが地面に転がる。彼はこっちが不安になるくらい反応ないけど、まさか今ので死んだりしないよね。ああよし、呼吸してる。
「さ、とっとと車に乗って」
フィーリクスの背を押して、行動を促す。その時ふと落ちたインカムが気になった。拾い上げて、興味本位で耳に当ててみる。キーンという、金属の擦過音のような雑音が聞こえた。思わず顔をしかめて、すぐに耳から遠ざける。
「何これ、壊れてるじゃない。蹴った衝撃のせいかな」
「彼、大丈夫?」
「……大丈夫よ」
不安げなフィーリクスに言い切った。インカムをクライヴの胸の上に放り投げ、助手席側に乗り込む。運転席に座ってる彼に「ほら早く」出発を急かすと、彼も気持ちを切り替えたか車を発進させる。
「あっ、おまえ等待て!!」
ラジーブの叫びが響く。後ろを振り返れば彼とヴィンセントが玄関から出てきたところだった。彼等を後目にあたし達の乗る車は敷地を出て、スピードを上げていく。最初の角を右へ曲がる頃には彼等の車も敷地から出てくるのが確認できた。伸びたクライヴをほったらかしはせずに一緒に乗せてるだろうから、彼等の判断は早く、行動は非常に迅速なことが分かる。ぼやぼやしていればすぐに追いつかれる。
「ちょっとフィーリクス、ここに来たときみたいな安全運転じゃダメよ? かっ飛ばしなさい!」
「ぜ、善処するよ」
彼は免許はあるけど車は持っていない。運転自体に慣れてないせいか、スピードは法定速度を超えない程度しか出していない。普段ならばそれで構わない。でも今はそれどころじゃない。
「あいつ等に追いつかれたら、あたし達ひどい目に遭うよ!?」
「で、でも……、分かった」
フィーリクスはもっと嫌がるかなって思ってたら、すうっと顔つきが変わった。あたしの世界での彼が時折見せる、覚悟の決まったときのそれ。あたしにとって好ましい表情を浮かべた彼は、俄然アクセルペダルを踏み込む。細道を若干はみ出しながらも、連続した登りの角を曲がり終わり、下りの道に出た。ここからは更に速度を上げて走れるようになる。ただし、それは向こうも同じこと。ぴったりくっついてあたし達を追跡している。それどころか見る間に追いついて横に並びそうになった。SRBの特別仕様車と、その辺のカーシェア用の車じゃ馬力が違うよね。
「やってやる!」
わお、フィーリクスがアクセルをより一層踏んで対抗してる。急カーブのないエリアに入ったとはいえ、やるじゃない。彼をそこまで煽ったつもりはなかったのに。なんというか、自前の闘争心に火が付いたってことかもしれない。ただし。
「ちょっと運転変わって」
「えっ、今調子が出てきたところなのに!」
そうなんだけどね。
「気を悪くしたならごめん。あんたの覚悟は、見せてもらった。かっこよかったよ」
それでも、一朝一夕では埋められない経験の差がある。覚悟だけではどうしようもないことなんだよね。彼と狭い車内を無理やり移動して運転席と助手席を代わる。ハンドルを握ったあたしは若干下がったスピードを見る間に元の速度に回復させ、いえそれ以上で車を西へ走らせる。少しずつだけど、後ろとの距離が開いていく。
「へへ、カッコいい、か……」
「こっちの世界だと無免許運転になっちゃうから、事故ったときはよろしくね!」
「えっ?」
何かをしみじみ呟いてるフィーリクスに宣言する。彼が驚くまもなくハンドルを切り右ドリフトをかけた。
「のわあっ!」
遠心力であたしの方に体を振られ、慌てて体勢を直すフィーリクス。彼を脇目にあたしは急カーブを曲がりきる。車を今まで走っていた脇道から幹線道路に乗せたのだ。そこから北東へ向かって1キロメートルちょいの直線をありったけ加速し、右に枝分かれする道路へ。さっきよりは緩い右カーブの、緩やかな斜面を登る。ドリフトはなし。カーブが終われば、あたし達が来るときに使った環状高速道路に合流した。今は反対向き、西方向でね。
「さて、こっからどうしよう!」
「考えがあって高速に乗ったんじゃないの!?」
フィーリクスの突っ込みが示すとおり、あたしに次のプランなんてものはない。行き当たりばったりってやつ。
「とにかく、あいつ等を振り切らないと……、ん?」
「何か鳴ってる。もしかして、君の端末?」
そのもしかしてだよ。聞こえてくるのは正しくあたしの端末の着信音だ。それも待ちに待ったMBIからのもの。すぐに音声で応答し、息を呑んで相手の声を待つ。カーチェイスと着信の二つの大きな要因により、あたしの心拍数はかなり跳ね上がっている。
「ハロー! あたしよ、フェリシティ!」
「フェリシティ! よかった、繋がった! 今話せるよね?」
音声はオープン状態でフィーリクスにも聞こえる状態になっている。聞こえてきたのは、やっぱりゾーイのものだ。さっきと違ってかなり明瞭に声を聞き取れる。彼女があのエマージェンシーコールを元に、この世界にあたしがいることを突き止めてくれたんだ。
「ちょっとばかり取り込み中だけど、全然大丈夫よ!」
現在、ちょっと忙しい。精妙なハンドリングで先行車両を抜きまくっている最中だ。ただ、彼女と話さないわけにもいかない。
「聞いてフェリシティ! あなたを救う方法がある。MBIのあたしの実験室がある場所に来て」
「あの、それって」
MBIの実験室に当たるこっちの世界での場所。それはつまりSRBのど真ん中ってことじゃない。いやー、冗談でしょ。考えるだけでも憂鬱になりそう。
「時間は、そうね、今から二時間と一六分後。昼の二時きっかりでお願い。このチャンスを逃せばしばらく帰れなくなるかもしれない。絶対に来て! じゃあまたね!」
ちょっと! 聞きたいことがあったのに、ゾーイったら言うだけ言って通信切っちゃったよ!
「ねぇ、もしかしてなんだけど」
「言いたいことは分かるよ。でも言わないで」
「SRBの本拠地に、行かなきゃならないんだよね?」
「あー、もう」
なんて肩を落としてる場合じゃないね。あたしの帰還計画の、最重要ピースがはまった。それがどんな条件のものだったとしても、ゴールに向かって突っ走るだけよ。
「さぁ、行くよ、相棒!」
「了解、したくないけど了解」
「しまらない返事」




