10話 equilibrium-6(挿絵あり)
フィーリクスなら、あたしが元の世界に帰還するための何かいい考えを思いつくかもしれない。MBIみたいな不可思議なことに慣れてる組織にいなくたって、彼は元来頭が回る方なのだから。
とはいったものの。来たのはいいんだけれど。どうやって彼に説明したらいいか、ちょっとばかり迷っちゃった。恐らく、この世界のあたしとフィーリクスは面識がない。別にそれはいい。声を掛けるだけなら別にどうってことはない。友達にだってすぐになれる。だけど、それ以上は? あたしのことを、あたしの身に起きている事態を、どう説明しようか。
「当たって砕けろね」
そう、迷ったのはちょっとだけ。建物内部の階段を上って通路を渡り、彼の部屋のドアの前に立つ。ノックをして返事を待つ。もう一度ノックする。待つ。またノック。待っている。結構待った。早く出てよ。
「あー、留守ってパターンは想定してなかったな」
いないものは仕方がない。ドア横の壁に体をもたれかけさせ思案する。まあそのうちに帰ってくるでしょ。あ、寝てるだけってことはある? いや、何度かノックしても出ないから違うね。それともまさか、フィーリクスはここに住んでない? んー、その可能性って結構あるかもしれない。いやいやいや、だったらお手上げだよね。彼に色々相談しようとしてたのに、そもそも見つからないなんてことになったら。ずるずると滑り落ちていって、通路に座り込む。
「早速砕けた。どうしよう……」
俯く。疲れがどっと押し寄せてきた。ここまで気を張っていたから、気が付いてなかった。思えば張り込みをして、ミアと戦って、SRBとかいう連中から逃げて、結構歩いて走った。そりゃいくら若いからって、疲れもするよ。さっきは期待感があるとかどうとか考えてた。今はそれどころじゃなくなってきてる。これからどう対処すべきか、一人で案を練っていく必要に迫られるのだ。頭脳労働が苦手、とまでは言わない。かといって得意ってわけでもない。暴れて解決する問題なら任せてほしいがそうじゃない。なれば頼りになるのは。
「どうしたの?」
顔を上げる。見たかった顔がそこにある。やっぱり、彼だよね。
「ハァイ!」
「君は、誰?」
立ち上がった。いつも通りちょっと頼りない感じもする優しげな眼をした彼が、あたしの目の前にいる。買い物帰りらしく、バゲットの突き出た紙袋を抱えている。彼は階段を上がって通路を歩いてきたようだ。あたしはそれに気付く余裕も失われてたみたい。それでも彼の姿を見て、たった今少し元気を取り戻せたよ。
「あー、君とは初対面だよね?」
「ええそうよ」
フィーリクスはまじまじとあたしの顔を見つめてくる。あんまりまっすぐに覗き込んでこられると、流石にちょっと恥ずかしいかな。彼の言うとおり、向こうは初対面だということを勘定に入れると、余計に。
「何?」
「泣きそうな顔してる」
「嘘ね」
はは、参った。そんなつもりはないのに、微笑んでいたはずなのに、見破られてる。正直言うと、ちょっと泣きたかったのは当たりなんだよねこれが。こっちの彼もそういうところは鋭い。
「君は俺に何か用がある。だから君はここへ来た。その理由や君が何者なのか、そこがさっぱり分からないのが問題だね」
「助けてほしい。……あんたの力を貸してくれる?」
フィーリクスはすぐには答えをよこさない。彼ははにかむような困ったような、あたしの要請にどう対処したらいいか分からないって感じだった。まあ、突然現れた可愛らしい少女に助けを求められて、戸惑うのも無理はない。
「その、参ったな。取り敢えず部屋にあがる? まずは話を聞くよ。名前を教えてもらっても?」
「フェリシティよ。ありがとう、フィーリクス」
「困ってる人をほっとけないでしょ? さあ入って、フェリシティ」
彼がドアの鍵を開けてくれて、あたしに入室を促す。その途中で彼が不意に動きを止めて、何か考え事をする時の顔をした。
「……ちょっと待って、俺はまだ名乗ってない。何で俺の名前を知ってるの? もしかして、ストーカーなの?」
「そんな訳ないでしょ」
家に入る。フィーリクスの疑問を否定するのに、甘めの声で言う。彼がドアを閉めてる間に、あたしはまっすぐにリビングルームに進んでいく。彼は苦笑を含んだ小さな笑い声をあげながら遅れてこっちに付いてくる。
「だよね。君みたいなかわいい子がそんなことする訳ないか。そのソファに座って、……ってもう座ってた。えーと、今お茶用意するからちょっと待ってて」
「紅茶があったら嬉しいけど、置いてないからコーヒーで」
「ごめん、紅茶はないからコーヒ……何で知ってるの?」
「ミルクは多めでねー」
勝手知ったる他人の家ってね。既に深々とソファに腰を下ろしてくつろいでいたりする。調度品、テレビやテーブルにデスクやソファ。物や配置も元世界のものとほぼ同じみたい。あたしはコーヒーの準備のためにキッチンへ向かうフィーリクスに、姿勢そのままに語りかける。
「ところで、あたしがかわいいって? 本気?」
「本気さ。自分で鏡見たことないの?」
まずいな。思わずニヤニヤしてしまう。自分のペースに乗せるつもりが、短いやりとりだけで逆に相手に乗せられそう。
「そりゃ毎日見てるよ」
「なら気が付いてるはずだよ。自分の魅力にね」
更に頬が緩む。いや、でもだって、褒められて素直に嬉しいし。それに、元の世界のフィーリクスだって、初対面の時にあたしに対して同じ感想を抱いたってことじゃない。ってストップ。彼はどうも口が回るようだ。気をつけねば。それより、あたしってこんなにチョロかったのか。
「ははは、少しは元気になったように見えるな」
湯が沸くのを待っているらしい。フィーリクスがダイニングの方から顔を覗かせてこっちの様子を窺う。
「あんた、わざとさっきみたいな態度を取ったでしょ」
「バレたか」
ちょっと睨んでやると、フィーリクスは頭を引っ込めた。あたしが弱ってるのを見て元気づけてくれようとしていたらしい。それは分かる。でも使ったネタの内容が許せん。とはいえまあ、引っかかった方が悪いか。
フィーリクスはそれから、コーヒーを二人分淹れて持ってくるまで言葉を発さなかった。あたしも同様だ。彼はあたしの横に座り、カップを勧めてくれた。注文通りミルク多めのそれに砂糖を少し混ぜ入れ、一口飲む。
「ん、落ち着く」
暖かい食べ物や飲み物は、心を安らげてくれる。疲れがすっと消えていくような感じがする。もう一口飲んで、フィーリクスがあたしを見ているのに気付いた。控えめに、しかし興味深げに、かつ微笑みながら。
「あんたって、あたしの知ってるあんたとは少し違うのね」
「何だって? 今妙なことを言ったな」
「実は、ね。あたしはこの世界の住人じゃないの」
さっきから、あたしが一方的にフィーリクスを知っていることを仄めかすような妙な言動をしていたのは、当然ながらわざと。相手を訝しがらせて興味を引かせ、話の本題に入りやすくすると同時に、主導権も握る。そういう手口だ。そうやってあたしは、あたしが何者でどうやってここに来たのか、これからどうしたいかを、ざっとではあるが話した。
「取り敢えず君のことは把握したよ。それが本当なら、随分とハードな一日だったね。それに、とても不思議だ」
「それが本当なんだよね、だから困ってる。そりゃもうすんごく困ってるの」
「ここは安全だよ、安心して」
「ありがと」
一通り話し終えると完全に気が抜けちゃった。彼を無条件に近い形で信頼してたから、あたしは彼が言うまでもなく安心してた。だからかなんだか眠くなってきちゃって、ついうとうとしてしまう。その内に意識が途絶えて、すっかり寝入ってしまった。ちょっとの間だったと思う。目が覚めたらソファに横たわってた。すぐに起き上がって姿勢を正そうとしたんだけど、ある異変があたしの身に起こっているのを悟った。




