10話 equilibrium-4
通路を走る。取調室と捜査課の部屋では、階がいくつか違う。エレベーターはあるが階段を使った方が早いだろう。通路途中にある階段へ通じる扉を押し開き、一気に駆け上る。目的階で、扉をゆっくりと開けて通路の周りの様子を見た。幸いここまで誰にも遭遇していない。捜査課のドアの前まで来て、勢いよく開け放つ。
「ヒィ!!」
いきなりいくつもの銃声が鳴り響き、あたしは喉を絞められたような悲鳴をあげた。複数のエージェント達が既に射撃体制に入っており、ドアを開けた途端に一斉にあたしに向けて撃ってきたのだ。これは、叫び声の一つでも出ようというものでしょ。慌てふためいてみっともないダンスを踊りながら弾を避けるはめになったっての。なんとか射線上から退避して、壁に張り付いて部屋の中の気配を探った。
「あ、あいつら」
もう一度勇気を出して中を覗き込む。またすぐに撃たれまくったけど、中の状況はだいたい把握できた。おなじみのメンバーが数人、それに加えてサラやソーヤーなどスワットの人間もいる。ディリオン辺りが連絡して警戒していたのだろう。館内全てがこういう状況なのかもしれない。ただ、彼らを指揮していると思しき人物がいたんだけど、それはヒューゴじゃなくてあたしの知らない人だった。ナイスミドルでちょっといい感じの男性。んー、どこかで見たことがあるような気がする。でもすぐには思い出せないや。
それにしたって、寄ってたかってか弱い乙女をいじめるとは、仲間だとしても許せん。しかし、フィーリクスの姿はそこにはなかった。ニコやエイジが言うように、彼はもうMBIではないのかもしれない。あたしがいなくなって、失意の中ここを去った。なんて期待しすぎか。彼ならあたしがいなくったって、エージェントを続けるに違いない。でも待って。じゃあ、何でフィーリクスがいないの? やっぱり彼の身に何か起きた、って線が濃厚になってきたのではないだろうか。
「大人しく武器を捨てて投降するんだ!」
「あなたの目的は何なの? テロ事件でも起こす気?」
スペンサーとグレースの声が響く。もう! あの二人もあたしを完全に極悪人扱いしてるし。にしても参った。フィーリクスの安否の確認を取ろうにも、これではヒューゴのところへ近付くことが出来ない。出直すべきか。あれこれ考えてる内に、エレベーターのある方向から複数の足音が聞こえてきた。恐らくはディリオンやニコ、エイジ達だろう。挟撃を受けてはあたしとて堪らない。やはり、撤退しかない。足音の主が姿を現す前に行動を開始する。目指すは、上か下か。一階付近は脱出防止のために、既に他の職員達で固めている可能性が高い。では、進むなら上の階しかない。それも屋上へ。再び階段を使って一番上まで昇りきると、ドアを思い切り蹴り開いた。
「待て、どこへ行く気だ!」
もう追ってきたか。屋上を中程まで進んだとき、後ろからディリオンに声をかけられた。続々と到着するエージェント達が展開し、あたしを捕らえるために包囲しようとしている。
「ここで捕まるわけにはいかないの」
悠長にそれを待つ気はない。あたしは西を向き、屋上のへりに向かって走り出す。
「死ぬ気か!?」
誰かがそう叫ぶ。何人ものエージェントが追ってくる気配がある。あたしが自殺すると思っているらしいが、もちろん違う。
「バァイ!」
十分な加速を終えて、腰ほどの高さの落下防止壁も兼ねた屋上の縁部分、パラペットを踏み越える。挨拶一つを残して、あたしは空中へ飛び出した。
「マジでやりやがった!」
焦燥と悔恨の入り混じったディリオンの声を背に、あたしは道路を挟んで隣にあるビルへぐんぐん近付いていく。距離にして三、四十メートル。ちょうどいい感じになるように加減したつもりだ。それで後は、……よし、へりに着地。決まった、んだけどその時丁度風が吹いてきて、あたしを後ろに運ぼうとする。ちょっとたたらを踏みそうになって、後ろに全くの余地がないことに気が付いた。「のぅわぁあ!」腕を振り回す。あ、危ない、何とか持ちこたえた。うん、もうちょっと奥に着地地点を定めればよかった。格好付けてギリギリの方がいいかななんて、思うだけにしとけばよかったよ。
ま、それでもひとまず距離は取った。といってもあたしが跳べたんだから、彼らもすぐに後を追って渡ってくるだろう。ぐずぐずしていられない。ちらっと振り返る。屋上のへりに数人が集まっている。地上の方は、やはり入口付近にも人員を配置していたようだ。両脇に張り付くように何人もの人員が待機していた。それだけ確認して、またすぐに走り出す。その後もういくつかビルを飛び越えた。最後は建物の角、各階の窓の外に設置されていた手すりを、一階分ずつ落ちては掴み、落ちては掴みと繰り返し降りていく。最終的に街路樹に飛び移って地面まで伝い降りた。ここであたしはようやく武装を解いていつものブラウスとパンツのスタイルに戻る。
「もう少し逃げるべき?」
そこは市庁舎からほど近い場所。アーウィンと遭遇した広場の近く。まさか彼がまたそこにいる、なんてことは流石にないだろう。そう踏んだ。広場まで行けば、MBIからも五ブロック以上離れることになる。
「休憩がてら行ってみますか」
エージェント達が追ってくる気配はない。諦めたのかは分からないが、少しは休めるかもしれない。色々なことがあったせいで、体力的にも精神的にも少し、疲労が溜まっている。これからどうすべきかを考える時間も欲しかった。とぼとぼという表現がぴったりな歩き方で進む。広場に到着すると端にあるベンチの一つに座り込んで、大きなため息をついた。
正直混乱してる。大混乱だよ。訳が分からない。考えがまるっきりまとまらなかった。しばらく何も考えずにただ座る。寝そうになるが、首を振って意識を保つ。やがて深呼吸を一つして、思考を再開させた。前に、モンスターのせいで時間軸がおかしくなる現象に見舞われたことがある。そのときと似たようなことがあたしの身に起きた可能性はあるかな。
「ぞっとしないよ」
荒唐無稽な話に思えるが、あたしやフィーリクスがMBIに所属する前の時間に飛ばされた、そう考えるならある一点については辻褄が合う。誰もがあたし達二人を知らないのも当然なのだから。
ただそれでは、スワットのメンバーがあの場に交じっていたことの説明が付かない。彼らスワットが発足したのはあたし達のMBI入りの後だ。それ以前に、彼らの内の誰かがMBIで働いていたなどということはなかったはず。
「じゃあ何なのよ!?」
自分の頭の回転具合に腹を立てて叫んでしまう。そんなことをしてもしょうがないのに、疲れも相まって冷静でいられない。いや、正直に言おう。本当はことの原因が何か分かりかけている、ような気がする。ただその考えられる可能性を考えたくない、認めたくないだけ。確かめるのが恐ろしいのだ。でも、やらないわけにはいかなかった。立ち上がる。また歩み出す。まず最初にやらなくてはならないことをするために、あたしはある場所を目指して出発した。
「待たせたな」
「ありがとう」
あたしはとある窓のない建物に移動していた。面積はそこそこ広いが、照明は十分な明るさを持たず全体的に薄暗い。すぐ隣ならともかく、少し離れた距離にいる人物が誰なのかの識別が難しいくらいの光量しかない。今ここにいるのはあたしとその店の従業員である若い男性の二人だけ。あたしはいすに腰掛けて、彼とカウンターを挟んで真剣な表情で向かい合っている。あたしは彼から受け取ったものをじっと見つめた。必要なものが、あたしの手に収まっている。
「これがなくっちゃね!」
それが放つ芳香を胸一杯に吸い込む。それに思いっきりかぶりつく。
「おいしい!」
何をしているかといえば、もちろん食事に決まっている。香ばしいバンズ、肉厚のパテ、たっぷりのピクルス、香り高いチーズの特製バーガーをかじっているのだ。食事は人生において大事な要素だ。疎かにしてはいけない。食べられるときに食べておかないと、いざという時にばててしまっては大変でしょ?
「ありがとよ。……えらくうまそうに食べるな」
一緒に頼んだドリンクを飲み、彼の言葉を聞く。ここは基本的にはナイトクラブなのだが、カフェもあり軽食を提供している。おいしいらしい、とフィーリクスに聞いて、彼と一緒に前に来たことがあった。実際においしかったし今もうまい。ただ前の時と使っているソースの味が違う気がする。この店はさっきの広場からしばらく北上した場所にあって、あたしの目的地へのルートからは少し外れる。でも食べたくなった。だから来た。まだ時刻は夕刻頃で、本来なら営業時間はもうちょっと先だ。たまたま扉が開いていたので入ってみたところ、開店準備中にも関わらず男性が店を開けてくれた。あと、ついでにやるべきことの一つ、日付と時間の確認も彼にしてみた。恐る恐るだったけど、あたしの端末のものと一致していた。つまり、あたしは過去にも未来にも飛んでいない。一先ずその結果に安心して食事ができたのだ。そうしてひとときの安らぎを楽しんだ。
「ところで嬢ちゃん、見ねぇ顔だな。この店は初めてか?」
食べ終わった頃、彼が話しかけてきた。あたしは彼の顔を覚えてる。人の顔と名前を覚えるのは基本苦手だけど、気に入った相手ならちゃんと覚えるのよね。この店やメニューに関して質問したり、ここでどんなバンドが演奏するのか聞いたりして、陽気に答えてくれたから印象に残ってる。名前は、ノックスだったはず。話の終わり際に名乗ってくれた。でも最近とはいえ一度しか来たことがないし、彼に顔を覚えられていないのも当然っていえば当然かな。こっちは名乗ってもいなかった気がするし。
「前に一度だけ。男の子と一緒にね」
「何だ、彼氏持ちか。入れて損した」
「そりゃちょっとひどいんじゃないの? それに、彼氏じゃない。友達」
「そうなのか? いや、悪い。にしてもひどいって言や、嬢ちゃんの顔色の方がよっぽどだった。最初は具合が悪いのかと思ったから、取り敢えず店に入れたんだ」
そんなに元気がないように見えたのか。思ったより消耗が大きかったみたい。来て正解だったね。
「そう?」
「そう。今は違うがな。うちの自慢のバーガーが効いたみたいだ」
くすくすと笑い合う。お腹が満たされて、人と会話もして、少し落ち着いた。そう、今まで会った連中とはまともな話が出来るような状況になかったせいもあって、ろくに笑えてなかった。ここに来てやっと、心の平静さを取り戻していた。残っていたドリンクを飲み干し、立ち上がる。
「ところで最近ソースの味変えた?」
「いや、そんなことしてないぞ」
「ふぅん、まあいいや。ねぇノックス。テイクアウトでもう一つバーガーを……、どうしたの?」
「嬢ちゃん、本当に前に来たことがあるのか?」
「え、あるよ? そこを疑ってどうすんのよ」
彼の顔から笑顔が消えている。何か機嫌を損ねたのかな。
「俺は言葉を交わして、名乗った相手の顔を忘れないようにしてる」
ノックスは不穏ささえ感じさせる程の真剣な表情で、あたしのことをじっと見据える。その顔に、その態度に、あたしはまた背筋に冷たいものを感じた。
「嬢ちゃんの顔を知らない。名乗った覚えもないんだが、嬢ちゃんは俺の名前を知っていた。誰かから聞いたってんなら、何も疑問はない。……で、どうなんだ?」




