9話 wayward-18
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「違う! 狙いはフィーリクスだ!」
フィーリクスの耳に、端末を通じてキーネンの声が聞こえた。「ぐぇっ」それと同時に衝撃と重みが来た。オリバーの上からの踏みつけを、肩と胸部にもろに食らい、仰向けに倒れ込む。彼の狙いは上にいるサラではなかった。
「うむ、少しばかり溜飲が下がった。では行くとしよう」
インパクトの瞬間だけその存在を示し、またすぐにフィーリクスの目に捉えられなくなる。フィーリクスはその一瞬に、彼の言葉とは裏腹な感情をみた。彼は笑っていなかった。フィーリクスはそこに違和感を覚える。
「どこへ、行った……?」
半ば呻きながら、エスカレーターの手すりに掴まって立ち上がる。彼は仕事熱心だ、少なくとも博物館の外には出ないだろう。サラは無事なようだが、上の階へと登っていったはずだ。
「サラ!」
「ダメ、分からない!」
彼女は首を横に振るが、そこへ再びキーネンから通信が入る。彼は一階から二階、それと二階から三階へ至るエスカレーターの両方が見える場所に隠れ、オリバーの動向を探っていた。
「サラの真横を通って三階へ向かっている。俺は奴に気付かれないよう追跡し、引き続き奴の現在地を報告する」
「了解!」
エイジも促し、エスカレーターを駆け上がった。三人で恐竜の骨格標本などが展示されている古生物コーナーを抜け、更に上階へ。ガラスの割れる音を捉え、そこへ走る。歴史関連の展示コーナーにあるブースの一つ、遺物が入ったガラスケースが何かによって割られている。
「そこにいる!」
「見えてる! 撃つよ!」
キーネンの指示に返事をしたのはソーヤーだった。彼がいるのはガラスケースがよく見える場所、かつオリバーからはすぐには発見できない場所。少し離れたところにある、ミイラが入っていた石棺の中だ。そのずらした蓋から上半身を覗かせ、彼に狙いを定めて撃った。今回用いている銃は、ウィルチェスターシティ警察標準装備のショートリコイル式の拳銃で、装填されている弾はもちろん実弾だ。
「ぐぁっ!?」
オリバーは予想できていなかったのか、ジェムに集中していたのか、その場に留まりすぎたようだ。通常ならば当てるのが難しい脚部に弾丸が命中していた。魔法が解け、姿が見えた彼は強化魔法も使用していなかったか、大腿部からの出血が確認できる。
「全く、ひどいことを、するものだね……」
彼は目的のものを手にしている。余力がなくなったか、魔法は使っていない。荒い息をしながら、足を引きずりながら、それでも歩みを再開した。向かう先は、登りエレベーターのある方だ。
「オリバー、もう諦めるんだ!」
エイジが強い口調で叫ぶが、彼はそれに反応しない。スラックスをどんどん血で汚していきながら、背を向けて歩き続けている。このまま止血をしなければ危険な状態に陥るだろうことは、誰の目にも容易に想像できた。フィーリクスは、それを見ていられなかった。
「大人しく投降してくれ。そうすれば適切な治療も受けられる」
「……かもしれないね」
彼が歩みを止めた。フィーリクス達を振り返る。サラが一歩踏み出して彼に語りかける。
「そこまで駆り立てる、あなたの動機は何なの?」
「単純に、大金がほしかったというのもあるが。……君達はマーサの『30分間トラブルクッキング』を知っているかね?」
突然と言えば突然の内容に、その場の全員が絶句した。この街の人間なら大体が知っていると答えるだろう。フィーリクスももちろんその番組を知っている、知ってはいるが。
「いきなり何の話? ……番組の第一回目の放送から欠かさず見てるよ。それがどうしたのさ」
「あの番組を放送当初から見ていて、私を知らないと!?」
今度は逆にオリバーに驚愕された。彼が数歩、後ずさる。
「ああ、えーっと。どういうこと?」
「最初の数回だけだが、私はあの番組に出演していたのだよ。マーサのアシスタントとしてね」
番組が始まったのが数年前。当時の番組内容を必死に思い出す。何か、思い当たるものに突き当たった。
「……あ、思い出した。いた! 確かにいた! いるのかいないのか微妙な役回りで、気が付いたらいなくなってたアシスタントが! でも、それがあなただった!?」
「随分な言われようだが、私だ」
「よく覚えてるねフィーリクス」
横に並ぶエイジが驚きか呆れか分からない調子で呟くが、今は構う暇はない。
「そうだったんだ。でもそれがどうして?」
彼がまた一歩後ろに下がる。
「売れない俳優でね。デビュー当初はいくらか仕事があったが、どうにも振るわず。気が付いたら出演番組の数がどんどん減っていった」
また、一歩。
「レギュラー番組もなく、ゲストにも呼ばれなくなり始めたその時、何とかもらえた仕事がそれだった。それもすぐにクビになり、しばらく仕事がない状態が続いたんだ。ノイローゼになりそうだったよ。何とかこの業界にしがみつきたかった」
もう隠そうともしない。オリバーは後ろに下がり続け、エスカレーターの手すりに手をかけた。
「そんな時だった。金を用意すれば出演チャンスをやる、とたまたま会った番組ディレクターから聞かされてね」
「いや、そんなことで、こんなことをしたの?」
フィーリクスには理解しがたい動機だ。ギャラをもらうのではなく、逆に支払いをしてまでテレビに出たい気持ちとは一体何なのか。
「君には分からないだろう。どうしても皆に忘れられたくなくて、この仕事に手を染めた。それで与えられた力が『忘却』とは、皮肉なものだよ」
そう、彼の妙な認識を阻害する力の正体は忘却。相手に何かを忘れさせることだった。彼がそこに存在する事を忘れさせる。だから認識できない。最初にフィーリクスが彼を追いかけた時、街の通行人達が彼に驚かなかったのも、彼とぶつかりそうになったことや、彼が目の前にいることを、彼が何なのかを、片っ端から忘れさせていたからだ。
ただ、彼の今の説明は餌だ。先ほどと同じだ。注目を集め、魔法にかかりやすくする。それに気が付いたときにはもう遅かった。オリバーの目が怪しく光る。彼の魔法が発動する直前に、一つだけ、あることを憶えておこうと頭に刻み込む。そして、彼への認識が薄れていった。魔法の正体をはっきりと知ってしまった今、これまでで一番の効力を発揮した。彼が何者なのか、何をしていたのか。……彼とは誰だ。誰かがエスカレーターを上っているような気がする。いや、誰もいない。僅かな間に、色々なことが分からなくなった。
「あ、俺って何してたんだっけ?」
エイジがそんなことを呟く。だがフィーリクスはそれに答えられない。
「何をって、……何だったっけ?」
サラも何か大事なことを忘れているようだ。ここで何かがあっただろうか。
「俺たちは何かを追って……、俺は何でこんなところに隠れてるんだ?」
通信によるキーネンの声がフィーリクスに伝わる。彼も何かを思い出そうとして、失敗している。部屋の隅の物陰から彼が姿を現した。
「ねぇ、ちょっと」
フィーリクスのそばに寄ってきたソーヤーが、何かを見て言葉を発する。
「血だ。床に血がこぼれてる。誰の血? 皆怪我は?」
彼の言うように床に、誰かの流した血液が点々と付着している。皆顔を見合わせ、負傷しているか否かを確認し合うが、誰も流血などしていなかった。そうしている内に、フィーリクスは記憶の底に残っている僅かな欠片があることを発見した。
「あれ、ちょっと待って! 何か一つだけ……。そうだ、俺は憶えてるぞ! 何をすべきか憶えてる!」
「それは何?」
フィーリクスが興奮する様子を、エイジが不思議そうに見つめてくる。その彼の顔をまっすぐに見て宣言する。
「血の跡を追うんだ。それだけ憶えてる。誰の血液なのか、追えば分かる気がする」
どうやら血痕は割れたガラスケースのところから続いているようだ。そこからエスカレーターを上ろうとして、止めたらしい。それは従業員専用通路に繋がる扉へと続いていた。
「行こう」
扉を開け、五人は扉をくぐり中へ入る。血痕を追い通路を進むと、従業員の休憩室か準備室か、壁の一面がガラス張りの一室にたどり着いた。そこにいくつか置かれている椅子の一つに、見覚えのない男性が一人座っている。彼は、大腿部から血を流しており、息も荒く辛そうにしていた。
「あなたは、誰? ひどい怪我だよ。治療をしなきゃ」
「はは、自分達でやっておいて、なかなか……いや何でもない。そうだな、応急処置でも頼めるかね?」
彼の要請に従い、フィーリクスは必要な止血処置を行う。続いて彼に病院に行くよう提案を試みた。快く承諾をもらい、フィーリクスが肩を貸して立ち上がったところで、彼が呟いた。
「どうあっても私にたどり着く。君は賢いね。だからやはり、気に食わない」
「え?」
「うまくいかないものだね。もうろくに動けない。後がない。だが、仕事は最後まできっちりと完了させる所存だよ」
「何を言って……?」
彼が、フィーリクスの回していた腕を両腕でホールドする。大げさな掴まり方だと思っていたが、その力が尋常ではないことに気が付いた。
「そんなに強くしがみつかなくても大丈夫……」
彼は、無言のまま歩き出す。脚を負傷した怪我人とは思えない勢いで、スピードを突如上げた。問題なのは一つだけではない。彼の進む先は、部屋の出口に向いていない。
「あの、ちょっと?」
彼が、フィーリクスを押し付けるようにして、猛スピードでガラス壁に激突した瞬間、彼に関する記憶が全て復活する。
「オリバー!」
ガラスが砕けるのとフィーリクスが叫んだのは同時のことだった。




