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吉原大門事件帳ー待宵草ー  作者: またきち+
9/12

(9)告白

 事件から四日目の朝だった。


 小鳥の囀りで目を覚まし、ぼんやりと起きた。二日酔いだ。頭が痛くて調子が悪い。


 昨日は源次郎と酒を飲んで……。


「やだ。私……」

 白絹の襦袢姿に小春は慌てふためいている。襖に凭れかかった梶原源次郎が腕を組んで、面白そうに眺めていた。


「いい夜だった。久しぶりに燃えた」

 一癖ある侍の笑みに、小春は頬を紅潮させた。急いで帯やら掻き集める。


 源次郎に後から抱きしめられた。

「アイツに黙っていてほしいか?」

 耳元での甘い囁きに小春はこくりと頷いた。

「いい夜だったのにな……」


 源次郎の吐息が昨日の夜を彷彿させた。

 緩急の効いた情熱的な指の動き。源次郎ならば言わずとも心得ていて、小春の弱い部分を確実に突いてくる。駄目だと分かっていながら、つい期待してしまう。


「やめて」

「お前がすがりついてきたんだぜ」

 ぼんやりとしか記憶にないが、源次郎に泣き付いたのは憶えている。

「・・・・・・。」

 愛撫と罠だらけの言葉に動きを奪われていった夜。津波にのまれたような激しい感覚に身体が熱くなり、意識を失うまで抱かれた。


――誰とも枕を並べず身を守ってきたのに。


「これでヨリが戻ったなんて思わないで。もう用は済んだでしょ?」

 小春は源次郎を振り払った。


 源次郎が上向けになって天井を見た。とぼけた顔が真顔になった。つま先が貧乏ゆすりをしているのを見ると、悪い予感しかしない。


「実は、江戸と陸奥を行ったり来たりで金がない。十両ほど調達してくれ」

「そんな大金、持ってないわよ」


 源次郎は諦めずに獲物を狙う目で小春を見る。

「そう言うだろうな。――では御贔屓の上役である上村さまのご接待を願おう」

「あらそう」


「芸一本の芸子がモノになったら男も上がるってもんだろ。やってくれるよな?」

 脅しにも小春は平然としていた。


「枕はしない。前もそう言ったわよね? 昨日は飲み過ぎたし、仕事でもなかった」

「じゃあ上村の時も同じようにさせてやるよ」


「お断りよ」

 源次郎は慌てた。

「俺の将来がかかっているんだぞ?」

 切羽詰まった姿は憐れだ。


「結局お金なのね」

 やはり源次郎は今も昔も変わらない。小春が鼻にかけて笑った。


「ふざけないで! 人の心をなんだと思っているのよ」

 すっかり源次郎に翻弄されてしまったうえに、金や身体までせびられるのはお門違いというもの。


 素早く源次郎が起きて、瞬く間に小春の胸倉を掴んだ。

「――!」

「一人前の口ききやがって!」

 がつりと音がたつほど殴られて、小春は柱に打ちつけられた。口の中が切れて不味い味がした。痛みよりも殴られた事実が小春を動揺させた。


 ――源次郎?


 呆然とする小春に構わず、源次郎は強く抱いた。今結んだばかりの紐を解き、着物の裾を巻くりあげていく。

「やめて」


「あのように曝け出しておきながらよくもぬけぬけと。男が触れれば誰よりも早く濡れるくせに!」

「嫌よ」

 絹がすれる。肌がぶつかり合う。絡み合う手足、囚われる手首、舐められる音。どれも望んではいないのに、身体が熱を欲している。


「身体の方が正直なようだな」 

 小春は白い頬を紅潮させながら源次郎を睨みつけた。

「昨夜は手習いで、今夜が本番だ。簡単だったろうが?」


 あぁ、逃げられない。

 幾千の男を騙すことができても、源次郎は小春のすべてを知っている。女郎をやめても、この男の前では何もかもが逆らえない。


 小春は抗うのを止め、まっすぐに天井を見つめた。だらりと両腕を広げ、覚悟を決めた。

「勝手にするといい! でも絶対に接待なんかするもんか」

 両目を瞑って、ただじっと耐えた。

 

 長い時が過ぎたように思えた。

 それからは触れられることはなく、縛めが解けた。小春は静かに目を開ける。

 源次郎はいまだ覆い被さっていた。優しく頬の傷を撫で「すまない」と呟いた。

 切ない響き。源次郎の切羽詰った焦り。それだけは本物だった。


 逃げるように茶屋を出て、小春は番所へと駆けこんだ。

「頼む。今夜、必ず来てくれ!」

 背後から源次郎が叫んでいた。



 朝の吉原は人の気配もなく静かだが、番所は賑やかだった。

 出入り口に目付けがうろうろしているが、小春は目もくれず、まっすぐに歩いた。

 一番奥の、障子の閉まった小部屋に彦左衛門がいる。


 逃げてきたことと問いたい気持ちが重なって、後先が見えなくなっていた。とにかく逢いたいのだ。


 銀次が正面に立って道を塞いだ。いかにも気遣ってくれている様子だが、今の小春には必要がなかった。

「今はお取り調べ中ですから、中には入らない方が……」


「御願い。会わせて!」

 それは小春にしては、大きい声だった。


 奥から彦左衛門がひょこりと顔をだした。白髪交じりの傷モノ。その渋い顔が、途端に満面の笑みに変わる。

「小春、久しいな」


 小春はその顔ごと抱きしめたくて、駆け足になった。ただしその脇には女がいて、つまじく座っていたのである。

「――では、私はこれで失礼いたします」

「おう。呼んじまって、悪かった」

 二人にどういう会話があったのかは分からない。

 だが長い間そこにいたことは急須と茶碗の様子から見て取れる。

 お静は彦左衛門に丁寧に会釈をし、名残惜しげな瞳が印象的で去っていった。

 

 小春は勢いを削がれて、静かに障子を閉めた。

「あの御方は?」

「お静。月岡尚五郎の妻だ。この間酷い事件があってなぁ」


 小春は口元に手をあてた。

「噂は伺っています」

「足抜けのうえに心中。番所の威厳もあったもんじゃねぇ・・・・・・」


「本当にそんな事件が起きたのですね。お菊ちゃんは、もう――」

 首を横に振り、くずれたように座った。


「菊乃と知り合いなのか?」

 軽く頷く。幼かったお菊の笑みが思い出される。あの純粋に自信に満ちた笑みはもう戻らないのか。

「禿の頃に教えていました」


「最期に会ったのは?」

「四日前の朝です」

「奇遇だな。菊乃が足抜けした日ではないか。何か変わった様子はあったか?」

 小春は正面から彦左衛門を見ることができずに、視線を落とした。 

「いいえ。早く花魁になりたいとか、井筒屋を紹介してくれとか。そういう話をしました」

「えらく活発だな」


 田舎から急に売られて悲運に嘆く女もいれば、最初から女郎になると分かって育ち、その道をひたすらに突き進む女もいる。菊乃は後者なのだろう。


「禿の頃は努力家で人の何倍も練習していました。けれど飽きっぽいところもあって、お習字で見込みがないと分かると、次の回は違う手習いを頼まれたりして。少し変わった子でしたが、当初から才能は評価されていました」


 小春の鼓動が早まるのをよそに、彦左衛門は顎に手をあて、考えたままだ。

「そうだな。菊乃は藤乃屋の成長株だった。歳の割りに稼ぎも良いし、やる気もあるし、心中などもってのほか。


 ――俺は思うのだ。菊乃には女郎として生きていくのに、それなりの自信があった。なのにいつまでたっても扱いが子供のままだとしたら、どうなるかと」


「彦さま。それはどういうことですの?」

「菊乃のそういう飽きっぽい性格が尚五郎に見切りをつけさせた。拙い振りをするのがこりごりだとしたら?」


「そんな、見切りをつけるだなんて。お菊ちゃんは月岡さまをとても愛していました」

 だから月岡に妻子がいると知って、心中に至ったのだろう。


 二人の間でも、しばらく沈黙が続いた。

「小春がそう言うんだから本当だろう。そうか、愛していたのか」

 愛という言葉に彦左衛門が弱かった。そういうあやふやなものは事件をより難しくする。


「何か、腑に落ちないことでも?」

「心中というには亡骸がひとつなのが納得できんのだ」

「ひとつ?」


「上がったホトケは月岡尚五郎だけだ。菊乃は生きているかもしれん」

 小春がいきなり彦左衛門の手を取って握った。

「本当ですか!」


 小春の顔色が少し良くなってきた。彦左衛門は目が手元にいってしまって、事件のことがふっ飛んでしまいそうだ。

 お静に触れられても何とも思わないのに、小春に触れられるだけで、沈んでいた心が高揚する。


「――そう思う」

 彦左衛門の上っ面な返事に小春は頬を染めて、手を離した。

「申し訳ございません!」

「あ、いや。いいんだ」

 彦左衛門はかえって嬉しい。こうして番所を訪ねてきてくれるだけで満足だ。


「小春、仕事は忙しいか?」

「あ――はい」

「俺も仕事続きでな。寂しい思いをさせてすまんな」

 

 小春は気付いた。部屋に漂う百合の匂い。この間作ってしまった袖のかぎ裂きは、いつか小春が直すはずだった。上手に直されて、彦左衛門がやったとは思えない。


「所詮芸子風情に番所は敷居が高すぎます。ところであの奥方、確かシズというお名前でしたよね」

 彦左衛門は正直だ。いきなり及び腰になった。


「名前が同じだと何かあるのか?」

「ええ。興味があります」

「俺は名前で女を選んだりはせぬ。それに月岡の妻だ」


「今ではお独りなんでしょ?」

「それはそうだが――」

 彦左衛門は答えに窮した。目を逸らし、銀次を呼んだ。小春は睨みはしたものの、今朝のことがあって追求はしないことにした。


「銀、菊乃の遺品がそこにあったろう?」

 遠くで夏蝉が鳴きはじめた。日が照りだし、熱さがもどってくる。

「しっくりしないことがあってな。小春なら気付くやもしれぬ」

「お菊ちゃんの……」


 畳に広げられた化粧道具一式と着物。わずかな小銭が菊乃の遺品だ。細い首を伸ばして熱心に覗き込む小春である。


 何度も調べた遺品より、小春の仔細のほうが気になる彦左衛門である。

 小春が朝までかかった仕事の帰りで、酒の匂いもする。やや崩れ髪が気になる。相手が梶原源次郎。何をしていたのか。

 

 そして時が止まったように、彦左衛門の動きが固まった。片側の頬が少し腫れているように思える。

「――小春、おまえ……」

 彦左衛門がしどろもどろになっていた。


「彦さま。筆があるのに、べにがないです」

「紅か」

 

 いきなり彦左衛門が小春の手首を掴んだ。

「今夜、空いているか?――いや、必ず空けてくれ!」


 握られた手首から真剣さが伝わってくる。小春は返事ができずに苦しんだ。

「そろそろ置屋に戻りませんと。女将が心配しております」

 小春はろくに返事もせず、早々に姿を消した。


 彦左衛門が思わず正座を崩し、大の字になって畳に寝転んだ。両手を覆った顔の隙間から、大きなため息が漏れた。







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