(9)告白
事件から四日目の朝だった。
小鳥の囀りで目を覚まし、ぼんやりと起きた。二日酔いだ。頭が痛くて調子が悪い。
昨日は源次郎と酒を飲んで……。
「やだ。私……」
白絹の襦袢姿に小春は慌てふためいている。襖に凭れかかった梶原源次郎が腕を組んで、面白そうに眺めていた。
「いい夜だった。久しぶりに燃えた」
一癖ある侍の笑みに、小春は頬を紅潮させた。急いで帯やら掻き集める。
源次郎に後から抱きしめられた。
「アイツに黙っていてほしいか?」
耳元での甘い囁きに小春はこくりと頷いた。
「いい夜だったのにな……」
源次郎の吐息が昨日の夜を彷彿させた。
緩急の効いた情熱的な指の動き。源次郎ならば言わずとも心得ていて、小春の弱い部分を確実に突いてくる。駄目だと分かっていながら、つい期待してしまう。
「やめて」
「お前がすがりついてきたんだぜ」
ぼんやりとしか記憶にないが、源次郎に泣き付いたのは憶えている。
「・・・・・・。」
愛撫と罠だらけの言葉に動きを奪われていった夜。津波にのまれたような激しい感覚に身体が熱くなり、意識を失うまで抱かれた。
――誰とも枕を並べず身を守ってきたのに。
「これでヨリが戻ったなんて思わないで。もう用は済んだでしょ?」
小春は源次郎を振り払った。
源次郎が上向けになって天井を見た。とぼけた顔が真顔になった。つま先が貧乏ゆすりをしているのを見ると、悪い予感しかしない。
「実は、江戸と陸奥を行ったり来たりで金がない。十両ほど調達してくれ」
「そんな大金、持ってないわよ」
源次郎は諦めずに獲物を狙う目で小春を見る。
「そう言うだろうな。――では御贔屓の上役である上村さまのご接待を願おう」
「あらそう」
「芸一本の芸子がモノになったら男も上がるってもんだろ。やってくれるよな?」
脅しにも小春は平然としていた。
「枕はしない。前もそう言ったわよね? 昨日は飲み過ぎたし、仕事でもなかった」
「じゃあ上村の時も同じようにさせてやるよ」
「お断りよ」
源次郎は慌てた。
「俺の将来がかかっているんだぞ?」
切羽詰まった姿は憐れだ。
「結局お金なのね」
やはり源次郎は今も昔も変わらない。小春が鼻にかけて笑った。
「ふざけないで! 人の心をなんだと思っているのよ」
すっかり源次郎に翻弄されてしまったうえに、金や身体までせびられるのはお門違いというもの。
素早く源次郎が起きて、瞬く間に小春の胸倉を掴んだ。
「――!」
「一人前の口ききやがって!」
がつりと音がたつほど殴られて、小春は柱に打ちつけられた。口の中が切れて不味い味がした。痛みよりも殴られた事実が小春を動揺させた。
――源次郎?
呆然とする小春に構わず、源次郎は強く抱いた。今結んだばかりの紐を解き、着物の裾を巻くりあげていく。
「やめて」
「あのように曝け出しておきながらよくもぬけぬけと。男が触れれば誰よりも早く濡れるくせに!」
「嫌よ」
絹がすれる。肌がぶつかり合う。絡み合う手足、囚われる手首、舐められる音。どれも望んではいないのに、身体が熱を欲している。
「身体の方が正直なようだな」
小春は白い頬を紅潮させながら源次郎を睨みつけた。
「昨夜は手習いで、今夜が本番だ。簡単だったろうが?」
あぁ、逃げられない。
幾千の男を騙すことができても、源次郎は小春のすべてを知っている。女郎をやめても、この男の前では何もかもが逆らえない。
小春は抗うのを止め、まっすぐに天井を見つめた。だらりと両腕を広げ、覚悟を決めた。
「勝手にするといい! でも絶対に接待なんかするもんか」
両目を瞑って、ただじっと耐えた。
長い時が過ぎたように思えた。
それからは触れられることはなく、縛めが解けた。小春は静かに目を開ける。
源次郎はいまだ覆い被さっていた。優しく頬の傷を撫で「すまない」と呟いた。
切ない響き。源次郎の切羽詰った焦り。それだけは本物だった。
逃げるように茶屋を出て、小春は番所へと駆けこんだ。
「頼む。今夜、必ず来てくれ!」
背後から源次郎が叫んでいた。
朝の吉原は人の気配もなく静かだが、番所は賑やかだった。
出入り口に目付けがうろうろしているが、小春は目もくれず、まっすぐに歩いた。
一番奥の、障子の閉まった小部屋に彦左衛門がいる。
逃げてきたことと問いたい気持ちが重なって、後先が見えなくなっていた。とにかく逢いたいのだ。
銀次が正面に立って道を塞いだ。いかにも気遣ってくれている様子だが、今の小春には必要がなかった。
「今はお取り調べ中ですから、中には入らない方が……」
「御願い。会わせて!」
それは小春にしては、大きい声だった。
奥から彦左衛門がひょこりと顔をだした。白髪交じりの傷モノ。その渋い顔が、途端に満面の笑みに変わる。
「小春、久しいな」
小春はその顔ごと抱きしめたくて、駆け足になった。ただしその脇には女がいて、つまじく座っていたのである。
「――では、私はこれで失礼いたします」
「おう。呼んじまって、悪かった」
二人にどういう会話があったのかは分からない。
だが長い間そこにいたことは急須と茶碗の様子から見て取れる。
お静は彦左衛門に丁寧に会釈をし、名残惜しげな瞳が印象的で去っていった。
小春は勢いを削がれて、静かに障子を閉めた。
「あの御方は?」
「お静。月岡尚五郎の妻だ。この間酷い事件があってなぁ」
小春は口元に手をあてた。
「噂は伺っています」
「足抜けのうえに心中。番所の威厳もあったもんじゃねぇ・・・・・・」
「本当にそんな事件が起きたのですね。お菊ちゃんは、もう――」
首を横に振り、くずれたように座った。
「菊乃と知り合いなのか?」
軽く頷く。幼かったお菊の笑みが思い出される。あの純粋に自信に満ちた笑みはもう戻らないのか。
「禿の頃に教えていました」
「最期に会ったのは?」
「四日前の朝です」
「奇遇だな。菊乃が足抜けした日ではないか。何か変わった様子はあったか?」
小春は正面から彦左衛門を見ることができずに、視線を落とした。
「いいえ。早く花魁になりたいとか、井筒屋を紹介してくれとか。そういう話をしました」
「えらく活発だな」
田舎から急に売られて悲運に嘆く女もいれば、最初から女郎になると分かって育ち、その道をひたすらに突き進む女もいる。菊乃は後者なのだろう。
「禿の頃は努力家で人の何倍も練習していました。けれど飽きっぽいところもあって、お習字で見込みがないと分かると、次の回は違う手習いを頼まれたりして。少し変わった子でしたが、当初から才能は評価されていました」
小春の鼓動が早まるのをよそに、彦左衛門は顎に手をあて、考えたままだ。
「そうだな。菊乃は藤乃屋の成長株だった。歳の割りに稼ぎも良いし、やる気もあるし、心中などもってのほか。
――俺は思うのだ。菊乃には女郎として生きていくのに、それなりの自信があった。なのにいつまでたっても扱いが子供のままだとしたら、どうなるかと」
「彦さま。それはどういうことですの?」
「菊乃のそういう飽きっぽい性格が尚五郎に見切りをつけさせた。拙い振りをするのがこりごりだとしたら?」
「そんな、見切りをつけるだなんて。お菊ちゃんは月岡さまをとても愛していました」
だから月岡に妻子がいると知って、心中に至ったのだろう。
二人の間でも、しばらく沈黙が続いた。
「小春がそう言うんだから本当だろう。そうか、愛していたのか」
愛という言葉に彦左衛門が弱かった。そういうあやふやなものは事件をより難しくする。
「何か、腑に落ちないことでも?」
「心中というには亡骸がひとつなのが納得できんのだ」
「ひとつ?」
「上がったホトケは月岡尚五郎だけだ。菊乃は生きているかもしれん」
小春がいきなり彦左衛門の手を取って握った。
「本当ですか!」
小春の顔色が少し良くなってきた。彦左衛門は目が手元にいってしまって、事件のことがふっ飛んでしまいそうだ。
お静に触れられても何とも思わないのに、小春に触れられるだけで、沈んでいた心が高揚する。
「――そう思う」
彦左衛門の上っ面な返事に小春は頬を染めて、手を離した。
「申し訳ございません!」
「あ、いや。いいんだ」
彦左衛門はかえって嬉しい。こうして番所を訪ねてきてくれるだけで満足だ。
「小春、仕事は忙しいか?」
「あ――はい」
「俺も仕事続きでな。寂しい思いをさせてすまんな」
小春は気付いた。部屋に漂う百合の匂い。この間作ってしまった袖のかぎ裂きは、いつか小春が直すはずだった。上手に直されて、彦左衛門がやったとは思えない。
「所詮芸子風情に番所は敷居が高すぎます。ところであの奥方、確かシズというお名前でしたよね」
彦左衛門は正直だ。いきなり及び腰になった。
「名前が同じだと何かあるのか?」
「ええ。興味があります」
「俺は名前で女を選んだりはせぬ。それに月岡の妻だ」
「今ではお独りなんでしょ?」
「それはそうだが――」
彦左衛門は答えに窮した。目を逸らし、銀次を呼んだ。小春は睨みはしたものの、今朝のことがあって追求はしないことにした。
「銀、菊乃の遺品がそこにあったろう?」
遠くで夏蝉が鳴きはじめた。日が照りだし、熱さがもどってくる。
「しっくりしないことがあってな。小春なら気付くやもしれぬ」
「お菊ちゃんの……」
畳に広げられた化粧道具一式と着物。わずかな小銭が菊乃の遺品だ。細い首を伸ばして熱心に覗き込む小春である。
何度も調べた遺品より、小春の仔細のほうが気になる彦左衛門である。
小春が朝までかかった仕事の帰りで、酒の匂いもする。やや崩れ髪が気になる。相手が梶原源次郎。何をしていたのか。
そして時が止まったように、彦左衛門の動きが固まった。片側の頬が少し腫れているように思える。
「――小春、おまえ……」
彦左衛門がしどろもどろになっていた。
「彦さま。筆があるのに、紅がないです」
「紅か」
いきなり彦左衛門が小春の手首を掴んだ。
「今夜、空いているか?――いや、必ず空けてくれ!」
握られた手首から真剣さが伝わってくる。小春は返事ができずに苦しんだ。
「そろそろ置屋に戻りませんと。女将が心配しております」
小春はろくに返事もせず、早々に姿を消した。
彦左衛門が思わず正座を崩し、大の字になって畳に寝転んだ。両手を覆った顔の隙間から、大きなため息が漏れた。