(7)待宵草
風そよぐ葦のあい間に、うす黄色の待宵草が咲きはじめた。
夕闇迫る河原の土手に人だかりができていた。派手な揃いの半纏を着た吉原の目付けが月岡家から番頭と妻のお静を連れてきた。尚五郎であるか確認してくれとのことである。
お静は半信半疑であった。
うちの人のはずがない。そう思える確信があった。しかし道すがら仔細を聞いていくうちに不安に変わった。吉原で次々と若い娘に手を出していたという。
尚五郎は優しい男だ。お寧はいたが、生活苦に情が湧いて囲っている状況であったから、お静は我慢していた。それが若い娘に手を出していたなど考えられないことだった。年上のしっかりした女が好みだと思っていたのに、それも外れた。家族想いで、所持金も大して無いはずが、廻船問屋を騙っての大盤振る舞い。遊ぶ金をどこから融通していたのか。
河原で骸を見ても、尚五郎だという実感は湧かなかった。
藁むしろの下の遺体は水を吸っており別人に思えた。手足は泥にまみれ、ふた回りも太くなって、掴めば肉がずるりと崩れるほど軟らかい。おおよそ変わり果てた姿であるが、長年付き添った相手だから、特徴は掴める。
最初は涙も無いが、所持していた財布や草履などの小物を見て、それが現実のものだと知ると、狂ったように乱れた。
「嘘!――あり得ない。うちの人は心中なんてしないわ!」
「月岡尚五郎に相違ありませんよね」
銀次の言葉にお静は黙るしかない。
吉原で遊んでも、妾のところに行っても、いつかは自分のところへ戻ってくる。お静はずっとそう思って待っていた。こんな結末は望んでいない。
「菊乃はまだみつからないのか?」
彦左衛門は憔悴しきったお静を支えた。御上の要職を勤める侍が簡単に見せてよい優しさではないが、それも彼の人柄である。お静は言い放った。
「陰謀だわ! 誰かに騙されたのよ!」
「しばらく休んでいなさい」
「許せない! 心中だなんて! 私、ずっと待っていたのに! どんな女なのよ!」
彦左衛門に噛みつくように訴える。
「子供ですよ」
その言葉に間違いはない。女郎というにはまだ成り立てで、男と女の駆け引きも知らないはずだ。
「ただの年端のいかない女の子だ。尚五郎は優しい男だった。そうでしょう?」
その言葉にお静は納得しようとした。
「もう少し見届けさせてください」
しがみつくお静から、図らずも百合の花の匂いした。彦左衛門は困り果て、銀次に救いを求めた。
「死体は流れちまったようだ。すぐ見つかるとは限らないぜ。番頭、奥様を送ってさしあげろ」
「――御願いでございます。もう少しおそばに」
「お取り調べの邪魔だ」
銀次がお静を彦左衛門から引き離し、彦左衛門は正直ほっとした。
「助かった」
「羨ましい限りですよ、旦那には女を惹きつけるものがあるんでしょう。魚心あれば水心、互いに心を通わせるうちに……気を付けたほうがいいですよ?」
「俺は小春一筋だぞ? 何においても今は取り調べ中だ」
銀次は笑っている。
「見つけた者によりますと、昨日の朝には船はここにあったそうで、その時は近づくこともなかったそうです。おおかた鰻か魚でも取りにきているのだろうと放っておいたんですが、今日になっても船が停まっているもので、気になって近づくと、草履が二つと遺書らしいものが置いてあったそうです」
「吉原を出て、翌朝までに川へ飛び込んだ。そういうことになるな」
「あの夜はすごい雨でしたからね。お互いを縛り付けた紐は川の勢いで切れちまった。こりゃあ、みつからねぇ。それにしても足抜けの末に心中とは、新造のくせに派手にやったものです。ホトケを引きとってもらって、終わりにしましょうや。女も死んだことでいいじゃないですか」
彦左衛門は顎に手をあてて、伸びはじめた髭を気にした。
「菊乃は生きているかもしれん。舟に尚五郎の遺書と二人の草履があったからといって、二人とも川へ飛びこんだとは限らん」
銀次はそのことには触れたくなかったのだが、彦左衛門は許さない。
所詮、女郎は借金のカタにすぎず、その借金さえ勝手に水増しされたもの。懸命に調べたとしても、何の見返りがあるわけでもない。ならば命がけで女がここまで逃げ、心中までしたのだから、生き残れたらそれはそれ。追うのは情に触れる。
「死人がでている。うやむやにはできん。遺書は雨で濡れ読めん。汚く簡素な字では信用できぬ。女郎が吉原を抜け出すのは難しい。咄嗟に月岡が手引きして連れ出したとして、すぐに死ぬか? 吉原を出たことがなかったのなら、一度は江戸の広さを見物したいと思わんか? やっと結ばれた二人だ。まだ誰に追い詰められたわけでもない。死に急ぐ理由など無いのだ」
「そりゃそうですが、若い娘の考えることなんて。カッとなったらどう飛び火して燃えるかなんてわかりませんよ」
「月岡が船で出かけたのは待宵草を取りに行くためだと、お静が聞いている。確かに河原の土手に生えているが、もし俺なら、そういう理由で船には乗らん」
「えぇ?」
「着物の裾が汚れるし、足袋も脱がなくてはならん。そんな面倒なことをするくらいなら、吉原に来る途中で生えている草を抜く。菊乃は待宵草を見たことがないのだ。似たような草だって嬉しがるに決まっている」
「旦那、それはちょっと酷くないですか? まぁでもあっしもそのクチですけど。じゃあ、何で船に乗って出かけたのでしょう。最初から菊乃を足抜けさせるためだったとしか思えませんよ。船に乗ってしまえば、誰も追いかけられませんからね」
「普通は船に乗る前の、吉原を出るための算段をするものだ。田んぼに菊乃の着物や帯を捨てる意味はどこにある。急いで逃げているのに、着替えなどしている場合ではないだろう。髪型も町娘風にしなければ目立つ。結い直すなら櫛は必要だろうに、捨ててあった。
あの雨がなければ確信が持てるまで捜したが、なかなか滑稽な現場だ。俺には疑いしか残らん」
「疑いって何の疑いですか?」。
「不自然なことには、それなりの理由がある。
どちらが足抜けをしようと持ちかけたか。月岡でなければ菊乃となる。弥勒の証言では菊乃だというが、俺からすれば、それこそ不自然」
「そうですかねぇ。女郎はみんな逃げたいものでしょう」
「男にとっては寝たこともない子供の戯言で、寝耳に水。女郎になったのにもう音をあげたのかと言われるのがオチだ。どんな女郎でも、それぐらいのことは察することはできると思う。
もし菊乃が本気だと訴えても、男は簡単にその場で決行しないだろう。よく考えろとか、計画と練るとかするはずだ。ばれれば月岡もただでは済まないからな。
たまたま神社で待ち合わせをして、話を持ちかけられ、運よく逃げ出し、そしてその日のうちに心中。どう考えたって、不自然だ」
「まぁ、都合よく話が進んでいるとは思いますが……」
「俺は菊乃が仕事のできる女だと思っている。
月岡の懐が寂しいのは金の落とし方から暗に分かっていた。そうでなければ吉野神社で待ち合わせなどしない。月岡は大事な客だから、繋ぎとめるための待宵草だった」
「なるほど、旦那のほうが納得できやす。つまり逃げる算段はしていなかった。でも今のところ心中ということになっていますよね? 菊乃は何かに巻き込まれたというですね」
「その何かはまだ分からんが。足逃げの動機からして不自然だ。それを取り繕うために着物や帯を田んぼに撒いたのだろう」
「なるほど」
「調べるべきは大国屋だ」
「大国屋? 菊乃の客ですね」
「月岡は吉原では廻船問屋と名乗っていたが、実際は船宿の主だった。どちらも菊乃の馴染み、妖しいだろ」
「何がどう怪しいんで?」
「裏取引だ。その連絡役が菊乃だとしたら? 新造ならば寝ないで済むし、女は逃げられない。若い女なら応用も聞かず、素直に伝達するだろう。だが急ぎの用事ならば吉原まで出向くのは不向き。そういう時は船の上で相談だ」
「そういうことですか! それで船で出かけたのですね」
「大国屋の荷と銭勘定をよく調べろ。菊乃と遊んだ後の大国屋の動きを探れ」
「承知いたしました。もしかして大国屋から下手人が出るんで?」
「弥勒が月岡を見たのだ。大国屋に動きがあればな。あくまでも証拠が欲しい。月岡と大国屋が繋がっているという証拠だぞ?」
「証拠、証拠ねぇ。分かりました。頑張りますよ。証拠なら、菊乃の着物やらなんやら、番所にもたっぷりありますからね?」
彦左衛門は拗ねた子供のように口を尖らせた。
「俺は俺で、やることがある」
彦左衛門はもう一度周囲を見回し、そしてその足元に手をやった。草叢には多くの足跡が残されていた。そして菊乃の草履を手に取る。
「銀次よぉ、この草履、可愛くて綺麗だなぁ?」
「そうですね。足も小さいし、やっぱり菊乃のものに間違いないです」
「そうか。菊乃は一度も河原に降りなかったのか。田んぼにも行ったのに泥ひとつ付いてない。いい証拠になるから、ちゃんとしまっておけよ。泥つけるなよ?」
「分かりました」
銀次がもっていた提灯を奪って、彦左衛門はひとり飄々と歩き出した。
「――あ、旦那ァ? お調べは?」
「番所で調べものをするんだろ? 後はよろしくな?」
銀次がぼそりとつぶやく。
「逃げやがった!」
道を照らしていた月が雲に隠れてほとんど真っ暗になった。彦左衛門は珍しく舌打ちして、夜道を急いだ。
「さぁて。嘘つきは誰だ?」