(6)溺れる夜ー酒と罠と菊乃の事件ー
源次郎の酌をする。たったそれだけのことで、一瞬で昔に戻った。
二人だけで、なんとなく酌み交わす盃。注がれる酒を小春は受けいれ、単調作業のように流しこむ。こんな飲み方をしたのは久しぶりだった。
酒は強いほうだけれど、源次郎はなおさら強い。ぐらぐらと酔いが回ってくるが、持ち前の負けん気で正気を保とうとしている。昔と同じような飲み方をしても歳のせいか、酒の回りが早くなった。
――若い頃はもっと……楽しく飲めたのに。
源次郎に出会ったのは、菊乃と同じぐらいの時であったかもしれない。若さゆえに心は揺れ、大人になるのが不安だった。許婚の重さとその未来に絶望していた。
あの頃の源次郎は男らしさと奔放さがあった。野獣のような肉体から迸る、初めてみる荒々しい異性。惹かれて、夢中になって家を出た。
すべてが新しくて刺激的。酒の味も知らない生娘で、新しい世界は面白いことばかりだった。煙草に夜遊び、男女の悦びを源次郎に教えられた。あの夫婦同然の生活が破綻するまでは小春は楽しく、幸せだった。
源次郎の顔をじっと見て、小春は笑いだした。
「何がおかしい。人の顔を見て笑うなよ」
皮肉なものだ。今では源次郎が浪人から侍になり、小春は武家の娘から芸子になり、立場が逆転している。でも歩んできた道に悔いはないし、満足している。
「懐かしすぎて、昔を思い出しちゃったわ」
源次郎はしばらく黙ったまま、何度も盃に注がせた。
「まるで綺麗さっぱり終わったみたいじゃねぇか」
「終わっているでしょう?」
小春の言葉に源次郎は不満顔だ。
「終わってねぇよ。とくにお前との悪縁は死ぬまで一緒」
源次郎も何か思いついたのか、笑い出した。それはとても残酷な笑いである。
「何なの?」
二人とも少し呑みすぎたのかもしれない。
小春は呂律が回らなかった。身体はやけに火照っているし、頭もくらくらする。源次郎は薬が効いてきたことを実感している。
「お前みたいな汚れた女を引き取る物好きは俺だけだと思ってなぁ。――あの爺でさえ拒んだ」
「汚れた女って、酷い。それにひこさまを爺扱いしないで。御髪は白いのは若い頃からよ。アタシが歳上好みなのは知っているでしょ」
「お前の好みの問題じゃねぇよ。小久保は離縁したそうじゃねぇか。だったら夫婦になっていてもおかしくなかった。なぜ、芸子をしている?」
小春は何も言えなかった。
「ひこさまは……こばんでない」
小春はぐいと盃を飲み干した。正直、先ほど背中を見送ってしまったことで心が痛い。
「捨てられたこと、分かってないようだな」
「ひどいこと言わないでよ! あんたなんか、大きらい!」
小春はかっとなり、ますます熱くなった。心の奥底に溜まり、滾っていたものがあふれ出してくる。
「図星だから怒る。それで認めたくないから今度は拒絶だ。でも結果はひとつ。お前の戻る場所は、俺のところだ」
源次郎が小春をグイと抱き寄せた。
「――あ」
源次郎の懐に入り、小春は全身が熱くなった。馴染みのある指、腕、胸。源次郎に強引に抱きしめられる。そしてまた、昔のように焼酎の匂いに染まってしまう。
「ほうら、どうだ?」
「――どうって、言われても……」
侍の源次郎は凛々しく、少しは頼れる気がする。かつては馴染んだこの場所に未練はないはず。なのに、今日はどうしてか拒めない。
「これって、口説かれているのかしら?」
小春にしては間の抜けた台詞だった。
「調子に乗るな、小春。お前、何人の男と寝た? それで飯食ってきただろ」
小春は睨んだが、迫力の欠片もない。
「それはアンタに騙されたからでしょ?」
「俺は騙したつもりはないぜ。二人で暮した借金のカタに女が働きに行くのは当然だろ?」
「それにしちゃ、随分と額が多かったわよ」
小春は空っぽのお銚子を軽く振ってみる。身体が熱くて喉が渇くのだ。それに何やら身体が疼いている気がする。
「お前、仕事は上手いが、自分の身になると赤ん坊並みだな。だからあの男に捨てられる」
「あんたに何が分かるのよ」
「分かるさ……俺は男だからよ」
源次郎の妙な自信が小春を黙らせる。
「女は業が深い。男には武士道があるが、女は苦しむだけの地獄道だな。
吉原では尻振って甘い声で金を貪る餓鬼道。愛だの恋だの本能のむき出しで交わる畜生道。女と女の小競り合いで修羅道。それが女郎で、否応なしに落ちるのは仕方ない。だがお前は天然もので、生まれた時から地獄道だ」
小春には源次郎の話の半分も伝わっていなかった。
何が天然で、何の道だかどうでもよいことだ。とにかくほろ酔い気分で、誘われるように盃を手に取る。
「お前は根っからの女郎だから、この吉原から離れられねぇ。
若くて力のありそうな女は自然と潰そうとする。女の防御本能は相変わらず全開のようだな? 自分は足を洗っておきながら、他の女郎が這い上がるのは許せない」
「あたしはそんなつもりないわよ」
興奮ぎみに小春が声を荒げた。
「だから自覚がないっていっている。お前のせいで、女は足抜けした。酷い女だ。爺もお前を捨てるはずだぜ」
冷たく強い口調で断言されると、小春は目を潤ませながら源次郎を見据えた。
「彦さまとは別れ話のわの字もでていません」
「馬鹿だな。別れる時は、だいたいがぷっつり、音沙汰もなく自然に消える」
小春は何も言えなくなった。そういう話や経験が無いわけではない。
「小久保とすれ違った時、目付けと話しているのを聞いたぞ」
そう言って、源次郎は小春に耳打ちした。
「――え?」
小春は信じられず聞き返した。
「心中?」
源次郎の顔を何度も見たが、嘘でも罠でも冗談でもない。
菊乃が死んだ。
尚五郎と一緒に川で。
「嘘。――嘘でしょ?」
源次郎は崩れ落ちる小春をそっと支えた。小春はぐっと口もとを抑えた。嗚咽は抑えることができても、涙を止めることはできなかった。
「あたしが、あんな事言わなきゃ!」
源次郎の手が優しく小春を引き寄せた。
「死んだのは、おめぇのせいじゃねぇ。心中っては一人じゃできねぇ。止められなかった男も悪い。
でもな、心中するヤツラの気持ちは分かるぜ。この世は辛いことばかりだ。俺だって仕官の職を得たとはいえ相変わらずの借金ばかりの貧乏生活。
お前が死にたい気分なら、こんな俺でよければ一緒に死んでやってもいいぜ? お前にとっちゃ俺は終わった人間かもしれないが、どうしようもないお前に付き合えるのは俺ぐらいだろ。
何しろ今回は死人が出ている。どうにもこうにも、あの爺では役に立てねぇ。あいつは捕り手だからな?」
小春は呆然とした。
「芸子のうえに、人殺しまでしちゃあ、お前らもお終いだ。
小久保もそれが分かっている。そういうお前を責めるのが嫌なんだ。顔が合えば、お前を吟味することにもなりかねない」
決定的だった。小春は雷に打たれたように、全身の力が抜けてしまった。
「――もう、会えないの?」
「だから最初から言っているだろう。お前はあの男にふられた、と」
源次郎は小春の頬に手を寄せた。
「小久保がお前に会うことは二度とない。言っている意味が分かるな? 同心なんて上級なもんとお前がお似合いのはずねぇんだよ!」
小春は首を横に振った。
これがいつもの源次郎だ。芸子風情、身にそぐわないのは前から知っている。それでも彦左衛門は許してくれていたではないか。
「意地悪!」。
けれど菊乃を追い詰め、心中まで至ったのが事実だとしたら。それが小春のひと言で始まったことだと知ったら、彦左衛門は許してくれないかもしれない。
「小春よぉ」
小春は源次郎の手を振り払ったが、反動でよろけた。源次郎は小春を支えた。
「俺がいるじゃねぇか」
荒々しい源次郎がみせた繊細な優しさがたまらない。何もかもが分からなくなっていた。ただ、菊乃が死んでしまったという事実が耐えられなかった。
「お菊ちゃんが……」
小春は源次郎へ抱きつき、子供のように自分を曝け出して泣いた。泣くと身体がますます熱くなった。
源次郎がそっと唇を寄せてくる。
慰めと愛が違うのは分かっていた。自分が堕ちていくのも分かっていたが、それでも今に耐えられなかった。感覚のみの存在になって、すべてを忘れてしまいたい。
帯が解かれている。自暴自棄になった。
唇も肌も、身体の全てを奪われて快楽の世界へと――捨てた過去に戻るように。
それが誰であろうとも、どんな慰めでも。