(5)すれ違いー小春の悩みー
夏を思わせるような、強い陽射しの残る夕方だった。見返り柳の枝が、湿り気のある風を受けて、やや重そうに揺れている。
仕事前の小春も同じようなものだった。今日は早めに仕度を整え、一刻ほど、柳の下で彦左衛門を待っていた。
その姿は柳以上に細身で、しなやかな腰つきである。額に軽く手をあて、化粧くずれを気にしていた。黒地の着物では暑さが厳しかったのか、少し疲れ気味にみえた。
昨日、彦左衛門は不在で、どこで何をしていたのか分からない。今日こそは話がしたいのである。
事件のせいで、芸子が番所に出入りできる緩い空気が吹っ飛んでしまっていた。いかに吉原といえども、芸者風情が真剣に論議している場所に出入りすることはできない。
そこで小春は文を託したのだが、彦左衛門は筆を取る時間もないのか、言づてで「後ほど」とだけ。“後ほど”とは、どの程度の時が必要なのかも分からない。ただ、仕事は遅刻できないので、待てる時間はひたすらここで待つ。それほどに彦左衛門を求めていた。
夕日が吉原の屋根に沈みかけたころ、番所から数人の目付けと彦左衛門が出てきた。小春はひと安心して数歩進んだが、その足はすぐに止まった。
いつもならば遊廓へ向かうはずが、小春とは逆方向で外へ向かっていた。
「――小久保さま!」
小春の呼びかけに彦左衛門は振り向かなかった。かすかに見えた姿はとても厳しい様子であったし、背を向けて歩き出している。逃がすまいと若い目付けの袖を掴んだ。
「邪魔すんな!」
「小久保さまに……」
「あとにしろ!」
皆、苛立っている。彦左衛門はあっという間に遠くにいってしまった。小春は一人で残されたまま、惑うばかりだ。
――また今日も話せない。
しばらくは番所の前で立ち尽していた。そして諦めたように遊廓に向かって歩き出す。
「どうしたらいいの?」
菊乃が足抜けしたことを知った時、小春はひどく衝撃を受けた。
月岡尚五郎は仕事の上では一番大切な客だが、菊乃が耳まで赤くするほど、好意を抱いていた相手だ。彼が妻子持ちであると教えた日に足抜けしたなら、それが小春のせいでなくて何なのか。
菊乃ができることは、店で待つことだけだ。確かめたいと思うほどに、想いは強くなる。それが足抜けに繋がったのではないだろうか。あの覚悟の瞳は女郎として覚悟を決めたものだと思っていたのに、それが足抜けする覚悟であったとは思いも寄らなかった。
菊乃は今、どこでどうしているのだろう。捕まったという話はまだ無い。ならば人の気配に怯え、隠れているのだろうか。彦左衛門が出かけたのは、菊乃を見つけて、捕える覚悟を決めたのだろうか。藤乃屋で酷い目に会うと思うと、いてもたってもいられない。
思案に暮れているうちに、数人の侍が脇を通り過ぎた。小春は背中を押される形でよろよろと倒れ込んだ。
「危ねぇなぁ。ぼうっとしやがって」
「――申し訳ございません」
小春はそのまま深々と頭を垂れた。侍たちに囲まれて、見下げられている。立ち去るわけでもなく、ただじっと見つめられていたのが不思議だ。
「こいつはべっぴんだ。芸子にしておくのはもったいない」
「どうだい姐さんよ、一晩付き合わないかい?」
「それぐらいにしておきましょうや。こいつはある大物の御手つきですよ」
息を呑んで、小春は思わず顔を上げた。野性味あふれる目と、見慣れた風貌は過去になったはずの男だった。
「源次郎!」
侍とは梶原源次郎が率いる一行だったのである。久しぶりに見た源次郎は髪も着物も綺麗で、昔のような浪人風情の欠片もない。変わらないのは焼酎の匂いだけだ。
「また昼間から飲んでいたのね?」
「もう夕方だろ? その前に梶原様と呼べ」
陸奥へと旅立ったはずの梶原源次郎が、まさか戻ってくるとは。
「何だ、知り合いか」
仲間の残念がる声に源次郎は笑った。
「妻だ」
皆がぎょっとしたあと、笑った。
「そのうちにな。つもる話もあるんで……」
顔をあげた小春のあごを源次郎は右手で持って眺めた。そして数枚の小判を侍仲間に渡した。
「俺の相手は決まりだ。中で適当にやってください」
源次郎に腕を掴まれ、小春はその足で、茶屋へ引きずりこまれた。
羨ましいような、下心たっぷりの仲間から離れ、源次郎は小春と二人きりになったのだった。
茶屋というと峠や宿場までの間で団子など食べている場所を想像するが、江戸時代には様々な種類の茶屋があった。そこは休憩所として場所を提供するとともに、客を満足させるための店舗という意味がある。
客が料理を求めれば、料理茶屋。エンターテイメントを求めれば相撲茶屋、性風俗関係は色茶屋といい、待合茶屋や出会茶屋などもある。
小春が源次郎に連れられたのもその類で、入口で昔話をするだけなら普通だが、奥の部屋には布団が用意された茶屋で、実は立派な売春宿だ。源次郎が今は立派な侍で、部屋でなければ話をしないのは当然だろうが、そのことついては警戒せざるを得ない。
二人きりの部屋で、小春は源次郎から離れて座っていた。
「――ずっと見ていたの?」
「まぁな。このところ毎日吉原通いよ。最初のお役目で江戸にとんぼ返り。江戸で顔が効くとあっていろいろと使われている。こうして会ったのは調度いい機会。一緒に陸奥へ行くのはどうだ? 爺いとは別れるのが約束だったろう」
獲物を狙う目で小春を見る。
「そんな遠い昔の話は忘れました。あんただってご一緒のお侍さまと遊びにきただけじゃない」
「お、するどいな――吉原は田舎侍には極楽だぜ」
源次郎はニヤリと笑って、部屋の襖を開けた。屏風の向こうに紅い布団に枕が二つならんでいる。
「どう? その気はあんの?」
「ないわよ」
「それにしちゃ、やけに今日は大人しいじゃねぇか。逆らいもせずついてきた。あんなところで突っ立って。男の背中追いかけるなんて、らしくねぇな」
「何も無いわ。あったって、話さない」
「もう少し信じてみてもいいじゃねぇか。俺も出世したぞ」
小春には源次郎がどういう男なのか骨身にしみている。女に関しては躊躇しないし、人の弱みを本能で嗅ぎわける。利用することにも長けていて頭がいい。
「だから何もないわよ。お座敷があるので、用が無いならお暇します」
小春は凛として立ち上がると、源次郎は行く手を塞いだ。
「本当に仕事あんのか? 俺から逃げるつもりだろ」
「お生憎さま。私、忙しい身ですの。今日はおテツに頼まれて・・・・・・」
小春の言葉に源次郎がニヤリと笑う。そして茶屋の主人を呼んで小判をちらつかせた。おテツに今日は急用で行けないから他の人間を回せと伝言を頼んだのだった。
「ずるい。言わなきゃよかった」
小春は部屋の隅っこで座りなおし、一礼した。
「御代は戴くわよ」
「仕事するつもりか?」
「もちろん。他にすることないでしょ?」
源次郎は機嫌よく酒を飲み、小春の細い手を取った。
「この手。久しぶりだ」
小春は特に何の感傷もみせなかった。
「何か気の効いた言葉は無いのか? 今日の客は俺だ」
小春は微笑んだ。
「そんなにあたしの嘘八百が聞きたい?」
源次郎はため息をついた。
「確かにな。俺はお前がオロオロするところが見たいんだわ」
警戒する小春を膝枕にして、居眠りしようと横になる。
「――もう」
小春は源次郎を見下げながらしばらく黙っている。
あまりに暇で、源次郎の寝顔を見ていると髪に数本の白髪ができていた。若いと思っていた源次郎も確実に歳をとっていたようだ。過去のことは忘れられないが、あれから何年も時が経っているのだと思う。
小春は長唄を口ずさみながら過去の幸福だった時間を思い出した。こうして膝枕をしたこともある。まだ若く、抱かれるだけで嬉しかった日々もある。子供ではなく、女として扱ってもらえる喜び。女として生きる喜びに目覚めていた頃。
「あの時は何にも知らなくて。――でも幸せだったわ」
ふと、その思いが菊乃と通じ会った。尚五郎の真実を知った菊乃。源次郎の真実を知った小春。どちらも差のないこと。あの時、何も知らないのは幸せだった。そして知ってしまったら、その先は不幸しか見えなかった。
小春の美しい表情が曇るので、源次郎はうす目を開けた。
「見返り柳の下にいた時、幸せそうではなかった」
「!」
「幸せそうであれば声などかけなかったぞ」
小春は黙ってしまった。源次郎はおもむろに起き上がった。
「捨てられたのだろう?」
「馬鹿言わないで!」
小春の怒りに源次郎は小さく笑った。
「捨てられる女はみんなそう言う。お前、捨てられたこと無いから分からんだろ」
小春は不安が募る。確かに彦左衛門とは会えていないし、もう少し意思の疎通があってもいいのではと思う。
「違うわよ……そんなんじゃない」
「“知り合いの女郎”の話だな」
小春は早まる鼓動を抑えつつ源次郎を見る。どうせハッタリに決まっている。
「長い付き合いだぜ。お前の顔を見れば何でも分かるさ。――まぁ、そんな芸当ができるのはこの広い日本で俺だけ」
「もう!」
「番所の前にいたのは、責任を感じていたからか? “お前のせい”だと」
小春の唇がわずかに半開きになった。源次郎は鼻にかけた笑いで小春を見た。
源次郎は小春のすべてを知っている。
“知り合いの女郎”を否定せず“お前のせい”で躊躇うあたりで、小春が責任を感じているのは明白だ。それで番所の前で小久保に助けを求め、立っていた。
だがいくら番所の前で待っても、あの鈍感な小久保彦左衛門に小春を救うことなどできない。なぜならこうして、小春の微妙な気持ちの揺れを読み取れるのは源次郎しかいないのだから。
それに女を待たせるのに、こうして茶屋で休ませるぐらいの気遣いもなく・・・・・・。
源次郎は「そうか」と言って、自分の膝を叩いた。
「分かった」
「何よ、源次郎ったら変よ」
小春に言われて、源次郎は獲物を狙う野生の瞳を輝かせる。彦左衛門とのすれ違いざまに、聞いた会話だ。
「耳貸せよ」
「――は? 嫌よ」
「教えてほしいだろ?」
誘い文句は猫のように狡猾で、甘ったるい。
それが源次郎だとわかっていても、情報の欠片でも聞き出したかった。これ以上待てなかったのである。
「疑い深い女だ。――まぁ。一杯付き合え。ちゃんと正直に教えてやる。酒の酌ぐらいしてくれるだろう? 芸子なんだからよ」
小春は言われるがまま酒を注ぎ、三味線で何曲か弾いてみたりした。
その隙に、密かに盃に薬がもられたとも知らずに。