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吉原大門事件帳ー待宵草ー  作者: またきち+
4/12

(4)浮気と本気ー船宿のお静ー


 雨で冷たくなった身体を酒で温めつつ、思案に暮れる夜だった。そのまま布団に入ることも忘れて寝てしまい、くしゃみで目覚め、朝日の眩しさに後悔した。


 今は男の独り暮らしで、布団に導いてくれる者も上掛けをかけてくれる者もいない。


 結局いつもより早く仕事に出た。


 もうすぐ夏だというのに天気が悪い。朝の風は涼しく寒いくらいだ。廻船問屋までの道のりは長かった。昨晩の大雨に濡れたせいか、どうも調子が良くない。


 廻船問屋とは船主のために積荷を集め、または船主と契約し積み荷を運送する。仕事の範囲は多岐にわたり、倉庫業や税金の徴収まで幅広い分野を取り扱っている。船員の上陸や宿泊は規制されていた時代が終わり、船宿業が盛んになると、月岡の店は勢いを増した。


 月岡尚五郎を訪ねると、尚五郎の兄が出てきて、近くの船宿を紹介された。尚五郎は廻船問屋ではなく、実は船宿の主人であった。金銭的に余裕はあるだろうが、吉原で散財するには少し足りないという実感がある。


「見栄っ張りが」

 彦左衛門は河岸を歩き、船宿にたどり着く。


 訛りの酷い船員たちにじろじろと品定めされながら、暖簾をくぐる。奥の部屋に通されて待った。


 尚五郎の妻、お静が薄茶を入れてきた。その後ろには幼子が覗いている。顔の傷があるのを相当気にしている。


「怖くないぞぉ」

 彦左衛門は微笑んでみせたが、それでも迫力があったらしい。すぐに幼子は逃げてしまった。


「申し訳ございません。お侍が珍しいもので」

 確かに珍しいのかもしれない。江戸の人口、百万人に対して、奉行所務めの与力と、格下である同心を合わせても三百人弱だ。おおよそ三千五百人を一人で担当している。


 それでも殺しや心中が稀なのは、街が平和であり、庶民の間で物事が解決できている証でもあった。事件が起きない限り、出会わなくて良い存在だ。


「あいにく主人は出かけております。私でよろしければお話をうかがいます」

 お静は上品な物腰で、良家の妻であった。


「私は先に申した通り、吉原番所の役人です。その意味がお分かりでしょう?」

 事情を漏らすにしても、女がらみで良い話のはずがない。


「女癖については承知しております。情けは無用です。真実を知ったほうがいっそすっきりできます。どのようなもめ事でしょう? そちらに囚われているのですか?」


 彦左衛門はお静の問いに答えなかった。闇雲に人の心を傷つけるのは良心に反する。

「尚五郎はいつごろ戻る?」


 お静は戸惑った。

「お役人さまも主人をお探しなのですね」

「心当たりは無いのか?」


「帰らないことはよくあります。たいていはお寧のところです。今朝、使いを出しました。お寧のところには来ていないと言われて、お役人さまがきたので、吉原で何かあったのかと思いましたが、どこで何をしているやら」


 お寧は妾である。二人はお静との結婚前からの付き合いで十年以上だ。元は船宿で下働きをしていた。飯盛り女郎の連れ子であったが、母親が亡くなり不憫に思って働かせたのが縁の始まりだ。


「失礼なことを聞くようだが、旦那が浮気して何とも思わないのか?」


 お静は仮面を剥がされたように目を潤ませ、彦左衛門の拳を握り締めた。


「見つけてください! 見返してやりたい!」

 彦左衛門は手を握られて硬直した。


 見返すとは、どういう意味だろうか。まさか浮気には浮気ということではないだろう。ではこの手は何の意味がある。


 困惑していると、お静は顔を赤くして手を引っ込めた。

 

「申し訳ございません。違いますよ、綺麗になって見返してやりたいのです。主人はできた女が好みですから、お寧と別れられないのは仕方がないことです」


 そこには疑問を感じる。月岡尚五郎とは未熟な女郎が好きではなかったのか。できた女が好みだというなら、手練手腕の上手い女郎が山のようにいる。


「主人からいつも“おぼこ”だと叱られてばかりで。ごめんなさい」

 彦左衛門は納得した。世間知らずで、世の中の汚い事情に汚されない。まるで生娘のような純粋さがお静の良さだ。


 お静は彦左衛門の羽織のほころびに気付いた。

「だらしないところを見られてしまいましたな。このところ忙しく縫う暇がないのです」


「すぐ直りますよ。脱いでください」

「――いや。でも」


 お静は彦左衛門が露ほども恐ろしいとは思っていないようで、肩に手をかけて、羽織を脱がせようとする。彦左衛門も遠慮はしたいが、何せ男の独り暮らしでは直すのは面倒だ。言われるがまま脱ぐと、少々寒い。


「申し訳無い。裁縫などやったことがないので助かります」


 すぐに終わるはずの裁縫はたどたどしいが懸命だ。見かけは上品、家事はいまひとつ。それでも努力は欠かさない。


 月岡尚五郎は新造好きというが、それは間違いだということも分かった。新造はお静の姿勢を丸写ししたようなものだった。拙くも、危うく、そして美しい。


「昨晩、菊乃という少女の足抜けがありましてね。その日、菊乃に関わった者、全員に話を聞いております」


「主人と寝た女をお探しですか」

「寝ていませんよ。まだ駆け出しの若い娘なので、寝ることは禁じられております。おそらく酒が進んでしまい、帰れなくなっただけでしょう」


 お静は少し安堵したようだ。

「主人は優しくて遊び上手な人です。私を裏切ることはありますが、家族を裏切ることだけは絶対にしない人です。昨日は一旦帰ってきたあと、小船で出かけました。それから先はわかりません。今日は娘を芝居小屋に連れて行く約束なのです」

 

「尚五郎は何故船で出かけたのかご存じですか?」

「河原に咲く待宵草を取りに行くと言っておりました」


「待宵草? 黄色い雑草でしたな」

「ええ。ところが昨日は急な大雨でしょう? 川の氾濫が恐ろしいのは、あの人が一番知っています。船を一艘無くすぐらいならいいのですが、気が気ではなくて」


「そうですか。心配ですなぁ」

「花を取りに行くなんて。どこかの子供と約束したのでしょう。あの人、そういう可愛いところもあるのですよ」


 彦左衛門は肝を冷やした。女の勘とは恐ろしいものだ。菊乃が店を出た時の言葉も『待宵草がどうの~』ではなかったか。


 彦左衛門はいつまでもでき上がらない羽織の寒さに耐えかねた。そして出された茶を啜ろうとしたものの、動きが止まった。


「ふぁっ……クショん――しまった!」

「袴がびしょぬれですわね」

 お静は笑いながら、拭きとってくれたものの、その手がだんだん遅くなっていく。


「待宵草。一番待っている女が、一番寂しいんです」


 その言葉は孤独な妻の心の隙間そのものだった。誰かに埋めて欲しい願いがありそうだが、埋められるのは尚五郎以外いない。それがわかっていても、優しい者ならば、慰めてやりたくもなる。


「もう、いいですから」

 彦左衛門は立ち上がって、羽織を受け取った。いつまでも長居をしても仕方がない。


「尚五郎が戻りましたら、使いの者を寄こしていただけますか? 番所に居りますので」


 足が痺れたわけでもないのに、歩き出すとふらふらする。それに羽織を着てもいっこうに寒さが収まらない。


「お役人さま、顔色が……悪うございますよ?」

 彦左衛門は片膝をついた。再び立ち上がれなかった。


「なんの、これしき」

 ――不覚。

「申し訳ない。篭を呼んでくれぬか?」


 何故か篭はいっこうに現れなかった。朦朧として、家の者に運ばれ、あれよあれよといううちに、柔らかい布団の暖かさに包まれた。さすが船宿だけあって、準備が早い。優しさが身に染みる。


「大丈夫。誰にも内緒にしておきますよ。――主人が戻るまで休んでください。行ったり来たりではお疲れでしょう」

 具合の悪さに泥のように眠り、どれほどの時が経ったことか。


 果報は寝て待てというが、妙な気分だ。気力が萎えて、いろいろと緩くなってしまった。


 尚五郎の子供が時おり様子を見に来ては、笑っている。折り紙の鶴を置いていったり、傍でお手玉をしてみせたり。


 家庭とは、これほどに暖かいものだったろうか? 過去の記憶ではお勤めばかりで、娘の顔などあまり見ていない。そうしているうちに皆が嫁に出てしまった。


 昼に出された粥は鳥の出汁が効いて旨かった。ただ、勤めの間とあって世話になりっ放しで気も引ける。


 夕方になっても、尚五郎が帰ってくることはなかった。

 彦左衛門は引きとめようとするお静に篤く礼を言って、番所に戻った。


 菊乃と尚五郎の捜索は続く。


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