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吉原大門事件帳ー待宵草ー  作者: またきち+
2/12

(2)無い袖は振れずー菊乃の決意ー




 一刻ほど遊ぶ予定であった尚五郎だが、結局は朝帰りになった。


 菊乃と尚五郎は熱っぽい視線でお互いを見つめあっている。花魁になることは避けられないことで、尚五郎は別れを意識せざると得なかった。


 せめて今夜だけ、今だけと思ってのことである。菊乃は尚五郎を夢中にさせたことが自信につながっているようだが、それが若さとしか言いようがない。


 女郎が客を見送るのは店先までと一応決まっているが、この日の尚五郎は絡めた指を解くことができなかった。菊乃は近くにいた男に目をつけた。


「弥勒、ついてきて頂戴」

 彼は妓夫(ぎゅう)、客引きの男である。

 妓夫は恰好も年齢も様々だが、なかでも弥勒は端整な顔立ちをしている。しおらしく見える面もあって女たちにからわれやすい。


 見張り役がいれば、吉原大門まで見送ることができ、尚五郎と一緒にいることもできると菊乃は考えた。客を満足させずに家へ返すのは女郎としての恥。せめてぞっこんにさせて、次にまた会える日が来るのを待つだけだ。


 早朝の吉原は人通りが少ない。

 それを良いことに、尚五郎は道すがら菊乃に手を伸ばした。密かに愛撫を繰り返し、人目をはばかりつつも紅潮する菊乃を楽しんでいた。


「おや、我慢できないのかい?」

 若い弥勒に監視されていることで、尚五郎の無邪気な悪戯がいっそうエスカレートしていった。


「あん、意地悪……」

「あの牛、いいツラではないか。実はああいうのが欲しいのだろう?」

「あちきは旦那が欲しいでやん……あっ」


 二人は物陰で唇を吸いあったりしながら、短い距離に長い時間をかけて歩いている。大門まで辿り着いた頃には太陽が眩しい。


「お別れ惜しゅうございます」

「私にも仕事がある――また来るよ」


 菊乃は尚五郎の腕を取り、留めようと抱きついてきた。

「夜を徹しても活きがいい。さすが新造だな」


「旦那さまと待宵草を見たい……今夜。今夜必ず!――あの場所で」

「困った娘だ。分かったよ」


 そうして尚五郎は大門をくぐった。大門は太い柱が地面に二本、刺さっただけの素っ気無い門だが「幻世」と「現世」の境目。菊乃が越える日は遠い。


 菊乃はずっと手を振っていた。

 尚五郎は見返り柳の下で、一度だけ振り返った。寂しさと愛おしさで、心には別れを抱えたまま。




 菊乃は遊廓藤乃屋に戻り、紫の長暖簾をくぐる。すると一人の女を前にして、すっとんきょうな声をあげた。

「小春姐さん!」


 朝の早さを感じさせない、しゃんとした身なり。一分の隙もない完璧な美しさ。それは遊廓に咲いた芍薬の花だ。


「お菊ちゃん?」

 そう呼ばれて菊乃は臍を曲げた。

「いまは菊乃っていいます。禿のころはお世話になりました!」


 小春は態度が少し大きくなったのをみて微笑ましく思った。

「三年ぶりかしら。泣き虫のお菊ちゃんが新造だなんて、時の経つのは早いわね。それに藤乃屋の乃をもらって。

 もう、すっかり有望株じゃないの」


 憧れの小春に誉められて菊乃は舞い上がった。

「そんなこと……振袖新造ですよ? 将来、花魁になれるかどうか……今の旦那だってお金持ちではないもの」


「夢は花魁。――大丈夫よ。お菊ちゃんなら」

「本当にそう思います?」


 菊乃はじーっと見つめて小春の表情を読み取ろうとしている。それがお世辞でないと確証が欲しいのだ。伝説の花魁と噂される人の直感ならば、もっと自信がもてる。けれど小春の笑みは奥が深く、完璧に微笑んでいる。あまりに完璧すぎて本当にそうなのかと疑ってしまうほどだ。


「ところで姐さん、こんな朝早くからどうなさいましたの?」

「禿ちゃんたちに三味線を教えているのよ」


「知らなかったです。姐さんの三味線、聞きたい。けど、もう眠くって」

「お菊ちゃんも忙しいのね」


「そうでもないです。ご指名くださるのは廻船問屋の月岡さまと、そのお知合いの大国屋さまぐらいで。このまえ雪乃花魁とご一緒した時、井筒屋さまが声をかけてくれましたの。さっぱり駄目でしたけど……」


「井筒屋? 又吉さんたら、またなのね」

 呆れたように微笑む小春に菊乃が食いつくように手を握った。


「小春姐さん、知り合いなら紹介して!」

 菊乃の意外な言葉に小春は驚いた。まだ新造成り立てなのに上昇思考の高いこと!


「お菊ちゃんには月岡さまがお似合いよ」

「だって……」

 唇を尖らせて、駄々をこねる菊乃を諭すのは少し大変だ。


「又吉さんは総籬なの。誘われれば中見世にも顔をだすけど、有名花魁目当てでくるから、新造ではちょっと厳しいのではないかしら?」


 (まがき)とは竹、芝などを荒く編んだ垣根のことである。大見世は総て垣根で囲われているので総籬と呼ばれていた。

 そこでは花魁だけを扱っており、茶屋で大金を使って待つ馴染みの客を花魁が道中をして迎えにいく。


 吉原ではいかに大金を無駄に使うかが器量の見せ所。藤乃屋の菊乃では店の格と身分差がありすぎる。


 落ちこんだ菊乃の肩に、小春はそっと手を置いた。

「焦ってはだめよ。そんなことでは、うっかり足をすくわれちゃうわよ? 新しいお客が欲しいのは分かるけれど、実力をつけるのが先。月岡さまの新造好きを利用して、いろいろ勉強させてもらいなさい。


 売った女心が嘘だと見透かされたら、客は離れる。心から好いて、許してあげるのも大事。本気で好いたら負けちゃうから、難しいところだけれど。残念ながら、花魁になっても月岡さまと一緒にいた子は、今のところいないのよ」


「月岡さまはあちきに夢中よ! 彼が教えてくれたことを生かして、立派な花魁になりたいの。それが尚五郎さんのためよ。初めての……お客さんだもの」


「お菊ちゃん」

 小春は気の毒に思った。好いた男なら、特別な想いがあるだろう。後からかろうじて客と付け加えたあたり、体を売って身を立てる覚悟の現れだ。


「やっぱり花魁になりたいわよねぇ」

「そうよ。みんな、そうでしょ?」


 菊乃は親も女郎で、生まれ付いての借金暮し。先は女郎と決まっていれば、高嶺の花、花魁が少女の夢だ。だが吉原で育った新造なら花魁の末路まで身に染みて分かっている。


 花魁と大事にされ、奉られても、それは上辺だけだ。箪笥や着物の代金、禿や新造を従えるようになると借金は増えていく。若さだけが取柄の新造とは違い、花魁では経験と教養が要求される。見た目が華やかでも、中身が薄ければ最期は体力勝負となる。


 夜は眠れずに働くばかり。疲れた体で若くして大病を患い、死に至る者がどれほど多いことか。


「それがお菊ちゃんの本当の気持ちならいいけど。本当は月岡さまと長くいたいでしょう」


 菊乃は耳まで赤くなった。

「どうして? バレないようにしていたのに!」


 小春は菊乃が帰ってきた時、微笑んでいたのを覚えていた。それで少しかまをかけてみたら、あっさり菊乃から暴露した次第だ。

「まだまだねぇ」

 

「姐さん。あちきはどうしたらいいの? 花魁の話がある。それはそれで嬉しいけど……」

 菊乃は真剣に悩んでいた。


「そうねぇ。私だったら愚かで、できない女になるわ」

「えぇっ! そんなの小春姐さんらしくないですよ」


 菊乃は芸ができずに平謝りする小春を想像した。小春はいつも完璧に舞って歌って客を楽しませている。そういう姿は幻滅する。


「だってずっと一緒にいたいもの。たとえ全部完璧にできるとしても、ちょっとだけ失敗するの。今の立場を守れる程度に愚かな女になる。そこは店の人間との腹の探り合いになるわね」


「お店の人と?」

「大切なのはお菊ちゃんの気持ち。愛に溺れてはだめ。店の言いなりでもだめ。一番の秘訣は心を最期まで取っておくこと」


「最期って? 死ぬまでなんて嫌よ?」

「胸を張って、吉原大門を出る日が来る。その時まで。どんなに好きでも、恋に溺れるのではなく、溺れさせる側になるの」


 菊乃が頷いた。その決意を小春は信じた。


「彼から学ぶことはたくさんあると思うわ。それに妻子のいる月岡さまなら、若い独り身の男より安心と思って藤乃屋さんが紹介してくれたのよ。みんなお菊ちゃんが凄腕の花魁になると期待しているわ」


 菊乃の表情が曇った。

「妻と子がいる?」


 月岡は独り身が寂しいと言っていたのは嘘なのか。いつか身請けしてやるという話も嘘かもしれない。嘘は当たり前の世界であるにしても、まことしやかにつかれた嘘は心を傷つける。


「姐さん、ありがとう。教えてくれて」

 菊乃は凛々しい顔をしていた。ある決意が、彼女をそうさせている。


 菊乃の背中を見送りながら、小春は余計なことを言ってしまったと後悔した。

「私、歳をとったのかしらね」




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