(11)待酔草
彦左衛門と小春が藤乃屋の暖簾をくぐった。盛況な店の脇を抜け、裏の小部屋に案内された。
遊廓の店主が弥勒を連れてきた。弥勒の流れるような仕草はとても丁寧である。深く礼をする姿にもそつがない。
「御用とは何でございやしょう」
彦左衛門は懐から一枚の紙を取り出した。
「先日お前に書いてもらった待宵草だ」
彦左衛門が指差した先には待酔草と書いてあった。
「お前の字だ。どこか間違っていると思わんか?」
弥勒が首を傾げた。
「ここには酔という字が書いてある。いかにも酒と女の吉原らしい花。客が酔って正体不覚になるのを待つ気分はどうだろう。書いた本人なら、それも説明できるかと思ってなぁ」
「あっしには何のことだか」
彦左衛門は首を振った。
「俺は思い出したし、銀次が片っ端から芝居好きな女に聞いてまわった。前にどこかで見覚えがあると言ったが、近くの芝居小屋だ。女形の素顔なんてあんまり見ないから記憶に残った」
「役者なんて、憶えにないですね」
「確かにそういう女形がいた。えらい借金こさえて、周りに迷惑かけたままどこかに消えたそうじゃないか。ほくろの位置。人相書きもそっくりだ」
銀次が書いた人相書きを弥勒が睨む。
「役者は女郎と良く似ている商売だ。芝居だけでは食っていけない場合も多い。芝居が終われば、客と逢引してその金で飯を食う。お前も女に身体を売ったクチだろ。嫌な客の相手をするのがどんな気持ちなのか知っておろう。できれば早々に酔っ払ってもらいたい。そういう気持ちから、お前は宵を“酔”だと思ったのではないか?」
「あっしの過去と、たかが字の間違いくらいで。お役人さまもご苦労なことです。いったい何をお調べで?」
「無論、菊乃の件だ。逃げたい、早く客を酔わせて終わりにしたい。それは男の考え。菊乃は待宵草がどうのと言って逃げたとお前は言ったが、それはお前が考えた嘘だ」
「嘘?」
「女郎は夜に咲く華だ。花魁は大輪の牡丹か芍薬。だが新造はどこにでもある待宵草。もうすぐ花魁になれる菊乃なら、ひたすら不満が溜まるだけ。好いた男が待宵草を持ってくるなんて悲しいだけだ。待宵草はていのいい話でしかなかった。
見受けできるほどの金もない。花魁や他の女郎にどっぷり嵌れるほどの金もない。妾の存在がいることは、そっちにも金がかかる。だから新しい女に手を出して、金がかかる頃になると放り出す。
けれど待酔草であると思っていたお前にはそう思えなかった。女形であった時の苦しみが蘇り、菊乃に同情した。足抜けも心中も自然なことと思えたろう。相手の男が悲観して一緒に死んだのだと理由もつけられる」
「あっしが菊乃の足抜けを手伝ったとおっしゃいますか」
彦左衛門はゆっくり首を振る。銀次が小さな木箱をもってきた。
「徹底して吉原神社を調べた。それで床板の下から出てきたのがこれだ」
中には襦袢と布が入っていた。
「それはうちの襦袢ですね。菊乃のものですか?」
藤乃屋の店主が口を出し、弥勒は顔を背けた。
「菊乃ではない。田んぼに櫛や着物が落ちていただろう。菊乃の物だとしたら素っ裸で逃げたことになる」
弥勒はチラリとこちらを見て呟いた。くだらない、と言いたげだ。
「では事件とは関係ない物でしょう」
「そうかもしれん。襦袢だけならな。けれどそこに頭を隠す布と白い綿玉が二つあるとなると話は変わってくる。女の真似をするには乳は必要だ。普通の妓夫が変装するだけでは、女に見なれた仲間にばれるかもしれん。だが、まさか吉原に女形がいるとは思わない。
月岡を見たと証言したのはお前だけ。菊乃は本当に吉原神社にいたのか? それはお前だったのだろう」
弥勒はしばらく黙っていた。店主は弥勒の袂を掴んで揺さぶった。
「弥勒、お前なのか!」
弥勒は店主を打ちはらうと、拳を畳に打ちつけた。
「――とんだ見当違いだ。菊乃は外に出た。そして二人は心中したでしょう。あっしには何の関係もありやしませんよ」
「田んぼにあった着物と帯。それに櫛は、外に出たことを印象づけるためにバラまいた。けど俺は最初から怪しいって思っていた。足跡が男のものしか見当たらなかったからだ。
菊乃の草履は船で見つかったが、泥はひとつもついていない。晴れた時刻に、胸元にでも隠していなければ、田んぼの泥で汚くなっていただろう。必死に逃げているなら、草履の片方がどこかへ消えても不思議ではないと思わんか?」
藤乃屋の主はますますいきり立った。
「どうなんだい。弥勒! 答えなさい! 菊乃はどうした!」
弥勒が立ち上がり逃げようとすると、銀次に抑え込まれた。
「殺しましたよ! 最初に! 同情など致しません。せっかく逃げてきたのに、菊乃が大国屋を呼び込もうとするから!
月岡が来たら次は大国屋の順番だ。気付かれるのは時間の問題で、そうなれば殺されるのはあっしのほうです。
大国屋を直接狙えば、疑いがかかる。だったら、月岡が来なくなればいい。心中に見立てて殺すしかないと思いました。
でも藤乃屋の中では人が多くて無理だ。お調べが入ってあっしの身元が割れるのも困る。それなら心中。それなら誰も文句言わないで解決するでしょう」
弥勒は軽く笑いを浮かべた。
「それで菊乃も月岡も川に流しました」
側で聞いていた小春は両手を口にあてて、わなわなと震えた。彦左衛門は軽く小春の肩に手をあてた。
「お菊ちゃん・・・・・・」
「借金は嘘ではないだろう。二人を川に流したと仮定しても菊乃をどこで殺した?」
「吉野神社です。着物やら帯を剥いで一旦は亡骸を隠しました。その後変装して、平七の近くで菊乃が生きているように見せました。探しているふりをして田んぼに外に出た証拠として捨てました」
「お前、紅はどうした。持っているか?」
「いいえ。顔と頭は隠しましたので」
彦左衛門はニヤリと笑った。
「浄閑寺に菊乃らしい亡骸はなかった。もちろん吉原の中にあるとも思えない。吉原神社で殺したとして、どうやって船まで運んだ? さぞ忙しかっただろう。俺たちはすぐに動いたし、店の者も探している。お前に菊乃の亡骸を運ぶ時間は無かったはずだ。ほどなく菊乃もこの吉原内で見つかるだろう」
弥勒は叫びながら暴れる。
「菊乃は殺したんだ!」
「死んだことになれば、ほとぼりが冷める頃に逃げられると算段しているのだろうが、それは叶わぬ。お前の知り合いをつてに、すべてに目付けが動いているぞ」
彦左衛門の睨みに弥勒は硬直した。
「最初から月岡だけが狙いだったのだろう? 相手は女郎、菊乃なら吉原の中で手にかけるほうが危険は少ない。それをしなかった理由はひとつ。殺さなかったのではなく、殺せなかったからではないのか?」
弥勒が視線を外した。しばらくして、平七が女の手を引いて走ってきた。
「いました。いましたよ、小松屋の物置に捕らわれていました!」
小春が経ち上がって少女に抱きついた。黒髪を降ろし、薄紫の襦袢姿の菊乃が立っていた。十六の幼な顔は蒼白であるが、唇には紅が塗られて、きちんとした身なりだ。
「お菊ちゃん! よく無事で」
「姐さん。皆さま。ご心配おかけして申し訳ございません」
菊乃は小春から離れて、まっすぐ弥勒に向かった。音を立てた歩みには怒りが含まれている。
「――あんた、よくも! 月岡さまを殺したんだって!?」
菊乃は弥勒の襟首を掴んで揺さぶった。
「……申し訳ない」
「何でよ――なんで!」
菊乃の目から一気に溢れ出た涙。顔を伏せ、その場に崩れ落ちた。土下座して謝る弥勒の姿に、菊乃は首を横に振る。
「嫌よ。嫌よ。弥勒の馬鹿! ――なんでこんなことしたのよ!」
「菊乃は月岡が死んだのを今知ったようです」
銀次の言葉に小春は同情した。
「何があったのですか?」
銀次は彦左衛門に小松屋での状況を説明した。
小松屋はおはぐろどぶに近い小店で、金次第で自由が利く。物置から声がするが、店主からの指示で誰も調べなかった。他店の女郎が逢引に使っていると思ったらしい。
「何も知らぬだと?」
彦左衛門はまっすぐ菊乃を見ている。弥勒は言った。
「全部あっしが仕組んだことです」
「いいや。菊乃は逃げようと思えば逃げたはずだ」
彦左衛門の声は厳しかった。菊乃は紅をつけ、襦袢ながらも乱れないようにと努めているからだ。それは男の気を惹くためである。
弥勒は言った。
「菊乃が月岡を送った朝、決行の時がきたと思いました。昼すぎに稽古が終わって菊乃を連れだして、無理矢理に閉じ込めました。夕方になって菊乃が戻らないことが話題になってから事件があったことにしました。だから菊乃は何も悪いことはしておりません」
「菊乃は裸足で襦袢でも紅だけは持って出掛けた。男の前では美しくありたいと思うからだろ」
「菊乃は何もしていない!」
「それでは菊乃が加味していないと証明できぬぞ?」
「あっしは月岡が憎かった。これは本当です。
日が沈んで、大門をくぐったところで月岡を捕まえました。話があるとあっしが用意した船まで歩かせて、菊乃の腰紐で首を絞めました。片方は輪にして流れてしまったようにみせて、頑丈な杭に引っ掛けて、月岡が完全に流されないように気をつけました。それでもう片方を月岡に巻いて、川に落としました。遺書と草履をそろえて心中になると思いました」
「死体があがれば心中? それが怪しいと思った。土手にも田んぼにも女の足跡がなく、船では草履が無事にある。土手ではあの雨のあとだというのに、男の足跡ばかり。全部お前の足跡だ。
最初から誰かに仕組まれたと確信していた。堀を越え、田んぼを走って、着物を脱ぎ捨てておきながら草履だけ無事。咄嗟に飛び出したなら、裸足ぐらいでもいいのに」
「どうしても菊乃が死んだと思わせたかった! あいにくあの日は雨。月岡が流されすぎて見つからなかったら心中が成立しない。用意した遺書は濡れちまって読めなくなるし。それでも心中だって分かるようにしなきゃならなかったんです」
「菊乃のことをそこまで。紅を塗らせる余裕まで与え・・・・・・相手は女郎だぞ?」
「いいんです。それでも」
弥勒はしばらく黙っていた。菊乃は泣いたままで、弥勒と目を合わせようとはしなかった。
弥勒の気持ちは菊乃に届いているのだろうか。女郎だと分かっていても同情し、人を殺めるほどに募った想いは無駄になったのだろうか。
菊乃は紅を塗り、弥勒を待っていた。ここ数日が二人にとって最高に幸せであったと信じたい。
誰に強要されることもなく、菊乃はただ愛する人を待ち、二人の愛の花がそこに咲いていたのだと。