(10)愛ゆえの選択
夕方の吉原、提灯に火がともっていく。
遊郭で開かれる宴。そこに上村という侍が待っている。だから小春は仕事の恰好をしてきた。仕事は三味線と踊り、酒の相手。それだけは誇りを持って行えることだから、全うしたい。
相手が枕を共にする目的があろうが帰ってくれば良いだけ。そう考えて番所を通り過ぎ、吉原に入った。日が沈まないうちは彦左衛門も仕事中であるし、一度番所に立ち寄ると小春も仕事に行きづらくなる。
彦左衛門は「今夜必ず空けてくれ」と言っていた。けれど仕事は仕事。早めに宴の席から彦左衛門のもとに行きたい。あれほど真剣に求めてくれたのだから、応えたい。
遊郭に向かう足が止まったのは店に入る一歩手前であった。迷いから出る悩ましくも美しいため息。女の憂いが、通りすがりの男たちの視線を釘づけにしている。
小春は悩んだ。一度座敷に上がれば、源次郎は手段を選ばない。上村の機嫌を取るためなら何でもする男だ。たとえ上村を酔い潰し、夜に何事もなかったとしても、夜が明けるまで返してくれないだろう。そうなれば彦左衛門は二晩も番所で夜を明かすことになる。ならば宴には行かないで彦左衛門といるべきではないのか。
しかし宴を断わったら、源次郎はどうなるのか。罪悪感もあった。酒に溺れ、気が付いたら源次郎と一晩過ごしていたことが弱みになっている。あれを彦左衛門が知ってしまったら……。
大通りに出ると、遊郭へ向かう客でにぎわっており、外へ向かう者は少ない。簡素ではあるが、吉原の唯一の出入口が見えてきた。
「――吉原大門」
小春は背に広がる男女の街を振り返った。
芸子になったのだからこの門から外へ出るのは誰も咎めない。しかし今、ふたたび吉原に縛られている。身分は自由になっても、まだこの街は小春に自由を与えてくれない。
源次郎は根っからの女郎だと言った。酷い言葉だけれど真実でもある。
源次郎と小春。二人の絡まった心の糸は、結び目のほどけぬまま、源次郎の思うように手繰り寄せられている。
元は愛していた男。
少し前は憎んでも憎みきれない男。
――今は。今の私は……。
小春は覚悟を決め、来た道を戻り遊郭へ。
「彦さま、ごめんなさい。私は所詮そういう女です」
やはり仕事を疎かにはできない。
仲の町通りの中央に、黒い紋付袴が見えた。白髪交じりではあるけれど、誰よりも堂々としている。そのくせ女には弱く、優しい。
「まだ少し時間あるだろ?」
愛する人は、小春の全てを知りつくしているように吉原の中央で待っていてくれた。
月もおぼろな夜である。
小春の手を引き、彦左衛門は吉原内を夜回りしている。
「彦さま、どうかお手を。お恥ずかしゅうございます」
「いい。ここでは俺が一番偉い。文句は言わせん」
小春は凛とした頬をうすく染めている。
「俺はこうして夜な夜な、喜ぶ顔した女の裏にある、苦しみの心を見回っている。苦しみに耐えられず逃げ出してしまいたい女を、どうにか引きとめて、強く生きることを勧めるためだ。どうだ、偉いだろ。その俺が一番愛した女を公に晒して何が悪い」
彦左衛門が大事に想ってくれている。嬉しさの反面、小春は弁明の言葉がなかった。酒と悲しみのあまり源次郎に泣きついたことは消せない。
彦左衛門は小春の手を強めに握る。
「迷うな。自分の決めた道を貫け。芸子で生きると決めたなら、世間の目など気にしてはならん。誇りをもち仕事しろ」
彦左衛門の微笑みに負けて、小春は頷いた。
「お前は吉原の苦境に勝った。そういう人間がいること自体、他の女郎たちの希望になる」
小春の細い肩をそっとなで、彦左衛門が照れた眼差しでこちらを見ている。
「……というのはタテマエ」
「建て前?」
「知ってのとおり、男は本能剥き出しだ。いろいろと理由をつけても、結局ヤラシイし、独占したいのよ。大っぴらに小春と歩いて、俺の女だから手出しするなと威嚇をしているだけだ」
小春は小娘のように恥じらいだ。
「俺は爺で、あとどれほど生きられるかは分からん。歳の数からして俺の方が先に逝くし、侍だから斬られるかもしれん。小春にはいつ愛想尽かされてもおかしくないと分かっている。だから必死に留めようとして、浅ましい限りだ。
それでも男として懐が広いところは見せたいのだ。だからお前が仕事だと言うなら、客と朝を迎えようとも文句は無い。初老のジジィに惚れてくれた女がいた。それだけで幸せと思わなくてはならん」
「彦さま!」
小春は驚いた。彦左衛門はまるで過去のような話し方をしている。
「こんな男ばかりだから吉原は栄える。女が愛と金と仕事で苦しむなんていつものこと。場合によっては足抜け、裏切り、心中、いろいろ起きる。でも最期にどうするか決めるのは自らの意思。
やりたくないことはやらなくていい。俺に愛想が尽きたならそれっきりでいい。それだけの自由を掴んだのだ。もう誰もお前を縛らない。少なくとも小春には自由に生きて欲しい。……そのうえで、家で酒の酌をしてくれれば、俺は満足だ」
彦左衛門にとって小春は籠から放たれた鳥。彦左衛門自身が最高の一枝であれば、羽を休めに舞い戻ってくるはずだ。
小春は白い肌をすこし桃色に染め、腕を抱えて寄り添った。
「それでは彦さまはお辛いでしょう」
「侍だからな」
中央通りの仲ノ町。その柳の下、傍目も気にせず美女に抱きつかれる。たまにはそれもいい。そっと手を添えることで、彦左衛門は小春を手中に収めた気がした。
「端者でございますが、いつまでもお傍に置いてくださいましね」
小春は身の幸福を感じている。
「ただ、殴られたりするのは我慢できん」
小春は気づいた。おおよそ彦左衛門は想像がついている。本当は言いたいことがたくさんあるのだろう。
「これは自業自得です。酒に溺れて失敗してしまいました」
「人は過ちを犯すもの。できれば綺麗に生きたいが、そううまくいかん。俺は捕り手だから“しょっ引く”のが仕事だが、人の過ちを追求するほど偉くない。俺も同じように人だから、過ちを犯すかもしれぬ。
だから丸裸にするのは事件だけでいい。知らない方が良いこと、知ったが故にいざこざの元となることが世の中には多くあるだろう?」
小春は心が痛んだ。
「私、お菊ちゃんに会った時に月岡さまには妻子がいると、つい口を滑らせてしまいました。それが原因でこのような事件になってしまったのではないかと……私のせいです」
彦左衛門はしばらく黙っていた。
「そう思っていたなら辛かったであろう。だが俺は菊乃が何かしたとはハナから思っておらん」
小春は目を丸くしている。
「確かにそれを聞けば多少の気持ちの揺れはあるかもしれん。だが菊乃が詠んだ歌を練習した紙を見たら、そうは思えん。
“宵待ちの花も涙の朝露に願いとどけと今日も祈らん“ これは献身的に待つ菊乃の表の顔。
”宵待ちの花と涙の朝露に願いとどけとこぞの暦”これは裏の顔だ。去年の暦、まったく役に立たぬという意味であろう。夜の花である自覚、涙は決意の顕れかもしれぬ。それは朝露のように消え失せる。
菊乃は月岡以外の客を欲しがっていた。ならばまったく役にたたないのは?」
「お菊ちゃんは月岡さまを好きだと……」
「けれど恋よりも仕事で、出世には要らぬ男。そうは思えんか? どちらが本音かは分からん。ただの皮肉かもしれん。二つの心を抱えたまま、足抜けなどできるはずない。
足抜けして一番喜ばないのが月岡本人だ。妻も妾もいる。新造と心中する理由も見当たらん。妻の代わりのような存在に命まで預けられぬ」
「今度が本気だとしたら?」
「月岡は遊びと本気は分けた男だ。亭主が浮気をしても妻のお静があまり動じないのは、それがちゃんと理解できていたからだ。あとは男の勘だな」
「男の勘ですか。では月岡さまが手伝っていないとすれば、菊乃さんがひとりで足抜けを?」
「小娘が咄嗟に思いついて、足抜けできるような吉原ではない。菊乃は足抜けしていない」
銀次が走ってきた。しかも喜んだ顔をしている。
「旦那! ありましたよ! 整いました」
彦左衛門が小春の手を引いて、再び歩きはじめた。
「答が知りたいだろ。藤乃屋に行こう。全てを解決しようじゃないか」