(1)新造好みー月岡尚五郎ー
「お馴染みさん、上がるよー♪」
背が高く、真面目そうな青年で、色事とは遠い存在に思えた。紺地の着物が揺れると、あたりの空気まで洗い流されて清々しい。廻船問屋の若旦那、月岡尚五郎である。
若衆に呼ばれた遣り手がいそいそと現れた。
「毎度のお運び誠にありがとうございます。ですが、今回もあの花魁は臥せっておりまして申し訳ございません。代わりの者を用意させていただいておりますが、宜しいでしょうか?」
「菊乃はいるか?」
馴染みの客がかち合うと、名代といって新造が相手をすることになっているが、尚五郎は最初からそちらが目当て。やり手婆は含み笑いで頷く。
「そうでしょう、そうでしょう。ご用意しております」
「当然だ」
尚五郎は無造作に障子をあけると、ツンと鼻を突いた香の匂い。
「焚きすぎじゃ、未熟者め」
質素な四畳の部屋に衝立と箪笥。そして中央、生け花のように鮮やかな少女が座っていた。無邪気な笑顔で化粧も初々しい。
「月岡さま! お待ち申し上げておりました」
三つ指で丁寧なお辞儀であるが、慣れた仕草ではなく、どこかぎこちない。
振袖新造の菊乃、齢は十六になる。姉貴分の遊女の計らいで客を取っているが、まだ床に入らない遊女見習いだ。
「今日から馴染み。これで尚五郎さまは、正式にあちきの旦那。菊乃は嬉しゅうございます」
果物ならば初モノを喜ぶが、ここ吉原ではあまり通用しない。
若い果実は新鮮ではあるが、甘みが少ない。同じ金を払って下手な新造と会うよりは、食べごろの女郎や花魁のほうを選ぶことが多い。
この男、月岡尚五郎を除いては。
「何をしていたのだ?」
「花を題に一句作ろうかと思っていた所存にございます」
「鍛錬を欠かさぬようだな」
「花魁になるためには鍛錬は欠かせませぬ」
小娘にしっとりした女らしさを求めるのは早いのだろうが、それも教育次第。拙い女を見ると、尚五郎は助けてやりたくなる。
「口下手め。思ったことを、そうポンポンと口に出してはならぬ。そんな時はこういうのだ。
――昨晩から私のことを考え眠れぬ夜を過ごし、今夜はその想いを花に例えて一首作っていたと」
「尚五郎さま、すごい!」
「旦那だぞ? 菊乃」
純粋に感動する菊乃が抱きついてきた。
「はい。旦那さま♪」
「これだから新造は面白くないと言われる」
尚五郎は言葉とは裏腹に気分をよくしている。“新造好き”というのは、こういう男を指すのだろう。
「……それで、できたのか」
「はい、一応。
宵待ちの 花も涙の朝露に 願いとどけと 今日も祈らぬ」
尚五郎は吹き出して笑った。
「下手すぎて分からぬ……」
「もうっ、旦那さま! これは噂に聞いた願掛けでございます。
隅田川に咲く待宵草のわずかな朝露。これを懐紙にしみこませたものを神仏に掲げて祈ると、願いが叶うそうでございます。ほどなく想い人と結ばれるとか」
「待宵草か」
「でも待宵草は堀には咲いておりません。みたことのない花をどう喩えたら良いのでしょう。
吉原生まれの吉原育ち。一度でいいから大門の外に出てみたいものでございます」
「そのうち出られるようになる。良き花魁になるには遠いが、必ずだ。花魁になるのを約束されたのが振袖新造だ。安心して励め」
「不安なのです。隅田の流れ……もしや一生見ることができないのではないかと」
「案ずるな。俺がついている」
「あぁ……尚五郎さま」
「旦那と呼べ、菊乃」
「――あ、はい。旦那さま」
「今に身受けされるようないい女になる。菊乃にはそういう才があると俺は踏んでいるのだぞ?」
「本当にございますか?」
「そのうち待宵草もみるようになるだろう」
菊乃は夢を見る目で尚五郎に肩を寄せた。
「待宵草。どのような花なのでしょうね」
「お前のような花だよ。美しさもあるが、ちょっとな」
「ちょっと、何ですの? 可愛らしい花でしょうに!」
「夏の宵から朝にかけて咲く黄色い花だ。隅田なら近い。お前が喜ぶなら、とってこよう。
だが――その前にお前の花もじっくり拝見させてもおらうか?」
尚五郎が獲物を狙う瞳で菊乃を見る。
赤い襦袢が肌けて肉感的な若い足があらわになった。腿の内側にそって男の手が這い上がって、尻の肉をぐいとつかんだ。
「!」
確かに床には入らないことになっているが、誰もいない部屋で男と女が二人になれば、何をされるかは男次第だ。
「あ……や、旦那さまっ」
新造好きの尚五郎。未熟な少女の恥じらいが何よりも好きだ。
「あちきが待宵草なら、きっと待ってばかりでしょうね。――でも、それでもいい」
菊乃は尚五郎が嫌いではない。
若く頼もしいうえに、優しく扱ってもらえることなど、滅多にあることではない。
同い年の新造たちにも羨ましいと思われている。
皆、三倍も歳の離れた男を相手に、喜んだフリをして働くのだ。まだよく知らぬ男に変態行為を強いられ、肌を暴かれそうになる。欲求のはけ口として扱われることもあるそうだ。
「菊乃は幸せ者でありんす」
菊乃はとろりとした瞳で尚五郎に抱きついた。
「――ずっとあちきの傍にいてくりゃんせ。花魁になっても、ずっと・・・・・・」
尚五郎は驚いた。
「そんな話があるのか」
「郭の主人には逆らえません」
「まだ早すぎる!」
尚五郎はいてもたってもいられず、立ち上がり思案に暮れる。
真っ白な菊乃。やっと自分の色に染め上げたところなのだ。男の悦びを教え、丹念に育て、菊乃はいい女になりつつある。それを掻っ攫うような真似を……。
「許せぬ!」
「旦那さまはお嫌でございますか? 花魁は吉原の華。あちきの夢でありんす」
「菊乃は特別だ。手塩にかけた娘を盗られてなるものか」
尚五郎は菊乃を押し倒し、じっと見つめる。
菊乃の頬がぽっと赤くなった。
尚五郎の焦らす指や甘い舌の感覚にはつい期待する。
「まだ、他の客はついていないのか」
「ええ。旦那だけ……」
「嘘をつけ。すっかり憶えちまいやがって。どこの誰だ?」
尚五郎はすぐ濡れる女は気に食わない。女郎がすぐ濡れるのは最初から偽物の糊を局部に塗ってあるからだ。
けれど床に入らない菊乃は未熟なゆえに本当に濡れている。尚五郎はじっくりと心地良いほうへ導くのを、好んでいるのである。
「まさか井筒屋ではあるまいな?」
「新造に出番などございません。あっても宴で手を握る程度でございますよ」
「それも嘘だろう? こんなに濡れやがって。花魁にすると言ったのも井筒屋だろう?」
「そんな……違います!」
尚五郎は菊乃の帯を解きはじめた。
一枚一枚着物を剥ぐのは、咲きはじめの薔薇の蕾の壊すようなものだ。まだ開かぬうちから、むしょうに焦らされ、ついには壊してしまう。
脱がす男は女を作り、脱がされる女は少女を壊される。
「旦那が感じさせるから。菊乃は尚五郎さまのものでありんす」
「あぁ――菊乃」
静かに覆い被さる尚五郎に菊乃はきゅっと瞼を閉じた。
小さな花が夜にひっそりと咲いた晩であった。