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秋の長雨に華は散り。

作者: ねこたば

 昔から、彼女は僕の一番の友達だった。

 初めて話したあの日から、いつも彼女は僕の隣にいてくれた。

 楽しい時も嬉しい時も、辛い時も悲しい時も。いつもいつでも彼女がいてくれたから、僕は前を向いて歩いてこられた。

 そうしていつしか二年もの時が経ち。

 高校三年生になっても僕たちはまだ、友達でいる。


 * *


 シャワシャワシャワ。

 陽気なセミの歌声が響く。

 見上げると陽光に照らされる空は青く輝き、その澄んだキャンバスには筆で伸ばしたように白く細い糸雲が幾筋にも流れていた。

 とても綺麗で、それでいてどこか夢見心地の寂しさに満ちた長月六時の空から、僕は目を離すことが出来ない。


「ねぇ、奏多かなたくん」


 天を仰いでいた僕は、耳を打つ言葉にハッとした。

 視線を隣に戻すとそこには湖岸に腰を下ろしたままどこか不満そうな少女。


「は、春香はるか……」


 ぼんやりとしたまま少女の名前を呼ぶと、彼女は呆れたような顔をした。


「話、聞いてた?」


 僕の名を呼んだ時とは異なる声音に、僕はすぐ苦笑いを返す。


「……ぼーっとしてた」


「もーー」


 頰を膨らませる春香。

 そんな彼女に、「ごめん」と頭を掻く。


「空が綺麗で、つい」


「空……」


 僕の言葉に春香も空を見上げる。


「おー、ホントだ! すっきりした夏空だね!」


「あぁ」


 楽しげなその横顔に目を向けたまま、僕は短く返事を返した。


 春香との付き合いは長い。

 その始まりは高校生になって最初の登校日。隣の席になったのがきっかけだった。

 以来二年半。日数にして実に千日にも近い時間を僕達は共に過ごした。

 クラスは三年間一緒のままだったし、席も何の因果かずっと近くのまま。

 気がつけば互いに一番の友人になっていた。

 あまりにずっと一緒にいるから、周りからはまだ付き合っていないのか、と冷やかされることもある。だけど、僕たちは「友達」だ。これまでも、そしてこれからも。


「静かだね」


 ほぅ、と零れ落ちた声が僕を現実に惹き戻す。

 目の前には水平の彼方まで広がる藍色の世界。いつしかその湖面には落日の橙が煌めいていた。


「この景色、落ち着く」


「だな」


 それは刹那の静けさ。きっといつまでもは続かない調律。

 その調律を欠片も零したくなくて、僕はその景色を目に焼き付ける。


「春香」


「ん」


「何かあった?」


 この二年半、僕は春香と一緒に色々な所に足を運んだ。

 だから、彼女のお気に入りの木陰も、嬉しい時の散歩道も、そして落ち込んだ時に座り込むこの湖岸の景色も、僕はよく知っている。


「……べつにー」


 春香はそう呟いて、それから目を伏せる。


「別になんでもないよ。なんでもないんだけど……ただちょっと勉強がー、なんて」


「受験、気にしてたのか」


「三年の秋だからね」


 春香はそう言って、小さく溜息をこぼした。


「分かるよ。受験、僕も心配だし」


「やっぱり?」


「そりゃね」


 僕は春香の顔から目線を外して、自分の手を眺める。

 中指に出来たペンダコと、手のひらに残る洗い忘れた黒鉛。それらをぎゅっと握りしめて僕は遥か水平線へと視線を飛ばす。


「でも、僕には一緒に頑張っている人がいる。それだけで頑張れる」


「なるほど」


 チラリと春香に目を向けると、明るい色になった顔がそこにあった。


「まさか奏多くんに頼られるとは。全く参ったね」


「調子乗んな」


 悪戯っぽく笑う春香に口を尖らせる。

 それ見て、また彼女はくすくすと笑い声を立てた。


「奏多くんは大学でやりたいことって何かあるの?」


「まあな」


 やりたいことはたくさんある。

 勉強もしたい。遊びもしたい。バイトもしてみたいし、海外留学も楽しそう。

 想像するだけでワクワクが心の底から湧き上がる。

 そして、そんな日々の合間にでも、春香と一緒に遊べたなら……。


「あぁ……」


 その想像をした途端、これまでで一番胸が跳ね躍った。


 --春香と今のままずっと仲良く一緒にいる。


 それが僕の一番したいことなのだろう。

 春香と並んで歩き、春香と一緒に食事をし、春香といつまでも笑って…………。


「もしもーし? 生きてる?」


「うわっ!」


 自分の世界に浸っていた僕は、目の前で振られた春香の手にギョッとした。


「大学でやりたいことは?」


「秘密! 大学生になれたら教えたげる」


「えー。今聞いてるのに」


 膨れる春香。

 だけど、言えるはずがない。

「高校を卒業しても君と一緒にいたい」なんて恥ずかしいセリフ、言えるわけがない。

 顔が熱いような気がして、彼女の顔を見られなかった。


「でもさ、あと三ヶ月だよね」


「ん?」


 春香が突然、声のトーンを落とした。

 思わず春香を振り返ると、彼女は視線を遥か水平線の彼方に投げかけたままうわ言のように呟く。


「高校生でいられるのも、あと三ヶ月……」


「三月まではまだ半年あるぞ」


「そうだけど」


 風が出てきた。

 気がつけば夕陽は山の陰に隠れている。湖畔に座る僕たちのそばにも夕闇が忍び寄り、半袖の腕を撫でる夜風が肌寒い。

 ぶるりと少し身震いをする僕の隣で春香はぼそりと呟いた。


「……そうだけど、冬休み明けはすぐ試験でしょ? だったら家で勉強するかな」


 ドキリとした。

『学校に行かない』。思いもしないそんな言葉に僕は虚を衝かれた。

 三月の卒業までの六ヶ月。僕は春香とずっと顔を合わすことができるものだと思っていた。

 だけどどうやら違うらしいぞと、耳の奥がバクバク音を立て始めた。


「そう……なのか」


 あと三ヶ月。なら、もう時間はない。

 今まで感じなかった焦りにせっつかされて、僕は掠れた声を絞り出した。


「そうか……あと三ヶ月か……」


「うん。で、あれよあれよと言う間に大学生……」


 そうだ、大学がある。

 受験前後は会えなくても、大学生になればきっとまた会えるようになるはず--そんなことを必死に考える自分に気がついて、思わず僕は呆れてしまった。


 何も卒業と共に友情まで消える訳ではない。一体僕は何に焦っているのだろうか。

 落ち着こうとして深呼吸を繰り返す。なのに、何由来か分からない不安が僕の心の中を圧迫していて、ちっとも冷静になんてなれやしない。


「--でも、大学生になったら君との縁は切れるだろうね」


 そんな僕の不安を現実にする言葉が聞こえて、それきり蝉の声が聞こえなくなった。


 * *


 何か悲しいことがあった時、僕にはいつも相談する人がいた。

 何か嬉しい事があった時、僕には一緒に喜んでくれる人がいた。

 休み時間も放課後も、文化祭も体育祭もそして修学旅行まで。

 僕には同じ時間を楽しむ友達(春香)がいた。


「はぁ……」


 だけど、今回は彼女に共有することができない。そう思うと、ため息がこぼれた。


 あの会話から一週間。

 その間、僕は春香と一度も話せなかった。

 タイミングや場面と、理由なら幾らでもつけることができる。だけど結局はただ彼女の言葉を消化しきれなくて、春香の前に立つ勇気を持てないだけだった。


「消化出来るわけがない……」


 --大学に行けば縁が切れるだろう。


「つまり僕達はその程度の繋がりだったと言うことか……」


 春香の言葉を思い出して、苦笑いを浮かべる。目の前に広がる無数の数列が滲んで見えた。


「はぁ」


 コチ……コチ……。

 放課後の静かな図書室に響く、秒針が時を重ねる音を聞きながら僕はもう一度ため息をつく。


「集中切れた……」


 勉強している間は春香を忘れられるのではと期待していた。だけど、それも上手くいったのは最初の方だけだった。


「しっかりしないと」


 高校三年の秋。

 いよいよ受験が視界に入っている。

 なのにこの体たらくでは先が思いやられた。


「もうこんな時間か」


 ぼんやりと目を向けた窓の外には、まだ夏色の残る景色が広がっている。

 --きっと散歩すると気持ちいいだろう。

 そんな考えが過って僕は目を瞑る。

 夕方の心地よい風の吹く湖畔、穏やかな陽射し。青い空に群青の湖を眺めながら歩く僕の右には………笑顔の春香。


「〜〜ッ!!」


 不意打ちに妄想が湧き上がってきて、僕は身じろぎをした。


「訳分からん! なんで笑顔なのこいつ!」


 春香の冷たい言葉に悩んでいるのに、頭に浮かぶのは彼女の笑顔ばかり。


「……駄目だ。このままじゃダメだ」


 危機感が溢れてきて、僕は立ち上がる。

 もう余裕はない。

 これ以上このモヤモヤに付き合うなんてごめんだった。


「春香と話そう」


 感情と荷物をまとめて席を立つ。

 春香はいつも教室で勉強をしている。きっと今日もいるだろう、と予想して。


「あ」


「よう」


 はたして教室のドアを開けるとそこには春香が一人、荷物を持ってエアコンの電気を切っていた。


「奏多くん、早いね」


「おう……」


 屈託のない春香の笑顔。

 胸の奥が締め付けられるように痛む。もっとこの笑顔を見ていたい、手放したくない……そんな思いが湧き上がった。

 そんな身悶えしたくなるような僕の胸の内も知らず、彼女は小首を傾げる。


「今から帰るつもりだったんだけど帰る?」


 願っても無いお誘いだった。


 一緒に帰れば、あの言葉の真意を聞き出すチャンスはあるだろう。あわよくば、これからも一緒にいたいと伝えることが出来るかも。

 ともかく一言「はい」と言えば良い。

 なのに……。


「……ごめん、今日はパス」


「え?」


 口から零れたのは、真逆の言葉。

 その事に、自分で驚く。

 やってしまった、と。

 だけどすぐ、「まだ終わりじゃない」と思い直す。

 そう。何も一緒に帰る必要はない。

 今ここで話をすれば……。


「もうちょっと居残るよ」


「あ、そうなの? 荷物持ってるからてっきり帰りかと」


「あ、あぁ。これな。教室に忘れもの取りに来たからさ、鞄だけ置いてたら不用心だろ?」


「そっか。残念。じゃ、頑張ってね!」


「ああ。気をつけて帰れよ」


「うん! またね!」


 手を振る笑顔が廊下に消え、響く足音が遠ざかる。彩度を失っていく部屋には温もりだけが残り、運転を止めたエアコンが最後の一声をあげて完全に沈黙した。

 その夕闇と静けさに沈む教室の中で、僕は握りしめた拳を胸に当てたまま立ち竦む。


 えてして人間は、こういう時に素直になることは難しい。つい不器用になってしまったり言葉足らずになったりして誤解を招くこともあるだろう。

 それは仕方がない。

 相手に向き合い、自分に向き合おうとするその意志は、例え望む結果にはならなかったとしても決して無駄になる事はない。

 だけど。


「だけど……僕はッ!これは違う!」


 誰もいない教室に胸の奥から湧き上がる僕自身への怒りが響き渡る。


「これは……僕がしたことは…………単なる逃げだ」


 あの日の彼女の言葉について、答えを聞いてしまったら。その答えが、僕たちの『これまで』を否定するものだったら……。

 そんな一抹の不安に、話をすることが怖くなった。

 そして、彼女と向き合うことから逃げ出した。


「……」


 行くあてもなくて、僕は教室のベランダに足を向ける。

 硝子戸を開けると、頬を撫でる風が心地よい。だけど身体とは裏腹に、心の方はちっとも爽やかにはならない。

 これはなんなのか。

 この胸にある重くて苦しい……今にも溢れそうで、だけどちっとも吐き出せないこれは、一体何なのか。


「あの!」


 胸に手を当てていると、不意に隣のクラスから声が聞こえてきた。


「私と付き合ってください!」


 告白らしい。

 なんとなく耳をすませていると、しばらくして別の声。


「ごめん。君のことは友達としか思えない……」


「……私は友達じゃなくて、君の『特別』になりたい」


『特別』。

 その言葉がやけに大きく耳に響いた。


「僕も君が好きだよ。でも、僕の『好き』は友達として、なんだ。だから……」


「……そっか。ごめんね。もう迷惑はかけない。ごめんなさい」


 それきり、沈黙が訪れた。

 その沈黙の中で僕は「とんでもない場面に遭遇した」という思いよりも、「モヤモヤの正体はこれなのか」という衝撃に心を強く揺さぶられていた。


「……ッ!!」


 --それは、「友達」のままだったら向き合う必要のなかった、向き合わずに済んでいた想い。

「一番近くにいる」というある意味で特別な関係にあることで気付けなかった、心の奥底で育っていた気持ち。


 --僕は春香の『特別』でありたい。


「でも……」


 だけど、一方で大切な友達であるという想いにも嘘はない。

 大切だからこそ、そんな不埒な考えを唯々諾々と受け入れたくはなかった。


「くそ……」


 気づいてしまった想いと捨て切れない想い。

 その二つの狭間で、僕はベランダから離れる事が出来なくなってしまった。


 * *


「ハロハロウィーン!」


 見知らぬ誰かの恋が破れるところを盗み聞きしてから二週間。

 十月に入った最初の日の放課後に僕は突然春香(不審者)に声をかけられた。


「……なにそれ?」


「ハロウィンが近いからね! 最新の挨拶!」


「聞いたことないし、近くもないんだけど」


 楽しげな春香に思わず冷たく当たる程、僕はこの二週間で相当追い込まれていた。

 受験のストレスに加え、春香のこともあって僕の気分はずっと落ち込んでいたのだ。

 当然、そんな状態で彼女と話など出来る気がしなくて僕は彼女を避けていたのだが。


「で、なんですか?」


「なぜ敬語?」


 向こうから関わってきた事に頬の引き攣りを感じながら問いかけると、春香は呆れた顔をした。


「最近、私のこと避けてたでしょ?」


「うっ」


「何かあったの?」


 何かあった、ではない。

 まさに君のことで悩んでいるんだよ、と心の中で呟く。


「大丈夫?」


 この二週間の苦しみを思い出して頭を抱える僕に、春香は心配そうな顔を近づけた。


「あ、あぁ。勉強が忙しくてな」


「あぁ、なるほどね」


 誤魔化した僕の言葉を疑う素振りも見せない春香。


「だったら今日一緒に帰ろうよ。ほら、息抜きだと思ってさ」


 春香は、僕の葛藤など全く感知しないままにそんなことをのたまった。


「えと……」


「忙しいなら退散するけど?」


 何も知らない春香は、じっくり考えたい僕に時間を与えてはくれない。


「あ、いや……」


 正直に言えば、いつまでも一緒にいたいし、時間の許される限り長く話をしたい。

 でもそんなことを許そうとしない自分も心の中にいた。

 ぐるぐると考えること数秒。


「うん。帰ろう」


 僕は欲望に負けた。

 頷くと彼女は「良かった」と顔を綻ばせる。


「じゃあ、行こう!」


 久しぶりに並んで歩く帰り道。それはとても穏やかな時間だった。

 一緒に歩き、そして笑い合う。これまでの悩みがちっぽけに思える位楽しい帰り道だ。

 そうして思う。

 この二週間、僕のしてきたことは間違いだったのではないかと。距離を置いたことは、時間のあまり残されていない僕にとっては大きな失策だったのではないだろうか、と。


「あはは!」


 だけどそんな疑念すらも、彼女のコロコロと転がるような軽い笑い声で全部霧散していった。

 そしてその笑顔を見ていると自分の本当の心に気付かされる。


 そう。全く難しい事じゃない。


 彼女の隣にいたい。

 彼女と一緒に歩きたい。


 僕の思いは、ただそれだけなんだ。


「そっか」


「ん?」


 突然足を止めた僕に、春香は首を傾げる。

 心配そうな顔。風に流れる黒い髪。何かを言おうとして、だけど触れて良いのか迷うような優しさ。

 僕にはその全てが失いたくない大切なものだ。


「僕は春香とずっと一緒にいたい」


 今のようにずっと一緒に。

 ただ、隣にいるだけで……それだけでいい。


「うぇ!? えっと……うぇ??」


 顔を真っ赤にしてあわあわとする春香。それに気がついて、「あぁ」と気がつく。


「ごめん、言い方が悪かった」


「え……」


「ただ、ずっと言いたかったんだ。これからもずっとこうして一緒に居たいって」


 そのためには、|いつ壊れるかもわからない関係《恋愛関係》に頼りたくない。


「今までも、そしてこれからも、春香は僕の大切な友達なんだから」


「……友達」


 破れる恋ではなく重ねる友情を。

 そんな言葉で、明確にはできない自分の心を包み込む。


「そうだね……友達、だね」


 春香は呟いた。

 それは弱くか細い声だった。


 やがてまた僕たちは足を踏み出す。

 同じリズム、同じ歩幅。長い時間の間に積み重ねてきた二人の「間」を心地よく感じながら、僕は春香は「いつも通り」に戻っていく。


 やがて駅に着くと、僕たちは手を振りあって別れた。

 その足で僕は湖岸へと向かう。


 夕方の湖畔の景色の美しさは、その刹那性にある。その時その一瞬にしか見ることの叶わない美しさだからこそ、人は惹きつけられる。

 そしてその点では人の繋がりも思い出も美しい湖畔の夕照(せきしょう)と同じなのかも知れない、と橙に染まる湖面を眺めながら僕は思った。

 僕たちは不変ではいられない。同じではいられないからこそ、その一瞬の調律を大切に思い、時にはそこに執着する。

 僕にとっては、それが友人(春香)と友人のままでいるという事だった。


「……」


 ひょっとすると、友達でいた時間が長すぎた……だけなのかもしれない。

 もっと早い段階でもう一つの想いに気がついていれば、或いは……。


「僕達は友達だ」


 スッキリとしないその言葉で、胸のモヤモヤを覆い隠して、それから僕はそれきり口を閉ざす。

 しかして、世界が染まるとある日に僕が下した選択は、変化を拒絶するものだった。


 * *


 現在いまから未来へ。

 時は絶え間なく流れ続ける。

 その不可逆な流れに惑い踊らされて、時にその戻れぬ過去を懐かしみながら、僕たちは生きる。


 あの決断の日から一年が過ぎた。

 僕も春香も志望校に合格し、晴れて大学生に。不安と期待の中で迎えた新生活は大変で、毎日大わらわだった。

 そんな慌ただしい日々の中でいつしか春香との関わりは減っていった。かつては毎日やりとりしていたメールもすっかりご無沙汰となり、「はるか」の名前ももう随分と見ていない。

 寂しくないといえば嘘だ。

 でもそんな時にはスマホの中の思い出を振り返り、そしてそれをまた明日への活力に変えて、僕はなんとか「大学生」をやっている。


 そんな大学一回生の秋口のこと。


 〈ひさしぶり、奏多くん〉


 スマホに一つの着信があった。

 見るとそこには「はるか」の文字。

 トーク画面を開くとその下に短い言葉が続いていた。


 〈遊ぼうよ〉


 かくして僕らは久方ぶりに会うことになった。


 半年ぶりの邂逅は、スッキリと秋晴れの心地よい日差しの下。

 約束より少しだけ遅れて、彼女は待ち合わせの場所へとやってきた。


「ごめん、待った?」


 久しぶりに見る春香は、随分変わっていた。

 活発だった彼女はすっかり落ち着いた雰囲気を纏い、短かった髪の毛も長髪に。服装もすっかり趣向の違うものになって、何よりとても綺麗になっていた。


「久しぶり、だな」


「だね」


 ニッコリと微笑む笑顔を、高校の頃のようには直視できない。

 それに気がついているのかいないのか、春香は「さて」と呟いた。


「久しぶりのデート、楽しみますか」


 女の子はずるいと、僕はそう思った。


 霜月は紅葉の季節。

 僕らは真っ先に紅葉スポットへと足を向けた。


「わぁ! 綺麗!」


 紅葉が舞い散る。

 色とりどりのシャワーの中で、笑顔が弾けた。


「ありがとう! 来てみたかったんだ!」


 はしゃぐ春香に昔の面影を見て、僕は少し安心した。

 すっかり変わった春香がどこか遠い存在のように感じていて少し不安だった。だけど、目の前には二人で過ごしていた頃と何も変わらない笑顔がある。それが僕は嬉しかった。


「あぁ……」


 突然僕は悟った。


 どんな言葉を尽くして誤魔化そうとしても、無くすことのできない想いに。

 一度は誤魔化して、「友達」にそんなことを考えた自分に失望し蔑み、忘れようとした想いに。


「好きだ……」


 彼女に届かないほど小さな声が、その想いに実体を与える。


 僕は、春香が好きなんだ……。


「ねぇ」


 不意に声をかけられて、僕は飛び上がった。


「な、どうした?」


「次はどこに行くって行ってたっけ?」


 そこには、僕の心中など気にも留めていないかのような顔がある。

 仕方がない。僕達は友達なのだから。

 だけど、今はそれがとてもモヤモヤと感じるようになっていた。そのモヤモヤを押し殺し、笑顔を作る。


「そうだな、次は--」


 それから、僕たちは古都の色々な所を回った。

 綺麗なものも見て、美味しいものも食べて。そのどれもが、一層華やいで見えてとても楽しかった。

 時間の過ぎるのが早く感じられて、時計の針が止まれば良いのにとさえ思うほどに。

 これが、好きな女の子の隣で見る景色なのかと納得する程に。


「だけど、何事にも終わりはあるよね」


 ライトアップされた清水の舞台の底で、春香はこう言って足を止めた。


「勝手に終わるものもあるし、強い意志を持って終わらせなきゃいけないこともある」


 すっかり陽が落ちて真っ暗になった秋の夜空をレーザービームが切り裂く。


「今日は、ありがとう。とっても楽しかった」


「こちらこそ」


「あのね……」


 僕の目を見ないまま、春香は呟く。


「今日は、相談したいことがあったんだ」


「何?」


「私ね……好きな人が出来たの」


 好きな……人?


 ドクン。

 胸の奥で、何かが大きく爆ぜるような音が聞こえた。一拍置いて、苦しい程に締め付けられる喉の奥の圧迫感。


「…………えっ、と、好きな……好きな人?」


 なんとか捻り出した自分の声が遠く聞こえる。まるで別人が遠くで話しているよう。


「うん」


「どんな?」


「同じ大学の人」


 目の前の少女が大きくなったり小さくなったり。

 不思議の国のアリス症候群だ、と変に冷静な自分が心のどこかで呟いた。


「勇気が出ないの。だけどずっとこのまま片思いを続けるのも嫌。この片思いは、強い意志で終わらせないといけないことだと思う」


 その、最後の一押しを僕にしてほしいということを読み取れないほど、僕は馬鹿にはなれなかった。

 仕方がない。彼女は僕を友達だと思っているのだから。

 大切な『友達』だと思ってくれているからこそ、僕を頼って相談してくれているのだろう。


「……仕方がないなぁ」


 奥歯をそっとくいしばる。

 心の奥で「言うんじゃない」と制する声が聞こえた。

 彼女の想いは一過性のものかもしれない。

 今、このささやかな恋路の後押しさえしなければきっと…………だから…………。


「…………春香は……人として魅力に溢れているよ。《《友達》》として保証する! だから、失敗なんて恐れずにぶち当たってこい!」


「奏多くん……」


「大丈夫。きっと想いは届く」


「うん」


 どんな顔をしていたのか分からない。

 ただ、何かを決めたような、そんな色の声だけが聞こえた。


「やっぱり奏多くんに相談して良かった! 頑張ってみるね!」


「いい報告待ってる」


「ありがとっ!」


 その後僕たちは晩御飯を食べてから駅で別れた。

 悩みが晴れるとこんなにもご飯が美味しくなるのね、と彼女は笑った。

 僕はそれに笑顔を返しながら、だけど心の中では深く自分を責めていた。

 やがてお別れの時間がやってくる。


「じゃ、またね」


「あぁ。元気でな」


 改札の向こうに消える背中を見送って、僕は一人夜道を歩く。

 思うのは高校生の頃の僕らの想い出。


 僕は、とっくに知っていた。

 どうしようもなく春香のことが好きなのだと言うことを。

 知っていながら、僕はそれを「友達」という風呂敷に包んで心の奥にしまいこんでいた。四年間もの間、それが僕と彼女を守るための最善手だと信じて。


 関係を壊したくはなかった。

 ただ友達として一緒に居られるだけでいいと思った。

 話したい時に連絡が取れて、会いたい時に会える関係でいたかった。いられると信じていた。

 そんなもの、幻想でしかないというのに。


 そうして、勝手に甘えて勝手に縋って……自分の想いと春香に向き合うことから逃げ続けるうちに気がつけばもう手遅れになっていた。


「あぁ……」


 もう、遅い。


 全ては彼女に甘え二人の関係に甘えていた自分の責だ。

 そして、これは僕の恋の終わりではない。

 ここから僕は自分の恋に向き合わなければならない。何もしないままに取り返しの付かなくなったことへの後悔に向き合わなければならない。


 そう、何もかもが遅かった。

 想いに気づくことも、為すべきに気づくことも、そして、それに向き合う覚悟を固めることも。


 全てがもう…………遅い。


 * *


「結局、後押ししてくれた……」


 流れる車窓に映る街明かり。

 ぼんやりとそれを眺める少女の口から、小さな呟きが漏れ聞こえる。

 彼女には自分の言葉の真意は分からない。分かるのは力が抜けてしまったということだけ。

 期待していた言葉をもらえた安堵感なのか、あるいはその言葉を言われてしまった事への虚脱感なのか。


「…………もし」


 勝手に、言葉が紡がれる。

 少女はそれを認識しながらも、自分を諌める気にはなれない。

 それは、心の奥底に押し込んだ本物の「もし」だから。

 だから、今の想いに色移りしないように吐き出して胸の外に捨ててしまいたかった。


「もし、あの頃に告白されていたら。私が想いを伝えていたら…………」


 そこまで言って少女はやっぱり口を噤む。

「もし」の話なのに、その「もし」が圧倒的な現実感を伴って押し寄せてきたから。

 そのことに少女は慌てて口を噤む。

 これ以上は、たとえ「もし」でもダメ。口にすれば、それは言霊となって本心になってしまうような気がした。

 だから少女はもうたった一言しか呟ける言葉を持ちあわせていない。


「……意気地なし」


 誰に向けたどんな意味の言葉なのか。

 ただ、どうにもならない空虚な言葉が車窓に滲む夜景と一緒に夜空にたなびいていった。

最後までお読みいただきありがとうございます!

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