僕の記憶は誰が為に
初めての作品です。
高校生で部活やら何やらと色々忙しいものであまり多くは書けませんでした。
それでも少しでいいから見ていただけると幸いです。
僕があの街を離れる際に送った、僕の一抹の望みを綴ったしがない手紙。彼女は読んでくれているだろうか。
車に轢かれ意識が遠のいている今、何故こんなことを考えているのか、その真意は自分でもよく分からない。
目の前に広がり始める走馬灯を無理矢理かき消す。死ぬ間際まで過去のことは考えたくなかった。死んでしまうならせめて彼女のことで頭を充満にさせたかった。それだけで僕は慶福に浸れるのだから。
体が火照っている。死ぬ前はとにかく体が熱くなるというのをどこかで聞いたことがある。それは今の僕の状態を指すだろう。僕を生かせようと、体中の細胞の全てを使っている僕に感謝の意を称する。幸福とは言い難い、短く混沌に満ちた半生を、よくも飽きずにここまで生かしてくれたと。
何度遠のく意識に逆らおうとすれども事態は悪い方向へと進んでいくばかりだ。足掻いてもあがいても決して登れない山のように立ちはだかるそれは、僕に足掻く勇気も希望も奪い去り、そのまま何処かへと消えた。
今、この瞬間に居もしない神様が僕の前に現れて、願いを叶えてくれるのなら、迷わず僕はこう言うだろう。もう一度彼女に会って抱き寄せたいと。そう願うだろう。
そして目の前が真っ暗になった。その後の記憶はない。
目が覚めるとカーテンの隙間から入る陽の光が、顔にスポットライトが当てたように眩しく照らしていた。
ここは...どこだ?ここが俗に言う天国ってところなのか?それにしては予想と反して、ひんやりして殺風景なところだな。そもそも僕は死んでしまったのだろうか。
突然の眠りから覚め、ぼんやりしている脳を精一杯働かせ、状況を把握する。
体の下にはベッド、その上に掛けられている毛布、目の前に広がるカーテン、そして乱雑に配置された機械の数々。
ここは...病院か?なんで?どこか怪我でもしたのか?
体を見る。ところどころ包帯が巻かれている。体を動かそうとすると全身が痛む。
痛いってことは死んではいないってことだよな。多分。じゃあなんで怪我しているんだ?
疑問が泡のように出てくる。
すると不意に扉が開く音が聞こえた。コツコツコツと、中に入りこちらに近づいてくる。温かみを感じられないその音は、何故だか自分を恐怖させた。
音が止み、カーテンに影が映る。
なにを考えたのか、考えとは別に、反射的に体が勝手に身構えた。
なんでそんなことをしているんだ、と嘲笑するかのように、影は躊躇なくカーテンを開けた。
開けた先には男が立っていた。
ボサボサの髪に無精髭、背はひょろっと高く、痩せ型。比較的端正な顔立ちの、白衣を着ている50代くらいの男。
医師だと思うが、どう見ても医師という雰囲気が感じられない。むしろ無職者を思わせる風貌をしてその彼は忽然と立っている。
「ああ、起きたか。どうだ、調子は?どこか調子の悪いとかないか?」
無愛想な言葉とは裏腹に、優しい口調をしていた。
黙ってうなづくと男は安心したのか、それまで張り詰めていた表情から一変、緩やかになった。
「そうか、ならよかった。結構重傷だったからな。何しろ3日3晩ずっと寝てたからな。結構心配したんだぞ」
「あの僕はなんでここに?なんでこんなに怪我してるんですか?」
疑問だったことをぶつけた。
「あんた駅前でトラックに轢かれたんだよ。なんだ、覚えてないのか?」
ああ、と頷く。
確かに何か強い衝撃を受けたのは僅かに思い出せる。まさかトラックだったとは...。よく生きていたと我ながら思う。
まあいい、と彼は言う。
「ああそれと、名前、言ってなかったな。俺は佐伯謙二。あんたが退院するまで面倒みることになった。よろしくな。あんたも、名前は?」
名前...そうだ、名前。名前言わないとな。彼も紹介してくれたんだから。
脳が名前を保存している場所から、手探りで記憶を取り出そうとした。その時ある異変に気付いた。自分の名前という記憶が、元ある場所からなくなっていることに。そしてそれが現状況、これからまた行われる他人と何ら変わらない平凡かつ人並みな生涯においてどれだけ多大な影響を及ぼすのか、僕は一瞬で悟った。
「なんだ、俺は言ったんだからあんたも言えよ」
謙二が不満そうにぼやく。
冷汗がじわりと滲み出る。体がサーっと冷ややかになり、少しずつ呼吸が荒くなっていく。それはさらに加速していき、やがて過呼吸にさえなりそうになる。
名前、言わないと。でもなんだったっけ。忘れた。いや忘れたんじゃない。決まった場所にないってことはつまり...思い出せないんだ。忘れたなんかの比じゃないくらい甚大な状況に僕は立たされている。
僕の様子を見ていた謙二は何かに勘付いたようだった。
「まさか...ちょっと待ってろ。脳外科の先生呼んでくる」
そう言うと焦った様子で病室から出て行った。
ベッドの上に取り残された僕の頭の中は動揺と混乱が激しく暴れていた。それはどんな激しい運動をした後とも引けを取らないくらい、僕を一瞬で疲労へと追い込み、そして僕の体中を次々と蝕んでいく。
勘違いしてもらいたくないのは、僕は怖くも苦しくもなかった。溢れ出た感情は一つたった一つ、不安というごくありふれたものだった。たったそれだけが僕の心を激しく揺さぶり、押しつぶそうとしているのか、急に涙が溢れ出しそれを止められなくなった。
震え荒くなる吐息、定まらぬ視線、止まることを知らない涙。どうしようもなく大きくなっていくこの不安をどうにかしないと自分自身がおかしくなりそうだった。
僕の視線が捉えた最初の獲物、それは布団だった。自然と手が伸びそれを包み込んでいたシーツを破いていく。初めは一枚だったのがまるでクスリを打ったかのようにだんだんとその量は増えていく。上の棚に取り残されているシーツに手を伸ばした。破いている時の爽快感ともいうべき何かが、壊れていく僕の心を必死に繋ぎ止めている。
だが次第にシーツは原型を留めなくなり最後には破る部分さえなくなっていた。そしてまた不安に駆られる。せっかく繋ぎ止めていたのにまた壊れていく。
阻止しなくては。ここで壊すわけにはいかない。本能がそう語りかける。次に花瓶に手を伸ばす。床に落としてそれを割るとその破片を拾い上げ、再度床に叩きつける。それが壊れる音が僕の心をまた繫ぎ止める。
そんな事をしているうちに謙二が脳外科の先生を連れて戻った時には、病室は酷い有様になっていた。その惨劇を見た二人はひどく驚いていたがすぐに行動を切り替えた。
既に平常心など保てるわけがなかった。
2人が戻ってきてもなお暴れる僕を2人掛かりで拘束した。
「落ち着け。動揺するのも分かる。混乱するのも分かる。だが一旦落ち着け。今暴れたってどうしようもない」
その言葉を聞き我に帰った。徐々に平常心を取り戻していく。
ある程度落ち着いたところで、拘束を解かれると女の声が聞こえた。2人からどう思われているかという不安と申し訳なさから顔を上げる事ができなかった。
「うん、落ち着いたわね。ほら、ちゃんと上を向く。大丈夫。私たちはどうって事ないから」
そう言って、僕の顔を掴み、彼女の顔へと近づける。
ショートヘアーに、鼻は小さく、目はパッチリしている。多少のシワはあるものの、若い頃はかなりの美人であった事が容易に想像できる顔立ちをしていた。ただ一つ、体のあちこちに引っ掻き傷さえなければ。
「ありがとうございます。あの...あなたは?」
「私は佐伯宮美。脳外科をやってる」
「あれ?佐伯ってもしかして...」
「そう、この男の妻よ。なんでこんな男を選んでしまったか」
照れくさそうに後頭部を掻く謙二を宮美が蹴り上げた。
まるで喜劇のようなやりとりに、先ほどの出来事に多少の心残りはあるものの思わず笑みがこぼれた。
すると宮美が真剣な表情になる。 白衣のポケットの中から紙とペンを取り出した。
「さあ、唐突で悪いけど今からいくつか質問をするから答えていってくれない?」
僕が頷くと質問を始めた。
「あなたの名前は?」
やはり思い出せない。わかりません、と答えた。
謙二はやはりそうかと、宮美は驚きを隠せない様子だった。
彼女はわかった、と言うと紙にメモをした。
「じゃあ次、あなたはどこの出身?」
「わかりません。ただ都会ではなかったような気がします。騒がしいのは嫌いなので」
彼女はメモを続ける。
その後もいくつか質問をされた。だが質問のほとんどが覚えていないか、あやふやな回答だった。そしてあっという間に最後の質問になった。
「じゃあ最後に...、あなたがトラックに轢かれた場所は駅周辺だった。あなたは財布もなにも持たずに、走っていたらしい。轢いた運転手がこう証言している。あなたが急に道路に飛び出してきた。その時の表情はどこか焦っているように見えた、と。何か心当たりがない?」
その時何かピンときた。確か、正確ではないしそれが本当なのかどうかも分からないが、ただ一つ確信できる事があった。
「はい、誰かから逃げていた様な記憶があります。これだけははっきりと覚えています。」
メモに目を写していた宮美と壁にすがっていた謙二の視線が一気に自分に注がれるのを感じる。
「それは本当なの?間違いないのね?」
「ええ、ただ逃げていた相手が誰かまでは...」
なおも宮美から熱い視線を向けられる。
「わかった。じゃあその相手がどんな人だったのか教えてもらえる?確かこんな感じだった、みたいなことでもいいから」
そうですね、と僕は頭を抱える。だかいくら時間をかけて根気強く考えても思い出せない。わかりません、と答えようとした瞬間、頭の中に電流のような感覚が走った。頭の中から過去の記憶と思わしき記憶が噴き出した。
「あっ、でも逃げていた相手は怖い人ではなかったような気がします。むしろその逆。僕にとって彼女は狂いそうなほどに愛おしい人だったと思います」
宮美は希望を抱いていた表情から一転、疑問詞が頭の中を埋め尽くす様な表情になる。
「ちょっと待って。彼女って?あなたは女性から逃げていたの?なんで愛していたのに逃げていたの?あなたと彼女の間に何があったの?」
宮美が鬼気迫る表情で問いかけてくる。遠目に見ていた謙二が見かねて止めに入る。
「まあ落ち着け、今そんなに質問してもこいつを混乱させるだけだろ」
そう言うと彼は宮美のメモ用紙を取り上げ、さあ、じゃあまた質問していくぞ、と言った。僕がうなづくと質問を始めた。
「さっきお前は『彼女』と口走った。その彼女というのをもっと詳しく教えてもらえないか」
「ああ、僕もよく分からないんです。そんな気がするってだけで、顔とかはほとんど覚えていません。ただ勘違いしてもらいたくないことは彼女は何もしていません。その逆。僕が何かをしたような気がします」
謙二の頭の中も疑問詞が出てくる。
「お前が何かを?とても何かをしたようには見えないが」
「ええ、だから僕もよく分からないんです。心当たりなんかないし。何で投げるまでの行動に至ったのか。そこまでは思いだせません。
「そうか、まあ無理もない。お前が彼女というキーワードを出してくれただけでも大きな進歩だ」
ええ、と僕が言うと沈黙が訪れる。二人ともいきなりこんな話をされて頭がついていかないのだろう。実際自分も付いて行ってない。自分が喋っているのにもかかわらずだ。
すると宮美が口を開いた。
「まとめさせてもらうとあなたは前に何かをして、それがきっかけでその彼女と別れることになったわけだ」
はい、と僕はうなづいた。
「わかった。今日はここらで終わりましょう。また後日改めて質問することがあるかもしれないから、その時はよろしくね」
僕がうなづくと二人は病室から出て行った。険しい顔をして。
緊張から解かれた僕はそっとベッドに横たえた。
今日質問されたことをまとめてみた。名前は不詳、性別は男、齢は恐らく15、6歳、出身地は不詳で自分がどこへ向かっていたのかさえわからなかった。かろうじて分かる情報も齢のみ。それでさえまともに使える情報ではなかった。
この時僕は悟った。自分は戸籍上存在しているが存在し得ない存在。誰も僕の正体がわからず自分でさえよくわかっていない存在。つまり僕はひどく厄介な透明人間のような存在であると言うことに。
今を見つめても仕方がないと思い、過去の自分について少し考える。僕は誰なのか。どこから来たのか。誰から逃げていたのか。しかしそれは全て無駄のように思えた。考えれば考えるほど過去の自分が現在の自分とかけ離れていくように感じるのだ。
それがひどく徒労に思えて仕方がなかった。
僕だって当然、できることなら過去の自分に戻りたい。だが記憶の壁とも言うべき何かが、断固として記憶を呼び覚ますのを拒否している感覚を覚える。
今日はもうどれだけ考えようとも答えは導けない。そう思って静かに瞳を閉じた。
数時間にも及ぶ質問攻め、そして過去の自分を現在の自分に重ね合わせるのに相当疲弊していたのだろうか。数分後には、目の前は暗闇の世界へと変わり果てていた。
翌日、目が覚めた。窓の外を眺めると既に夕焼け空が広がっていた。質問が終わったのも大体この時間帯だった。つまり丸1日寝ていたということになる。
特にすることもなかったので窓の外の風景を見渡した。
眼に映る街は都会だった。自分は騒がしいのは嫌いだ。過去の自分がどうだったかはわからないが、この街に来る理由がわからなかった。もしかしたらこの街はただの通過点であり目的地はさらに向こうにあるのかもしれない。
街に出れば何か思い出せるかもしれない。根拠などないがなぜかそう思った。立ち上がった。幸いにも怪我をしているのは上半身と衝突された左足がほとんどだった。右足を軸に歩けば容易に歩けた。
歩くたびに蓄積する痛みを嘲笑するかのように、壁に付けられている手すりを頼りに、自動ドアの前まで来た。
脳は既に危険信号とも言える何かを大量に生産し、警告していた。だが立ち止まらなかった。立ち止まれなかった。脳は危険信号を出してるにもかかわらず、怪我の痛みさえも忘れさせてくれるほど大量のアドレナリンを放出していた。最早脳すらその行動とを矛盾させていた。
そっと手を伸ばす。ドアは当然のように開かれた。たったこれだけの動作なのにここの時間、空間さえも支配している異様な感覚に囚われていた。
既に怪我した左足でも歩けるようになっていた。後ろから何かを叫んでいる声が聞こえる。だが外に向かって歩き出した。無視ではない。ほぼ聞こえていないのに近かった。
ドアの外に出た。外を貪り歩くその姿はまるで現代に蘇った亡者のようだった
初めて見る外の風景は新鮮というよりは懐かしい雰囲気を感じられた。恐らく過去の記憶の断片がそうさせているのだろう。記憶の断片が過去に何度もここに来ていたということを教えてくれる。新たな発見だ。
外を歩く。人々は皆、驚嘆する様子でこちらを伺っている。当然だろう。パジャマ姿の包帯を体の至る所に巻いてる人が街へ出たら、誰だってそんな反応をするだろう。彼らの中には3日前のあの事故に居合わせた人も居るのだろう。こちらを見てコソコソと何かぼやいている人が見える。それと同時に、なにやら焦った様子で携帯を耳に当てている人物も見受けられる。
だが僕は歩を緩めなかった。むしろもっと歩を速めた。人目など気にならなかった。
過去を知りたいというこの気持ちがここまで自分を動かしているのなら、ある意味戦慄してしまう。もしかしたら自分は、過去を知るためなら人を殺すのもも厭わないのかもしれない。そう思えるほどに今の自分はひどく大きく逆らえない何かに突き動かされている。
しばらく歩くと大通りに出た。いつか見た風景に心が躍る。ここなら何か思い出せるのかも。ただの直感だったが確かにそう思った。そう思い足を踏み出し歩き出した矢先、謙二の声が聞こえた。
「おい、こんなところでなにしてるんだ」
明らかに動揺と驚きが混ざった声だった。当然だ。本来病院にいるはずの自分がこんなところを歩いているのだから。動揺するのも無理はない。
遠くから語りかけてくる彼を横目にまた歩き出す。
もう少しで過去がわかるんだ、邪魔しないで欲しい。
自分の今している行動が明らかにエゴイストのするような行動であることなども承知だ。だがここで歩み止めるわけにはいかなかった。過去への正解へのヒントが目の前にあるというのにみすみす見逃すのは、自らの過去への冒涜のように感じる。
僕は事故が起きた場所へ吸い込まれるように歩いていた。駅の場所など知るわけがないのに足が勝手に動いているのは最早自分の意思ではない。本能とでも言うべきか。それとも過去に過去に訪れたことがあるのか。その正体が何であるかさえ分からない。だが根拠はないが現時点でそれは何よりも信頼できるものだった。
後ろから謙二が追いかけてくる。動揺と疑問が混雑した顔で。だが確かに僕を病院に連れ戻す決意をして。これまで生きてきた中であんな表情を顔をしている人を見るのは初めてだと思う。少しの畏怖を覚え、どこか荘厳さえ感じてしまう。それほど彼の表情から美しささえ覚えた。
それまでのエゴイストの様な行動から一転、戦慄し、震え上がった。そして泣きたくなった。決して怖いわけではない。彼に許しを請いたいわけでもない。むしろその逆。敬意を払いたくなった。自分でも生まれてこのかた初めての経験だと思う。
立ち止まり、目の前にある風景から踵を返したようにして、彼の元へと歩み寄る。彼は益々混乱した表情になる。彼の身に何が起こったのだと、そう思っていることだろう。僕ですらよく分からないのだから。ただ、都合よく行動を変える自分自身に対して苛立ちを覚えていることは確かだ。
やがて彼の目の前で立ち止まる。彼の顔は既に怒りに満ちていた。
「病院にいるはずのお前がなぜこんなところにいるんだ。事故をした現場に行こうとしていたのか。場所もわからないのに。私たちはお前のために手を尽くしているのにも関わらず、お前はそれを無下にするのか。もしそうなら俺はお前を軽蔑する。どうなんだ」
彼は人目も憚らず大声で怒鳴った。地の底から這い出てきた様な声に、道行く人がこちらに視線を送る。自分がした事が謙二にとって、医師にとってどれだけショックであったか、この時初めて感じた。
「ごめんなさい、ただ自分の過去を知りたかっただけなんです」
本心で、心の底から詫びた。謙二は怒りを通り越して呆れていた。目を閉じ一息漏らした。そして静かにこちらを見据えた。いつもの穏やかな目へと戻っている。
「わかった、まあ言い分はまた帰ってから聞かせてもらうからな。取り敢えず車持ってきてやるから病院に戻るぞ」
謙二は車を持ってきて僕を乗せて病院へ向かった。
病院に着き、自動ドアの前に立つ。ドアが開き足を踏み入れた瞬間、皆が騒つく。謙二から聞かされた話、僕が病院を出て間も無く、出て行くのを見た受付嬢が皆にそれを伝えたらしい。そこからは大人数で僕を捜索していた。休務だった謙二にも連絡が入り僕を探していたところ駅周辺にいた、ということだ。
こっちを見てくる人、探してくれた人、今回のことに関わった人全てに申し訳なく思った。
「ほら、早く行くぞ。宮美が病室で待ってる」
俯いて立ち止まっている僕を謙二が先導する。エレベーターに乗り込み謙二がボタンを押す。扉が閉まり軽い振動がした後、重力に逆らいそれは上へと徐々に加速していく。
最初に異変を感じ取ったのは謙二だった。
「おい、顔が真っ青だぞ。どうかしたのか」
設置されている鏡を覗き込む。確かに、真っ青だ。思い返してみると、彼の車に乗り込んだあたりから何かがおかしかった。変に頭痛が起こり、軽く目眩がしているのだ。それだけじゃない。ひどく息苦しく、気持ちが悪い。
耐えられなくなりその場にしゃがみ込む。
おい、大丈夫か、と彼が語りかけてくるのが聞こえる。病室のある9階に着くと、チン、と音を鳴らして扉はひどく気怠そうに開く。
謙二が引っ張り出す様にして僕を外に連れ出す。足まで出たところで扉が早々と閉まる。感情など一切持ち合わせていない機械はどこまでも無情であると悲しくなる。
「おい、しっかりしろ。待っとけ。今、宮美を呼んでやるから」
ズボンのポケットから携帯を取り出すとそれを耳に当てた。2コールくらいしたのか。ハッとなった後、焦った様子で携帯に向かって怒鳴っている。
当の連れ出された本人は床に伏した様な形で寝転がっている。気持ち悪さと目眩がひどく、今にも嘔吐しそうなのを堪えて。立つことはもちろん、身動き1つできずにいる自分が、生まれたての子鹿のように思えてきてどうしようもなく虚しく思える。
1分も経たないうちに戻ってきた謙二は僕のそばに寄り優しく背中を撫でる。大きなその手が、暖かいこの温もりがじんわりと僕の背中に馴染んでゆき、やがて僕の肌へと伝わり安心させてくれる。
ものの数分後、宮美が自分達がいる場所に到着した。床に倒れ込んでいる僕を見て動揺を隠しきれない。
「何があったの。謙二、貴方、彼に何かしたの?」
「そんなわけないだろ。車に乗り込んだあたりから何かおかしかったんだ。急に息遣いが荒くなってよ、んでエレベーターに乗ったらこの有様だ。俺もどういうことなのか全然分からないんだ」
彼女に謙二が事の成り行きを伝える。宮美は白衣のポケットから紙とペンを取り出すと、彼が言ったことを綴ってゆく。一字一句漏らさず、丁寧に。
全てを綴り終えるとこちらに目線を変え、すぐに病室の方へと歩き出す。謙二は僕をおんぶする形で持ち上げると、彼女の後へとついて行った。
悪くない気分だった。今だって確かに気持ち悪いし頭痛もする。体だってほとんど動かない。だが不思議と安心した。大人の背中はみんなそうなのか。僕もそんな大人に、父親になれるのか。
その父親という単語が出てきた瞬間、普通なら心踊るのに、この瞬間の僕は違った。苦虫を噛んだ、苦いような、不愉快で胸くそが悪い気持ちになった。それが何故なのかはわからないが。過去に何かあったのだろうか。とにかく僕は彼の大海原のように広大な背中に身を任せた。
病室に向かう最中、誰一人として口を開く者はいなかった。僕のように物思いに更けているのか、これからどうなるのか、行く末を見つめているのか。或いは僕に呆れ果て悪態をついているのか。真意はわからないが、静かだった。
病室の前まで来ると彼女は眠っている僕のことを思ってか、静かに扉を引いた。謙二は部屋の中に入りベッドの近くに寄ると、ソッと僕を仰向けにして寝かせた。そしてそのまま部屋を後にした。ベッドは石のように硬かった。
僕の、長い長い半日が終わった。
左足を襲う鈍痛で目が覚めた。最悪の目覚めだった。昨日のように歩きたいとは思わない。というより痛みがひどく歩くことができなそうだ。
特にすることもなかったので、側に置かれてあるテレビの電源をつけた。ニュース番組が映し出された。流れていたのは殺人事件。
なんでこうも殺人というものは起きてしまうだろうか。誰かが誰かを恨むことなんてなかったらこんなこと起こらないだろうに。だが人間は生きている以上、その感情を抱いてしまう。仕方がないといえばそれまでだ。
大抵の人が聞き流すであろう、日々のニュースの一部となってしまったそれに妙に関心を寄せていた。まるで自分の身に起こったかのように、それがひどく悲しく、悲痛なものだった。
その後話題は政治、経済へと変わっていった。そのあたりから興味を示さなくなりテレビの電源を消した。
耳を外部へと傾ける。病室の扉の向こう側から聞こえて来る、看護師の人々が忙しなく働いている声、足音。窓の外から聞こえて来るクラクションの音。騒がしいのは嫌いだが、こんなニュースがあろうと、世界がきちんと機能していることに関心を抱く。
しばらく天井を仰いでいると、扉がノックされて中に人が入ってきた。目線を目の前に向けた。最初のように身構えるようなことはしなかった。恐らく入ってきたのは現段階で自分が一番信頼している人物だからだ。その人物がカーテンを開ける。
「よお、おはよう。早起きとは感心感心。俺はこれから寝るけどな」
そう言ってゲラゲラと笑っている。
「ああ、謙二さん。おはようございます」
夜勤明けなのか彼のテンションは異常に高く、寝起きの僕にはついていけなかった。だが元気そうで何よりだ。
「入ってきていきなりで悪いが10時位に宮美が色々聞かせてもらうって言ってたから準備しておけよ。」
じゃあ俺は家に帰って寝させてもらう。にこやかにそう言い残すと早々と、軽快なステップを踏みながら病室を後にした。
全く、朝から陽気なものだ、と少しばかり呆れた。昨日の出来事については触れてこなかった。僕に気を使ってのことだろう。忘れているわけなどない。聞きたいことは山ほどあるだろうに。この短い会話の中だ確かに彼の優しさを感じていた。
部屋の中がまた静寂に包まれ、特にすることもなかったので窓の外を伺う。通りはスーツを着た人々でごった返している。自分があの中に入って行きでもしたら、すぐにその濁流に飲まれひと塊りもないだろう。寒くもないのに身震いする。
しばらく外を眺めていると目の前の風景が次々と変わっていることに気づく。スーツを着た人々からラフな格好をした人々へと、そして浮ついた若者へと姿を変えていくのが目に映る。次々と変わっていく風景に心踊る。
相変わらず外の様子を伺っている僕は、背後に近寄る人影に気づかなかった。ポンと肩を叩かれると、その手を振り払うようにして後ろへ振り向いた。
「ごめんね、外を見てたから脅かしてやろうて思って」
その人物を見てまた安心する。宮美だった。
彼女はいたずらっぽい笑顔で笑うと、どう、びっくりした?などと心境を聞いてくる。僕が怒ったようにプイっと顔を背けてもなお、彼女は笑顔で僕を見つめている。
「まあまあそんなに怒らないで。謙二に聞いてなかったの?私が10時にここにくるって」
言われてみればそんなことを言われた気がする。時計を確認すると短い針は9を、長い針は11を指していた。
ああ、と僕がとぼけたように呟くと、彼女はやれやれと少しばかり呆れた表情をしながら僕を横目に見る。
「まあ、いいわよ。じゃあ今から質問していくから。この間のように答えてくれればいいから」
彼女は切り替えるようにして声を張り上げると、側にあった椅子を引っ張り出し、そこに僕を座らせた。
「よし、じゃあ一つ目、後で精密検査とかしてもらうけど昨日の足の調子はどうだったの。実際のところ足は痛かったの、痛くなかったの?」
「右足はそんなに痛くなかったけど、左足は痛かったですよ。すごく」
応答を聞き宮美は不思議に思った。
「痛かったんだ。謙二から聞いた話だと、あなたを昨日見つけた時、多少の違和感はあったものの至って普通に歩いてたって言ってたわ。それはどういうことなの?」
「僕にも原因が何でなのかわからないんですけど、病院から出たあたりからだんだん痛みを感じなくなっていったんですよ。だから歩けました」
そうなんだ、と彼女は言葉では納得していても、内心よく分からないといった様子でいる。
ここで止まっていても仕方がないと、次の質問へ移る。
「2つ目、あなたは自身の事故がどこで起こったのか知ってる?」
はい、と僕は受け答える。確か駅前でしたよね、と。
「それはどうやって知ったの」
そうですね、と僕は目を閉じ、考え込む。いつだったか。謙二がそう教えてくれたのだ。確かあの時に言ってたはずだと思い出す。
「確か僕が事故が起こって目を覚ました時に聞いたんですよ。『何でこんなに怪我しているんだ』って。そしたら謙二さんはこう答えました。『お前は駅前でトラックにひかれた』って。その時にわかったと思います」
そうなんだ、と彼女は言う。と言うことは、と呟く。
「駅までの道のりもわかっていたわけだ」
僕は首を横に降る。
「いや、駅までの道のりは知りませんでした。ただ信じられないかもしれませんが足が勝手に動いたんです。まるで僕を駅まで導くかのように」
彼女は不可解に思った。そんな非科学的なことが起こってもいいのかと。だが信じざるを得ない。実際僕は駅に向かって歩いていたのだから。
「そんなこと信じられないけど...、信じるしかないようね。わかった、信じるわ。ただここで一つ疑問を聞いていいかしら」
そのための時間じゃないですか、と指摘すると、彼女は確かにね、と笑ってみせた。
「じゃあ質問3つ目。初めてきた街で駅がどこかもわからないのに、足が勝手に動いてそこまで行こうとするのは私たちからして見ると、とてもじゃないけど考えられないの。過去のことを抉り出すようで申し訳ないんだけど、貴方は過去にこの街に来たことがあるの?」
「それも病院から出た時に感じました。目の前の風景が懐かしい感じがしたんです。特に病院の目の前の風景、そこが一番懐かしく思えたんです。つまり...」
「過去にこの街に来たことがあるってことね。そしてこの病院にも来ている可能性があると言うこと」
彼女は僕の言葉を借りて後に続いた。
「そう言うことだと思います」
しめたっ、と初めて過去へとつながる大きなヒントを得た彼女は嬉しそうにする。
「4つ目、これは私が個人的に一番気になることなんだけどあなたは謙二の車、エレベーターに乗って異常行動をしたでしょ。あの様子を見てると単に乗り物酔いでもないみたいだし。あの時の症状とか聞かせてくれないかな」
僕は記憶を車に乗ったあたりまで巻き戻した。
「そうですね、吐き気と頭痛がひどかったです。あと目眩もしました。明らかに乗り物酔いでないことは確かだと思います」
「何でそんなことになったのか、心当たりはあるの」
僕は首を横に振る。彼女は困ったような、何か考え込むような顔をして相変わらずこちらを見ている。
「宮美さんと謙二さんはどこで出会ったんですか」
訪れた沈黙に耐えられなく、僕が彼女に質問を始める。
「えっ、えっとね私達はね...」
彼女がまだ黒田宮美だった時の話だ。
2人の馴れ初めは病院だった。謙二がまだ青い医師であった頃、彼女が大学の実習生として病院に訪れたのが始まりだったらしい。当初病院の案内をする予定だった先輩が急用で休んでしまったので彼が代わりに案内した。
当時の謙二はその容姿から数々の女性から好意を持たれていた。しかし彼は恋愛そのものに飽きたのか興味がなかったのか、その好意の全てを無視していた。そんな時に現れたのが宮美だった。謙二は彼女を見るや否や一目惚れ、猛アタックして来たらしい。しかし猛アタックされていた当の本人は、鈍感過ぎて彼の好意に全く気づくことなく、無情にも時間が過ぎていった。
あっという間に実習最終日。実習がこの上なくうまくいっていた宮美は上機嫌、一向に振り向いてくれない彼女に、謙二は地の底に落とされたような表情をしていた。だがこの時謙二は一つ小さな野望を抱えていたらしい。それは彼女から連絡先を聞くと言うものだった。朝聞くのも如何なものかと考えたので帰り間際に聞くことにした。
実習を聞く彼女、昼食をとる彼女、とにかく彼女を見張っていた。だが彼女の周りを彷徨く取り巻きはなかなか彼女から離れようとしない。普通に彼女を貸してくれと言えばいい。だが良く言えばピュア、悪く言えば臆病であった謙二は思いはあってもそれを行動に移すことができなかった。
その後も機を伺っていたものの、彼女と2人っきりになる機会は一向に訪れなくそのまま実習は終わった。
謙二は実習が終わってからの1週間、仕事を始めて、初めて休みを取った。狙った獲物は逃さない。それが謙二だった。そんな歴戦の猛者でも彼女を自分の懐に入れることができなかったのだ。いつも自炊をしていたが、その日ばかりはそれをする気が起きずコンビニに夕飯を買いに行った。
俺には一生彼女はできないんだ。
コンビニに向かう最中そんなことを思っていた。連絡先が聴けなかっただけなのに自責の念は彼を蝕んで行き、遂には自殺さえ考えさせた。
そんな彼を不憫に思ったのか、恋愛の神は彼に微笑んだ。彼が向かった先、コンビニに彼女がいたのだ。彼は思わず膝から崩れ落ちた。目の前に広がっている光景が、かつてないほど彼を高揚させた。颯爽と店を出ていく彼女を追いかけ話しかけた。
「黒田さん?黒田さんですよね」
彼女な怪しいようなものを見る目で、話しかけて来た男の顔を確認する。
「僕です。佐伯です。この間の実習で案内をした...。覚えていませんよね...。すみません」
彼の顔を見て少し考えるような仕草をした直後、彼女は顔を明るくして前を向き直す。
「ああ、あの時の...その節はお世話になりました。とても勉強になりました」
無邪気に微笑む彼女を見て少し頬が緩む。神様は彼を見放してなどいなかった。現に今謙二と彼女は同じ場所にいて揃って話しているのだから。見えない神様に勇気をもらった謙二はここしかないと話を切り出した。
「あの、良かったら連絡先交換しませんか」
宮美が何でだというような表情をしてこちらを伺っているのを見て慌てて弁解する。
「変な意味じゃなくて。その...ここで会ったのも何かの縁だと思うし」
そういうことか、と納得した彼女は快く携帯を差し出した。彼女の携帯は若者の間で流行っていたゲーム機能まで付属されているガラパゴスケータイだった。
「いやー、驚きましたよ。いきなり連絡先交換しようって言って来られるから。てっきり何か下心があるんじゃないかって思いました」
まさにその通りですよ、と心の中で指摘をする。
「そんなわけないじゃないですか」
言葉というのは怖いものだ。心ではそう思っていなくても表面ではなんとでも言えるのだから。もしかしたら自分が普段している会話の中にもそんなことがあるかもしれない。だがそんなことを考え始めると、会話の全てを信じられなくなるので考えそのものを頭から追いやった。
メールアドレスを交換してそれぞれの連絡先を手に入れると、彼女は急ぎの用事があったようで早々とその場を後にした。
一方念願の連絡先を手に入れた謙二は放心状態に陥っていた。今目の前で起こったことが現実か妄想か、その判断すらつかない虚ろな目をして、夕飯を買うという本来の目的を忘れて家路へと向かう。
家に帰っている間のことは頭のコンセントが抜け落ちたように覚えていなかったらしい。
落ち着きのない様子で家の中に入ると早々に畳に座り、携帯を開き連絡先を確認する画面へと移動する。
そこには他の連絡先と何ら変わらない字体で書かれている「宮美」という新しい二文字が刻まれていた。
彼は拳を天井高くへと突き上げた。どんな言葉を使っても言い表せない高揚感に心が満たされ、己がやってのけたことに驚くほど感服していた。
その後、彼は宮美を週末ごとに食事に誘うなど猛アタックして、交際、結婚まで果たしたという。
話を聞き終わった僕は、その感想を言葉にして表すことができなかった。愉快な話だった。現状況からは比べ物にならないくらい。だから少し嫉妬した。羨ましかった。だからって僻みなんて口にしても虚しくなるから、だからなにも言えなかった。
「へえ、凄いですね」
まるで果汁を絞り出すかのような、搾り尽くした末に出てきた言葉はあまりにも素っ気なく、長い時間話してくれた彼女に対する無礼な対応は、やはり先程の話とは裏腹に僕を嫌悪感に追い込んだ。
しかしそれを察した彼女は慌てて、搾り取った言葉を汲み取った。
「そうでしょ、あの頃の謙二は乾いた砂漠でオアシスを探し求める猛獣そのものだったからね。それにね...」
それからも話は続いた。交際中、結婚後、彼が起こした珍奇な行動の数々、夫婦間のノロケ話など咥内の水分がなくなるのではないのかと思わせるほど彼女は喋り倒した。
昼のサイレンがなる頃にようやく彼女の話は終息の気配をチラつかせていた。この頃には宮美も流石に疲れたらしく切り出した話が終える前に、早々に話を切り上げ一息ついていた。
ここまで長い時間話していると流石に聞いていた自分も疲れるわけで、自分から聞いたのにも関わらず現在に至る十分前には話の半分を聞き流し、適当に相槌を打つという身勝手、失礼極まりない行動をとっていた。
しばらく彼女と僕は窓の外の景色を遠望していた。外はつい先程から雨が降り、窓に滴る水滴と一帯を覆う霧が仕事人が歩いていた風景から一転、幻想的な水の世界へとその姿を変えていた。
幾分かほど見ようと飽きることを知らないその景色は空腹さえ忘れさせ、哀愁とさえ取れるそれは、瞬く間に僕をその世界へと連れ込んだ。それは彼女も同じだったようでボンヤリと外を遠望しているその姿は、彼女の若りし頃と老いた姿、その両方を連想させた。
ふと彼女が時計に視線を移すと短い針は既に1を指していた。つまりここに3時間弱いたことになる。予定を大幅に超過させていたことに気づき焦った様子で僕に喋りかけた。
「もうこんな時間!このあとあなたの検診があることすっかり忘れてたわ。少し待ってて、準備するから」
そう言って猛烈な速さで病室から出て行った。
あまりに突拍子のない出来事に呆気にとられていた僕は、しばらく窓の外から病室の扉へと視線を移していた。
そして数分後、彼女は息を荒くして病室へ戻ってきた。もう少しで50に差し掛かろうとしているのによくそんなに走れるものだと感心が止まない。
そんな事を熟考している僕とは対照的に、彼女は肩を揺らし大きく息を吸い込み吐き出す作業をしていて、未だ視線が定まっていない。
僕は静かに彼女が話せるまで待った。外から聞こえてくる雨の音がやがて昔懐かしいバラードへとその姿を変貌させて、静かにその頭角を現してくる。断続的に演奏されるそれの一部は彼女の吐息と一体化し、外とは別のバラードを想見させ、いつしか合奏へと姿が変わったのにはその場にいた二人でさえ気付くはずもなかった。
彼女は息が落ち着くともう一度深呼吸をした。
「じゃあ、検診行くから。これに乗ってもらえる?」
そう言ってベッドの横から折り畳み式の車椅子を引っ張り出した。それを広げると僕の腕を抱えて車椅子の上へと腰掛けさせた。
この一連の動作だけで彼女はまた息を切らせていた。流石に声をかけなければと思い立ったが、言ったとしても彼女を抑止できないと瞬時に察し、流れに身を任せた。
今回もエレベーターに乗った。そして一つわかったことがある。どうやら僕の体は狭い空間に長時間、または連続して留まっていると前のような謎の症状が起きるようだ。
車椅子に乗せられてきたのは整形外科だった。おそらく体のどこかが骨折か何かしているのだろう。だが今更そんなことで変に動揺はしなかった。きっと体のどこかは重症なのだろうと薄々感づいていたからだ。
整形外科の先生は二十代後半、佐伯夫妻とは打って変わってひどく無愛想だった。ぶっきらぼうに喋り、軽く僕の状態を確認すると早々と診察室から退出させた。
病室から退出し車椅子で押されている最中、宮美が突然謝ってきた。態度が悪くてすまない、もっと指導しておくと。
「いやいや、そんなことないですよ。僕は診てもらうだけでも充分ですから。それにしても今どこに向かっているんですか?」
「レントゲン室よ」
レントゲンって...骨に異常でもあるのだろうか。でないとレントゲン室なんて行かないし。思わず表情が歪んでしまう。
「レントゲンって...やっぱり骨に何か異常があるんですか?」
「ええ、そうね。あんなに無理してたらやっぱり骨まで支障が出るのは当たり前じゃない?私の専門じゃないからまだわからないわ」
彼女は声を強めて皮肉っぽく言い放った。その顔には薄っすらと憤怒の表情を浮かんでいる。僕の無神経な質問に腹を立てたのは明らかだった。だがここでまた謝罪でもしたらそういう事ではないと言い返されるのは分かりきっていたので、敢えて何も言わずに車椅子と共に場の状況を流した。
レントゲン室に着いてしばらくすると中から田中と書かれたネームプレートを胸元まで吊るした白髪の老人が出てきた。宮美は彼に会釈すると僕を彼の元へ引き渡した。
田中は車椅子を押してレントゲン室に入ると、検査をする台の上に僕を寝かせた。そして彼が部屋を出て数十秒後、電子音が部屋に鳴り響き、何事もなかったかのように部屋に戻ってきた。その後も同じ作業を数回、体の各箇所を隅々まで調べられた。体と一緒に自分の心まで見透かされてる気がしたが、そんなはずがないと否定する作業自体がばからしく思えた。
十分そこらで検査が終わりレントゲン室から出てくると、宮美は部屋の入り口に設置してある長椅子に腰掛け気持ちよさそうに眠っていた。
やれやれと起こしてあげようとしている田中を引き留めた。今は寝させてあげたかった。
「診察の結果を後日整形外科の先生から伝えてもらうので、また彼女から詳しい日時を聞いてください」
田中はそう言い残すと部屋の中へ戻って行った。
寝ている彼女を起こすのも何か悪い気がしたのでとりあえず僕も長椅子に腰掛けた。病院のどこか寂しげな静寂が僕に取り憑いて離さず、その静寂に誘い込まれるかのように僕もいつしか眠りに就いていた。
体を揺さぶられ起こされた僕は少々気分が悪かった。彼女は車椅子に手を掛け、何も言わず僕を先導している。僕は苛立ちを態度に表すことなく僕は起き上がりそのまま車椅子に座った。
エレベーターの搭乗口まで来た。彼女は臆することなくエレベーターに乗った。多少寝たおかげで症状は起こらず何事もなく9階までついた。
病室に入り僕を寝かすと彼女はそのまま出て行った。先程寝てしまったせいでなかなか寝ることができず天井を仰いでいたが、それでも暇で仕方がなかったので窓の外に目を移した。街が所々昼から夜へとその環境に適応するために姿を変えているのが手に取るかのようにわかる。
街の中心部は街灯が、路地裏はネオンライトが道行く人の足元を煌々と照らしている。仕事終わりのサラリーマンが駅から吐き出されるかのようにして姿を現しているのを見ていると命の躍動に似たようなものが行動として体現されていると感じてしまう。実際にそうではあるのだが、やはりあの光景には何か感じてしまうものがある。
そういえばここ最近食事をほとんどしていない。流石に腹が減るが食欲が無いため食べたいとも思わない。
自分の体を触るとわかるのだが、肉の感触がせず直接骨を触っているかのように体が痩せ細っている。まるで皮を被っているだけの骸骨のようだった。それがひどく滑稽に、貧弱に思えて情けなくなってくる。
こういう回想をしているとやけに時間が経つのが早く感じる。部屋についてから今までで既に2時間は経過していた。どこかの誰かさんが言った相対性理論とかいうよく分からないものが存在するのだが僕の今の状態はそれに当てはまっているのか。言葉だけを知っている僕にはいくら考えようと答えは浮かんでこなかった。
僕も人間なので流石に眠たくなるわけで布団の中に潜り込んだ。起きては寝るの繰り返している今の自分には怠惰という言葉がぴったり合致している。
その晩、記憶を失ってから初めて夢を見た。起きてしばらくしても鮮明に思い出せるほどにひどく酷い夢だった。狭くてゴミが散乱しているアパートの一室と思われる場所で、知らない男から暴力の限りを尽くされていた。そして最後には包丁を振り上げて、僕に目掛けて振り下ろしたところで目が覚めた。
起きてすぐは夢のおかげで倦怠感が酷かった。目を閉じ、しかし寝ないで聞こえてくる時計の針の秒数と一緒に時間を数えていた。また少し眠たくなったところで病室の扉が開かれる音がしたので身を起き上がらせた。
カーテンの隙間から顔を覗かせたのは謙二だった。それと後ろにも誰かいるような気配がした。
「おはようございます。あと後ろにいるいる人って誰ですか」
「おはよう。なんだ、もうバレちまったのか。しょうがねえな。ほら、出てこいよ」
そう言うとカーテンを開けて体を退けた。だがそこには誰も居ず、せいぜいあったのは車椅子程度だった。
脳が唐突に起きた不可解な出来事に整理がつかず、数秒間放心状態に陥った。謙二の顔を覗いて見ても彼もどこに行ったと言う様子で周囲を見渡している。
「あの、謙二さん。誰も居ないんですけど...」
「ああ、誰も居ないな。あれ、どこ行ったんだろう?」
やけに白々しく聞こえるのだが、その真意を彼に問うことはなく消えた人物の居場所を考えた。
すると左側のカーテンがわっと宮美が飛び出してきた。ある程度想像はしていたもののやはりいざとなるの驚くもので、威嚇された小動物のように縮こまりヒッと言葉を漏らした。2人とも僕の驚きように高らかに笑った。こうなってくると僕も笑わない訳にも行かず驚かされた側なのに何故か笑った。
「よし、じゃあ今日は昨日の検査の結果を聞くからな。昼からだからまた準備しとけよ」
謙二は未だに綻んだ顔でそう言い残すと2人とも病室から出て行った。僕には分かっていた。2人は無理をして笑っていた。あの笑顔の裏には哀情、憤怒、そして艱苦、いいもしれぬその感情を、あの笑顔は持ち合わせていた。何故だかはわからないが、きっとそうだった。扉が閉まる音と同時に再び静寂の訪れた病室に取り残された僕は、昼ごはんが持って来られるまで何をしていたかはよく覚えていない。恐らく寝ていたか外の景色を見ていたか、そのどちらかだろう。
だがそんなことはどうでもいい。とにかく腹が減っていた。だから昼ごはんが病室に届いた時に他の記憶は感激とともに全て吹き飛んだ。僕の記憶もこんな風に無くなっていたのならこれほど滑稽なことはない。
届いたご飯にありついた。病院のご飯は白米、魚の焼き物、南瓜のおひたし、野菜の漬物と当然のことながら量は異常に少なかった。食べ終わった後に気づいた。僕は背は高いのだが、ひどく貧相な体なのにとんでもないくらい大食らいらしい。
追加でもう少しご飯を出してもらおうかと考えたが、先日あのような騒動を起こしたのにそんな図々しいお願いができるはずがなく、そのまま2人が来るのを待った。
今度は2人とも普通の表れ方をした。安心半面、落胆半面とよく分からなかったがすぐに切り替えた。
謙二は僕を車椅子に乗せるとそのまま僕を連れてエレベーターの方向へと向かった。
「よし、じゃあ最初は整形外科だ。主治医は俺だから安心しろ。取り敢えずレントゲンを撮ってもらったからその結果とこれからのリハビリについてとかを話すからな。まあそれなりの結果が返ってきているから覚悟しておけよ」
整形外科の診療室に向かう最中、つまりエレベーターに乗っている最中、彼は僕の気がエレベーターへと向かわないように止まることなく話し続けた。
診療室に着いて感じとは交代し、宮美が僕の側に立った。しばらくすると謙二が奥から出てきた。そのまま座り心地が良さそうな椅子に座り手を掛けると、普段の姿からは伺えないほどその姿は見事に医師の様になった。
「さあ、まずはこれを見てくれ」
そう言うと机の上に置かれてあったCT画像を僕に手渡した。
「これは左手のレントゲンだ。車はお前から見て左側から当たったから右手より左手の方が損傷がひどい。この部分」
僕が持ってる左手の画像の腕の部分を指差した。
「前腕骨の部分に罅が入っている。ちなみに右手は少しひどい擦りむき傷程度だ。良かったな。本当なら肉が抉れてもおかしくないからな」
罅よりも肉が抉れる方が現実味が出て鳥肌が立つ。謙二は間髪入れずに僕の左手の惨劇を写したCT画像を取り上げると別の画像を手渡した。これは...どこだろう。
「じゃあ次、これは肋骨だな。もともと折れやすい骨なだけに2、3本ポキっていっちゃってるけど、でもまあこれに関してはあまり深刻に思うことはない。もともと折れやすい骨だからな。きちんと処置とリハビリを行えば他の骨より治るのは断然早い」
治るのが早いのは良かったが、骨が折れていると目の前で単刀直入に言われるとやはりショックだ。
謙二はさっきと同じように画像を取り上げると次は2枚まとめて渡してきた。1つはすぐにわかる、股関節だ。問題はもう1つの画像。おそらく足だと思うが、素人で無知な僕でも容易に伺えるほどそれは酷い有様になっていた。これには流石にショックが隠せなかった。
「謙二さん、これは足だと思うんですけど...これは本当に僕の足なんですか」
ああ、と謙二は答える。
「それは紛れも無い、お前の足だ。どうだ、見事な有様だろう。俺もこんなに酷いのは久しぶりに見たよ」
横から写真を覗いた宮美は信じられないといった表情で驚愕した表情を露わにした。
「お前が前に無理したからこんなことになったんだぞ。こっちとしても最善を尽くそうとは思うが、もしかしたら後遺症が残るかもしれない。可能性は低いがな。その辺は覚悟してもらいたい」
「例えばどんな後遺症が起こり得るんですか」
後遺症という言葉にいまいちピンと来ず、詳しく聞いてみる。
「そうだな、例えば関節の可動領域が狭まったり慢性的な痛みが続いたりする。まあこれも最悪の事態に直面した時なんかに起こるときだからな手術がうまくいかなかった時とか、きちんとリハビリをしなかった場合とかな」
最後の言葉の語尾を強くして彼は言った。こちらを下から舐めるようにジロリと見ながら。こういうことに関してはまだ僕には信用がないんだと思い知らされる。至極当然なことだが。
「まあこれに関してもあまり気にすることはない。さっきも言ったが、完全に無いとは言い切れないが可能性は低いからな」
前かがみにしていた背を椅子にもたらさせ一息つく。椅子はギィと高い呻き声を出し、謙二の上半身を支える。
「まあこんなところだな。どうだ、なかなかのものだろう。この怪我だからな。当分の間はリハビリの時以外絶対安静。もし変なことをするようだったら俺も治すのをやめるからな」
そんな形相で脅さなくても、もう絶対に変な真似はしない。うなづくと彼は緊張を解いたような面持ちで僕と宮美を部屋から出した。そして後を追うような形で謙二も付いて来た。宮美は診療に向けての準備がしたいとのことで、彼に僕を預けるとどこかへ行ってしまった。
脳外科の診療室に向かっている最中、話せる状態ではなかった。謙二の顔は赤いマントに魅せられた牛のようにその身を前に屈めさせ、目の前をものすごい形相で睨んでいた。下手に触れたらでもしたら襲われそうだという、無益な心配さえしてしまうほどだった。
緊迫した状況の中、やっと脳外科の診療室まで着いた。依然謙二の顔は変わらないままだが、とにかく診療室に入った。宮美はとっくの前に着いていたようで椅子に座っていた。
謙二は僕を車椅子から椅子へと移動させると話す準備が整った。正直に言って僕はこの場から今すぐにでも消えて居なくなりたい。整形外科に行った時とは全く違う緊張、緊迫、それに伴う2人の切迫感が、部屋の雰囲気を明らかに変えていた。だがいつかは聞かなければならないことだ。そう割り切って、僕も2人のいる空間へと踏み込んだ。
「じゃあこれから今のあなたの状態を話していくね」
彼女の声の調子は明らかに違う嫌忌の意を纏って、2人のいる空間に土足で踏み込もうとしている僕を容赦無く排除しようとする。
「話すことは大きく2つ。まず1つ目、これはもうあなたも薄々気づいていると思うけど、あなたは記憶障害を抱えている」
まあ、それは分かっていた。今更驚くようなことではない。ある程度覚悟していたから。でも記憶が思い出せないっていうのはやはり何か欠けているような、感じたことのないもどかしいような、新しい心理的な痛みだった。宮美は説明を続ける。
「それも高次脳記憶障害の記憶障害をね。これは起こった出来事を覚えておく力に大きな影響を与えるの。今あなたは昔起こった出来事を思い出せないでしょ?つまりそういうことなの」
彼女の声の調子は変わらず嫌忌を纏っていた。僕はそれを全て無視して彼女に質問する。
「その記憶障害っていうのはどんな状態なんですか。つまりえーっと...この記憶障害は一生治らないんですか」
「絶対に治らないとは言い切れないわ。何か大きな出来事がキッカケで記憶を取り戻したっていう例もたくさんあるし。だけど記憶を取り戻すほどのキッカケって早々起こるものじゃないからね。可能性がある程度に考えておいて」
可能性がある。その言葉だけでも胸の荷になっていたものが随分壊れたように感じた。
「そうですか。そう言ってもらえるだけでも助かります」
彼女はうなづくと間髪入れず次の話題に移る。
「これに関して伝えたいことはこれくらいかな。じゃあ2つ目。あなた、エレベーターに乗ったり車に乗ったりしたら異常行動を起こしたわよね。それに関してのことよ」
それだ。僕が特に気になっていたことは。僕の座っている椅子に寄りかかっていた謙二は、眉を微かに動かし体を椅子から遠ざけた。場の空気が一層張り詰める。誰かが生唾を飲み込んだ。
「確認なんだけどあなたは車椅子に乗っている時はなんともないんだよね」
はい、と返答すると彼女はやはりそうかというように首を小刻みに振った。
「そういうことならいいわ。説明するけど車、エレベーター、この2つに動く以外で共通して当てはまることってなんだと思う?」
「そうですね、どっちも狭いってことですか?」
「そう、あなたが異常行動を起こした2つに共通していえることって狭いということなのよ。そこで考えたの。もしかしたらあなたは閉所恐怖症かもしれない。それも生半可なものじゃない。まるで過去に植え付けられた強烈なトラウマのような、簡単には壊さない鎖みたいなもの」
確かに狭いのは苦手だと思う。だがそんなにも重病なのか。閉所ってことは狭いところがダメなのか。トラウマになるほどのことなんてされた覚えがないんだが。だが現にこんな症状になっているのだから認めざるおえない。そんなトラウマになるようなこと、過去にされたっていうのか。
「それは僕が過去に虐めを受けていたってことですか」
僕の中では虐めくらいしか頭が追いつかなかった。
「その可能性もあるわ。他にも虐待を受けていたとか監禁されていたとか、肉体的だけじゃなくて精神的なことでも閉所恐怖症になる可能性は十分あり得る」
「監禁...虐待...」
僕は過去になにをされていたんだ?
「こんなこと言うべきじゃないかもしれないけど、あなたのあの症状からはそれほどのレベルのことが原因である可能性が高い。監禁、虐待、そのくらいのことがあったんじゃないかと私は懸念しているわ」
そもそもなんでこんな状況に陥ったんだ?
「これに関しては薬もなにもないから時間をかけて慣らしていくしかないわね」
僕は誰なんだ?一体何者なんだ?
「おい、聞いているか」
不意に後ろから声がして振替えようとすると、謙二の顔は既に僕の顔の横にいて、僕の顔を覗き込んでいる。
「唐突にこんな話をされてショックなのもわかるが、だからって聞かないと何にもなんないぞ」
すみません、と僕が謝ると次に宮美の方を向いた。
「それと宮美、お前はもうちょっと話すスピードを落とせ。こいつが話について行けてないだろ」
僕が慌てて弁明する。
「いや、でも宮美さんはなにも悪くないです。僕が話について行けてないだけですから」
「いや、お前は悪くない。お前は聞く側、宮美は話す側、
お前はきちんと症状について話を聞いて、宮美は患者がわかるように話すべきだ」
患者、病人。そうか僕は病人だった。今だにその実感が湧かない。また話している内容と違うことを考えている。つくづく自分はどうしようもないやつだと思う。
彼女は素直にうなづいて僕に対して謝った。まるで初めて謝られたような、変な気持ちな僕を差し置いてまた話が進もうとしているので、取り残されまいと自分の考えを止めた。
「さっき話したことを要約させてもらうと虐待、監禁そのくらいのレベルのことが、過去にあなたの身に起こった可能性がある、その症状は時間をかけて治していかないといけない。これがさっき私が言ったこと。ここまでで何か質問とかある?」
「あの、治るまでどのくらい時間がかかるとか分かりませんか」
「正確にはわからないけどカウンセリングが必要となると相当時間がかかるわ。それにあなたは記憶を失ったという大きなハンデがある。カウンセリング受けてもらうなら多少記憶を喚び醒まさないといけないこともあるかもしれない、となると記憶の喚び醒ましと並行していかないといけなくなる。そうなると一生治らない可能性もあるわ」
ここでも自分の行く末を記憶の壁が遮る。無性に腹が立って仕方がないのだが、その怒りの矛先は無論自分しかいないのだから虚しくて仕方がない。とにかく何にしても記憶を取り戻すのが先決みたいだ。
「わかりました。少しでも思い出せるように努力してみます」
「ええ、じゃあ取り敢えず当分の間足を使うのはダメだから階段じゃなくてエレベーターを利用して。ここで注意してもらいたいのが2つあるわ。1つは誰か付き添いを連れて乗って。もしものことがあった時、あなた1人じゃ対応しきれないことがあると思うから」
僕はこくりとうなづいた。確かに、異常行動は自分一人では対応しきれない部分は多々あると思う。それは発症した自分が一番よくわかっていた。
「2つ目は連続して乗らないこと。それとできるだけ長時間滞在しないこと。これは特に守ってほしいわ。何故かはもう分かっているでしょ」
僕が病院から脱走した後、謙二に連れて帰らされたのを思い出す。あの時は本当に死ぬのではないかと心配されたほどだった。原因は自分自身にあるのだが。恐らく幾ら閉所恐怖症が重症だとしても、ある程度の時間の猶予は与えられるようだ。
「わかりました。その2つを守ればいいんですよね」
彼女は黙ってうなづくと、やっと今日の全てが終わった。そう思っていた。思っていたのだ。病室に戻るまでは。幸いエレベーターに乗っても何も起こらなかった。上々だった。多少のアクシデントはあったものの、事はこの上なくうまく進んでいると思った。これ以上の幸福を僕は望まない。望んではいけない気がした。それが何故かはわからないが。
とにかく、僕はベットに伏した。相変わらずそれは石を布で包んだような不恰好なものだった。時計を見ても既に夕暮れから夜へと向かっていた。
ベッドに寝てみても何か落ち着かないのは初めての出来事だと思う。一体僕は過去に何があったっていうんだ。思い返してみるが思い出せないことに、苛立ちともどかしさを感じて、どうしようもなく自分に対して険悪になってしまう。
寝ようとしてもなかなか寝付けず、窓の外を見る。何日も同じようなことを繰り返しているのに、よくもまあ飽きずに同じ風景を見ていられる自分を、ある意味で尊敬してしまう。
夕刻の空は遠い昔のように、遥か遠くへと消えて行っている。入れ替わるようにして、空は寂しげな暗闇へと姿を変えている。なんで夜が来るのだろうと思うのだが、結局それにさえも何か意味があるのだろう。僕達子供には到底理解できず、大人に都合のいい堕落のような理由が。
そういえば宮美が言っていた、「記憶の呼び醒まし」。これに関してはどうするべきか。結局宮美が言いたかったのは、記憶を呼び醒ましたとして、カウンセリングを受けるか否か、それに尽きるだろう。だが、まず記憶を呼び醒ます事は出来るのだろうか。そんな観点から話していたらきりがないが、原点回帰となるとやはりその問題は大きい。
これからの僕の一生をかけて、大博打ともいえるその「可能性」にかけてみる価値は十分にあるのではないか。そう思うのだが、何となく他人事に思えて、自分の事だと分かっていても、思い出すのが遠い未来に思えて、深く考えることが出来なかった。とにかく、今はこの馴染みのない環境に順応していく。そう決めた。
多分彼らが来る。何度も同じようなことを繰り返されていると、何となく察しがついて来るわけで、入り口の扉を凝視していると、やはり彼らはやって来た。
「おうおう、来るのを知ったような顔しやがって。この野郎め」
口調は悪いが大丈夫。口元は微笑んでいた。僕の頭を攪拌してきたが。遅れて宮美がやって来ると、いつもの光景に戻っていた。2人とも、先ほどの事がなかったかのように明るくて、逆に自分がおかしいと錯覚してしまうほどだった。よくも毎日、この病室まで来て話をしてくれるな、と感心してしまうのだが、別にこれを嫌と思っているわけでなく、むしろ嬉しいくらいだった。
「まあな。今日はお前の体や脳の事をいろいろ話したわけだが...あまり気にするな!、と言いたいところなんだが、なかなかそんな事ができるほど、お前は強くないことぐらいわかってる。最近悪いことばかり起こっているからな」
悪い事。忌まわしい記憶がまた吹き返してくるのを無理やりかき消した。もうこの作業も、一種の現実逃避みたいなものだ。本当はきちんと向き合わなければならないだろうが、謙二も言った通り、僕はそんな事ができるほど強くない。結局、現状は変わらないままなのだ。
「だが、そんなお前にも嬉しいニュースを持って来てやった」
先ほどの回想が嘘のように、僕はその言葉の先を待ち望んだ。
「さあ、なんだと思う?」
わからない、と首を振った。正直言うと、この会話の中に疑問詞の文は存在しなくていいと思う。ただ、そのニュースとやらを早く言って欲しかった。
僕があまりにも早く首を振ったせいで、彼は少々落胆しながらも口を開いた。今度は茶化すような雰囲気ではなかったし、ましてや冗談を言うような雰囲気でもなかった。
「なんと、お前の名前が決定した」
そう言って謙二は1人で手を叩いた。あまりに衝撃だったため放心状態に侵された後、どうすれば良いか分からず、宮美に目線で助けを求めた。だが、彼女も初めて聞いたのだろうか。目を丸々とさせ、口をパクパクさせていた。まるで今、その事実を知ったかのように。
「ちょっと!私そんな事聞いてないんだけど!」
やはりそうだったのか。全く、謙二という男。何をしでかすか分かったものじゃない。ましてや自分の妻に、そんな重要なことを言わないとは。この男の頭の中を一度見てみたいものだ。
「まああくまで確認だが、お前は名前をつけて欲しいか?それも俺なんかに」
本人は自分を卑下したつもりだろうが、その目は自信がうち溢れ、承諾以外の返事は受け付けない、真っ直ぐな目をしていた。
名前をつけてあげよう、と言われている当の本人は満更でもない気持ちだった。元々名前なんて必要ないと思っていたが、いざ付けてあげようと言われると、付けてもらいたいと思った。そしてこの単純さにも、そろそろ諦めがついて来た。
「はい、どうせなら付けて欲しいです。それに名前が無いと色々と不便だし」
「それもそうだな。じゃあ発表するぞ。お前の名前は...」
生唾を飲み込む。
「『広』だ」
広...。広か。
「謙二!」
宮美が、彼女の口からは聞いたことがないくらい大きな声で彼の名を呼んだ。その目は鋭く、刺す様にして彼を睨みつけていた。
なぜ彼女がそんなに怒っているのか、僕には分からなかったが、謙二はそれを悟っていたかの様に、彼は口調を優しくして、次の言葉を用意していた。
「まあまあ、そんなに怒るな。それに、もう何年も経っているじゃないか」
「いいえ、私は認めないわ。謙二、あなたまさか忘れたなんて言うんじゃないでしょうね」
「忘れるわけないじゃないか。忘れたことなんて経ったの一回もない。だがそろそろけじめをつけるべきじゃないかと言っているんだ」
忘れる?けじめ?待ってくれ。この2人は何のことを言っているんだ?それに何年もって...。一体2人の身に何があったんだ。とにかく、容易く名前をつけてもらえない状況なのは確かだ。
「あの、もしあれだったら別に名前をつけてもらわなくてもいいですよ。それにほら、別の名前にするって手もあるし」
「そうよ。わざわざその名前にする必要なんてないわ」
それが今できる最善の手だと思う。少なくとも悪いことは言っていないはずだ。現に宮美も賛成している。しかし、彼はそれに断固として首を振った。
「いや、この名前じゃないとだめだ。いい機会じゃないか。忘れろなんて言っていない。ただ、けじめをつけないかと言っているんだ。そんなんだと、いつまで経っても今のままだぞ」
変わらず謙二の声色は、不気味なほど穏やかだった。今の状況に全く動揺していないし、むしろ楽しんでいるのかとさえ感じてしまう程だ。
「とにかく、私は認めないから。みんながいいって言っても、私は反対だから」
彼女はそう言い残すと、荒々しく扉を閉めて出て行った。
先程の喧噪から一転、静まり返った病室に取り残された謙二に掛ける言葉が見つからず、狼狽している僕とは違い、謙二は尚も平静を保ったままだった。
彼は一息、吐息を漏らすと、苦笑して扉から僕の方へと視線を向けた。何度も言う様だが、彼は至って落ち着いていた。焦っている僕がおかしいかの様に。その目は猛反対されたにも関わらずその輝きを失わず、むしろこれからに希望を抱いている少年の様に、一層輝いて見えた。
「あーあ、出て行ってしまったな。まあまた別の機会に説得してみるよ。ところで『広』。お前はこれでいいか?」
「これでいいって言うのは?」
「見た通り宮美はこの名前をつけるのに反対している。それでもお前はその名前をつけてほしいか」
考えてみると、やはり悩む。当然名前はつけてもらいたい。それはただ便利なだけではない。気づいたのだ。ただ名前を呼んでもらえるだけで、存在意義があると言われている様な、幸福を感じてしまったのだ。2人に了承を得てから名前を受け取るべきだと思う。だが、僕はこの絶対的且つ必然的な、三大欲求とも引けを取らないこの欲求に逆らえなかった。
「僕は名前をつけてほしいです。あなたがつけてくれた、この世でたった1つのその名を僕にください」
覚悟を決めた。それほど名前をもらうという行為は僕にとって重要なことだった。
「まあ、そんなに固くならない。そうは言っても、これは仮の名前なんだ。もしお前が全てを思い出したら、きっと記憶を失っていた期間に起こったことと同じ、忌々しい記憶になって、お前の中に留まり続けるだろう。お前はそれでもいいのか?もしかしたら一生お前を苦しめる、一つの原因になり得る可能性があるんだぞ」
だが僕の覚悟はいつのまにか、彼の言葉に惑わされないほど強固なものへと変わっていた。
「それでも構いません。たとえ忌々しい思い出になろうと、僕は絶対に後悔しません。だからどうか...」
この判断が吉と出るか、凶と出るか、それは今は分からない。だが宮美も言っていた「記憶の呼び醒まし」、その可能性を1パーセントでも増やすためには、小さいことでも少しずつ実践することが、一番の近道ではないかと思う。少なくとも、今はそれで十分だ。
「わかった。じゃあお前は今日から広だ。改めてよろしくな、広」
「よろしくお願いします」
「だからそんなに固くならない。じゃあ宮美にも伝えとくから。あいつが賛成するかどうか分からないけど」
僕は首を縦に振った。彼は病室を出る間際、今思い出したかのように言い残した。
「そういえば、明日から病室が変わるからな。今救急治療室に居るわけだが、明日から普通の病室に代わってもらう。いつまでもここに居るってわけにもいかないからな。
いきなり環境が変わって大変だと思うが頑張ってくれ」
僕の返事を聞かずに、彼は病室を後にした。
なんとなく移動しないといけないとは察していたが、意外と早いものだった。今の環境から一変するとなると、当然不安も募るが、なんとかなると軽い気持ちで割り切った。
いつの間にか寝ていたらしい。窓の外はまだ薄暗く、人通りも少なかった。今日から僕は「広」としての新しいスタートを切るのだ。当面の目標は取り敢えず怪我を治すこと、あと2人に迷惑をかけないこと。2つとも出来て当たり前なのだか、僕には人の当たり前が出来ないのだ。仕方がない。
もう暫くするとまた2人が来る。今の生活が、また別のものへと変化するのだろう。期待に胸を膨らます。
だがそれと同時に不安もあった。今の生活だけでもかなり大変というか、自分にとって精神的にもかなり追われている。そこから同時に人並みの生活をしろと突然言われたら、うまくやっていける自信がない。たくさんの人に迷惑をかけるかもしれない。それでもいいのだろうか。もしかしたらみんな僕の事を時期に腫れ物扱いするかもしれない。そんなことになるのなら僕はもう消えてしまいたい。
想像の世界だけで、いつの間にか自己嫌悪になってしまっていた。僕の悪い癖なのかもしれない。
とにかく、スタートを切ったからにはいつまでも走り抜けること、言い換えると失敗しないことが重要だと思う。
怪我が治るまでの数ヶ月間走り抜ける事を意識する。これだけだ。
「やっぱり証拠のブツは見つかりませんねぇ。よく隠してらっしゃる。ねえ、三谷さん」
後ろから一回り年が下回っている田中が話しかけてくる。こちらは事件の書類整理で忙しいというのに。
「ああ、そうだな。まあ捜査してりゃそのうち出てくるだろ」
あちらには目もくれず、書類片手にパソコンに目を向け、適当に流す。
「でも本当にどこ行っちゃったんでしょうねぇ。証拠1つ残さず消えてしまうなんて中々のやり手ですよ。犯人も」
田中は感心するように愚痴を漏らす。
「あ?なんの話をしているんだ?」
「え、三谷さん知らないんですか。あれですよ、赤城っていう男が海で溺死しているのが発見されたやつですよ」
ああ、そういえばそういう事件があったような気がする。16歳の息子が未だに発見されていないっていうあれか。
「だけどあれは心中したってことで片付けられたんじゃなかったか。上もそれで終いだって言ってたような気がする」
「そうなんですよ。上も本当は心中したってことで、息子を捜索して終わらせようとしたらしいですよ。だけどメディアが大々的に報道したお陰で、世間の目もあるってことで、つい最近捜査本部を設置したらしいですよ」
そんなことがあったのか。知らなかった。
「へー。で、時効期間はどのくらいなんだ?」
「確か6年だったか、7年だったか、そのくらいだったと思います」
案外短いんだな。まあ、警察も情けで設置したような本部だ。心中したにしても、息子が見つかればすぐに本部も撤去されるだろうし、少しの辛抱ってことかな。
「そうなのか。誰が担当になったんだ?」
すると田中は拍子抜けしたような、キョトンとした表情になる。
「え、三谷さんじゃないんですか?三谷さんが担当って聞いたので激励の言葉でも言おうかと思って来たんですけど…」
なんだと?俺が担当?そんなこと言われてないぞ。いや、待てよ。確か何か言われたついでに黄色い書類をもらった覚えがあるような...。
机の上に置いてある書類の山から、記憶を頼りに黄色い書類を探していく。
あった...。急いで内容を確認する。明日...会議...。顔から血の気が引いているのが分かる。サーっと冷や汗が吹き出てくる。
「もしかして...、三谷さん...」
ああ、と言葉を返す。今夜は寝れそうにない。
事故から1ヶ月と少し経ったくらいだろうか。僕は普通の病室でいつものように朝食をとっていた。相変わらず量が少なく、四六時中腹を空かしているのだが、今でも贅沢は言えない。食べられるだけ感謝だ。
今日もリハビリをしなければならない。主に歩くことの練習だ。痛みは伴うが、我慢しなければいつまで経っても治るものも治らない。謙二が懸念していた怪我からの後遺症も殆ど姿を現さなくなり、実に良い兆候だ、と謙二がいつだか言っていた。
病室はもしもの時にすぐ対応できるよう、複数人で使う病室に預けられた。因みに、僕のいる場所は入り口から見て一番奥の右側。当初は1人だったものの、数週間後には薄化粧の若い女性が僕の隣の病室へと入っていった。
その女性とは病室は隣なのに言葉を交わしたこともなく、面識さえなかった。隣の人が女性だとわかったのも、謙二に聞いたからだ。面識がないのも、女性も僕も元々リハビリや用事がある以外に決して部屋から出ないからだ。
カーテン一枚に仕切られた病室の中は比較的軽便で、点滴の他に、机、その上にテレビ、棚がある。緊急治療室に比べても、その利便性は一目瞭然だ。
後々謙二に聞いた話だが、緊急治療室にあれほど長く居ることは普通ないらしい。だが当時の僕は情緒が不安定で、いきなり部屋を変えるのも如何なものかと思い、移動するのを遅くしたらしい。
朝食を摂り終え、いつものリハビリの時間になった。
起き上がると、ベッドの側に掛けておいた松葉杖を使って歩き出した。
当初はずっとベッドに寝ていたおかげで、腕の筋力が落ち容易に松葉杖を使うことができなかった。だがある程度動けるようになって、腕の筋力も元に戻り今では人並みに使えるようになった。
幸いにも右足の怪我は2週間ほどで大方完治した。今では右足は完全に地に足つけれられるようになった。だから車椅子から松葉杖へと転向した。
隣の様子をふと伺う。人の気配は感じられるが物音が全くしない。普通は聞こえるはずの息遣いさえ聞こえないから気味が悪い。
病室を出てエレベーターの前まで来た。下を指しているスイッチを押して迎えがくるのを待つ。いつも使っているのに、これを使う時間だけは一向に慣れない。体が慣れてはいけないと暗示されているのだろうか。その可能性すら疑ってしまう。
迎えがくると扉はゆっくりと開いた。
中の構造はいたってシンプルで、不満な点など何1つ見当たらないのに妙に心拍数が上がる。
中に入ると1と記されたスイッチを押して、扉が閉まるスイッチを連打した。扉は望み通り颯爽と閉まると、下に向かってその身を降ろした。
右足の貧乏ゆすりで気を紛らわしながら1階に到着するのを待つ。心拍数はゆっくりと早くなっていき、到着する頃には自分にまで心音が聞こえて来ていた。
扉が開くと飛び出るようにして外へ出た。受付嬢が身を案じ、飛び出そうとしたのを右手を上げて静止させた。彼女は動きを止めるとこちらを見てにこやかに笑った。僕は一礼すると、ここから正面右側を入ったところにあるリハビリテーション室に移動した。
病院の関係者の半数以上が僕の状態を把握しているらしい。謙二が言っていた。そのおかげで助けが必要な時などに助けてもらった。その好意に甘えてはいけないのだが、怪我を早く治すために背に腹は変えられなかった。
陽が当たらないため薄暗く、じめじめしている、何かが出そうな廊下を抜けリハビリテーション室に着くと、既に僕の担当の作業療法士は、部屋の中にある椅子に座って僕が来るのを待っていた。
遅れたことを詫びると、彼はいつものことだと快諾した。
いつものようにリハビリが始まった。足を曲げたりすることから始まり、最後はつっかえを使って歩行練習をした。リハビリ中は常に多少の痛みを伴うが、そんなことに根を上げているようではリハビリなんてできない。顔をしかめながらも痛みに耐え、3時間に及ぶそれは終わった。
担当者に礼を言うと、また来た道へと帰路についた。
相変わらず薄暗い廊下を歩いていると、前方に人影が映った。多少ビクつきながらも目を凝らすと、白衣を着ている何者かがこちらへ向かって歩いて来ている。
その人物の顔を伺うと同時にこちらへ向かって走って来た。僕は驚きのあまり一歩も動けず、その場に腰を抜かした。分かっているはずなのに。僕にそんなことをしてくるような人物はこの世にたった1人、謙二なはずなのに。
彼はこちらに走って来て、腰を抜かしている僕の目の前にしゃがむと高らかに笑った。
「広、お前本当に面白いな。やっぱりお前は脅かしがいがある」
「いいから...、早く起こしてください」
はいはい、と先ほどの笑いの余韻が残ったような声で返事をすると、僕の腕を掴んで軽々と起き上がらせた。
まったく、怪我人を驚かして腰を抜かさせた挙句、謝りもしないなんてこの男は本当に医師なのか?非常識な一般人としか思えない。それにしても...
「謙二さん、目良いんですね。あんなに遠くから見えるなんて」
「あ?俺別に目が良いわけじゃないぞ。ただコンタクト付けてるだけだ。まあお前みたいに、背が高いがガリガリの奴が松葉杖を使ってたら特徴的すぎてすぐ分かるさ」
彼は褒められた方がよほど嬉しかったのか、饒舌に、そして得意げに語った。
すると僕はあることを思い出した。そういえばこの間、足の状態の途中経過を見るために、レントゲンを撮る予定だったのだ。だが僕の大寝坊で謙二に大きな迷惑をかけてしまったのだ。これはこの間の出来事を払拭するチャンス。謙二をもっと褒めてやろう。そしてその出来事諸々記憶から消えてもらう。
「それでもすごいですよ。こんなに薄暗いのにわかるなんて」
「そんなに薄暗いか?もしかしたら俺、夜目が効くのかもな。お前がどんなに悪事を働こうとも俺の夜目が見逃さないからな」
また笑った。
どうやら上手くいったようだ。機嫌が良くなった。この間の出来事も忘れたことだろう。
「じゃあ俺も仕事に戻るから。お前も気をつけて帰れよ」
はい、と返事をすると、彼は踵を返して歩き出した。僕も帰ろうかとエレベーターの方向に歩き出した時、ああそれと、と彼は再度振り返って言った。
「この前の事、まだ忘れていないからな」
バレていたか。
病室へ帰って女性の病室を一瞥する。彼女の気配はなく、病室は静まり返っていた。彼女の自室のカーテンを開けそうになった欲に塗れた手を呪ながら、自分の部屋のベッドに寝転んだ。
目の部分に腕を置くと、煌煌としていた風景は薄墨色となり、次第に涅色と原型を見せないようになった。
目が覚めた頃には、外は月光が外を照らし始めていた。寝た時間が時間なだけになかなか寝付くことができず、起き上がったまま外の風景を眺めた。
テレビを見てもいいのだが、カーテン1枚に遮られた頼りない壁だ。他の同居者に迷惑をかけたくないという意味でテレビは極力見ないようにしていた。
なので僕の行動はいつもボーッとカーテンか天井を見るか、外の景色を見るかの3択に限られていた。
階層が下がったのもあり、広くを眺めることはできなくなったが、地上に近づいたことで人々の生活をより身近に感じるようになった。
相変わらずの帰宅ラッシュで街は混雑しているが、窓の内から見ている僕には滑稽に思えて仕方なかった。
頑張っているな、とよく頑張れるな、という、言葉のイントネーション1つで意味が大きく変わってしまうような言葉しか出てこない。
僕だったらあの混雑から抜け出せるのだろうか。もしかしたら家に帰るのを諦めて駅前で野宿するかもしれない。
悠々と外を眺めていると病室の扉が開く。相変わらず温かみのない足音をさせ、自分がいる部屋の方へと歩いてくる。
彼がこの部屋に来るのはいつぶりだろう。足音が2つするってことは彼女も来ているってことだろうか。
カーテンが掴まれ、思い切り良く開かれる。
「おっす。いやー、この部屋に来るのもいつぶりだ。お?相変わらず具合の悪そうな顔しやがって。って、そういえばさっき会ったんだっけか?」
一瞬でその場をまくし立て、高らかに笑っている。
「ちょっと、謙二さん!ここ病室ですよ!声量をもうちょっと下げてください。他の同居者に迷惑かかります」
「そう言ってるお前だって声でけえじゃねえか」
注意しても反省するようなそぶりを見せず、笑いながら反論してくる。
「いいからあんたは少し黙りなさい。全く、あんた医者でしょ。そんなことくらいきちんと出来ないでどうするの」
宮美が持っていた診察書のファイルで謙二の頭を叩いた。
彼は途端にしょげたような表情になる。これが俗に言う、かかあ天下というものだろうか。少々違うような気もするが。
「で、あなたはどうなの?怪我の調子は?」
名前を与えられたから今まで、たったの一度も「広」と呼んでくれない。一体何故呼んでくれないのか、その心理はわからないが、無理して強要させようと思わない。
「大分良くなりました。リハビリも前に比べて苦じゃなくなったし。個人的にはもうそろそろ退院してもいいんじゃないかな、とか思ってます」
半分冗談で言ったつもりだった。虚勢を張ってみたつもりだった。
確かにリハビリは苦じゃなくなった。だが退院したらしたでどうなるんだ?行くあてもないし、金銭面的にも不安が募る。言ってみれば僕の未来はお先真っ暗なのだ。
「怪我が良くなったんなら何よりだ。これはお前に言い忘れていたことだが、一応お前が退院したら俺たちとは別の人が、住む場所を確保しているからそこに住めばいい。生活費なんかも国から補助金が与えられるだろうしな」
それを聞いて安心した。退院するのに自分が危惧していたことが解消されるのだから。ほっと胸のうちを撫で下ろす。
「だがそれはあくまで身内が迎えに来なかったり、身元引き受け人が居ない場合なんかに適応される。身内がいるんなら殆ど適応されないだろうな。補助金くらいは出るだろうが。だから、広」
謙二がニヤリと笑う。僅かコンマ数秒の間に様々な思惑が、まるで走馬灯のように頭を過る。
「俺たちの家に住まないか?」
一瞬では理解し得ない爆弾発言がまたも飛び出した。今度こそは宮美の蹴りが謙二に放たれる。宮美のいる方向に視線を移し、制止させようとした。
だが彼女は多少不満そうな顔をしながらも、腕を組んで黙って謙二を見ていた。
短いようで長い沈黙が病室の一室で留まり続けて居た。三方それぞれに、それぞれの思惑があることだろう。
2人がどう思っているかはわからないが、僕の思考は一瞬停止していた。再び稼働し始めた脳には、膨大な量の情報が流れ込んで来た。
宮美が何も言わない。というならば、謙二は既に彼女から了承を得ているということだろうか。
「ち、ちょっと待ってください。考えさせてもらっても構いませんか?」
依然思考し続ける脳を無理矢理制止させるように言葉を絞り出した。
彼はさも当然かのように首を縦に振った。
「まあ当然だろうな。一応、物件を探す人には一旦探すのをやめるように言っておくから焦らず、じっくりと考えてくれ。今後の人生に関わってくることだからな。俺たちにかかる迷惑なんか気にしないでくれよ」
僕が首を縦に振ると、謙二は穏やかにほくそ笑んだ。宮美の顔は依然険しいままだが。
「まあそういうことだから。今日は日も傾いちまったし、ゆっくりしな。返事はまた病院で出会った時でいいから」
そう言い残すと満足そうにして、病室から出て行った。
病室の扉が閉まる音と同時に、張り詰めていた緊張の糸が切れるようにして大きく溜息を吐いた。いつのまにか額には汗がジワリと浮かび上がっていた。
窓を開け汗を拭うと、仰向けでベッドに俯いた。
窓から入ってくる冷ややかな風が首筋を優しく撫でる。明るく照らされた月光の一部が自分の上体を照らす。まるで悲劇のヒロインにでもなったかのような光景だった。
うつ伏せにしてたのを体を丸くさせ、顔を蹲らせる。今日起きた出来事が全て夢だったら良かったと思う。
彼らの家に住みたくないわけではない。ましてや物件を探してもらいたくないわけでもない。ただ思い違いをしていた。ずっと病院にいて、重要なポジションに付かずプレッシャーのなかった1ヶ月半。その間に僕の精神は腐ってしまったのだ。
このまま何も起こらず死にたかった。
言葉にできず、口にも出せないが、正直なところ、それが本音のように思う。謙二の問いも恐らくそれが答えだろう。一種の現実逃避だと思う。改めて、腐ったのだ。身も心も。
変化を求めないというのも1つの意見かもしれない。だが現段階で変化を求めなければ先に進めないのだ。
幾重にも連なる分岐路から幾度となく選択し続けなければならない。それは人間が生きていく中で、利己的でありながら、確かに必然的な事なのだ。逆にそれがなければ人間は人間ではではなくなり、所詮よく似せた銅像に過ぎないのだ。
立ち止まっていたらダメだ。臆病な自分は、ダメだ。
答えは決めた。手を、強く握りしめた。
先日の、月光に照らされた悲劇のヒロインなんて嘘みたいだ。今度は太陽に照らされた聖者のようだ。なんて恥ずかしいことを思っていたのだ、と今更ながらに思う。
どうやら人間の心境の変化は激しいらしい。もし僕が人間としての道を踏み外していなければ。
問いへの返事したさで病室を飛び出してきたのはいいものの、1つ、肝心なことを忘れていた。
僕は謙二の勤務時間も、いつもいる場所も知らない。
為す術もあてもなく、病院内を彷徨った。
1ヶ月半も同じ場所で過ごしているのに、未だに目新しいものがあちこちで発見される。改めて感じてしまう。いや、感じさせられる。僕はただ見なかったのではない、何1つとして見ようとしなかったのだ。少なくとも見たような気になっていただけだと。
昼を知らせるサイレンが街全体に鳴り響く頃、ついに彼を見つけることは出来なかった。
なんて無駄な時間を過ごしていたのだろうと徒労に暮れ、諦めて病室に戻ろうとしたその時、後ろの医務室の扉が開いた。絶念した瞳で後ろを振り向いて、その光景を凝視した。
宮美が居た。彼女は僕に気づくそぶりを見せず、資料を懐に携えてこちらに歩いてくる。暫くそのままの状態を保っていると彼女も僕がいると気がついたのか、一瞬こちらを見たが、すぐに視線を元に戻し、淡々と歩を進めた。ついにすれ違う。思惑が頭を駆け巡る。
「あの...」
意識よりも先に言葉が出た。
「け、謙二さんはどこに居ますか?」
数々の思惑から絞り出した一言でなく、突発的に出た、躊躇した一言だった。
「え、あ、ああ。彼なら今日は休みだから家にいるわ」
予期せぬ質問に動揺をあらわにしながらも、彼女は質問に答えた。
「そうですか、ありがとうございます」
礼を言うと、もと帰る道へ引き返した。
なんであんなこと言ったんだろう、と頭を抱えながらその場から退こうとした。
すると、後ろから声が聞こえた。何事かと振り向こうと思ったが、僕に声をかけるのは宮美くらいなものだし、第一彼女が僕に話しかける理由が見当たらない。空耳かと思い、気に留めず歩き出そうとした。
そして聞こえた2度目の空耳。今度は言葉に抑揚が付いていた。やけに現実味のある空耳と思いながらも再び歩き出す。
すると次は肩を鷲掴みされ無理矢理後ろは振り向かされた。
「ちょっと待ってって言ってるでしょ!」
廊下に声が響き渡るくらい甲高く大きな声で彼女は叫んだ。
いきなりの怒声に少々体をビクつかせ、驚いた表情で後ろを振り向くと、僕の反応を見た彼女も驚いたのか、自分と同じような表情をさせ僕を見ていた。外から見てこれほど異様な光景はないだろう。
依然瞬きを続けている僕を見て、彼女は申し訳なさそうな顔になりながらこちらを伺っていた。
「どうしたんですか」
僕は一声かけた。彼女が申し訳なく思っているにもかかわらず、僕の心の中は何故か高揚していた。まるでその時を待っているかのように。
「いや、大したことじゃないのよ」
彼女は下手にはぐらかしてその場を立ち去ろうとした。僕は衝動的に彼女の腕を掴むと、こちらに引き戻した。
「わかった。わかったから腕から手を離してくれない?」
焦るように自分の手を背中の後ろに追いやると、彼女は観念したように顔をしかめ、口をゆっくり開けた。
「あなた、うちに住んでいいわよ」
何を言われたのか、一瞬わからなかった。近い過去にも味わった感覚。やっと情報が頭の中にインプットされると、次に言葉にするのに時間がかかった。口の中は既に、乾パンを食べたように乾燥している。
わずか3、4秒。その間に僕の脳は信じられないほど活用されたと思う。
「本当にいいんですか」
喉の奥に残っていた唾液の残りカスで口を潤わせると、やっと言葉にすることができた。
「ええ、いいわよ」
正直なところ宮美の反応が一番心配だったのだ。彼女に聞こえないように小さく、しかし極端なほどに安堵の吐息を漏らした。彼女にそれが聞こえたのかは分からない。ただ妙に眉に皺をつけているのが、彼女の顔に不釣り合いなだけだった。
「だけどね」
一言で現実に引き戻された。
「私たちの家に来たらそれなりに知ってもらうことがあるかもしれない。それでもいいの?」
拍子抜けした。もっと危ない話題かと思っていたが、そうではないらしい。たったそれだけのこと、既に覚悟をしている。
「全然、大丈夫ですよ!居候させてもらうなら、それくらい、当然ですからね」
力強く胸を張った。彼女は心配そうな顔をしたまま踵を返すと、僕の先へ歩いて行った。
結局その後何の進展もないまま、淡々と時間が過ぎて遂に1日が終わってしまった。
一体覚悟とは何だったのか、拍子抜けしたような、がっかりしたのか安心したのか、よく分からない感情だった。
その後無事謙二に会うことができ、一通り事情を説明したあと、居候させてもらえるようお願いすると快諾してくれた。
なんとか会議に間に合わせる事が出来た。
会議に遅刻しそうになるのなんて新人の頃以来じゃないか?資料の準備を忘れてたなんて...、まだまだ刑事としても、人間としても未熟という事がよくわかる。
会議の内容は主に死亡現場の説明、死体の状態を担当する者達で確認するだけだった。
担当者には自分を含む、ベテランと呼ばれているような刑事が数人召集されていた。
事件の内容を聞いた時、薄々勘づいた。おそらく彼らもそうだろう。長年の刑事の勘とでも言うのだろうか。あれは...。
「三谷さーん、資料の整理手伝ってもらえませんか?」
突然後ろから肩を掴まれて、一瞬体がビクつく。
「なんだ田中、俺は今忙しいんだ。あっち行ってくれ」
「そんなこと言っちゃって。1人でボードゲームしてるじゃないですか。寂しいなー。僕も一緒にしてあげましょうか?」
確かに、机の上にはオセロやら人生ゲームやら麻雀やら、色々な物が乱雑していた。
「あ?これは...その、昨日の夜やってたんだよ。夜勤で暇だったから他の先輩方に誘われて...」
「そういうのいいですから。ほら、机の上片付けて。これじゃ仕事できないじゃないですか」
言われるがまま散乱した物を元の場所へと戻していく。これじゃどちらが先輩かわからないじゃないか。
机は次第に原型を取り戻していき、数分後には元あるべき状態に戻っていた。
「さあ、片付けも終わったことだし、資料の整理手伝ってもらいますよ」
田中の生き生きとした声が飛んでくる。こいつの声がここまで嫌に聞こえたのは未だかつてあっただろうか。断言しよう。ない。
「はあ、なんで俺がやらなくちゃならないんだ。忙しいって言ってるのに」
「なんで?なんでって言いましたね?僕は先輩の机の上を救済したんですよ?じゃあ次は僕が救済してもらわないと。手伝ってくれないと、今度入ってきた新人に三谷さんは非情な人だって吹き込みますよ」
「手伝ってやるよ。だから間違っても吹き込むなよ」
下手に脅迫され、観念したように俯いた。田中は嬉しそうにニヤリと笑うと、綺麗になった自分の机に資料を置いた。忽ち机は地震が起こった後のように物が傘ばんだ。軽く絶望する。
「それにしても、なんでお前こんなに資料の整理してんだ?これ、お前1人に任せられるような量じゃないぞ」
「ああ、これですか?他の先輩に任せられたんですよ。お前はまだ若いから元気が有り余っているだろう。だから代わりに俺の仕事もやってくれって」
段々こいつが可哀想になってきた。本人はわかっていないようだが、上の人の田中に対する一種のいびりじゃないか。小さく舌打ちをする。
「わかったよ。可哀想だからやってやるよ。で、どれから手をつけりゃいいんだ?」
言葉を吐きながら机の上にある黒縁の老眼鏡に手を伸ばし、耳と鼻にかける。その間に田中は散乱した資料の中から赤い封筒を取り出した。表面には『機密』と書かれている。
「取り敢えずこういうのから手をつけていけばいいんじゃないですか?」
取り出した封筒を奪い取る様にすると、封筒の中身を取り出し、それを確認した。
殺害された被害者の当時の様子が事細かに記されていた。
機械的に打ち込まれた、何の特徴も変哲も無い文字がダラダラと書き込まれている中で、たった1つだけ赤い太字で打ち込まれた、異色な存在感を放つ文字に目を奪われた。
『被害者の頭部に衝突痕アリ。海に飛び込んだ際に頭部が岩等にぶつかったものと考えられる』
「これは…」と田中は言葉を失っている。
「ふんっ、警察の根性も観察眼も衰えたもんだ。くだらねえ。付き合ってられるか」
そう言うって足を机の上に置いた。
心底残念な気持ちだった。
自分が職についた当時は、これほど正義感に溢れた仕事はないと思っていたが、今やこんなに廃れていたなんて。残念なのもそうだが、これから長い間勤務していくであろう田中に申し訳なく思った。
「三谷さん、もしかしてこれって...」
「ああ、そのもしかして、だな」
「でも、そんな事普通あり得るんでしょうか」
彼は信じられないといった表情をして、こちらを覗き込んでいる。
「あり得るも何も...。若者とベテランの2人の刑事が同じことを思ってるんだぞ。つまりそう言う事なんじゃ無いのか?」
「じゃあやっぱりこの事件って...」
ああ、間違いない、と言って次の一言に懸けるように大きく空気を肺に取り込んだ。
「これは殺人事件だ」
退院の準備をしていた。
手続きは2人が済ませてくれたようで助かった。自分1人ではどうすることも出来ないから、人の手を借りるしかない。我ながら情けないとは思うのだが、それはどうしようもない、僕が持ち合わせている数少ない真実の1つなのだ。受け入れるしかない。
手持ちが少ないため、準備はすぐ終わり、一階へと移動した。
足に多少の違和感はあるものの、ほぼ完治で、しかも後遺症がほとんど残らなかった。なのでリハビリも兼ねて、基本、階段移動で上り下りを繰り返していた。
一階に着くと、2人は既に受付を済ませて入り口で壁に縋りながら僕を待っていた。
僕が駆け足で2人の元へ駆け寄ると、2人は僕に視線を移し、縋っていた背中を起き上がらせた。
2人とも無言のまま外に出た。一見愛想をつかされたかのように思ったのだが、そうでもないらしい。顔を強張らせて、緊張した面持ちだった。
バックをトランクに放り込むと、車の扉を開け、中に入った。
ここ1ヶ月と半月以上の期間を経て編み出した症状が起こらないようになる方法を試すときがきた。こんな大それたことを言っているのだが、方法は至って簡単。目を瞑って体を蹲らせるだけだ。これだけをするだけなのに1ヶ月と半月以上をかけたのかと、馬鹿にするのはやめてもらいたい。0から1を生み出すのが一番難しいのだ。むしろ褒めて欲しいくらいだ




