パパは殿下??
何やら真横でリカルドが喚いている。
私の耳元でごちゃごちゃと話しかけてきていたが、それらは全く私の耳に入って来なかった。
ーー伯爵に、ノランに、子どもがいる。
しかも、その子は母親のアリックスとやらに置いていかれ、今私の目の前に立ち尽くしている。
テーディ子爵家まで迎えに来た、馬車の中のノランを思い出した。彼は、子どもは暫くいらない、と宣言していたではないか。それなのに、もう自分には五歳になる少年がいたとは……!
「聞いてらっしゃいますか?」
ようやくリカルドの声が私の耳に入ってきた。
彼は長い手足を振り回して、懸命に私を説得していた。
「こんなはずはありませんから! ノラン様に子どもなんて……私じゃあるまいし」
捨て身の擁護が痛々しい。
立ちくらみがする。
硬く瞬きをして、深呼吸を繰り返し、どうにか自分を落ち着けた。
改めて少年を見つめると、彼は顔をくしゃくしゃに歪めていた。
戻らない母親と、目の前に立つ私とリカルドの反応が少年を怖がらせたのか、彼は大粒の涙を流し、鞄の中にあった丸まったタオルでそれを拭い始めていた。
ーーとりあえず、この状況をまずどうにかしなければ。
私はリカルドを見た。
「リカルドさん。この周辺にまだこの子のお母さんがいるかもしれません。探して貰えますか?」
リカルドは表情を引き締めてからしっかりと頷き、馬を取りに走って行った。
途中で納屋から出て来たマルコを捕まえて、何やら身振り手振りを交えて怒涛の如く話しかけていた。
残された私は、少年を何とか宥めようと試みた。
「ねぇ僕。お名前は?」
手紙には名前が書かれていたが、念のため聞いてみる。泣いてしやくり上げる少年はなかなか答えられず、間が空いた。
「……ピー…ター…」
「ねえピーター。お母さんは直ぐには戻って来ないかもしれないの」
「……なんで?」
なんでだろうね。そんなのはこちらが聞きたいくらいだ。
「お手紙にね、うちで少し待ってて、って書いてあるの」
少年はタオルから顔を上げて、私を見た。
儚げな茶色い瞳が、切ない。
私は無意識に、少年とノランの顔の類似点を探そうとしてしまった。
「お昼は食べた?」
少年が小さな顔を左右に振る。
「……じゃ、うちで一緒に食べようか?」
「でも……。僕……」
「ジュースもあるよ? クッキーも食べる?」
少年は顔をパッと輝かせた。
「お昼食べる!!」
私はズタズタの心で笑顔をどうにか作り、少年の手を恐々とりながら、屋敷へ向かった。
歩きながらクッキーが果たしてこの家にあるのかが若干心配になった。
居間の席に少年を座らせると、台所にいたオリビアに事情を話し、彼の分の食事の用意も頼んだ。
オリビアは真っ青になって、言葉を失っていた。無理もない。
私は倒れそうだ。
「ノランが早く帰ってくると良いんだけど」
「はい。本当に」
オリビアは上の空でそう呟くと、何度も居間の方を見た。
暫く無言を貫いていたオリビアは、やがて私の直ぐ近くに来て、真剣な眼差しで言った。
「……こんなことがあるものですか。絶対に違いますよ。あの旦那様に限って」
そう思いたい。
でも私は今の彼も、昔の彼も良く知らないのだ。
胸に重い石でも乗せられたような気分で、私は食糧庫を漁った。ピーター少年の釣り餌にしたクッキーの存否を確かめたかった。
オリビアに聞けば良いのだが、頭が回らない。オリビアはオリビアで混乱しているのか、食器棚から皿を出したりしまったりを、無意味に繰り返していた。
そうこうするうちに、廊下から足音が聞こえてきた。
大股で歩くその音は、間違いなくノランのもので、私とオリビアは同時に顔を見合わせた。
ノランは一旦居間の前で立ち止まると、直ぐに回れ右をして台所の方へ歩いて来た。
彼は台所へ入ってくると、何食わぬ顔で私に聞いてきた。
「あの少年は誰だ?」
それはこちらのセリフだ。
「ご存知ないんですか?」
「見覚えはないが」
見覚えなくても、身に覚えはあるのかも知れない。
私は少しカマをかけてみることにした。
「アリックスさんという女性を、覚えていますか?」
「アリックス? どのアリックスだ?」
そんなに多い名前とも思えない。それとも元王子様ともなると、知り合いだけでも山ほどいるのだろうか。
私とは踏んできた場数が色々と違うのだろう。
私は腰に手を当て、顎を外らして言った。
「アリックス・ガソンさんです!」
「……どうかな。思い出せないが」
思い出してよ!!
まさかたった一夜、気まぐれで手を出してポイ捨てした女性だった、とか……?!
なんだかノランが急にひどく無責任な男性に思えて来た。
もしや殿下な王子時代のノランは、今とは違って奔放な生活をしていたのかも知れない。あちこちに手を出して…………ピーターは氷山の一角でしかなく、他にもたくさん隠し子がいるのかもしれない。隠し子どころか、ノラン本人すら知らないとは、もう救い難いじゃないか。
そういった過去の生活に懲りて、子どもは当分要らない、という結論に至ったのかも知れない。だから、私に手を出して来ないのだろうか。
妄想は勝手に私の頭の中で、雪だるま式にふくらみ、怒りやら情けなさやら、ショックやらでおかしくなりそうだった。
こんなことってあるだろうか? 結婚したばかりなのに……。
私はノランをほとんど睨むように下から見上げた。
「六年くらい前に、どなたか恋人はいましたか?」
ノランは全く表情を変えなかった。彼は腕を組んで言った。
「それは何を聞いている? 分かるように説明してくれないか」
私は左手に隠し持っていた封筒から、バッと便箋を引き抜くと、広げてノランの高い鼻にぶつけそうな勢いでそれを見せた。
「ノラン様には、隠し子がいたんですね……!」
ノランはゆっくりと眉をひそめ、便箋を受け取って読んだ。
読後直ぐに顔を上げると、彼は口を開いた。
「なんと。あの時の子か。あのアリックスか。私に息子がいたとは…」
「ノラン様、じゃ……!」
「……とでも言うと思ったのか? 私の子ではない」
心臓が痛い。何故そんな紛らわしい小芝居をする……。
私は過呼吸になりそうなのを懸命にこらえ、ノランの手から便箋を取り返した。
「違うって、断言出来るんですか?」
ノランは直ぐには答えず、顎に手を当て、熟孝する仕草を見せてから返事を寄越した。
「勿論だ。私の子ではないと、誓う」
いや、でも今の考えているみたいな間は何だったの。ただ否定をするのに、なんでそんなに時間が必要なの。アリックスじゃなかったら、子どもの年齢が五歳じゃなかったら、否定できない可能性が、そんな経験が過去にあったっていうこと……?
疑いだすと止まらない。
ノランは否定したのに、私は余計に不安になった。
私の質問に回答をするまでの間に、どんな記憶がノランの脳裏に蘇っていたのか。無性に気になる。
「でも、例えば一夜の過ちという可能性は…」
「貴方は私をどんな人間だと思っているんだ」
「うっ。わ、わかりました」
ノランが否定するのなら、これ以上はどうしようもない。
私は一人残してしまったピーターの相手をしに、居間へ行こうと踵を返した。だが二の腕を後ろから力強く捕まれ、驚いて振り返った。
ノランは私を掴んだまま、私の至近距離まで迫り、その水色の双眸で射るような眼差しを向けた。
「私を信じてはくれないのか?」
「……だって、それじゃああの子の母親が嘘つきだと?」
ノランは私の腕を離した。
居間に戻ると、気の毒な少年は床の上に鞄の中身をぶちまけ、それで遊んでいた。
木で出来た小さな車の玩具を、コロコロと転がしていた。
彼は私に気づくと、慌てて鞄の中身を入れ直した。鞄の中には、石ころまであった。集めているんだろうか。
私は彼の直ぐそばに膝をついた。
「ピーターの家では、ご飯は家族みんなで食べるの?」
「うん。そうだよ」
貴族の家では、子供は親と別の部屋で食べるのが常識だった。同じテーブルで食事を摂るなど、余程の機会でないかぎり、あり得ないものだ。
もっとも私の場合は、母が亡くなってからはほぼ一人で食べていたが。
ノランが居間にやってくると、皆で席についた。ノランは少年を何の遠慮もなく、観察していた。少年はその視線を居心地悪く感じたのか、モジモジと身じろぎしては、哀れな目で私を見た。
オリビアはパンやスープを運んでくると、少年の前に置いたカップにジュースを注いだ。
少年の顔色が輝く。
少年はよく食べた。
この年頃の子はこんなに食べるものなのか、それとも余程空腹だったのか定かではないが、とにかくたくさん食べた。
少年が四つ目の丸いパンに手を出した時、ノランがあからさまに呆れた顔をしたのを、私は見逃さなかった。
食事をしながら、私やノランは何か少年の身元の手掛かりを探そう、と彼にあれこれ質問をした。だが子どもの記憶というものは、本人の手の届く範囲や興味のあったことに限られでもするのか、役に立たない情報が多かった。
昼食をさっさと平らげると、ノランとマルコの二人は、リカルドと合流をしに屋敷を出て行った。
少年の母親を探しにいったのだ。
屋敷に残された私は、少年の相手をしなければいけなかった。