殿下と謎の少年
私がこの屋敷にきてから二日目の夜を迎えた。
ノランは私が寝室に入ると、奥にある狭い方の寝台に座り、手紙の束を広げていた。
十通はあろうかというその束は、寝台のシーツの上に無造作に広がり、ノランは私が入室してもそれを退ける素振りも見せなかった。
これは、私に対する『今夜は広い方で寝ろ』との無言のアピールだろうか。
私は二台の寝台の間を右方左往し、結局諦めて大きい方の寝台へ向かった。薄い緑色のシーツが掛けられた掛け布団をめくり、おずおずと寝台に乗った。
ちらっとノランの様子を伺うと、彼は丁度その視線を私から手紙に戻すところだった。きっと寝台の間を怪しく往復する私の行動を、ずっと観察していたのだろう。
そう思うとかなり恥ずかしい。
ノランが広げる手紙は、そのほとんどの封筒に、立派な封蝋がされていて、彼はそれらを雑に開封した跡があり、中のカードや便箋はシーツの上でごちゃ混ぜになってしまっていた。
彼は私の視線の意味を察したのか、手紙に視線を落としたまま口を開いた。
「全て近隣の貴族たちからの、パーティの招待状だ」
「そんなにたくさんお誘いがあるんですね。……行かれるのですか?」
「いいえ。今はまだ、そんな暇がない」
なんとなく安心する自分がいた。
寝台に身を横たえ、目だけを動かしてノランを見た。
彼は手紙の束をひとまとめにし、そのまま屑かごへと放った。
捨ててしまうとは、おそれいった。
ーーノランももう、寝るのかな。
そう考えながらふうっと息を吐き、目を閉じた。
ギジリ、と寝台が軋む音がして、私は閉じたばかりの目を開けた。驚いたことに、私が横たわる寝台の反対側から、ノランが乗って来ていた。
目を剥いて私が見ている横で、彼はごく自然な仕草で同じ寝台の、一つの寝具の中に身を滑り込ませて来た。
寝台は広かったので、私たちが二人横になっても、まだまだ余裕があった。だが私は十分すぎるほど驚いて、寝台から飛び降りたい衝動に駆られた。
隣に横たわったノランの様子を、息も絶え絶えに伺うと、彼は衣擦れの音を立て、寝台に肩肘を立てて上半身を起こした。
そうしてそのまま、上半身をこちらに傾け、覆いかぶさるように私の顔を覗き込んできた。ーーーー私の呼吸が止まる。
ノランはそっと私の額に唇を押し当てると、私から離れた。その後再び枕に頭を戻すと、ノランは寝台脇の明かりを消した。
「お休みなさい」
ようやく呼吸を再開した私は、やっとの思いで返事をした。
もうとっくにノランの唇は私の額から離れたのに、額がまだとても熱いように思えた。
明くる朝、ノランが起き出す音で、私も目が覚めた。
乱れた髪を慌てて直してから、控えめな笑顔で、ノランに朝の挨拶をする。
ノランのプラチナブロンドの髪は、寝癖で一部が藪のようになっていた。だが寝起きだろうがなんだろうが、顔の造作が非常に整っている為に、その寝癖すらも最先端の流行の髪型の一つみたいに見えた。
羨ましい……。
二人揃って朝食の席に着くと、オリビアは妙に嬉しそうだった。
オリビアは、まあ…! まあ、まあ!! と連呼してから無意味に赤面をし、物言いたげな笑顔を浮かべて、私と意識的に数秒視線を合わせてきた。
「奥様、どうぞパンに蜂蜜を。疲れには一番効きますからね!」
今すぐ、蜂蜜の瓶を持って参ります!とオリビアは張り切って台所へ引き返していった。
彼女は明らかに何か勘違いをしていた。
ダール島での私のそれからの毎日は、不慣れで緊張はしていたものの、かなり淡々としていた。私は一日のほとんどの時間を、家事に費やした。
屋敷の中ではいつも明るいオリビアと一緒だったので、終わりのない家事もまるで苦ではなかった。
日に一度はオリビアは私を外に連れ出し、島のあれこれを教えてくれた。彼女は私にとって、ダール島のお母さんのような存在に思えた。
ノランはたまにリカルドと長時間の外出をした。
そういう時は早朝に屋敷を出発するのもしばしばで、玄関先で私は彼らを見送りながらも、いつもどこへ行っているのか、尋ねられずにいた。そういう時は普段は柔和な雰囲気のリカルドまで、固い張り詰めた空気を纏っているから、聞きにくかったのだ。
ある時、疲れた顔で夕方に帰宅した二人に、私は思い切って聞いてみた。
「今日は島の外に行かれていたのですか?」
だがすぐに、余計な質問だっただろうか、と不安になった。ノランとリカルドは瞬時に目を合わせ、ぎこちない間があいた。
「ああ、島の外に仕事で出掛けていた。留守がちにしてすまない」
そう答えたノランの話し方は穏やかだったが、私の顔を見てくれないのが気になる。それに、仕事と言われてしまうとこれ以上聞き辛い。
でも、本当に仕事なんだろうか……?
ノランは私に話せない何かを隠している気がして、私は同じ屋敷でくらしながら、こう言う時に、いつまでも埋まらないとても大きな心の距離を感じていた。
伯爵邸の周囲は、庭師がいない為に伸び放題の雑草であふれていた。
誰もやる人がいないのだから、仕方がない。
ある時、あまりに見苦しいので、私はついに草むしりをする決心をした。ノランは島の中心地へ出掛けてしまったし、オリビアは別の家事で忙しい。
地面に屈んでブチブチと雑草を引っこ抜いていると、私に気づいたリカルドが、血相を変えてやってきた。彼は納屋かどこかから入手したのか、芝刈り機を押してきた。
彼は風よりも軽い笑顔をヘラヘラと浮かべながらも、猛烈な勢いで芝を刈り始めた。
リカルドが芝刈り機を押し、刈り取られた草を私が八つ手で集めた。
途中で私たちに気がついたマルコも、作業に合流してくれた。彼は軍手をした手で雑草を抜いていたが、芝刈り機並みに速かった。
「マルコさんって、凄く力持ちね」
「はいっ! 自分、脳みそまで筋肉で出来てますから!」
あまりに嬉しそうな笑顔でそう言われ、返事に困った。
庭の広さはかなりあったので、半分を終える頃には、私たちはすっかり心折れてしまい、休憩を取る事にした。
ドレスの裾には、芝のカケラと正体不明な小さな種がたくさんこびり付いていた。最初その種が小さな虫かと思えたので、私は叫びながら大慌てでドレスの裾を振った。リカルドに宥められてよく見れば、虫ではなかった。
しかしながら種は細かな棘があり、生地に張り付いてしまっていて、はたいても払っても、なかなか上手にとれなかった。
どうにかある程度綺麗にすると、私たちは昼食をとりに屋敷へ戻る事にした。
マルコが芝刈り機を納屋に戻しに行き、私はリカルドと屋敷の玄関に向かおうと、すっかり悲鳴を上げている腰をさすりながら、顔を上げた。すると、こちらを見つめている小さな人影に気がついた。
四、五歳くらいの男の子が、五十歩ほど先に立ち、私たちを見ていたのだ。
私とリカルドは互いに顔を見合わせた。
少年はいつからそこにいたのだろう。
彼は動く様子もなく、ただそこに立ち尽くしていた。
少年の周囲に視線を走らせて確認するも、保護者らしき姿がない。
私とリカルドは、少年の方へほぼ同時に歩き出した。少年は警戒しているような固い表情で私たちを見上げていたが、逃げ出す素振りもみせなかった。
私が少年の正面に行き、彼と目線を合わせる為に屈むと、彼は片足で一歩後ずさりした。
柔らかそうな金色の髪が彼の心情のように風に揺れ、茶色の瞳は不安そうに私を見上げていた。
「僕、どこから来たの? お母さんは?」
「……ここで、待ってないといけないの」
「……お母さんをここで待ってるの?」
少年はコクリと頷いた。
私とリカルドは再度視線を合わせた。
この少年は、なぜ人の家の前庭で親と待ち合わせなどしている。
リカルドが、頭をボリボリと掻きながら、少年に尋ねた。
「君のお母さんは、どのくらいここで待ってろって?」
「わかんない」
「……君、この島の子?」
「わかんない」
「お母さんはどこに行ったのか知ってる?」
「わかんない」
何もわからないらしい。それではこちらはもっとわからない……。
気がつくと私とリカルドは二人とも頭をかいていた。
いくら田舎の島だろうと、道端にこんな幼な子を放置するのは危険だ。かといって、屋敷に来てもらったら、母親と落ち合えないかもしれない。
どうしたものかと困っていると、リカルドは少年が身につけている鞄を指差した。
「ちょっとそれ、見せて貰っても良いかな? 君のお家の事が何か分かるかもしれない」
少年は布製の斜めがけの鞄を肩に下げていた。少年の無言の返事を承諾と受け取ったリカルドは、彼を怯えさせまい、と緩慢な仕草で鞄に手を伸ばし、フタを開けた。
開口部からは木の小さなおもちゃや、萎れた花、丸まったタオルが見えた。その隙間に刺さる格好で入っていたのは、茶色い封筒だった。
リカルドはその封筒を取り出すと、少年の了解を得てから中を開いた。封筒には一枚の便箋か入っており、リカルドはそれを無言で読んだ。
「馬鹿な……」
読み終えたリカルドの顔色は、急に悪くなっていた。いつもは柔和な表情のリカルドが、固く顔を引きつらせている。
「リカルドさん、私にも読ませて」
手を伸ばすと、リカルドは何故か躊躇した。
「奥様、これは何かの間違いですから、お信じにならないで下さいね」
言い訳じみたことを言うリカルドを不審に思いながら、便箋を受け取ったーーいや、奪ったと言う方が正確か。
便箋には、黒いインクで短い文章が書かれていた。
『伯爵様
突然の無礼をお許し下さい。
この子の名前はピーターと言います。今五歳です。
ピーターは貴方の子です。
しばらく預かって下さい。
必ず、迎えに来ます。』
頭の中が、真っ白になった。
何度も、何度もその簡素な文面を読み直す。
ーーこれは、何? どういうこと?
いや、迷うまでもない。書かれている内容は実に簡潔だ。
この少年は、ノランの子供だと、そう書いてある。そして当分こちらで預かれ、と。
どうにか顔を上げてリカルドの手元を見ると、封筒の裏に名前が書いてあることに気づいた。
アリックス・ガソン、と女性の名前が記されていた。
私は震えそうになるのをどうにか堪え、少年に聞いてみた
「僕のお母さんは、アリックスさんっていう名前なの?」
少年は目に涙を溜めて、コクリと可愛らしく首を縦に振った。
泣きたいのは私も同じだ。