獣道のその先に
馬は道を外れて、森の奥へ行ってしまったのだろうか。
先へ進んでも見つからず、森を抜ける頃には私は汗だくになっていた。
このまま身一つで屋敷に帰ったら、どれほど顰蹙を買うか。窓ガラスを壊しただけでなく、馬まで紛失してしまうなんて。厄病神と言われかねない。
こめかみから流れ落ちる汗を拭いながら森を振り返ると、どこからともなく、馬の蹄の音が聞こえてきた。
ーー近くにいる!
喜んだのも束の間、響いて来る馬の足音は明らかに一頭のものではなかった。私が見失った馬ではないのだろう。
こちらへ駆けてくるようなので、道の端に避けて立つ。
やがて木々の間から姿を現したのは、騎乗した伯爵その人だった。
彼は自分が乗る馬の隣に、もう一頭の馬を繋いでいた。ーーーー私が見失った馬だ。
ノランもこちらに気がつくと、馬を止め、鞍から滑り降りて私の方へ向かってきた。
「ノラン様! 馬を探しに来て下さったのですね…」
「馬ではない! 貴方を探しに来たのだ!」
大きな声で怒鳴られ、私は萎縮した。
「……すみません。街まで窓の修理をお願いしに行こうと思ったのです」
ノランは長い溜め息をついた。
「島とは言え、崖もある。一人で飛び出すのは危険だ」
「はい。あの、窓の修理は…」
「オリビアの夫がやってくれる。心配いらない」
ああ、そうなのか。
私は完全に無駄なことを、要らんことをしていたらしい。
せめてものお詫びに、私は金貨を差し出した。
「修理代に、どうかこれを」
差し出した金貨を見て、ノランは一瞬目を見開いた。だか直ぐにそれは閉じられ、次に私に向けられた水色の瞳には、失望の色が浮かんでいた。
「そんな事を貴方にさせるつもりはない」
彼の矜持を傷つけてしまっただろうか?
子爵家の居候娘に王子様が恵んでもらったと。
彼が受け取らないので、私は金貨を持って伸ばした手を、ぎこちなく下ろした。
ノランは馬に乗らず、そのままゆっくりと歩き始めたので、私も少し迷った挙句、彼についていった。
ノランは少し進むと、道を外れて獣道に分け入っていく。疑問に思いつつも、それの後を追う。
しばらく歩き進むと、道がひらけて小さな湖が目の前に広がった。
まるで空を切り取ったような、冴え冴えとした綺麗な水の色に、目を見張る。湖の水はとても澄み、浅瀬は底まで透けて見えるのだ。
ノランはそこまで歩いてくると、馬の手綱を木に結んだ。
そうして彼は湖の近くへ行くと、横倒しになって地面に転がっている木の幹に腰を下ろした。そのまま彼は、湖の美しい水面を黙って眺めていた。
どうしたものか、と私が所在無さげに立っていると、ノランは前を見据えたまま、自分が座っている木の幹の直ぐ近くを軽く叩いた。
「ここに座ってくれないか?」
私はいつ倒れたのか分からない、その太く長い木の幹を見た。少し緊張しながら、ノランの隣に座るために、歩き出した。
木の幹の表面には薄っすらと緑色の苔が生えていた。だが汚れることを気にするような、高級なドレスは着ていない。
互いの身体が触れない程度の、適度な距離を取って、ノランの横に座った。
「先ほど貴方が馬で出て行った時……正直、貴方がここの暮らしに嫌気がさして、逃げ出したのかと思った」
私は木の幹から転げ落ちそうなほど驚いた。
「逃げるだなんて! どうして」
そもそも私には逃げる先がない。
「王都の屋敷で育った貴方には、ここの暮らしは酷だろう。何もない」
「ノラン様……全然そんなことないですよ。そりゃあ、王都とは色々違いますけど」
私は力一杯反論してから、ふとノランをマジマジと見つめた。
「ノラン様は、ここの島での生活を始めた時、逃げ出したくなったのですか?」
ノランは足元の小石を拾った。
それを無意味に指で転がし、またひょいと放った。
「……五ヶ月前にこの島に来た時、私もかなりの戸惑いがあった」
淡々と語り始めたノランに少し驚きながらも、私は静かに聞いた。
「途方に暮れて、何もかも嫌になった事もある。そんな時、ここを見つけた。……心が洗われるような、穏やかで静謐な気持ちになれた」
ノランは、王宮に住む王子だったのだ。ちょっと想像しにくいけれど。
そんな彼にとっては、この、自然以外は何もないダール島で生活する事には、今の私以上に様々な苦しみがあったのかもしれない。
こんな彼が、私のためにこんな田舎で暮らす決意をするというのはなんだかやはり私にはしっくり来ない。
ノランは多くを語らなかったが、きっと本当は私には言えない、様々な事情や葛藤がここへ至る過程であったのだろう。
いつか彼がそれを話してくれる日が来ると良い、と思った。
「貴方に、貧相な思いを強いている事を、情けなく思っている。しみったれた島の、しみったれた生活だ」
私は驚いてノランの顔を見た。
「そんな。それに貧相だなんて。そんな風には全く思っていません。あんな大きなお屋敷に住めて、恵まれた方です」
ノランはゆっくりとこちらに顔を向けた。
ーー湖と、同じ色の瞳だ。
ノランの目は、今目の前にある美しい湖よりも、もっと魅力的だ。
私はふと思いついて聞いて見た。
「……ノラン様は、もしかして王宮に戻られたいのですか?」
「まさか。選んでここに来たのだ」
「ここは思っていたのと少し違いましたけど、素敵な島です」
そう言うと、ノランは初めて笑顔を見せた。うっとりするような、素敵な笑顔だった。
「信じてくれないかもしれないが、……貴方がここに来てくれる日を、本当に楽しみにしていた。昨年から私は様々なものを失ったが、そんな私にとって、貴方は唯一の、新しい存在だった」
一目惚れは嘘であったとしても、これはノランの本心かもしれない、と思った。彼の話し方からは、誠意を感じられたのだ。
一方の私は、と言えば楽しみにできるほどの心のゆとりはなかった。テーディ邸を出られることに安堵はしていたけれどーーそれ以上に、第四王子の真意が読めず、不安でいっぱいだった。
でも今とてもそんな事は言えない。
「貴方の肖像画を、しょっちゅう眺めていた」
「だから結婚式の後に、私が絵に似ていない、って言ったんですね!」
「失礼だったか?」
少し、とだけ呟いて私は顔を背けた。
「だが、実物の方がずっと良い」
例えそれがお世辞だとしても、私は嬉しかった。
「貴方が色々と……とても戸惑っているのは重々承知だ。だが、私は貴方を選び、貴方はもう私の伴侶だ」
「はい。わかっています」
少し恥ずかしくなって、ぱちぱちと無駄に瞬きをしながら前を見てしまう。
ノランが不意に私の手を取ったので、思わず彼を振り向いた。
「貴方はどうにも私を胡散臭い目で見ているようだが……」
しまった。
そんなに顔に出てしまっていただろうか。だって、胡散臭いから……。
「はっきり言っておこう。離縁は、ない」
「は、はい……。あると今仰られても、私も困ります」
「勝手にこの島から出ていくことも許さない」
「で、出ません。……多分」
「多分?」
「出ないです! 誓います!」
するとノランは硬い表情をやや緩めた。
握り締めたままだった私の手から、そっと力を抜く。そうして私の手のひらを上に向けるように返すと、彼はその上に小さな箱を乗せた。
布張りの箱に、可愛らしい銀色のリボンがかかっていた。
問うように見つめ返すと、彼は視線を箱に移した。
「結婚指輪だ。絶妙とは言い難いタイミングだが」
そういえば私たちは、指輪の交換をしていなかった。
「開けてもいいですか?」
「もちろんだ」
リボンを解いて、箱をパカリと開ける。
中には、男性と女性両方の為の、大きさの異なる指輪が二つ、入っていた。
ノランはその内の小さい方をつまみ上げると、私の左手の薬指にそっとはめた。今度は私が同じ事をノランにする。胸がとてもドキドキして、指輪を手から取り落としそうになる。
「何があっても、私と共にいてほしい」
「……はい」
ふと一抹の不安が胸中をよぎる。
何があっても……?
何があると言うのだろう。それに穏やかで平凡な毎日であっても、きっと危機は随所に転がっている。
ノランは手を伸ばして私の頰に触れた。そうして私の顔を自分の方へ少し引きよせ、私の頰に優しいキスをした。
唇は直ぐに離され、彼は私の肩に腕を回すと、抱き寄せた。心臓がおかしくなりそうなほどの緊張感の中、私も腕を上げて、ノランを抱き寄せた。
私たちはそうやって、ぎこちなく抱き合っていた。
少しずつ、どうにか関係を築いていこう、と私は手探りで不器用な努力をし始めていた。