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殿下との朝

ダール島の屋敷の広い寝室には、大きな寝台が一つと、奥に更にもう一つの小さな寝台があった。

寝間着に着替えて、私の就寝の準備が整った。今日は移動に長時間を要したので、疲れ切っていた。

だが勝手に私だけ先に休んで良いものか、判断に困った。

日が沈んで暗い屋敷の中を練り歩き、ノランを探す。今誰かに見られたら、私が幽霊だと思われそうだ。


ノランは屋敷の書斎でなにやら紙の束や本をひろげて、書き物をしていた。私に気づいて彼が顔を上げた時、ランプの加減かもしれないが、相当ノランがやつれて見えた。

彼も長旅をしたのだ。早く休むべきだろう。


「あの、まだお休みにならないのですか?」

「ああ。先に休んでいてくれ」


ノランも寝た方が良い。そう言いたかったが、出過ぎた真似になるだろうか。だが、私は一応彼の夫人なのだから、そこはそれらしく、身体を気遣ってあげるべきだろう。

私は勇気を出すために、ギュッと扉のノブを握った。


「ノラン様も、ぜひお休み下さい。一緒に寝ましょう」


ノランの目が時間をかけて見開かれた。その美しい水色の瞳が驚きに溢れて私を凝視し、やっと己の恥知らずな発言に気がついた。


「そ、そういう意味じゃなくて!! お疲れのようでしたので!」


私は恥ずかしさのあまり、逃げるように首を引っ込め、扉を閉めた。






一人で寝室に戻ると、胸の小さな隙間から、虚しさがこみ上げて来た。

窓の外は王都ではあり得ないくらい、静寂に包まれていた。明かりはほとんど見えず、眼下に映るのは全てが夜の闇の色だ。

それを私は酷く寂しい、と感じた。

ここには、私をつまはじきにする義家族はいない。

四歳で子爵家に入ってから、あれほどあの家から出たかったというのに、なぜか今、妙な郷愁があった。

早くここに、自分の居場所を作らないといけない。

私は、この島に、この屋敷に嫁いだのだから。

長いこと、私は自分が結婚することはないだろう、と思っていた。レティシアには降るように縁談がやってきていたし、義理の兄も結婚をする時は妻となる令嬢を選びたい放題だったらしい。

私は義理の兄の結婚式に出席する事を許されなかったが、当日の朝、彼は私に嫌みたらしく言い放ったのだーーーーもしお前に結婚の話が来たとしても、物好きな年寄りの下級貴族くらいだろう、と。

それを思えば、伯爵の妻になったなんて、大逆転を遂げたとも言える。


ふと、一人きりの寝室を見渡した。


ーーーーでも、私が現実逃避の為に部屋で読みふけったような、心躍らせる熱い愛情も、私の結婚にはなかった。


思えば今まで、本の中だけは別世界だった。時も場所も越えて、一瞬で私を違う世界に連れ出してくれた。

胸が焦げる熱い恋をしてみたかった。

ひたむきな想いを、私をただ一人特別だと言ってくれる男性と、出会いたかった。

ここには、それはなかった。

私の傍に立ったのは、一目惚れをうそぶく凋落著しい、怪しい王子だ。

そう考えると、なぜか私には今、テーディ邸に帰りたい、という気持ちが沸き起こった。

テーディ邸の毎日が、嫌でたまらなかった筈なのに。無意識に私は、自分にも素敵な未来があるのかも知れない、と妄想していたのだろうか。

寝室の奥に置かれた小さい方の寝台に腰を掛けると、どっと疲労が押し寄せて来た。

身体も、心も疲れていた。


今日、私はダール伯爵と法的に結婚をした。

だが、物語の主人公のような、盛大な式と人々による祝福も、豪勢な料理も、熱い接吻や抱擁も、何もかも……そう、何も、何一つなかった……。

結婚とは、なんだろう。

私は震える溜め息を吐いてから、寝台に倒れこんだ。

この屋敷は本当に静かだった。

その静けさが、今は辛い。

深く布団を被り、顔をキッチリ隠すと、私は眠りについた。




翌朝、浅い眠りから目覚めると、もう寝室にノランはいなかった。というより、彼がこの部屋で寝たのかすら分からない。


簡単な朝食を済ませると、私は外に出てノランを探した。

彼は屋敷の裏の先にある牛舎で、飼葉を集めていた。

彼は私に気がつくと、つけていた大きなエプロンを外して、こちらへ歩いて来た。手には銀色の大きな瓶を持っていた。

見ているものを理解するのに、時間が必要だった。


「我が家の家畜だ。毎朝の牛乳を提供してくれている」

「……お手ずから世話をされているのですね」


ノランは軽くうなずくと、私に瓶を手渡した。

子爵の兄ですら、牛の乳を絞るところなど、見たことがない。

服に干し草の欠片をつけているノランが、王子様だったということが、私にはいまいち納得出来なかった。

ましてや、これが自分の夫だという自覚もまだない。


「オリビアに渡してくれ。私は森にベリーを摘みに行く」


王子様は朝っぱらからそんな事をするのか。

趣味や道楽かと思いたかったが、二十一歳の端正な面差しの、やんごとなきお育ちの男性の趣向とは思い難い。

単純に、貴重な食糧を漁りにいくのだろう、と察せられた。


私は元殿下な王子様が、渾身の思いで絞ったのかもしれない大事な牛乳の瓶をオリビアに預けると、急いで引き返してノランを追った。

彼は森の中の小道を颯爽と進んでいた。

息を切らしてノランの隣に駆けつけると、彼は何も言わずに、けれど歩調を緩めて私の速度に合わせてくれた。


「昨日貴方が使った寝台の事だが…」

「寝台?」

「…大きい方で寝てくれないか」


ノランが小さい方で寝てくれる、というのだろうか。でも、伯爵様を狭い方で寝せるなんて、気が引ける。


「で、ですが。それではノラン様に悪いです」


ノランはそれきりその話題には触れなかった。

森の小道の先には、野生のベリーが群生する一画があった。ノランはそこまで辿り着くと、手にしていた組物製の大皿に、摘み始めた。私も何か役に立とう、と真似をして隣でその紫色のベリーを摘む。


「これ、食べられるんですか?」


そう尋ねると、ノランはもちろんだと頷いた。私は枝から離したばかりのベリーをしばし見つめ、ちょっと考えた後で、口の中に入れてみた。

ベリーはかなり酸味があった。

試しに隣の木から取ってみると、そちらの方が甘かった。もう一つ食べると、やはり甘い。

木によって甘さに差が出ているのかも知れない。


「ノラン様。この辺の実が一番美味しく出来ていますよ!」


そう報告しながら、また一粒口に放り込むと、ノランは私と木の間に身体を割り込ませた。


「ならば、つまみ食いは他の木でやってくれ」


ノランは私を押し出すと、それ以上私が甘いベリーを採るのを阻止した。彼は素晴らしい勢いでベリーを摘んでいた。


「そんなにたくさん食べるんですか?」

「オリビアがジャムにしてくれる」


オリビアはジャム作りもやっているらしい。私も色々と手伝わなければ、オリビアが忙し過ぎて大変だろう。

採り終えたノランがこちらに顔を向けると、彼の白く秀でた額に、赤いベリーの果汁が飛んでいた。思わず吹き出すと、ノランは怪訝な顔をした。


「ノラン様。おデコに、ジュースが」


私の指摘を受けて、ノランは手の甲で額を拭った。

惜しい。

ノランは果汁で汚れた場所より、僅かに右側を拭った。ニヤつく私の視線がいまだ自分の額に向けられていることに気づいたノランは、ポケットからハンカチを取り出し、私に手渡した。


「どこだ? 拭いてくれ」


それまで笑っていた私は、急に緊張してひきつり、なんとか平静を装って手を伸ばした。

少し背伸びをして、ノランの額にハンカチを当てた。

ふと目線を下げると、ノランの水色の瞳と目が合った。ドキンと心臓が跳ねる。

慌てて果汁を拭くのに専念した。

ひとしきりベリーを取り終えるとノランは真剣な顔つきで私を見た。


「この場所は、マルコには秘密にしてくれ」

「なぜですか……?」

「あいつは、ベリーを全滅させる」


それは手当たり次第食べてしまうということだろうか。まさか体当たりするわけじゃないだろう。


森の中には、プルーンも自生していた。

ノランは高い木の枝からぶら下がったプルーンを、手を伸ばして取ると、それも大皿に盛った。


帰り道に彼は遠くを見ながら言った。


「私もこの島には五ヶ月ほど前に来たばかりで、まだ慣れたとは言い難い」


それは意外な告白に思えた。

私にはノランがとても堂々としているように見えた。


帰宅すると私は屋敷内の掃除に勤しんだ。

オリビア一人では今まで手が回らなかったという、屋敷内の大きな窓のカーテンの洗濯も手伝った。

洗濯室で水に浸し、洗剤を振りかけてから二人で足で踏むと、カーテンからは面白いほど黒い汚れた水が滲み出て来た。固くゴワゴワとした手触りだったカーテンは、柔らかでしなやかな手触りへ戻り、綺麗になったカーテンを屋敷中の窓に掛け直していく作業はとてもやりがいがあった。


「気持ちが良いですね!」


満足して室内を見渡し、オリビアに話しかけると、彼女は顔中をくしゃくしゃにして笑った。


「明るくなりましたね! 奥様が来て下さったお陰です」


オリビアの笑顔は太陽のように暖かく、こちらの胸の内まで暖かくなった。


洗ったカーテンはある程度脱水をすると、カーテンレールにそのままつるし、窓を全開にして乾燥をさせた。一階のカーテンを掛け終え、二階にある部屋の窓を開けようとすると、桟が錆び付いているのか、なかなか開かなかった。

早くカーテンを乾かしたい私は、えいやと少し力をいれて押し開いた。すると突然窓が枠ごど外れ、向こう側へと傾いたかと思うと、あっと言う間にそれは地面に落ちていった。

私の目の前で窓ガラスは庭の芝へと吸い込まれ、後にはガシャン、という大きな音が続く。

窓ガラスは粉々に砕けていた。

マズい。どうしよう……!

窓ガラスを壊してしまった。

動転しながら階段をおり、庭に出ると既にそこにノランとリカルドがいた。音を聞きつけたのだろう。


「ごめんなさい! 開けようとしたら、落ちてしまって…」


リカルドが優しい声で言った。


「奥様。お怪我はなさいませんでしたか? 」


私が首を左右に振ると、ノランはちらりとこちらを一瞥し、また視線を割れた窓に移した。

もう一度謝ると、ノランは面倒そうに首を振った。


「この屋敷自体が古い。貴方のせいではない」


するとリカルドが苦笑しながらノランに注意をした。


「ダメですよ〜。もっと女性には優しくしないと!」


いかにも優男、といった風情で、リカルドはノランに注意をした。

ノランは私に危ないから下がるよう言うと、リカルドと割れたガラスの後片付けを始めた。ガラスは四方八方に飛散し、簡単にはすみそうにない。

リカルドがほうきで破片をはきながら、ポツリとボヤいた。


「修理にいくらかかりますかねぇ。……ああ、またお金が……ははは」


その瞬間、私は弾かれたように動いた。

屋敷の部屋に戻り、テーディ邸から持参した金貨を手にすると、オリビアに出掛けると簡潔に一言告げ、狼狽える彼女を置いて馬に飛び乗った。

ダール伯爵家の厩には、栗毛の馬が二頭いた。その内の大きな方を選ぶと、ダール島の街中へと馬を走らせた。

ここへ来る途中に、車窓を眺めていたから、道は分かる。

この屋敷からダール島の中心地までは、そう複雑な道ではなかった。

町から、窓の修理士を呼んで来るのだ。しかも私のお金で。


私が乗った栗毛の馬は、気が荒かった。

昨日長距離の旅をさせたから、機嫌が悪い。まだ疲れが残っていたのだろう。

森の中を走っている時だった。

道が早々に二手に分かれていた。来る時は気がつかなかった。

どうしたものか馬を止めて迷っていると、突如として馬が前足を高く掲げいなないた。私は不意を突かれて、落馬してしまった。

鞍から滑り落ちる様に落下した。慌てて立ち上がり、手綱を取り返そうとするが、私の手は虚空を掴んだ。


「待って! 待ちなさい!」


逃げ出した馬を追い掛けるが、当然叶うわけもなく、馬はあっと言う間に姿を消していた。


馬は決して安い生き物ではない。

むしろ高価な生き物だった。

貧乏を自認してやまないダール伯爵家には、貴重は所有物だったろう。失う訳にはいかない。私のドレスどころじゃない。

私は森の中を、馬の姿を求めてかけずり回った。



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