ダール伯爵領とステキな面々
私が住んでいた王都からダール島までは遠く、私たちは中間地点の街で一度馬車を降りた。
「昼食にしよう」
下車するなり簡潔な食事宣言をすると、ノランは颯爽と歩き出す。
私は置いていかれないように急いで彼を追う。
どこに行くのだろう、緊張しつつも後をついて行くと、ノランは街中の公園に入っていった。
緑豊かな公園内には、テーブルとイスがセットであちこちに配置されており、昼時だからかたくさんの親子連れや恋人たちがそこでピクニックをしていた。
ノランは迷いない足取りで空いているテーブルをサッサと見つけ出すと、手に持っていたバスケットを置いた。
私は無いアタマを全力で回転させ、瞬時に理解した。
ーーここで、お昼を食べるんだ……。
ノランの急かすような目配せを敏感に察知した私は、慌てて彼の向かいに腰かけた。
彼はバスケットの蓋を開き、中から瓶を二本取り出すと、一本を私の目の前に置いた。
バスケットの中には他に、パンや果物、薫製肉が入っていた。
「適当に食べてくれ」
ここで食事をするという事態に、少なからず私は動揺していた。
私の記憶が正しければ、私たちは今しがた結婚式を終えたばかりだ。
周りにいるのは明らかに平民で、義兄が気合を入れて珍しく新調してくれた私が着ている豪華なドレスは、どう見てもこの場に浮いていた。
見渡せば馬車にいた二人の御者も隣のテーブルにつき、寛ぎ始めていた。二人もそれぞれのカゴから、パンや瓶を出している。
ノランは濃い赤色をした、乾き切った薫製肉のような物体を、両手で持つと千切って細長い形状に裂いた。
これは何だろうか。
王子様は随分と野生的な食べ物を食べているようだ。
ノランはそれを皿の上に重ね、私の前に置いた。
心を無にして、それを口に運んでみる。
意外にも乾燥しきった薫製肉は、噛めば噛むほど肉の味がジワジワと染み出し、とても美味しかった。
これは意外だった。見た目で判断してはいけない。
「これ、美味しいですね。初めて食べました」
「オリビアの手製だ。彼女の親の出身地の保存食らしい」
「オリビアさんって…」
「私の屋敷で雇っている女性だ。料理も掃除もやって貰っている」
一人の使用人に複数の仕事を割り振っている、ということは、使用人の人数も多くないのだろう。
テーディ家では、庭掃除番は決して屋敷内の清掃をしなかったし、料理担当の者が洗濯を任される事も絶対になかった。
行間を読んだのか、ノランは更に言い足した。
「大変言いにくいが、我が家ではオリビア一人しか採用していない」
言われたことを咀嚼するのに、少々時間が必要だった。
王子様ーーいや、元殿下の家で働く使用人が、たった一人……?
この人は、どんな生活をしているのだろう。というより、私はこれからどんな生活をしていけば良いのだろう。
私は突然、今自分が身に纏っているやたら豪華なドレスが、バカバカしく思えてきた。
食事が済むと、私たちは再び馬車に戻った。
馬車の旅は長く、狭い車内に座って揺られ続けるのは身体にこたえた。
クッションを敷いて、座席に横たわったしまいたかったが、初対面のノランの前でそうするのは気が引けてしまい、行儀良く座っているほかなかった。何より、ノラン自身が背筋を伸ばして、手本のような綺麗な姿勢で終始座っていたのだ。
腐っても王子様なんだな、と思った。
夕暮れが迫る頃、私たちはダール伯爵領に到着した。
ダール島は完全に陸と離されているわけではなく、埋め立てられた長い道路によって、陸と地続きであった。
おまけに干潮時には、陸とつながる道が更にもう一つできるらしかった。
私たちを乗せた馬車は、キラキラと輝く海に挟まれた細い道を走り、ついにダール島に着いた。
ダール島に辿り着く道の先には、大きな分厚い石造りの門がそびえていた。
「島の入り口だ。門の手前は跳ね橋になっている」
門の下を通りながら、上を見上げる。
門はかなりの厚みがあり、上部に鋼鉄の格子が収められていた。緊急時には下ろされるのだろうか。
「随分堅牢なつくりをしているんですね」
「かつてここは要塞として使われていたらしい」
門を通り過ぎると、景色は一変した。
私は馬車の窓にかじりついて、一生懸命に景色を観察した。
ーーここに、今日から私は暮らすんだ。
緑色の芝の絨毯が続くなだらかな丘陵。ポツポツと生える濃い緑色の木々。
うねるように続く広大な芝の上には、点々と牛が放牧されていて、その合間にたまにピョンピョンと跳ねる小動物がいた。ウサギだろうか。
あちこちに家屋も見え始め、農作業をする島民も視界に入る。島の家並みは小さく決して豪華では無いが、貧相でもなかった。
そして馬車で更に進んでいくと、島の中ほどには豊かに水をたたえた大きな湖があった。
陽をうつして輝き、水面はどこまでも穏やかだった。
ダール島は、とても綺麗な島だった。
「自然が素晴らしい所ですね」
ノランは何も言わなかったが、その口元が微かに微笑んだような気がした。
島の奥の方まで進むと、馬車は石造りの屋敷の前で止まった。
馬車の扉が開くと、ノランが先に下車した。
彼は降りるなり私を見上げ、注意事項を述べた。
「数日続いた雨のせいで、まだ地面がぬかるんでいる」
馬車の中から首を出して、地面を見おろすと確かに土がまだ濡れていた。
するとノランは腕をこちらに伸ばしてきた。
「その頼りない靴で転倒されても困る」
言い終えるや、彼は私の腰回りに手を回して力強く引き寄せ、私を抱き上げた。堅い肩が私の腹部に刺さるように当たり、呼吸が止まりそうになる。
「く、苦しいです、伯爵様……!」
「ノランで結構だ」
「ノラン! 降ろして下さい!」
「玄関まで直ぐだ。我慢しろ」
屋敷の玄関前には数段の階段があり、その一段一段を上る際に、ノランの肩が腹部にめり込み、猛烈に痛かった。
ようやく下に降ろされると、私はきちんと立てずに尻餅をついた。
「まああああっ! 伯爵様ったら、奥様をそんなぞんざいに扱われて!」
悲鳴に近い声に驚き、顔を上げると、白い扉が開いた玄関先に、中年の女性が立っていた。
「オリビアだ」
ノランは顎でその女性を指し示した。こんなに短い紹介があるだろうか。
だがオリビアはたいして気に留めた様子も見せず、そのふくよかな身体を揺らして私のもとへ駆けつけてくれた。
「ようこそ、はるばるいらして下さいました。まぁまぁ、なんと可愛らしい奥様でしょうか」
やっとのことで立ち上がると、私はドレスを整えて挨拶をした。
「リーズです。よろしくお願いします。今日から色々教えて下さい」
「オリビアと呼んで下さいな。この島から出たことが無い、世間知らずのオバちゃんですの。でも、島のことなら、なんでもお尋ね下さいな!」
玄関まで御者二人が荷物を運び込んで来た。
一人は背が高くスラリとしていて、もう片方は背が低く、ずんぐりとした体格だった。二人が並ぶと、同じ人間かと目を疑うほど体格が異なっていた。
ノランは背が高い方の御者を呼び止め、私に紹介を始めた。
「これは私の従者のリカルドだ。私が十の頃から、支えてくれている」
目を剥いてリカルドとやらを見てしまった。御者だと思っていたのに、従者だったらしい。
十歳の時から従者をしている、ということは、王子時代からの長い付き合いなのだろう。そして彼自身も、それなりの家柄の人であるはずだ。
ノランの腹心の部下に違いない。腹心の部下を御者にするとは、人件費の削減を極めたらしい。
二十代後半かと思われるリカルドは、肩先で茶色の髪を切りそろえていた。
彼はやたら愛想の良い笑顔を浮かべた。親の仇に対しても微笑むことが出来そうなほど、こなれた笑顔だった。
「よろしくお願いします、リーズ様。なんなりとお申し付け下さい」
「こちらは私の護衛のマルコだ」
マルコと紹介された護衛は、私の太腿ほどはあろうかという太さの腕を私に差し出してきた。
「今日から奥様もお守りします! よろしくっす!」
ニコッと笑うとマルコは顔がまん丸になった。目も大きく丸く、優しげだがチリチリとカールした赤毛が、彼を更に陽気に見せている。
彼の筋骨隆々とした二の腕を見ながら、握手をした。
「とても頼もしいです。マルコさん、よろしくお願いします」
「お任せを!」
マルコはそう言うと、誰かが特にリクエストしたわけでもないのだが、肘を曲げて片方ずつの腕や肩の筋肉に交互に力を入れ、それが逞しく盛り上がる様を披露してくれた。
ご自慢の筋肉なのだろう。
私は純粋に驚いて、心から拍手をした。
ダール伯爵邸は、二階建てのこじんまりとした屋敷だった。
ノランは私を連れて、屋敷内をざっと案内してくれた。
一階の奥には、本棚が並んだ小規模の図書室のような部屋もあった。部屋に入り、整然と並べられた背表紙をザッと私が眺めていると、ノランは私を見て言った。
「読みたい本があれば、言ってくれ。島には小さいが一応書店もある」
そうなのか。
私はそれを聞いて少し嬉しくなった。
本棚たちを眺めていると、どれも傷一つなく、とても綺麗なことに気がつく。この屋敷の他の家具は使い込まれた物のように見えるのに、この部屋の中だけは違和感があった。
もしや、と思って尋ねてみる。
「あの、この図書室は新調したばかりですか?」
目が合うとノランの水色の瞳は、逃げるように逸らされた。
「……貴方は本が好きだと聞いたので」
ーーああ、どうしよう。
すっごく、嬉しい……。
この王子が私に一目惚れしたというのはやはり信じられないが、それでも私をここに迎えるために色々考えてくれたのは分かる。
胸の中がじわじわと温かくなる。
私は精一杯の笑みを浮かべて御礼を言った。
するとノランは手をヒラヒラと振った。
「大したことではない。……あとの細々としたことはオリビアに聞いてくれ。彼女は私よりよほどこの屋敷に詳しい」
図書室を出ると、オリビアが廊下にいた。彼女は実に嬉しそうに私とノランの後をついて歩いた。
屋敷の真ん中には小さな塔があり、塔の中には灰色の大きな鐘が下げられていた。二階の狭い階段を上がり、吹き抜けを見上げると、その大きな鐘を下から見ることができる。ノランは鐘の吊り下げ部分からぶら下がる太い綱を触った。
「これは門の鐘だ」
「門、ですか?」
私が首を傾げると、後ろの方に控えていたオリビアが悪戯っぽく笑った。
「この島に上陸するときに、門がございましたでしょう? この領主様の鐘が島に響けば、門番が格子門を下ろし、跳ね橋をあげるのが、ダール島の伝統です」
綱に指先を伸ばしていた私は、慌てて引っ込める。
「じゃあ、鳴らさないように気をつけないといけませんね!」
私たちは皆で笑った。
部屋数は十ほどあったが、半数の部屋が使われていなく、家具には白いシーツが掛けられていた。
オリビア一人では、掃除が行き届かないからだろう。
屋敷はかなり古いものらしく、所々床が軋んでいた。しかし調度品はかなり立派な物が置かれており、随所に置かれた装飾品は、ここの主人がかつて王子であったことを偲ばせた。
私が専用で使って良い部屋もあり、新調したらしきテーブルセットとソファが置かれ、その心遣いに嬉しくなった。
私は子爵家で使っていたドレスや身の回りの品々を、義理の兄の指示で予めこちらに送っていた。オリビアと一緒にそれを開梱すると、おかしな事に気がつき、首をひねった。
「あの、オリビア。私の荷物はこれで全部なのかしら?」
オリビアはそうだと頷いた。
私はこの瞬間、やられた、と直感した。
荷造りは兄嫁が手伝ってくれたのだ。彼女がわざわざ手伝うことが信じられなかったが、やはりただ手伝ったわけではなかった。
兄嫁は私のドレスや装身具の中で、取り分け高価なものばかりを選び、梱包をしていた。彼女が梱包してくれた荷物が、届いていないのだ。
私が王都を出る前日の昼には馬車に全て運び込んだのだから、本来ならとっくにここについている筈だった。
ーーダフネの嫌がらせだ。
脱力して、ソファに座り込んでしまった。
質の良いドレスや装身具の殆どを、失った。どうせダフネに奪われるなら、レティシアにあげたかった。
この先、ドレスを新しく買い足せる日が来るのだろうか。貧乏を自認してやまない夫に、金の無心をする訳にはいかない。
ふと私は窓の外を見やった。
平和な田園風景が何処までも続いていた。
ーー立派な衣装やアクセサリーが必要な場面は、ほぼ無いかも知れない。
不幸中の幸いだと思うしかない。