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母と父

 表面的には穏やかな日々が過ぎていたある日、ノランは私に王都へ行こうと提案をしてきた。

 長く直線に続く屋敷の木の廊下を掃いていた私は、箒を動かしながら王都へ?と尋ね返した。


「貴方をバルダ子爵邸に連れて行きたい」


 バルダ子爵ーー思わず箒を止めた。

 そう言えばレティシアを捜しに義兄が突然ここを訪ねてきた時、ノランはバルダ子爵に会いに行っていたはずだった。

 私にとって、その名は懐かしい名だ。バルダ子爵と私の義父は親しい友人だった。ノランも彼と親しくしていたのだろうか。


「貴方を王都の子爵邸に一度連れてくるように、バルダ子爵から頼まれたんだ」

「私を? どうしてでしょうか」

「貴方の義父のことで話があると言っていた」


 それは思ってもいない話だった。私はバルダ子爵とは5年前に義父が亡くなってから、全く会っていない。


「どんなお話なんでしょうか?」

「それは私にも分からない。貴方に直接会って話したい様子だった」


 ノランによれば、当初バルダ子爵は私に会いにダール島まで来たい、とも申し出ていたらしいが、ノランが断ったのだという。ノランは島に他所の貴族がやってくることに抵抗があるらしかった。何故かと私が問うと、彼は「不用意な疑いを招きたくない」と答えた。

 それ以上の質問は慎んだが、恐らく彼は王宮にいる彼の敵の注意を無駄に引いてしまう事態を懸念していた。

 廊下の隅から長々と集めて歩いて来たゴミやチリを、箒で一まとめにする。ーーこの大量の埃たちは一体どこから出てくるのだろう。何もない空中から忽然と滲み出てきたように、満遍なく毎日落ちているのだ。詮無いことを考えながら私は屈んで、チリトリを片手にゴミを回収した。

 掃除を切り上げながら考えた。

 バルダ子爵は私にどんな話があるのだろう。若干不安になりながら、王都に出掛ける準備に早速とりかかった。






 バルダ邸は王都を東西に分断して流れる大きな川沿いにたつ、白い荘厳な屋敷だった。

 突然の訪問にも関わらず、子爵は私たちを暖かく歓迎してくれて、とりわけ彼は私の顔を見て、しみじみと言った。時の流れは速いものだ、と。

 私が彼と最後に会ったのは、十五歳の時だったから、きっと彼の記憶の中にあった私とは随分変わっていたのだろう。

 私を見た後で、少しの間バルダ子爵は遠い目をした。在りし日の義父との思い出を振り返り、懐かしんでいるのかもしれない。

 バルダ邸の客間は壁一面が寄木細工になっており、白っぽい色から濃げ茶色まで、様々な色の木を組み合わせて細かな模様が作られていた。

 ノランがその装飾美を嫌味なく巧みに讃えている間に、バルダ邸の侍女が二人がかりで大きな箱を持って来た。彼女たちはかなり慎重にゆっくりと運んで来た。

 その重そうな箱が繊細な脚を持つローテーブルの上に置かれたので、私はテーブルが壊れないだろうか、と心配になった。

 箱は揺りかごほどの大きさがあり、全面に小さな四角い、貝のタイルが貼られていた。その乳白色に輝く箱の四隅には、花の模様が彫刻された金色のプレートがつけられている。

 なんだろうか、と箱を見つめる私とノランを前に、バルダ子爵は切り出した。


「リーズ。これは、トーマが……君の義理の父親が生前君に残したものだ」


 義父が……?

 思ってもいなかったことを言われ、さらなる説明を促そうとバルダ子爵を見上げる。


「トーマは亡くなる前、義理の娘である君のことを大変案じていた」


 彼はそう言うと、貝細工の箱の蓋に手を掛け、上へと持ち上げた。蝶番が微かに軋む音がして、蓋が開かれる。

 私は思わず身を乗り出して箱の中身を覗き込んだ。

 一瞬息が止まった。

 箱の中には燦然と煌めく宝飾品が、ギッシリと並べられていたのだ。

 大きな貴石がついたネックレスに、指輪。太い黄金の長尺の鎖。

 銀色に輝くティアラ。

 大粒の真珠が並んだ髪留めは、窓から差し込む陽光の中でたおやかに光を反射している。

 私は感嘆のため息を吐いてから、子爵に尋ねた。


「これは一体、なんでしょうか……?」

「トーマは、君とシャルルの折り合いが悪いことを最期まで案じていた。シャルルが君を追い出すようなことがあれば、助けてやって欲しい、と。そして君が独立したら、これを渡すように頼まれたのだよ」


 バルダ子爵は箱ごと私の前に押し出した。

 私が独立したら……? それは義父が、義兄による横取りを懸念していたという事だろうか。


「トーマが亡くなって暫くしてから、テーディ邸に君を訪ねたんだが……」

「そうだったのですが。ーー知りませんでした」

「その時は君に会わせて貰えず、ダフネ夫人に一部の宝石を手渡したんだが、そちらは受け取ってくれたかね?」


 ダフネから宝石を手渡されたことなんてない。ーーつまり、ダフネに盗られたのだろうか。

 義姉からそういったものを貰った覚えはない、と私は正直に答えた。

 すると子爵は溜息と共に、首を左右に振った。


「これはほとんどが君の母親の物だった」


 お母様の……?

 興奮に似た驚きが身体中を駆け巡る。

 私は手を伸ばし、箱の中のネックレスにそっと触れた。頑張って思い出そうとしてみても、残念ながらどれ一つとっても、見覚えのあるものはなかった。

 私の中の母の姿は、それほどおぼろげだったのだ。

 私の記憶のページの中に辛うじて残されている母の姿は、芸術作品のように美しい顔と、蜂蜜色の髪をしていた。その緑色の瞳は、目が合った時ですら私を見ているようで、見ていなかった気がする。

 ……あの時、あの十歳だったあの朝。

 母を引き止めていれば、もしくは私が無理にでも母の馬車に乗り込んでいれば、母と私に違う未来があっただろうか?

 過ぎてしまった過去は変えられないが、自問するのも止められない。

 答えはどこにもないのだ。

 そして、母の形見はやはり私に何も語りはしなかった。輝く宝飾品を渡されても、母を失った気持ちは埋められるものではなく、虚しいままだった。

 箱の前で無言を貫いていると、ノランが優しい声で言った。


「貴方の義父上は、貴方を娘として愛していたんだな」


 急に瞼が熱くなる。私はゆっくりと頷いた。


「……うん。私はお義父様に、ちゃんと愛されていたんだ」


 いろいろ遅いよ、お義父様。



 箱をマルコに担いでもらい、馬車に戻ろうとバルダ子爵邸を出ると、馬車の車体に寄りかかっていたリカルドが弾かれたように身体を起こし、早足でこちらへ歩いてきた。


「ノラン様、お待ちしておりました。お伝えしたいことが……」


 彼は硬い表情のままま、素早くノランに告げた。


「ジョアンナに会いに王宮に顔を出して来たのですが、朝から陛下が高熱を出して寝込まれているそうです」


 ノランは目を見開いた。




 

 私たちはその足で、ノランの父を見舞うために馬車を王宮へ走らせた。

 私たちはかなり馬車を飛ばした。

 ノランが国王を心配しているの気持ちが、痛いほど分かった。いつもは手本のような綺麗な姿勢で座っているノランが、馬車の中で脱力して壁にもたれていたのだ。

 私は彼の膝の上に自分の手をそっと置いた。

 リカルドによれば、国王は今朝から高熱を出して寝込み、公務に支障が出ているらしかった。

 ノランは私の手の上に、自身の手を重ねた。


「身体の丈夫な父上だったのだが。……歳をとられた」

「はやく、快復されると良いですね……式典の時は、とてもお元気そうに見えたのに」


 こうして私は人生で二度目の王宮の門をくぐった。

 たまらずその荘厳な門を見上げた。

 国王がこの門を通って、即位二十周年式典に参加していたのは、つい先日のことのような気がするのに。

 式典では、元気なお姿を見せていたのに。




 王宮に着くなり、私たちを先導したのは再びジョアンナであった。私はノランと廊下を急いだ。


「ノラン! 来てくれたのか」


 廊下の先に、野太く低い声が響く。

 長い廊下の先から渋面で歩いてくるのは、第一王子であった。

 ノランと第一王子は互いに距離を縮めると、無言で固く抱き合った。

 第一王子はノランを抱き寄せたまま、呟いた。


「聞いてくれ。面倒なことになった」


 その言葉を受けて、ノランが訝しげに身体を離すと、第一王子は溜め息をつきながら、首を左右に振った。


「当面の間の国王代理を誰にするかで、既に揉めている」


 国王の緊急時に代理を務める者を誰にするのか。揉めているのは、国王代理そのものではなく、通常は一度国王代理になった王子は次期国王として最有力候補になるからだ。国王代理は現状では次期国王と同義だ。

 ノランと私が顔をひきつらせると、第一王子はふっと笑った。


「ノラン、お前がやるか?」

「ご冗談を。兄上、貴方がやるべきです」

「……それも無理そうだな。ーー母上も父上もお前に早く会いたがっている。行って差し上げてくれ」


 私たちは先を急いだ。

 王宮はその広さにも関わらず、異様に無音だった。

 廊下や天井に描かれた絵画たちが、物言わず私たちを見つめ、高い天井に私たちの急ぐ足音が反響する。

 前に来た時よりも明らかに人が減っており、王宮は随分静かだった。

 時折すれ違う人々はこぞってノランと私に膝を折り、控え目な挨拶をした。


「ノランさま、こちらです」


 ジョアンナの案内によって、私たちは白く大きな光沢ある扉の前にたどり着いた。

 金色の棒状の取っ手に手を伸ばし、ノランは扉を開けた。

 開かれた部屋の中は、寝室になっていた。

 奥にある大きな寝台のそばに、細い背中をこちらに見せた王妃が座り、寝台の上には一人の男性ーー国王が横たわっていた。

 王妃は弾かれたようにこちらを振り返り、ノラン、と掠れた声で名を呼んだ。その美貌の顔がとても青白い。

 ノランが王妃の元に駆け寄る。


「母上、たまたま近くまで来ておりました。驚きました」

「ああ、来てくれて嬉しいわ、ノラン……」


 王妃はそのどこか虚ろな視線を仰臥する国王に戻した。


「急に頭や関節が痛むと仰られて。その後急激に熱が上がって……」


 疲労から王妃の目は真っ赤に充血していた。

 ノランは優しく王妃の肩に両腕を回し、抱きしめていた。ーーそうするには、きっと色んな葛藤があるに違いない。それでも躊躇いなく手を差し伸べる彼に、私は感服した。

 しばらくそうして抱き合った後、ノランは寝台のそばに行き、国王の顔を覗き込んだ。

 父上、と何度かノランが呼んだ。国王はだるそうに目を開くと、ノランの手をしっかりと握り締め、それに答えた。

 ノランはもう片方の手を伸ばして、国王の頰に触れた。


「かなり熱いな……」


 思わずのようにもれたその言葉は、とても虚しく響いた。


 国王の寝室には、王子や妃たちが次々と姿を見せた。

 第三王子はどこか呆然としており、今ひとつ事態を受け止めきれていないように見えた。

 第六王子は若者らしい純粋さで、心配そうな声で父親に何度も声を掛けていた。

 その隣で第三王子の妃は、心ここにあらず、といった様子で自分の爪に塗ったマニキュアの色艶を入念に何度も見ていた。しまいには寝台の四本の真鍮製の支柱のうちの一つに自分の顔を映し、頰のファンデーションのヨレを手で直していた。時と場を忘れて私まで彼女に見入ってしまった。


 第一王子と第二王子は、多くの人に囲まれてこちらへやって来た。そして国王の変わりない様子を確認すると長居はせず、また忙しくどこかへ行ってしまった。

 国王代理の件で名が上がっているのは、間違いなくこの二人なようだ。

 ウジェニー王女はその場にいなかった。ノランが不思議に思って王妃に尋ねると、王女は父親が感染する病気だったら怖いからと言って、来たがらないらしい。

 その話を聞くとノランは少し機嫌が悪くなった。


 王室医師や高官たちも国王の様子を度々見にくる中、私は部屋の隅で皆の邪魔にならぬよう腐心した。



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