妹がもたらしたもの
玄関前が俄かに騒がしくなり、私は急いで居間を出た。義兄は靴も履かず、足を引きずりながらも懸命に私の後について来ていた。
屋敷の外に出ると、ノランとマルコ、それに十人ほどの男性たちが戻って来たところだった。ーー彼らはノランたちが集めた捜索隊だろう。
島民の男性と思しきその内の一人が、一頭の黒毛の馬を引いていた。
「うちの馬だ!!」
義兄が私の後ろから大声を出し、馬のもとに小走りで向かう。
レティシアは本当に私を訪ねてやってきていたのだ。
義兄は近くで馬を確認するや否や、周囲にいる男性たちに、レティシアは、少女は一緒にいなかったか、と必死の形相で尋ねた。
そんな義兄に対し、ノランが敢えて落ち着いた口調で話した。
「この馬は湖のほとりで佇んでいるのを、見つけました。近くには誰も」
「湖!?」
私と義兄はほぼ同時に声を上げていた。
それではレティシアは、湖に行ったのだろうか?万一があってはならない。
ざわざわと身体中が総毛立つような、嫌な予感がする。
だがノランはやはり落ち着いた声で答えた。
「今リカルドたちが範囲を広げて探しています」
馬の背に手をかけていた義兄のふくよかな手が、スルスルとそこを滑り降りていく。義兄は脱力してその場にしゃがみ込んだ。
「レティシア……」
その声と悲痛に満ちた表情に、思わず見入ってしまった。
義兄は心から、レティシアを案じていた。
あの義兄が、足をくじいた痛みなど忘れてしまうくらい、必死に玄関先まで駆けつけていたのだ。
同じくレティシアが心配でたまらない一方で、頭の片隅でつい考えてしまった。
ーーもし私が昔家出をしていたら、どうなっていただろう?
きっと義兄は大喜びして、屋敷で酒盛りでもしたのではないだろうか。
それから間も無くの事だった。
再び屋敷前が騒然とし、私とノラン、遅れて義兄が奇妙な歩行で駆けつけた。
リカルドと、捜索隊たちがおり、そしてその真ん中に、彼らに囲まれるようにして、レティシアがいたのだ。
レティシアは毛布を掛けられ、リカルドに肩を抱かれていた。
「レティシア!」
義兄が怒鳴った。
びくりとレティシアが震え、怯えたような弱々しい視線を上げた。その緑色の目が揺れるように動き、私を捉えた。するとレティシアは弾かれたように走り出し、私に向かってやって来ると、ひしと抱きついてきた。
安堵のあまり身体がぶるりと震え、レティシアの肩をそっと抱きしめる。
音もなく毛布が芝の上に落ちた。
「お姉様。お会いしたかった!」
「レティシア……とにかく、中に入って」
本人に聞きたいことはたくさんあったが、それは後だ。私はレティシアを屋敷の中に入れると、レティシアを探すために集まってくれた島民たちに、ノランと共に何度も礼を言った。
レティシアは道に迷い、森の中を彷徨っていたらしい。ようやく見つけた道の上に、歩けなくなって座り込んでいたところを、リカルドに発見されたらしかった。
リカルドに助けてもらったからか、レティシアは屋敷の中に入っても、リカルドの側から離れなかった。
「わたくし、まだ結婚なんてしたくない!」
レティシアは悲しみに満ちた顔で、義兄に訴えた。
義兄は大げさな身振り手振りを入れて、激昂した。
「だからって、こんなやり方があるか! どれだけたくさんの人たちに迷惑を掛けたと思ってる!」
「だって、家出でもしなければ、お兄様は縁談をどんどん進めたでしょう? お姉様の時のように」
「あれは……。」
あれはなんだというのだろう。
だがいくら待っても、義兄は続きを言わなかった。
「だいたい、レティシア、お前はあの縁談のどこが不満なんだ! お二人どちらも、結婚相手として素晴らしい男性じゃないか。ウィスラフ子爵は、軍人としても誉れ高い方で……」
「ムキムキの夫なんて、イヤよ!」
マルコがそばにいないか、つい捜してしまった。
「で、でもフロイド男爵はどうだ? 金持ちだぞ?それに年齢も…」
「お兄様の幼馴染なんてイヤよ。小さい頃から、殆ど毎日会っているのに……」
これは嫌だ、と私も同感だった。
フロイド男爵は義兄の親友で、よくテーディ邸に遊びに来ていた。幼いレティシアとも遊んでいた。
それなのに、夫と言われても心の整理がつかなそうだ。
「だがレティシア、結婚とはそういうものだ。好きな相手を自由に選べるわけじゃない」
するとレティシアは窓の外を見た。彼女の視線の先には、まだ島民と話しているノランがいた。
レティシアは唇をかわいらしく尖らせ、声を落として言った。
「でも、お姉様はとてもとてもロマンチックに、素敵な方と結婚したじゃない」
素敵な方ーーノランの事か。
自分の夫のことを褒められ、私は照れ臭く感じた一方で、レティシアが思うほどのロマンは私たちの結婚にはなかったため素直には喜べない。
「お兄様が縁談の話を断って下さるまで、わたくしここから帰らない」
なぜか義兄は私を睨んだ。
まるで私のせいだとでも言いたげだ。
「レティシア。俺が、悪かった。お前にはまだ早かったみたいだ。そんなに嫌とは思わなかったんだ。ただ、恥ずかしがっているだけかと……」
義兄が引き下がると、レティシアはパッと顔を上げた。
「じゃあ、縁談を断って下さるのね?」
「……断るよ。だから頼む。屋敷に帰ろう」
「本当に、断って下さるの?」
「約束するよ」
「伯爵様と、お姉様と、リカルド様とマルコ様にも誓って」
義兄は弱り切ったような長い息を吐いた。
「この場にいる皆に誓う。レティシアを、まだ結婚させたりはしない」
「お兄様!」
レティシアはリカルドの腕から離れて駆け出し、義兄に抱きついた。
義兄は顔を歪ませ、レティシアの肩を抱いた。
「なんで、家出なんて……! 他に方法があっただろう」
大きな声を出しながらも、義兄の目に涙が滲んでいるのを、私は見逃さなかった。
リカルドは、後は家族だけで話し合うべきだとでも思ったのか、廊下へと出て行った。
私もそれにならい、リカルドの後に続いて部屋の外へ出る。
私が廊下に出ると、リカルドは目を瞬いた。
「こういう場合、奥様は中に残られるべきでは?」
あの二人を見て私が感じた疎外感を、なんと説明すべきか。
私は騒つく心境を抱えて台所へ向かった。
午前中に作ったきり、誰も食べなかったパイを、もう一度温めた。レティシアはお腹が空いているはずだった。何か食べさせなければ。
酷く空虚な気持ちに思考が支配され、熱くなるオーブンの前でかなり長いこと私は立ち尽くしていた。
はっと気づいた時には既に遅く、パイの大部分が焦げてしまっていた。
ーー何やってんの、もう!
自分に苛立ちながら、私はパイをオーブンから出し、鍋敷きに乗せる。
焦げて耐熱皿にこびりついた黒い生地を、フォークで剥がす。水分をすっかり失ったパイが、ボロボロと崩れて破片が調理台に散らばる。バターと小麦粉の香ばしい香りは失われ、代わって湯気とともに立ちのぼる焦げ臭いにおいにむせる。
ーーさっきまで、本当に美味しそうなパイだったのに。
悔しすぎる。
「リーズ」
後ろから、ノランに呼ばれたが、顔をあげる気力がない。
「リーズ、なぜ泣いている?」
ーー泣いている?
驚いて瞬きをすると、確かに私の目から涙が一筋転がり落ちた。
ーー何これ。いつの間に。
どうりで視界が霞むはずだ。湯気で霞むのかと思っていた。
軽い衝撃をうけながら、手の甲でサッと頰を拭い、パイの廃棄作業に取り掛かる。
焼け過ぎなかった部分だけは、レティシアにあげられるだろう。なるべく綺麗な形にして残さないと。
「リーズ、どうした?」
ノランが私の肩にそっと触れた。
「……パイをレティシアにあげるの。疲れてるだろうし、お腹も空いているだろうから」
「リーズ、そうじゃない」
「ああ……そう、そう。お義兄様も、空腹でしょうね」
そういえば義兄はいつも空腹だった。
手に揚げ菓子を握り締めたまま、ソファの上に横たわって寝ている事もあった。
パンも出さないと、と私は独りごちた。
気づけば焦げ臭いにおいは台所中に充満していた。
私は少し開けていた窓を、全開にした。
溜め息をついてから、再びパイに向かう。
「すまなかった、リーズ」
「えっ?」
唐突に謝られて、訳が分からず私は又パイから顔を上げた。
ノランは私をひどく心配そうな目で見つめていた。
「……何を謝るんです? 私の方こそ、妹が迷惑をかけてごめんなさい」
「私とマルコに、パイを焼いてくれていたんだな。ありがとう。……食べてから、出かけるべきだった」
返事が出来なかった。
ーーそうだ。私はノランに食べて欲しかったのに。
こんな事で涙を滲ませてしまった自分が情け無さ過ぎて、俯いた。ノランを困らせたくなくて顔を上げられない。
「リーズ」
みっともないけれど、鼻を盛大にすすりあげた。
惨めなパイを見下ろす。
上手に焼けた出来立てのサクサクとした美味しいパイを、ノランにーー大事な人に食べて欲しかった。そして、ちょっと褒めて欲しかった。私はそんな子供じみたことを少し期待していた。
だから、半分炭と化した無惨な成れの果てが、泣けるほど悲しい。一番得意な料理だったのに。
ーー違う。そうじゃない。
料理が無駄になったのは悲しい。
でも今私が虚しくて仕方がないのは、そんな単純な理由ではない。
自分の深層心理を探ろうとすると、心が軋む。
ーー私は、誰かに大事だと思って貰えているだろうか……?
今、私は自分だけが荒野に一人佇んでいるような、猛烈な孤独を感じた。
母は、あの美しい私の母は、あれでも義父に愛されていた。
義兄はダフネと子どもがいる。
レティシアは義父にかわいがられていたし、あの義兄からも大事にされていた。
ノランにも王宮にたくさんの友人がいて、子どもの頃から付き従ってくれるリカルドやマルコがいる。
ーーでも、私は?
私を大切だと、そう思ってくれる人は、実はこの世に誰もいないのではないか。
今、私はそう感じられてしまって仕方がなかった。
私は、それほどに価値のない人間なのだ。
そんな気がしてならない。
ーーノランにとっても私は元々弟のためと、その恋人との結婚から逃れる手段でしかなかった。
ここに来てから、ずっと気になっていたことがもう一つある。
子どもはまだ作れない、と言われていた。経済的にゆとりがないから。
でもそれは多分、嘘だ。
なんとなく私は気づいていた。
いくら伯爵としては貧乏でも、そうは言っても彼は特権階級の人間だ。子どもを一人も設けられないくらい逼迫しているはずがない。寧ろ本当は伯爵領を相続させる存在が必要なはずなのだ。
ノランは適当な言い訳をして、どうしてか私を遠ざけているのだ。
それがとても辛い。
誰も、だれもわたしを本当の意味では必要としていない気がする。
私はノランに見られるのがみっともなくて恥ずかしい不出来なパイに視線を落としたまま、絞り出すように呟いた。
「私って、……」
魅力、ないですか?
そう聞きたかった。でも女性としての尊厳をかなぐり捨てたそんな問いは、流石に怖くて出来なかった。
きっと女性として、はしたない質問だ。聞けばノランは失望するかもしれない。
気づけば焦げたむせるような臭いと、沈黙だけが台所を支配していた。失敗した料理の前でメソメソしているような、辛気臭い妻なんてノランも嫌に違いない。
気を取り直してフォークを握りしめる。
パイの黒くなった部分を大胆にこそげ取ると、生ゴミをいれる箱に放り込む。
「ノラン様もお腹空いてますよね。今準備しますから。ーー兄は……恐ろしいほど食べるんです。燃費が悪くて」
私は梨のコンポートを保管していた容器を探そうと棚を開いた。オリビアが作ってから割と日が経ってしまっているので、まだ食べても大丈夫なのか不安だから、義兄にだけ食べさせよう。
「兄は特にお腹が空くと異常に機嫌が悪くなるので、早くエサ……じゃなかった、食べる物を…」
変な言い間違いをしてしまった。
突然ノランの両腕がこちらに向かって伸ばされ、私の肩に掛けられたかと思うと、次の瞬間私は彼に抱きしめられていた。
驚いて一瞬息が止まる。
「貴方は私の為に、一生懸命やってくれている。それなのに、こんな夫で本当にすまない」
「……ノラン様?」
「急な求婚だった。それに私は人騒がせな王子などと噂がある男だ。きっと、本当は貴方も家を出てしまいたいほど嫌だったのだろう」
出来損ないのパイのことなど、どこかへ飛んで行ってしまうほど、驚いた。
ノランからそんなことを言われるとは思いもしなかった。
そんなことありません、私はレティシアとは違いますから、とは言い切れない。なぜなら私もあの頃、義兄に働きに出たいと申し出てテーディ邸を出ようと計画したことがあったからだ。
「だが貴方は、恐らく断りたくてもそうできる立場になかった……」
確かにその通りだった。
私はあの時、今のレティシアのような大胆な事は残念ながら到底出来なかったし、逆にやっていたらどうなったかと思うと、想像するだに恐ろしい。
「私も貴方が断れないだろうと、はなから分かった上で求婚していた。寧ろ健気な娘を私が助け出すつもりだった。貴方の話を良く子爵から聞いていたから」
私の話……。
義兄はきっと、継母の連れ子がいかに邪魔で、けれど自分が寛大にも屋敷に置いてやっているのだ、といった話を吹聴していたのだろう。高慢な貴族たちが、その話を聞いて私を嘲笑する場面が容易に想像できる。
「それでも貴方は私のために笑顔でいてくれて、こんなにも努力してくれている」
ノランは小さく私の名を呼び、頭の上にキスをした。
顔を上げてノランを見た。綺麗な水色の瞳が、直ぐ近くから私を見下ろしていた。
「来てくれて、ありがとう」
その時、バタバタとリカルドが台所にやって来た。
彼は顔にかかった波打つ髪の毛を後ろに払いのけながら、困り顔で報告してきた。
「テーディ子爵が、腹が減って気絶しそうだと騒いでいるのですが……」
気絶させておけ、とノランが一蹴した。
「すみません、兄が色々ご迷惑な真似を……。ちょっと行ってきて何が食べたいか、聞いて来ます」
ノランの腕の中から出て、苦笑しつつ台所を離れる。
だが廊下を少し進んだところで、私ははたと気がついた。
そもそも食料庫にどんなものが今入っているのか、きちんと把握していない。オリビアじゃあるまいし、要望があった物を短時間で作れるほど、私は料理上手ではない。
確認しないと。義兄が更にキレてしまう。
台所に引き返すと、ノランとリカルドの話し声が聞こえた。それはどこか抑えた口調だったので、気になって思わず足を止めて廊下から耳をそばだてた。少し開いたままの扉のノブに手を掛けたまま。
「奥様お相手になると、随分と不器用になられるのですね」
「リカルド、お前……」
「悩まず割り切れば宜しいのでは?……殿下と奥様がいつまでご夫婦でいるかも分かりませんし」
びくり、と身体の芯が震えた。
ノランの従者のリカルドが、その主人を殿下と呼ぶのを初めて聞いた。
それに……いつまで夫婦でいるか分からないーー?
リカルドはどうやら私とノランがいずれ別れると思っているらしい。そんなこと初めて知った。
指作から冷えていくようだった。
握りしめたノブが、異様に冷たく感じる。
「どう言う意味だ?」
「殿下の幼少時よりお仕えして参りました。私は殿下をよく分かっているつもりです」
握りしめたノブから目をゆっくりと上げ、扉の微かな隙間から台所の中を覗くと、リカルドはこちらに背を向けて立つノランを見て少し口角を上げた。
「そもそもセベスタ王女との縁談が破談になった今、目的は達成されました。もう奥様は考えようによっては用済みなのでは?」
「お前は、何を言う……」
リカルドの酷く挑戦的な口調に、心が乱される。いつも温厚で女性に優しい彼が、そんなことを言うなんて。
リカルドは続けた。
「だってそうではありませんか。何より、殿下はまだ奥様を抱かれてはいないのでしょう?」
頭上から突然冷水を掛けられた思いだった。
なぜリカルドがそんなことまで知っているのか。まさか夫婦生活が筒抜けだなんて。
「手放すつもりで抱いていないわけではない!」
「では罪悪感ですか?」
「まだその時期ではないからだ」
時期って、なに?
時期? 時期があるの?
身体は固まって動かないけれど、頭の中だけはぐるぐると回った。
リカルドの声が漏れ聞こえる。
「そうですねぇ、ほとぼりが冷めたらいずれ殿下はもっと相応しい女性と結ばれるべきかも知れませんね」
「そんなことは考えていない!」
「なぜです?」
「私がリーズを手放したくないからだ!」
「ですから、それはなぜ?」
「彼女を愛しているからだ!」
するり、とノブから手が滑る。
にわかに私の呼吸が荒くなる。
呆れたようなリカルドの声が続く。
「……元より離縁するなど考えていない。そこまで人でなしにはなりたくない」
「全く、殿下は手がかかりますねぇ。ちゃんとご自分のお気持ちが分かってらっしゃるんじゃないですか」
リカルドはどこか呆れたように言った。
「それなら尚のこと、奥様にお気持ちだけでもお伝えしないと。あの奥様は割と鈍感ですよ」
「それは私も知っている」
ーーなんて言われようだろう。
確かに結婚式のすぐ後に、ノランからは鈍感だと言われない非難をされたけれど。
無かった好意をあの時どう感じろと言うのか。
「奥様を愛しているご自覚かあるのにーー、そんなお気持ちで何もなく同じ寝室で過ごされるなど、私には到底真似できませんが……」
「言うな。これでも毎晩理性とたたかっている」
リカルドの笑い声が続いた。
ドクンドクンと、私の心臓が強く存在を主張する。
「殿下はお厳しすぎなんです。女性にはもっと優しくしないと」
リカルドは深いため息をつくと、首を左右に振った。否定のためというよりは、お手上げを表しているように見えた。
台所に戻る勇気はとうに萎えていた。
私は二人の会話を聞いたことがバレないよう、足音を消す事に腐心して、激しい動揺を抑えながら、義兄のもとへ向かった。




