義兄、シャルル・テーディの奮闘
義兄は馬からボトリと降りた。
その後に続いて少し遅れてやって来たのは、義兄の乳兄弟のピエールだった。
義兄は私の顔を一瞥すると、私から直ぐに目を逸らし、ぶっきらぼうに言った。
「あー、殿下……、伯爵に会いに来た」
「ノランは、今外出していていません」
すると義兄は太い眉と眉をグッと寄せ、不機嫌そうな表情を浮かべた。
「いない? こんな時間にいないのか」
「あの……ノランに何か御用ですか?」
「……レティシアは来ていないか?」
「レティシア? ここにですか? まさか。来ていません」
なぜそんな事を尋ねるのだろう。
レティシアがダール島にいるわけがないじゃない。
説明を求めてピエールを見ると、ピエールが義兄の顔色を伺いながらも、話してくれた。
「レティシア様が、家を飛び出してしまわれたのです」
家を飛び出た? と私は間抜けな声を上げた。
「シャルル様と口論をなさって、屋敷を馬で飛び出されたんです。王都のめぼしい所は当たったんですが、いらっしゃらず……」
「それで、うちにレティシアが来たと思って、探しに来たのね?」
ピエールは弱り顔で大きく頷いた。
ーーこんなに遠くまでレティシアが?
妹は乗馬があまり好きではなかった。そんなあの子が島まで駆けてきたかもしれない、と、思うと怖くなる。
目の前にいるピエールを見れば、あちこち駆け回って来たためか、服は砂だらけで白っぽくなっていた。義兄も汗と脂で、黒髪がギットリと頭皮にはり付いている。
義兄は肩を落として、呻いた。
「ここにも来ていないのか……。一体どこに行ったんだ!」
やがて義兄は辺りを見渡して、苛立った様に言った。
「王都から駆けて来たんだぞ。茶ぐらい出せ!」
私は慌てて彼等を屋敷の中に案内した。
玄関から居間までの廊下を歩いていると、義兄は鼻で笑った。
「おい、誰もいないのか? 伯爵家には使用人もいないのか?」
オリビアはたまたま今いないだけだったが、どうせ事情を話したところで、では一人しかいないのか、と馬鹿にされそうだ。私は黙って彼等を居間まで通した。
取り敢えず居間まで連れて来ると、義兄はどっかりとソファに腰を下ろした。スプリングが激しく軋んだ音がして、座面が壊れなかったか不安になる。
「ああ、疲れた! それに足が痛い。……喉が渇いて死にそうだ」
ボヤく義兄に急き立てられるようにして、私は台所で茶を急いで淹れた。
食器棚からなるべく高価そうなカップを選ぶ。
ーーつまらない見栄だ。
二人分の茶を用意すると、トレイに乗せて居間まで運ぶ。
義兄は不躾にもジロジロと屋敷の内装を見回していた。その小さな青い目には隠しきれない侮蔑の色が浮かんでいた。
屋敷をそうやって観察されるのは、まるで自分自信を見られているような、そんな居心地の悪さがある。
ピエールは茶を飲むと、直ぐにソファから立ち上がった。
「もしや島の中で迷われているのかも知れません。辺りを探しましょう」
義兄も顔をしかめながら、ソファから重たそうな尻を上げた。
私は窓の外を見た。
外はもう真っ暗だ。この島の道に不慣れな義兄たちが、迷いでもしたら面倒だ。
彼等が王都の屋敷から乗り回して来た馬たちも、既にかなり疲れているだろう。これ以上重い義兄が乗ったら潰れてしまうかもしれない。
「お兄様たちはここで休憩していて下さい。私が行きます」
ピエールは即答した。
「大丈夫です。私も行きます。人数は多い方が良いでしょう」
「勝手に決めるな、ピエール。俺をこんな所で一人にする気か」
義兄はワガママにも、単身留守番するのは嫌らしかった。
板挟みになったピエールを私は宥めた。
「もしかしたら、レティシアが来るかも知れないので、二人はここに残って下さい。ピエールは、レティシアがもし来たら、私に教えに来て」
困ったように義兄の方を見ながら、ピエールは渋々私の提案に同意した。
「レティシア! いるなら返事して、レティシア!」
馬を小走りにさせながら、私はダール島の道を辿った。屋敷までの道は一本ではないし、獣道のような小道もある。ここに初めて来たレティシアならば、どこかに迷い込んでいてもおかしくはない。
若しくは、遭難してどこかの家に保護されているかも知れない。私は島の豪農の家も、何軒か尋ねて回った。
だが、妹は見つからなかった。
ーー二人は一体どんな口論をしたの? 家を飛び出すなんて、ただごとじゃない。
天使の様にフワフワと愛らしいレティシアだったが、その容貌とは対照的に気丈な子だった。それでも、今まで屋敷を飛び出した事なんて一度もなかった。
主要な道を一通り探しても、レティシアは見つからなかった。微かな明かりを提供してくれていた夜空に浮かぶ月に雲の帯がかかり、視界が急激に悪くなる。島の木々は夜の闇と同化し、道と藪の区別もつかなくなってしまった。
馬も無駄な足踏みやいななきを始め、それ以上暗がりを駆けるのを渋り出す。目を瞬き、手の甲で擦っても視界は一向に良くならない。
「レティシア……。いるの?! お願いよ、レティシアっ!!」
私の叫びは虚しく暗闇に吸い込まれていくだけだった。あまりの静けさと暗さに、今更ながら身がすくむ。結局私は断腸の思いで屋敷に引き返す事にした。
ーーもうすぐノランたちが帰って来る。
屋敷に義兄たちが居座っていたら、お互いびっくりしてしまうかもしれない。
できれば事情を話して、ノランたちにもレティシアを探すのを手伝って貰いたい。
屋敷に戻り、夜風にあおられて冷え切った頰を擦りながら玄関の扉を開けると、直ぐに異変に気がついた。
男性の大きな声が中から響いて来た。私ははたと足を止めて耳をそばだてた。
それはノランの声だったのだ。
ーー帰って来てたんだ!
声は居間の方から聞こえて来た。そちらへ急いで向かうと、ノランの声がはっきりと聞こえた。
「暗くて危ないから? ならばなぜリーズを一人で探しに行かせたんです!?」
それに対する、義兄のオロオロとした声がした。
「ですが、レティシアが……妹も道に迷っているかも知れないですし……」
居間に顔を出すと、ノランと目があった。
彼は一瞬目を見開き、つかつかと大股で私のもとにやってくると、私を抱きしめた。
「良かった。……一人で夜に出掛けないでくれ」
「あの、妹が……」
「聞いている。マルコが人手を集めて、もう探しに出た。貴方は危ないから、家に居なさい」
マルコも先ほど帰宅したばかりなのに、申し訳ない。
義兄を見ると、彼はソファの隅で大きな身体を必死に小さくして座っていた。
「お兄様、レティシアとどうして喧嘩したんですか? 何が原因で……」
「黙れ! お前には関係ないだろ」
「関係ないなら探す必要もありませんね」
ノランが感情のこもらない声でそう言った。
バリバリと頭皮を掻き毟り、義兄は嫌々声を絞り出した。
「レティシアに縁談を勧めたんだよ」
「縁談? あの子はまだ十四なのに」
「ダフネの姉は十三で嫁いだ。貴族の娘なら、おかしくはない」
ーー呆れた。
いくら貴族の娘でも、十四はかなり早い方だ。
義兄はきっと自分の妻のダフネに、そそのかされたのだろう。私がいなくなったついでに、ダフネは小姑を追い出したくなったのかも知れない。
「お兄様はどんな縁談を勧めたの?」
「どんなも何も……。名家の男性ばかりだ。普通の娘なら、泣いて喜ぶようなお相手たちだよ」
泣いて喜ぶどころか泣いて逃げたんじゃないか。レティシアの気持ちを思うと、たまらない。
女性の気持ちをちっとも理解していなさそうな義兄を前に、ふと思った。ダフネは義兄に嫁ぐ時に、どんな気持ちだったのだろう、と。
結局捜索隊にノランとピエール、遅れて帰宅したリカルドも加わることになり、屋敷を出発した。島に来ているのなら、どうかレティシアが見つかりますように、と祈りながら彼らの後ろ姿を見送る。
皆がバタバタと出て行ってしまうと、私が屋敷で義兄の面倒を見なければならなくなった。
どうやら義兄は足首のあたりを捻挫したらしく、しきりに痛い、痛いと不満を漏らしていた。
ほとんど馬に乗っていたのに、なぜ足が痛いのだ、痛めた覚えがない、と彼はブツブツと文句を垂れ流していた。
だが私は義兄が馬から降りた場面を思い出した。
あの時に痛めたのではないだろうか。
馬の背の高さと、義兄の体重を考えればあり得ない話ではない。
義兄はソファにしんどそうに寄りかかりながら、口を開いた。
「そう言えば、王宮に行っただろう」
「はい?」
「陛下の御即位二十周年の式典に来ていただろう。お前も」
なぜそれを知っているのだろう。
そうたずねると、義兄はフンと鼻を鳴らした。
「俺も参加していたからに決まっているだろ。気づかなかったのか」
義兄もあの時、式典にいたなんて。全く気がつかなかった。
あの時は、自分の事でいっぱいいっぱいだったから。
「我が家の居候娘が、王族の席に座るなんて、たいした出世だよ、まったく」
兄は靴下を脱いだ足をソファの前のローテーブルにドンと放り出した。
そしてさも当然の要求のように言った。
「湯はまだか?」
義兄は外出先から帰宅すると、いつも使用人に足を洗わせていた。
私を今も使用人として扱う義兄に腹を立てながらも、たらいに張った湯を運んでくる。
重たいたらいを義兄の前に置くと、床に膝をついて自分の袖をめくる。
義兄はさも当然のように両足を湯の中に入れていく。痛めたらしい足を湯に入れて良いのか疑問に思ったが、私は手をたらいに突っ込んで義兄の足を洗った。
ポチャポチャと指が肥えていて、何だか赤ん坊の足みたいだ。でも指と指の間に靴下の糸くずやホコリが詰まっていて、汚らしいから、ちっとも可愛くない。
タオルで拭いてやっていると、義兄は急に顔をしかめた。どうやら痛めた箇所を私が触ってしまったらしい。
「いてぇ! 下手くそだな。……お前は、昔からいつも俺をイラつかせてくれるな」
なんで謝っているんだろうと思いながらも、すみません、と頭を下げる。どうしてもやや反抗的な声色になってしまう。
義兄はそこを敏感に嗅ぎ取った。
「居候娘が、偉そうになったじゃないか」
義兄の皮肉を私は聞き流した。いちいち相手にすると疲労困憊するからだ。
タオルで足を拭いてやっていると、義兄は私をじっと見つめていた。何だろうと訝しく思って目を合わせると、彼は眉をひそめた。
「お前、痩せたか?」
「そうかもしれません。ここでは良く動くので」
「それ以上痩せて殿下に捨てられるなよ。引き取らないからな」
私を今動かしているくせに、どの口が言うのだ。




