はじめてのお留守番
夕暮れ時のダール島は、一層美しかった。
陸側から眺めると、島は赤い空に浮かび上がるように見え、そこへと繋がる橋を渡りながら、私はやっと帰ってきたことにホッと胸をなでおろした。
「帰ってきましたね」
私がそう呟くと、ノランは腕を伸ばして私を引き寄せた。
ーーええっと……? どうしよう……。
肩と腰が彼に当たり、急に胸が早鐘を打つ。
私の腰回りに何気なく回された彼の腕に、猛烈に緊張する。
ーーどうしなくても良いんだ、きっと。
なんとなく身体を寄せ合っていれば良いんだろう。
彼の意外な行動に軽く驚きつつも、そう思ってじっとしていた。
どきどきして速くなる呼吸をどうにか落つけようと、こっそり深呼吸をして凌いだ。
夕闇の中では、島に点在する湖は、まるで地に開いた黒い巨大な穴のように見えた。
私とノランは二人で窓の外に点々と現われては過ぎて行くその穴を、そのまま無言で見つめていた。
「旦那様は体調がどこかお悪いのかしら」
オリビアは台所の窓から外を眺め、私に声を掛けてきた。彼女の視線の先には、一人庭先に立ち尽くすノランの姿があった。
橙色の強烈な明かりを放つ夕日の方を向いて、ノランが腕を組んで立っていた。
黄昏時に相応しく、物思いに耽っているようだ。
ノランは王宮からダール島に戻って来てからここ数日、浮かない表情で考え事をしている時間が増えた。
元より明るい性格ではないように思えたが。
相変わらずノランは朝早くに起きて、一日中動き回ってはいたが、私も気になっていた。
「体調は、悪くないと思うんだけど……」
心配してくれているオリビアに、そう答えるしかないのが、情けない。
私もノランを手助けしたい。
一緒に悩み、彼を支えたい。
でも私と彼の間に横たわる、まだまだ深い心の溝がそうさせてくれない。
「私も、どうして良いのやら……全然妻らしくなくて」
弱音を吐くとオリビアが背中を撫でてくれた。
「最初からうまくいったりは、しませんよ。徐々に夫婦らしくなっていくものです。他人どうしがある日突然、夫婦になるのですから」
おまけに私とノランには滑り出しから大きな嘘が横たわっていたのだ。そして多分、ノランはまだ私に言えない何かを抱えている。
何かに深く悩む様子のノランを見るのは、辛かった。そして、私が彼の役に立てないことも、辛かった。
窓の外のノランを見ると、風に吹かれてプラチナブロンドの髪が、夕闇の中で靡いている。夕方の風は冷たい。そろそろ寒くなってきているに違いない。
何か、ちょっとでもノランを元気にできるものを……。
私は少しの間考えた後、ホットワインをカップにいれ、その上に梨のコンポートを乗せた。そしてそれを携え、ノランがいまだ立つ庭先に向かった。
あえて声はかけなかった。
足音を立てないようにして背後からにじり寄り、ノランの真後ろまで来ると、私は腕を伸ばしてカップをノランの右頬に当てた。
「うわっ!!」
ノランは弾かれたように左手側に飛んだ。
すぐに私を振り返ると、ノランは目を丸くした。
「リーズ……。何をしてる」
「寒そうなので、温かいものをお持ちしました」
そう言いながらカップの中にあるワインを見せた。香辛料が良く効いていて、身体が芯から温まるホットワインだ。もちろんオリビアのお手製で、ジューシーな梨のコンポート入りだ。
ダール島は島だからなのか、朝夕がかなり冷える。
特に時折とても強い風が吹き付けるのだ。
ノランはカップを受け取るだけ受けた後、コンポートを見ながら大真面目な顔で言った。
「夕食前にまた随分甘いものを……」
……流石は元殿下。
やたらに間食などしないのだろう。躾が行き届いてらっしゃる。
思わずくすりと笑いながら、殿下に話した。
「テーディ邸の使用人は、結構つまみ食いしているんですよ。私も台所でお菓子とかフルーツをちょこちょこ食べていました」
ノランは軽く驚いたように私を見た。
冷たい風が吹き、頰や手の体温を奪い去っていく。
反射的に私はカップに指を巻きつきて、暖を求めた。
「この梨、私とオリビアが散歩の最中に見つけたんですよ」
「近くに梨の木が? それは気づかなかった」
私は得意満面でノランを見上げた。
私を見下ろすノランはかなり真剣な眼差しで言った。
「後で木の場所を教えてくれ」
残念ながらとってきた実は、そのまま食べるにはまだあまり甘くなかった。
けれどオリビアとコンポートにしたら、とても美味しかったのだ。これならパンにも合うし、デザートにもピッタリだ。
頰をほころばせてカップを覗き込んだ。
甘くてジューシーな梨のコンポートが、私を見上げている。折角持ってきたのにノランはカップを受け取る様子がない。
夕食前だからってこれを食べないなんて、もったいないじゃないか。
ーーわざわざ温めてきたんだし。
仕方なく私がおいしく頂き始める。
するとノランは腕を組んだまま呆れたように言った。
「……誰のために持ってきたのだ」
梨の大きな塊をつるんと口に入れてから、私は答えた。
「だって、冷めちゃったら……」
私は言い終えることが出来なかった。
ノランが両手をこちらに伸ばして、私を急に抱き寄せたのだ。
彼は私の耳元に唇を寄せると囁いた。
「私はワインより、こうしている方が温かい」
「ノラン様……」
ノランの腕の中で、カップが傾かないように懸命に持った。あまりにどきどきし過ぎて、息が上がる。
「ノラン様は予告なしにこういうことをなさるから、心臓に悪いです……」
「こういうこととは、どんなことだ?」
そこを聞かれるとは思っていなかった。凄く答えにくい。
私は消え入りそうな声で答えた。
「例えば……キスをしてきたり……」
「普通は予告などしないだろう」
「そ、そうなんですか?」
「リーズ」
「はい?」
「リーズ」
「はいっ?」
首を動かして訝しげにノランを見上げると、彼はいたずらっぽく笑った。
「何でもない。呼んでみただけた」
「何ですか、それ……」
ノランがそんなことを言うなんて、意外に思えた。自分でも驚くほど顔が熱くなる。
しばらくしてからノランの腕が解かれ、解放された時、私はそれをとても残念に感じた。
もう少しーーあとちょっとだけ、腕の中にいさせてもらいたかった。
そんな感情をノランに読まれるのが恥ずかしく、誤魔化そうと残りのコンポートをかきこむ。
最後にカップを傾け、残ったワインを飲む。
すると唐突にノランが手を伸ばして私のカップを奪った。彼はそのままカップを傾け、最後のワインを飲み干してしまった。
「ええっ!? 何するんですか……! 私の……」
言い終える前にノランは声を立てて笑った。
「私のために持ってきてくれたのではないのか?」
「で、でも、いらないって……!」
「いらないとは言っていない」
「言いました!」
「いや、誓って言っていない」
言ったじゃない!
……いや、言ってないか? 断言はしていなかったかも。
私がノランを軽く睨むと、彼は愉快そうに笑った。
「貴方は困らせると面白いな」
「面白がらないで下さい!」
ノランは尚も笑いながら、私の片手に自分の指を絡めた。前触れなく手を繋がれ、心臓が跳ねる。
指と指の間に差し込まれたノランの手のぬくもりが、私の血流を押し上げる。
「確かに寒いな。屋敷に戻ろう」
手を繋いだまま私たちは屋敷に歩き出した。
屋敷に戻るまでの距離が、もっと長ければ良いのに、と思う私がいた。
その日の夜、私は廊下の窓辺に立つノランを見つけた。彼はただ、何をするでもなく、大きな窓から外に視線を投げていた。
外は真っ暗で、見るべきものは何も無い。
何を見ているのだろう、と首を傾げてぎくりと気がついた。
ーー納屋だ。
ノランは、今は夜の闇に包まれて視界に入らない、我が家の納屋を見ていた。彼がここ数日、悩んでいる事と、あの納屋が関係あるとは思っていなかった。
きっとあの納屋の地下の秘密を、いつか私に話してくれる。
そう思いながらも、私はいつかあの納屋の地下が、ノランを私から遠くに連れ去ってしまうような気がしてならなかった。
王都から戻って一週間ほど経った頃だった。
私がダール島に来てから、初めてオリビアが外泊をする事になった。
私は朝からせっせと台所仕事をしていた。
オリビアは私が捏ねているパイ生地をチラリと見て、助言をくれた。
「奥様、捏ね過ぎると焼き上がりが固くなってしまうかもしれませんよ」
「分かってるから、オリビアは早く荷支度をしなきゃ。お孫さん、生まれちゃうよ?」
私の料理を心配するオリビアは、台所をなかなか離れようとしなかった。オリビアの娘の一人が、産気づいたと先ほどしらせがあったのだ。
オリビアは産後の娘を手伝う為に、数日屋敷を留守にする予定だった。
「パイ生地を焼く前に、重りを乗せるのをお忘れなく!」
「うん、分かってる。大丈夫!」
しまった。忘れるところだった。
重りってどこの引き出しにあるんだろう?
「焼きあがっても、容器をくれぐれも濡れ布巾に乗せたりなさらないで下さいね」
「そうだね。生地が変形しちゃうもんね!」
前に私が実家でした失敗を、どうして知ってるんだろう?
「何かあったら、直ぐに呼んで下さいね。どうせ初産で直ぐには生まれませんから」
肩に大きな鞄を掛けたまま、屋敷の玄関で私を心配するオリビアに礼を言いながら、彼女を見送る。
オリビアの実家が寄越した荷馬車に乗って、彼女が屋敷を去って行ってしまうと、屋敷の中は急に静かになった。
やけに足音が響くように思える。
私は台所は向かうと、野菜とひき肉を炒め始めた。正直、自分が作った料理をノランに食べてもらうのは、かなり照れ臭い。オリビアは料理が上手だった。
振り返ればダフネが義兄に手料理を振る舞うところなんて、見た事がない。
でもこれも、貧乏な伯爵に嫁いだ醍醐味だろう。テーディ邸で多少は台所仕事を手伝っていて、良かった。
さあ、パイが焼き上がるぞ、という段階でノランが屋敷にマルコと戻って来た。
ーーちょうど良いところに! お昼ご飯にしよう。
心躍らせつつ玄関に駆け寄ると、ノランと目が合う。彼は玄関の椅子に座り、作業用のブーツから、動き易い室内履きに変えているところだった。
私はわくわくとノランに話しかけた。
「ノラン様、お腹空いてませんか?」
「すまないが、直ぐに出かける」
「えっ?……ど、どちらに?」
「バルダ子爵のところだ」
バルダ子爵。その名は私も知っていた。
同じ王都に住んでいた子爵だからだ。
でもノランは周辺の貴族たちとの交流を避けていたはずではないのか。
「で、では王都に行かれるんですか? 今から?」
「いや、バルダ子爵は今、私の叔父の家にいらしているらしい。わざわざ私に会いに。だから、すまないが直ぐに発つ」
せっかくパイが出来立てなのに。
こんな時に限ってなぜ。バルダ子爵もタイミングが悪い。
そんな文句を言ったら、ノランに嫌がられそうで、言えない。切って、持って行ってもらおうか、と思いついたが、ノランは急いでいたので、言い出せない。
かわいそうな私のパイ。
出かける支度を始めに二階へ上がったノランを、私は階段の踊り場で所在無く見上げていた。
マルコはそんな私に気づいてか、階段を駆け上がり、二階の廊下でノランに話しかけていた。
「ノラン様、台所から凄く良い香りがするっす。ーーなんでしょうね?」
「お前も早く支度をしてくれ」
「ええと、ノラン様。台所に行かれて見ては……?」
「マルコ。空腹ならそう言え。先に行っているから、食べて出ろ」
「えっ!? 違うっす。そうじゃなくて……」
「それなら、支度しろ! 早く出ないと帰りが遅くなる」
私は階段の踊り場で、木偶の坊みたいに立ち尽くして主従の会話を聞いていた。
マルコはどうにかノランの注意を私の料理に向けようと努力しているようだった。でも、急いでいるノランはその真意に気づく様子もない。
バタバタと二人は階下へ降りて来た。
私は、オロオロと彼等を送るしかなかった。
ノランは急いで乗馬用のブーツを履き、玄関の扉を開けた。その直後、ノランは気づいたように私を振り返り、立ち尽くしたままの私を引き寄せると、額に軽い口付けをくれた。
「いってくる。夜には帰る」
こうして、私は屋敷に急に一人になった。
台所にトボトボと引き返すと、脱力して椅子に座り込んでしまった。
ーー焼きたてが一番美味しいのに。
張り切って作ったのに、今このパイの正面に座っているのは、私だけ。
シーンと静まり返った屋敷の中で、ゆらゆらと湯気がのぼるパイを、一人ぼんやり眺めた。
リカルドもオリビアもいない屋敷の中は、静寂に包まれていた。
屋敷を囲む木々や湖といった豊かな自然は、いつもは美しいと感じさせるのに、今日は寂しさを助長させている。
家事が一通り終わってしまうと、退屈さに飽き飽きした。
心が乾いてしまいそうだ。
陽が沈むと私は待ちきれず、外套を羽織って屋敷の前で彼らの帰還を待ちわびた。
やがて蹄の音が辺りに響き、私は目を凝らした。
ーーノランたちが帰って来た?
こちらへやって来るのは二人だった。
だが、先頭に立ってやって来る馬上の人物の、横に大きな丸い体格はノランでもマルコでもあり得ない。まるで大きなボールが馬の背中に乗っているみたいだ。
あれは……。
ノランだと思った興奮が、一瞬にして冷めて行く。
見覚えのあるシルエットはやがて、顔が分かる距離まで駆けてきた。
こちらへ駆けて来る人物が誰か分かると、私は硬直した。
馬に乗って私のもとへ来たのは、テーディ邸にいるはずの私の義理の兄、シャルル・テーディだった。




