怒れる殿下、そして怯える私
遠くで時計がボーン、と一の時刻を知らせる音が響いた頃、廊下をカツカツと歩いてくる足音が聞こえた。
いつの間に寝ていたのか、私はハッと目を覚ました。まさかと飛び起きると、ゆっくりと寝室の扉が開かれ、ノランが入ってきた。
ーーノラン!
「起こしてしまったか?」
私は訳もなく首を左右に振った。
「もうどこかに泊まってくるのかと。こんな遅くに、……真っ暗な中を帰ってきたんですか?」
「貴方が心配するといけないので」
意外な事を聞いた気がした。
こんなに夜遅くに、私のために暗い道のりを駆けて帰宅してくれたのだろうか。そう思うととても嬉しかった。私が心細く怯えて待っていた事を、分かってくれていたのだ。
ノランが私を大事にしてくれている。そう感じられた。
ノランは寝台に腰掛け、上半身を起こした私を抱き締めた。とても優しい抱擁だった。
「あの、おじ様はピーターをなんて?」
ノランは身体を離し、少し微笑んだ。
「明日にでもピーターを叔父上の屋敷へ連れて行く事になった。アリックスの住所を今も知っている使用人が叔父上の所にいてね。そこへ人を送った。アリックスは遠方に住む母親の危篤に立ち会うために、ピーターを置いていったらしい」
「そうだったんですか……。でも、いくらなんでも五歳の子どもを置いて行くなんて。ピーターも連れて行くお金がなかったんでしょうか?」
「それもあるが、アリックス自身も今病気があるらしい。もっと先を見据えて、叔父上に預けたかったのかも知れない」
先を見据えて……?
急に切ない気分になった。
いずれにしてとノランの叔父は、自分が少年の父親かもしれないという自覚はあったらしい。
ノランは言い終えると、私にもたれた。
「疲れた。とても、疲れた」
私を抱き締めたままノランが寄りかかってくるので、上半身がとても密着した。
「……実は叔父上の奥方が逆上して、修羅場だった」
「そ、それはそうでしょうね」
コトがコトだけに、奥方を巻き込まない訳にはいかなかったのだろう。私はノランの叔父の妻に、少しばかり罪悪感を抱いた。
「お疲れ様でした。もう、休んで下さい」
私は勇気を出して、ノランの背中を撫でてみた。するとノランは目線だけ動かして、私を見下ろした。
その水色の瞳に、うっとりとしてしまう。
「キスしてくれ。疲れを忘れられそうだ」
緊張と嬉しさで瞬時に胸がいっぱいになった。
私はバレない様に軽く深呼吸をしてから、首を伸ばしてノランの頰にキスをした。
とても満ちたりた気分だった。
朝になると私は少年の身支度をはじめた。
少年はここから離れた屋敷に行ってもらう事を説明すると、困惑していた。
「お母さんが僕をお迎えに来られなくなっちゃうよ」
「大丈夫だよ。お母さんの所には人をやったから、ちゃんと伝わっているはずだよ」
少年は何度も、本当に? と心配そうな顔で私を見上げ、確認してきた。
私たちの事情で振り回される少年が、気の毒だった。
オリビアは昨日私たちが焼いたクッキーの残りを、小さな缶に入れて少年に手渡した。
少年はそれをまるで御守りか何かの様に、両腕で大事そうに抱え込んでいた。
ノランの叔父はなかなか到着せず、私をやきもきさせた。
もしや、少年を引き取る気が失せてしまったのではないだろうか。
気を揉んでいると、昼過ぎにようやく一台の馬車がダール伯爵邸の前にやってきた。
馬車が近づくと、少年は私のスカートのひだを握り締めて、パッと私の後ろに隠れた。
馬車から降り立ったのは、一人の小太りの中年男性だった。彼は私たちの顔を見るなり、帽子を取り、金髪を靡かせ、少し硬い面持ちで出迎えた私たちに挨拶をした。
「はじめまして。こちらに嫁いでこられたばかりの貴方を、私の不徳の致すところで、ご迷惑をお掛けして、申し訳ない」
ノランの叔父は初対面の私にひたすら頭を下げた。対する私は、彼の顔を見て驚きを隠せなかった。
――似てる! ピーターに、そっくりだ……!
私は密かにアリックスの勘違いという可能性も考えてはいたが、二人の顔を見ると、事実は明らかなように思えた。
「君が、ピーターかな?」
ノランの叔父はおずおずと少年に話しかけた。私の背後に隠れている少年に。
「ピーター、おいで。私の屋敷で、お母さんを待とう」
ピーターはゆっくりと私のスカートの後ろから出てきた。
ノランの叔父が手を伸ばし、ちょっとぎこちない手つきでピーターの小さな手を取った。
ノランの叔父と少年がいってしまうと、一抹の寂しさが胸に去来した。
賑やかだった屋敷が、急に静かになったのだ。
私はオリビアと少年の今後について暫し語り合い、しみじみと居間の床を眺めた。そこに座って石ころを並べていた小さな彼が、妙に懐かしい。
複雑な心境で少年が使っていた部屋を片付けていると、扉がバタンと乱暴に開かれ、私は入り口を振り返った。
ノランがそこにはいた。なぜか顔色が悪い様だった。
畳んだシーツを抱えたまま、ノランを見つめていると、彼は大股で部屋に入室し、あっという間に私の正面まで迫った。
なぜ、そんなにも剣呑な眼差しで私を見ているのだろう……?
「ノランさ……」
「納屋へ、行ったか?」
「えっ?」
ノランは表情の無い顔で、酷く低い声で私に何事か尋ねていた。
「納屋へ行ったかと尋ねている」
「あ、はい。昨日行きました」
「なぜ?」
「ピーターと遊んだからです」
「中に入ったか? 何をした?」
ノランは私の両肩に手を当て、強く力をかけていた。
それはまるで詰問されているようだった。
納屋に行ったことが、何かそんなにも問題なのだろうか?
私を見下ろす感情の無い水色の瞳に、私は少し怯えた。そのあまりの冷たさに、背筋がひやりとする。
「干し草の山で、二人で遊んだだけです」
「それから?」
「それから、ええと。……ピーターが躓いて……」
「地下室の扉を開けただろう?」
ぞくり、と身体が震えた。それほどノランの声は低く
そして隠しきれない怒りを帯びていた。
「……開けて……いません」
怖くて私は思わず嘘をついてしまった。そして、幼稚にも逃げた事をその直後に後悔させられた。
ノランは私の両肩を引き寄せ、部屋の角に私を押し付けた。その力は抗い難いほど強かった。
「つまらない嘘をつかないでくれ。干し草が地下の入り口に落ちていた。それは貴方が開けたからだ」
そんな細かいところまで見て来たのだろうか。そんな必要がなぜあるのだろう。
「ごめんなさい。開けました。でも……」
「中に入ったか?」
私は勢い良くかぶりを振った。
「入ってません! 本当です。ピーターが怖がったし、明かりも持っていなかったので」
私は壁に押し付けられたまま、ノランの射るような視線に耐えた。その視線は獲物を睨み据える冷たさと恐ろしさがあり、私は意識ごと壁にはりつけられたかの如く、微動だに出来なかった。
ーー昨夜までの、ノランのあの甘さと優しさは、幻だったのだろうか。
「本当に中に入っていない?」
「入っていません」
「誓えるか?」
ノランに対する、私の誓いの言葉は、こんな事のために言わされなければならないのか。
悔しさのあまり、声が震える。
「誓って、入っていません」
ノランは真冬の冷たい湖を思わせる色の瞳で、私を無言で見下ろしていた。
私は何が彼をそこまで怒らせたのか、全く分からないまま、その豹変ぶりに傷つき、彼を見上げていた。
ノランは私を暫くの間、じっと眺めていた。
やがて彼は私の肩から手を離した。
次に彼が口を開いた時、ほんの少しだけ優しさが戻っていた。
「納屋の地下には、二度と行ってはいけない」
「なぜ、ですか」
「地下室の床がかなり傷んでいる。崩落の危険性がある」
嘘だ、と私は直感した。
地下に行って欲しくないだけだ。
ノランは納屋の地下に、何か私に見せたくないものを隠しているのだ。ーーでも、何を?
「納屋には近づかないでくれ」
「……はい」
ノランは私の頰を両手で包むと、私の額に口付けた。
心臓が痛いほど激しく鼓動を打つ。それは恐怖からなのか、嬉しいからなのか、もう何が何だか自分でも解読不能だった。
ノランの唇は私の額からするするとおりてきて、私の鼻筋をつたい、それが私の唇までたどり着きそうになった時、私は俄かに自我を取り戻した。
ーーこんな形で、ノランと初めてのキスをしたくない……!
顔を横に向け、ノランから逃れようと動いた。
「やっ……!」
だが避けたはずの私の顔は直ぐに乱雑に元の位置に戻され、ノランの唇が押し当てられた。
それは直ぐに離され、彼は私を観察するように見下ろした。
「納屋には行くな。あそこはとても危険だ」
「何が……あるんですか…?納屋の地下に……」
地下の崩落、という説明をまるで信じていない私の質問を、ノランは苛立たしげに封じた。その唇で私の口を塞いだのだ。
「貴方はもっと、おとなしい女性だと聞いていた」
「……」
「テーディ子爵家の居候娘。屋敷に押し込められて、部屋で一人、読書に励んでいるのではなかったのか」
私の話は、貴族たちの間でそんな風に広まっていたのか。
震える声でどうにか、私は反論をした。
「ご期待に添えなくて、すみませんでした」
「いや、なかなかどうして、期待以上だ。……どうして良いか困るくらいに」
ノランは投げやりに笑うと、私の側から離れた。
「繰り返すが、納屋へは行くな」
最後に釘をさすと、ノランは部屋から出て行った。




