殿下の秘密
明くる朝、ノランはマルコと共に馬で屋敷を出て行った。
私は朝食を食べ終えると、少年とクッキーを作る事にした。少年と約束をしていたクッキーは、残念ながら今屋敷になかったのだ。
ないなら、作るほかない。
「古今東西、子どもは手で何かを作るのが大好きなものです!」
オリビアはそう主張し、どうせ作るなら少年にもクッキー作りを手伝わせよう、と私たちは台所に集まった。
大人のエプロンをクリップで小さくして、少年に着せる。そのダブダブのエプロンを着せると、少年は嬉しそうな笑顔を見せ、私たちもホッとした。
母親と長く離れて不安になっている少年は、朝から寂しそうな顔を見せていたからだ。
材料を混ぜて型を取る単純な作業だが、少年が加わると大層な道のりになった。
生地を薄く伸ばして、型を取る段階になると少年のテンションは頂点に達した。生地を粘土のようにこね、その小さな指先で一生懸命、何やら形を作っていた。
「おくさま、これ何だと思う? あてて!」
「ええと、木かな?」
「違うよ〜。オバケだよ」
子どもの想像力には、叶わない。
私は鼻に粉をつけて、楽しそうに生地をいじる少年を、複雑な心境で観察した。
無邪気な笑顔が本当に可愛らしい。無心に今を楽しんでいる。
少年はちょっとしたことで笑い、驚き、今も必死にバターナイフで生地に模様をつけていた。
「さぁ、オーブンで焼きましょうね! ピーター、少し時間がかかるからね。待てるかなぁ?」
オリビアがオーブンに並べたクッキー生地を入れ、少年はその前でぴょんぴょんと飛び跳ね、期待に胸膨らませていた。
「楽しみ、楽しみ! 僕のオバケちゃん!」
クッキーが焼きあがるまで、私は少年の探検ごっこに付き合った。
庭にある木々や建物全部が、ここでは少年にとって遊び道具だった。
木に登ったり、虫を捕まえたり。
なんてことない牛舎も少年には探索の価値ある場所だったらしい。
我が家の屋敷の外にある牛舎は小さなものだったが、少年はそこで牛を観察して喜んでいた。恐る恐る牛の額に手を出しては、そっと撫で、破顔一笑していた。
私は突然こんなに幼い子を預けてきた彼の母親のアリックスに、あまり良い感情は持たなかったし、最初はノランの子なのかと疑ったので心中複雑過ぎたが、少年自身は実に良い子だった。
彼は特に駄々をこねたりすることもなく、素直な子だった。
次第に私たちは打ち解けてきて、なんとなく彼に対して情もわいてきた。ーー私も単純だ……。
牛を見ていると、少年は何の脈絡もなく、ポツリと呟いた。
「おばあちゃんの具合が、悪いんだって」
「うん? 今なんて?」
「お母さんのお母さんが、死んじゃいそうなんだって。僕ちょっと怖いの」
少年の祖母の具合が悪いーー?
もしやそれは、少年を置いてアリックスがどこかへ行ったことと、関係があるのだろうか。
「あの建物は、なぁに?」
牛舎の外へ出ると、少年はそこから少し離れた所にある、納屋を指差した。
大きな納屋だったが、そこにはまだ私も行ったことはなかった。そう伝えると、少年はニカっと笑った。
「じゃあさ、じゃあ、行ってみようよ! 冒険だ!」
そう言うと少年は弾丸のごとき勢いで、納屋に向かって駆け出して行った。
慌ててその後を追うと、少年は納屋の入り口で、私が到着するのをドアノブに手をかけて待っていた。一応勝手に入らないところが、いじらしい。
「開けて良い? 入って良い?」
二人で扉を開けて、中に入ると、だだっ広い空間がそこには広がっていた。入り口付近には台車や農耕具が並べられ、奥の方には干し草が山ほど積んであった。
少年は干し草の山を見て大興奮し、そこへ飛び込んで行った。
干し草の山に飛び込むと、そのまま上り始め、私を振り返った。
「柔らかくて楽しいよ! 一緒にやろうよ」
少年と同じ事をするのは少し抵抗があった。しかし、誰かが見ているわけではない。それに、子どもと遊ぶのは、一緒に楽しんでしまうのが一番だ。
一旦躊躇したあと、私も少年に引き続いて、思い切って走って干し草の山に飛び込んだ。
柔らかな干し草が私の全身を受け止め、何とも言えない解放感があった。身体を起こすと下の方の干し草が崩れ、足が埋まっていくのも、面白かった。
少年は干し草を高く積んである部分から逆さまに転がり落ち、ゲラゲラと笑っていた。
二人とも干し草まみれで、その姿にお互い、爆笑しあった。
「転がると気持ち良いよ! 天国のベッドみたい」
少年が干し草の上をコロコロと転がり、私も少し真似をした。干し草の香りが、心地よかった。
干し草の山から下りると、少年が顔を曇らせた。
どうしたのかと尋ねると、彼は情けない顔で訴えた。
「鞄がどっか行っちゃった……!」
少年は布製の斜めがけ鞄を肩から下げていたのだが、それがなかった。どうやら干し草の山で激しく動き過ぎて、落としたらしい。
二人で干し草の山に手を入れて探す。
奥の方へいって干し草の中に手を入れていた少年が、突然躓いて転んだ。
「なんか、固いのが下にあるよ」
そういいながら、少年は膝まである干し草をかき分けて、足元を探り始めた。鞄を踏んだのだろうか?
「あれっ、何これ?」
少年は首を傾げて更に干し草をかき分けた。私も気になって、そちらへ向かう。
干し草をどけると、床には大きな四角い扉らしきものが見えた。途中で鞄が見つかったが、彼も私も、それより扉が気になってしまい、なおも掘り進めた。
少年は床にあるその扉のノブ部分に躓いたらしい。
「これ、なぁに? ドアなの? 下にお部屋があるの?」
「……何だろうね」
少年はいかにもワクワクした顔で扉を見ていたが、私は何だか嫌な予感がした。
この扉を、隠すように干し草が置かれていた気がしてきたのだ。
改めて納屋を見渡す。
随分広い納屋だ。この屋敷や、二頭しかいない牛の為に、こんなに大きな納屋がいるだろうか。
少年の期待に満ちた視線に急かされるまま、私は扉のノブに手をかけた。
単なる床下収納かもしれない。地下ではないかもしれない。そう思いながら。
「何があるのかな? 海賊が隠した、お宝があるのかもしれないよ!?」
「そ、そうかな。そんなに良いものだと嬉しいけど……」
元王子の隠し財産……?
私はふとそんな事を思いついた。それならどれほど良いだろう。
ギィー、と蝶番が軋む音を立て、扉を上へと開けた。端の方に残っていた干し草が、パラパラと中に舞い落ちる。
扉の下には、階段が続いていた。四、五段ほどの階段までは明かりが届くので見えるが、その先は暗過ぎて全く見えない。ましてや地下がどうなっているのかなど、予想もつかない。
だがかなり立派な階段であることから、中が思った以上に広いのでは、と思われた。
「なんか、コワイよぉ」
その暗さに怯えたのか、少年は先ほどまでの興奮はどこへやら、私の後ろに隠れて足に抱きついてきた。
下は真っ暗で、大人の私でもとても降りていく気にはならない。
私はそっと扉を閉め、その謎の空間へと続く道を閉ざした。
私の真似をして少年も積まれていた干し草を両手でかき、元の状態に戻してくれた。
干し草を謎の扉の上に押しやりながら、ふと先ほど感じた違和感を思い出した。
ーーホコリだ。
階段の両端には、ホコリがかなり溜まり、暗い木の色が灰色っぽくなってしまっていた。だが上から見えた五段程度の階段はそれぞれ、中心部だけははっきりとした木の色が見えた。
つまり最近もこの階段を誰かが行き来していた、ということだ。それ自体は別に何の問題もない。
奇妙なのは、度々降りる地下であるはずなのに、にもかかわらずわざわざ干し草で外から分からなくしてある、ということだ。
ーーなんで?
干し草を戻し終えると、私は首を捻った。……後で折を見てノランに聞いてみよう。
立ち上がると、何やらどっと疲れていた。力いっぱい子どもの相手をすると、本当に疲れる。
私は探検ごっこをここらで切り上げさせて貰おう、と再びクッキーの威力を利用させていただくことにした。
つとめて笑顔で少年の頭を撫でる。
「ねえ、ピーター。多分クッキーがもう焼けているよ。戻ろうか?」
「うん! そうしよ!」
屋敷に入ると、玄関まで甘い焼き菓子の香りが漂い、少年ばかりか私までもが浮かれた顔つきで台所へ向かった。
オリビアは私たちに気がつくと、少し勿体ぶってから、天板に乗ったままの焼けたクッキーを披露した。
少年は歓喜の叫びを短く上げてから、天板に触れ、その熱さに手を引っ込めて暫し悶絶していた。
そそっかしい少年の手を冷やすのもそこそこに、待ちきれずに私たちはクッキーを食べ始めた。
少年を挟んで三人でクッキーをつまむのは、意外と楽しかった。
その夜、ノランとマルコはすっかり夜が更けても屋敷に戻らなかった。リカルドも出掛けてしまっていた。
ノランもその護衛と従者もいない屋敷の夜は、少し心許なかった。
テーディ子爵邸はたくさんの使用人がいたし、王都は賑やかだった。だがこの屋敷は、島の真っ暗で人気のない場所に位置し、今やオリビアと五歳の少年しかいない。
ーー泥棒でもきたら、どうしよう。
そんな詮無い事を考えながら、落ち着かない心境で私は広い寝台に横たわった。
外の風の音や、窓を時折叩く葉の音が、私を怯えさせた。
ノランと二人で寝台に横になるのは、いまだに緊張して慣れないというのに、こうして一人だと彼を恋しく感じる。
私は寝返りをうち、今朝ノランが寝ていた位置まで行くと、そっとそこに触れた。今は冷たいシーツに指先を滑らせる。
「ノラン様……。早く、帰ってきて」




